トントン、おとなりです。

 買い物していたら遅くなってしまった。あたりはすっかり夜だ。

 「あれ?」

 薄暗い外廊下、僕の部屋の前に誰か立っている。……この制服は。

 「配達員のお兄さん?」

 その人は僕の声に振り向いた。
 やっぱりそうだ。うわ〜、また会えた。あ、今日は帽子かぶってない。

 「……お荷物、届けにきました」

 お兄さんが低い声で言う。

 「はっ!すみません、待たせてしまって」

 そういえば、おかんからキャベツ送ったって連絡来てたんだ。

 「重いですよね。すぐ開けますね」

 リュックから鍵を出しながら近づく。顔を上げると、お兄さんの顔がはっきり見えて、思わず足を止めた。

 「え?」

 制服も、まとう雰囲気も、宅配便のお兄さん。でも、その顔は……。

 「えぇ?!」

 目を見開いて、まじまじと見つめる。
 切れ長のクールな目、照れくさそうに噤まれた口、シャープな顎のライン――

 「鈴木先輩?!」

 「………うん」

 目を合わせないまま頷くその顔を、確かめるようにもう一度見つめた。確かに鈴木先輩だ。
 初めて荷物を届けてくれたとき、泣き出した僕に「がんばろうな」と声をかけてくれた。コンビニで会ったときも。あの宅配便のお兄さんは、鈴木先輩だったんだ。

 「どうして……」

 「今日は俺が担当を代わってもらった」

 そのまま見つめ合う。

 「……あ、今開けます」

 ハッと気づいて、あわてて鍵を回す。ドアを開けて先に入るけど、先輩は荷物を持ったまま動かなかった。

 「ここで、受け取りますよ」

 何も言わない先輩に、おずおずと手を伸ばす。

 「それにしても、びっくりしちゃいました。まさか、鈴木先輩だったなんて。でも、どことなく似てるなって思ってたんです。声とか、優しいところとか」

 荷物を受け取って、伝票を確認する。確かにおかんからで、品目はキャベツだった。今回はちゃんと部屋番号が書いてある。

 「あ、ちょっと待っててくださいね!」

 キッチンの横に荷物を置いて、冷蔵庫から冷えたペットボトルのお茶を取り出す。

 「はい、お疲れさまです」

 「……佐藤」

 先輩に差し出すが、僕を見つめたまま動かない。その顔は、何か言いたいことを溜め込んでいるように見えた。
 空き教室で最後に見た表情と重なる。

 もうやめる。
 そう決めたのに。
 僕の決意はもうグラグラしてる。

 「……先輩、もし良かったら上がっていきませんか?」

 「……いいのか?」

 「もちろんです。どうぞ」

 先輩は一瞬躊躇ったあと、靴を脱いで玄関を上がった。

 「ここ、座ってください」

 壁を見つめたまま固まっている先輩に、声をかける。そこは僕とお隣さんがいつも話していた壁だった。

 「先輩?」

 「……ここの壁、薄いだろ?」

 「……はい。隣の人の声が、よく聞こえます。……今は、聞こえなくなっちゃったけど」

 だんだん声が小さくなる。

 「佐藤のお母さん、今度はちゃんと書けたんだな」

 振り向いた先輩は、そう言ってかすかに口角を上げた。
 僕は恥ずかしさをごまかすように前髪を触って「何回もすみません。うちのおかん、そそっかしくて」と言った。先輩は「ははっ」と笑うけど、その顔はやっぱり痛々しい。

