トントン、おとなりです。

 side 理来



 縋るように壁に体を寄せた。

 この向こうに俺の好きな子がいる。泣いている。本当は今すぐ抱きしめたい。「俺だよ」って言いたい。

 でも、そうしたら俺は消える。
 あいつが心を開いてくれた隣人。疲れて帰ってきた日に「お疲れ」を言い合える相手。それを、自分の手で壊すことになる。

 『隣人』と『先輩』
 どっちも大切にしたかった。どっちの俺も、あいつのそばにいたかった。でも欲張った結果、どっちも中途半端になった。

 コンビニで、あいつとバイト仲間の姿を見た時、どうしようもなくイライラした。
 近づくな。
 そう思った。
 俺じゃないやつに、そんなふうに笑いかけるな、って。
 ……最低だ。
 正体を隠しているくせに、そんなことを思う資格なんてないのに。

 「このままじゃ、俺は」あいつの全部を奪いたくなる。
 俺だけを見て欲しくなる。傷つけてしまう。そんな自分が怖かった。
 俺が見たいのは、あいつの泣き顔じゃなくて、笑顔なんだ。

 ……だから、これでいい。俺は、ただの隣人のままで終わればいい。それが、俺なりのあいつへの優しさ……。

 ――本当は、そんなんじゃ嫌だ。『お隣さん』じゃなく、俺の名前を呼ばれたい。 笑いかけくれる顔を見て『好き』って言いたい。

 未練がましくドアを見つめるけど、一歩を踏み出すことは出来なかった。 



 ラケットを握る手が痺れていた。何度もラケットを持ち替え、脇におろして手を振る。

 「佐藤、大丈夫かよ」

 桐谷が心配そうに駆け寄ってきた。
 僕は「大丈夫」と言ったけど、桐谷は「やりすぎだぞ。もう終わりにしよう」と、汗まみれの腕を躊躇なく引っぱる。

 「でも……」

 「俺も限界!明日、絶対筋肉痛だろ」

 僕を振り返って、口角を上げた。

 「ご、ごめん」

 桐谷にラリーの相手を頼んで、1時間以上、休みなくラケットを振っていた。
 ボールを追いかけている間は、何も考えずに済む。何かしていないと、すぐにお隣さんのことを考えてしまうから。

 あれから1週間。
 何度もノックしようとした。でも、出来なかった。

 「帰ろう」

 黙って頷くと、桐谷が俺の顔をじっと見る。

 「……よっしゃ!佐藤、飯食いに行こうぜ!」

 「えっ?」

 桐谷は明るい声で言うと、後ろに回り込んで、僕の肩をぐいぐいと押した。



 ドンッとテーブルにたたきつけるようにして、グラスを置いた。

 「桐谷、それ、烏龍茶だよな……?」

 桐谷は俺の言葉を無視して、もう一度グラスを持ち上げる。

 「で?お前、何なんだよ」

 うぅ、なんか酔っ払いに絡まれてる気分。

 「何なんだよ、と言われましても……」

 オレンジジュースをちびちび飲みながら、つい敬語になってしまう。

 「だって、ずーーーっと落ち込んでんじゃん!」

 「……そ、そうかな」

 「いや、誰がどう見てもそうじゃん」

 「……だよね」

 僕は全く立ち直れていない。桐谷だけでなく、遥くんからも心配そうな視線を向けられた。

 以前のように静まり返った部屋。いや、お隣さんと知り合う前よりも、今のほうがずっと寒々しい。
 どうしようもない虚しさに襲われて、料理をする気にもなれず、コンビニ弁当で済ませている。
 料理は幸せを運んでくれる、はずだった。でも、今の僕にとっては、ただ苦しいだけ。

 恋って、楽しいばかりだと思ってたけど、それだけじゃなかった。僕はそんなこと知らなかったよ。だって、何もかも初めてだったから。

 「佐藤、俺とお前は、この大学に入って初めて会ったな?」

 僕は目尻を擦って、ただ頷く。僕が最初に声をかけて、意気投合し、テニスサークルに誘った。

 「俺たち、まだ短い付き合いだけどさ。お前とは、これからもずっと友達でいたいと思ってる。だから一人で抱えんな」

 「き、きりたに〜」

 僕は桐谷にすがりつくように、肩に顔を埋める。

 「佐藤、やっぱり何かあったんだろ?」

 「……何もないよ」

 「嘘つけ」

 「………」

 「俺たち、友達だろ?」

 僕はグッと下唇を噛み締めた。じっとテーブルを見つめてから、桐谷に顔を向ける。

 「……笑わない?」

 桐谷はコクリと喉を鳴らして、頷いた。



 僕は、お隣さんとの出来事を、出会いから失恋にいたるまで何もかも話した。
 桐谷は最初驚いていたようだ。
 そりゃ、そうだよな。初めて好きになったのが、顔も知らない人、しかも同性だなんて。
 けれど最後には、僕の肩に腕を回し、「佐藤、お前はちゃんとがんばってるよ」と励ましてくれた。

 僕がしばらくおしぼりを目に当てている間、桐谷は黙って烏龍茶をおかわりする。

 「―――でさ、鈴木先輩もなんか元気ねーんだよな。佐藤、なんか知ってる?」

 桐谷の言葉に、首を横に振った。相変わらず、先輩の名前を聞くと、胸の奥が疼く。先輩とは「お帰りなさい」を言った日以来、会っていなかった。

 元気、ないのか。まさかね……。

 「知らないよ。なんで?」

 「……そうか」

 桐谷は口の中のものを飲み込むと、額に手をつく。

 「お前と鈴木先輩、仲良いんだと思ってた」

 黙って口を閉じる。
 先輩は、きっと呆れてる。そんなつもりはないけど、僕が誰にでも思わせぶりだからなのかもしれない。コンビニで言われたことを何度も考えた結果、そう思った。

 それに、お隣さんと鈴木先輩。
 好きなのはお隣さんなのに、先輩を見ると心臓が変になる。お隣さんが先輩だったらいいのに……なんて、自分勝手なことを考えてしまっている。

 こんなの知らない。好きって、もっと簡単なものだと思っていた。一人を好きになったら、その人だけを見ているものだと思っていた。
 なのに僕は――

 箸をおいて、笑顔を作る。

 「桐谷、今日はありがとう。少し元気出てきた」

 桐谷はニカッと笑って「それなら良かった。あんまり考えすぎるなよ」と言った。



 1人で歩く帰り道。桐谷の言葉を思い出す。

 「考えすぎるなよ、か」

 僕って考えすぎてたのかな。
 会えない以外は順調に仲良くなれてると思っていたのに、急に拒絶された。
 なぜ?もしかして、僕の正体に気づいて、がっかりした?それとも、僕の気持ちがバレちゃった?気持ち悪い、って思われたかな……

 目を閉じて、頭を振る。
 違う……あの人は、絶対そんな人じゃない。泣いてる僕に『大丈夫?』と言ってくれた。焦がした餃子を『美味い』と食べてくれた。それに、僕の夢を笑わないでくれた。あの人は、受け止めてくれる。

 ――このまま何も言わずに終わるほうが、きっと後悔する。最後くらい、ちゃんと気持ちを伝えて、お礼を言いたい。

 それに、はっきりさせたい。お隣さんが好きなのか、先輩が好きなのか。
 よし!僕は気合を入れた。



 張り詰めた空気の中で、僕は壁に向かっていた。
 桐谷にもらった勇気に背中を押され、右手の拳をゆっくり持ち上げる。壁に当たる直前、一瞬だけ躊躇したけど、もう一度息を吸って「トン、トン」とノックした。

 少しの間、待つ。
 人のいる気配はするけど、返事はない。僕は深呼吸して、壁に額をつけた。

 「いますよね?答えてくれなくていいから、僕の話だけ聞いてもらえませんか?」

 もう一度深呼吸、それからぎゅっと目を瞑る。壁の向こうは黙ったまま。

 「一人暮らしを初めて、すごく寂しかったんです。夢のためにここまで来たのに、毎日毎日、帰りたいって思ってました」

 一旦言葉を切る。

 「そんなとき、あなたが声をかけてくれた」

 少しの間、口を閉じると、静けさが広がった。

 「あなたと話すと、楽しくて、何気ない優しさが嬉しくて、寂しくなくなりました。……料理も、あなたが美味しいって言ってくれるから、前よりもっと楽しくなった」

 目を閉じたまま、すーっと息を吸う。

 「気づいたら……あなたのことが好きになりました」

 耳を澄ませても、物音すらしない。でも、きっと聞いてくれている。

 「返事は、いりません。僕が言いたくなっただけだから。……今まで、ありがとう、ございました……」

 壁の向こうは最後まで静かなままだった。

 本当は、隣で『ありがとう』を言いたかった。『美味い』って言いながら、僕の作った料理を食べるところが見たかった。笑った顔が見たかった。
 ううん、笑っているときだけじゃなくて、悩んでいるときも、そばにいたかった。