 「先輩、キャベツ好きですか?」

 「うん」

 「お好み焼きでも作ろうかな。食べていきます?……そういえば、卵焼き。まだ作ってませんでしたね」

 先輩が座る気配がないから、僕も立ち上がって、冷蔵庫を開ける。うん、卵も粉もあるから、作れそうだ。

 「佐藤」

 「はい?」

 冷蔵庫とにらめっこしながら返事をする。

 「お好み焼きもいいけど、餃子が食べたい。……ちょっと焦げたやつ」

 「えぇ?!ずいぶん難しい注文ですね。餃子は一回失敗してるんで、ちょっと苦手かもです」

 「なんで?あの餃子、すごく美味かった」

 その瞬間、シン、と静まり返る。

 「先輩……」

 目の奥が熱くなって、顔を伏せた。

 それじゃ、もうごまかせないよ、先輩。

 「何しに来たんですか?」

 「佐藤……」

 「ちゃんと、答えを言いに来たんですか?」

 頬を流れる涙はそのままに、何も言わない先輩を見上げる。

 けれど、その顔は僕が想像していたものとは違っていた。困ったような顔じゃなくて、何かを決心したような顔。

 「佐藤、黙っててごめん。騙してたわけじゃない、なんて言い訳にしかならないけど」

 「……どういうことですか?はっきり言ってください」

 僕の喉がキュッと鳴る。先輩が拳を握った。

 「隣に住んでるの、俺なんだ」

 きっぱりした声。ショックは受けなかった。ただただ悲しかった。

 「佐藤の隣人は、俺なんだよ」

 先輩は畳みかけるように繰り返した。言葉が耳の奥で反響する。
 僕が好きになって、告白して、失恋したのは、やっぱり先輩だったんだ。

 「……なんで言ったの?どうせ振るなら、お隣さんのまま振ってくれれば良かったのに」

 僕は両手で自分の耳を押さえた。

 「佐藤!」

 僕の肩を、先輩が両手で掴む。その手は、はっきりと震えていた。

 「佐藤、聞いて!」

 先輩の指先から、真剣な思いと熱が伝わる。僕を見つめる先輩の瞳には、迷いがなかった。

 「隠していて、ごめん」

 そう言って頭を下げる。僕は手をだらりと投げ出した。

 「本当はずっと言おうと思ってた」

 「……」

 「でも、お前を失うのが、怖くなった」

 先輩は一度視線を落とし、さらに力を込めて僕を見つめる。

 「そしたらもう、引き返せなくなって……正体を明かす勇気がなかった」

 「そんな……」

 「好きだって言われたときも……すごく嬉しかったのに、騙してるみたいで自分のことが許せなくて、お前に嫌われるんじゃないかって……」

 肩を掴む手が緩む。先輩の瞳は、潤んで揺れていた。

 「すごく、苦しかった」

 初めて聞く本音が、全部痛い。

 「勝手だってことは分かってる」

 僕は何も言えず、頭を横に振った。

 「今日、佐藤と話していて、心底自分が情けなくなった。佐藤はこんなに想ってくれているのに、俺は弱い」

 そう言って、辛そうに目を伏せる。思わずその頬に手を添えると、僕の目を見て、小さく微笑んだ。

 「でも、これだけは言える。……お前への気持ちに嘘は一つもない。荷物を届けたときも、大学で会うときも、隣人として話すときも、お前を想う気持ちは、全部俺のものだから」

 「……先輩」

 先輩の目から、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、一筋の涙が流れる。

 あんなに優しくてかっこいい人が、今は僕を失うことを怖がっている。

 さっきまでの動揺がすっと消えて、僕はそっと、先輩の目尻を拭った。

 「佐藤」

 僕を呼ぶ声は、どうしようもなく震えている。

 「好きだよ」

 その優しい声に、宅配便のお兄さんとお隣さん、そして先輩の姿がぴったりと重なる。
 僕がずっと会いたかった人たちは、鈴木先輩だった。僕が好きなのは、最初から最後まで、たった一人だったんだ。

 その途端、僕の目からもせきを切ったように涙が流れる。

 壁越しじゃなくて、顔を合わせて、僕の目を見つめながら言ってくれた『好き』
 それは、1番欲しかった言葉。それに、1番見たかった顔だ。
 それだけで、僕の心は何もかも押し流されたように、喜びだけで満たされる。

 「先輩……」

 先輩の目からも涙がとめどなく流れていて、ちょっと情けなくて、それが愛しくてたまらなかった。

 「僕も好きです。……大好き!」

 溢れる想いをそのまま口にすると、先輩は一瞬だけ目を見開く。

 それから、僕たちは頬を濡らしたまま「ふふ」と笑い合った。

 僕たちの間に、もう壁は必要ない。
 宅配便のお兄さんから始まった関係は、顔も知らないお隣さんを経て、今は目の前の恋人になった。

 これからは、顔を見て『おやすみ』を言えるんだ。




 fin.