 『いつか、それだけじゃ満足できなくなりますよ』
 遥くんが言ってた通りだったな。
 あのころは、5分でも話せるだけで幸せだった。それで充分だと思っていたのに……。今はただ、会いたくて仕方ない。



 「先輩」

 空き教室で1人座る鈴木先輩の姿が目に入り、思わず声をかけていた。
 僕の声が聞こえているはずなのに、なぜか振り返らない。足音を立てないように近づいて、先輩の前に回り込む。

 「先輩?」

 体を傾けて、顔を覗き込んだ。

 あ……もしかして、泣いてた?目の周りが赤くなっていて、まつ毛が濡れたように束になっている。

 「……佐藤」

 先輩は驚いたふうもなく、僕の名前を呼んだ。また目が潤み始めている。
 振り返らないんじゃなく、振り返れなかったんだ。

 「先輩が元気ないって、桐谷が……」

 「……そうか」

 先輩はそれだけ言って、顔を俯けた。

 「どうしたんですか?もし良かったら、話聞きますよ」

 「………」

 「僕も、すっごく悩んでたんですけど、桐谷に話聞いてもらって……」

 「……吹っ切れたのか?」

 今までの鈴木先輩からは想像できないくらい、低い声だった。ふいにお隣さんの声と重なる。やっぱり……。

 僕は深呼吸すると、先輩の顔を見据えた。

 「恋の悩みですか?……もしかして、断りきれなくて悩んでるとか」

 先輩は何も言わない。無言の肯定だ。

 「えへへ、実は僕、フラれちゃいました。……不思議とすっきりしてます。だからって、好きな気持ちがなくなるわけじゃないけど」

 「……どこを見て、好きになったの?」

 そう聞かれて、僕はリュックのひもを握りしめた。

 確信なんてない。でも、僕がそれを望んでしまっている。だから、伝えたい。

 「……会ったこと、ないんです。声だけで、姿も見えないのに、好きになっちゃいました」

 僕が小さく笑うと、先輩はデスクの上で指を組んだ。

 「それ、怖くない?会ってみたら、がっかりするかもしれないよ」

 「それは絶対ないです」

 先輩は顔をそらしたまま、目を見開いた。

 「僕、見た目で好きになったわけじゃないから。もし見た目だけで選ぶなら、大学にはかっこいい人がいっぱいいます。鈴木先輩だって……その一人です」

 僕はお隣さんとのことを思い出して、ふっと笑った。

 「僕の好きな人、よく物を落とすんですよ」

 「……そうか」

 「はい、それが可愛くて」

 胸が締め付けられるように痛くなる。
 先輩は無表情のまま、僕を見上げた。その視線に、否が応でも心臓がドキドキしてしまう。

 「でも、先輩はいつもかっこいいです」

 「………」

 「すみません、こんなこと言って。また呆れられちゃいますね」

 「……俺、かっこいい?今、こんなに情けないところ見せてるけど」

 まるで子どもみたいな言い方に、少し困ってしまう。

 「そうですね。今の先輩は、正直言うと、ちょっと可愛いかもしれないです」

 「………」

 「僕は見たかったですよ。好きな人のかっこいいところも、情けないところも、泣いているところも。……もう、叶わないですけど」

 涙をこらえながら言うと、先輩は僕を見た。

 「佐藤は、ただ寂しくて、そのときに近くにいた人を好きになっただけなんじゃないか?」

 そう言われて、僕はムッと口をとがらせる。

 「先輩、僕のこと、ばかにしてます?そんなことで好きになるわけないじゃないですか。確かに今も寂しくなるけど、その寂しさを癒やしてほしいと思うのは、あの人だけなんです」

 先輩はしばらく黙り込んだ。

 「……もし、その人が想像と違ったら?」

 先輩がポツリと呟く。

 「思ってるような人じゃなくて、佐藤を騙してるんだとしたら?」

 僕は肩を落として、「それでも、好きでした」とだけ答える。

 「……っ!佐藤!」

 先輩は立ち上がって、今まで見たことがないほど苦しそうな顔をしていた。
 そのとき。

 「あ、理来!」

 女子の先輩がぞろぞろと、鈴木先輩の名前を呼びながら入ってくる。

 「今日、時間ある?このあとさ―――」

 あっという間に囲まれた先輩に背を向け、僕はそっと教室を出た。

 もう、お隣さんと先輩を重ねるのはやめる。僕は2人から同時に、失恋したんだ。