side 理来
縋るように壁に体を寄せた。
この向こうに俺の好きな子がいる。泣いている。本当は今すぐ抱きしめたい。「俺だよ」って言いたい。
でも、そうしたら俺は消える。
あいつが心を開いてくれた隣人。疲れて帰ってきた日に「お疲れ」を言い合える相手。それを、自分の手で壊すことになる。
『隣人』と『先輩』
どっちも大切にしたかった。どっちの俺も、あいつのそばにいたかった。でも欲張った結果、どっちも中途半端になった。
コンビニで、あいつとバイト仲間の姿を見た時、どうしようもなくイライラした。
近づくな。
そう思った。
俺じゃないやつに、そんなふうに笑いかけるな、って。
……最低だ。
正体を隠しているくせに、そんなことを思う資格なんてないのに。
「このままじゃ、俺は」あいつの全部を奪いたくなる。
俺だけを見て欲しくなる。傷つけてしまう。そんな自分が怖かった。
俺が見たいのは、あいつの泣き顔じゃなくて、笑顔なんだ。
……だから、これでいい。俺は、ただの隣人のままで終わればいい。それが、俺なりのあいつへの優しさ……。
――本当は、そんなんじゃ嫌だ。『お隣さん』じゃなく、俺の名前を呼ばれたい。 笑いかけくれる顔を見て『好き』って言いたい。
未練がましくドアを見つめるけど、一歩を踏み出すことは出来なかった。
ラケットを握る手が痺れていた。何度もラケットを持ち替え、脇におろして手を振る。
「佐藤、大丈夫かよ」
桐谷が心配そうに駆け寄ってきた。
僕は「大丈夫」と言ったけど、桐谷は「やりすぎだぞ。もう終わりにしよう」と、汗まみれの腕を躊躇なく引っぱる。
「でも……」
「俺も限界!明日、絶対筋肉痛だろ」
僕を振り返って、口角を上げた。
「ご、ごめん」
桐谷にラリーの相手を頼んで、1時間以上、休みなくラケットを振っていた。
ボールを追いかけている間は、何も考えずに済む。何かしていないと、すぐにお隣さんのことを考えてしまうから。
あれから1週間。
何度もノックしようとした。でも、出来なかった。
「帰ろう」
黙って頷くと、桐谷が俺の顔をじっと見る。
「……よっしゃ!佐藤、飯食いに行こうぜ!」
「えっ?」
桐谷は明るい声で言うと、後ろに回り込んで、僕の肩をぐいぐいと押した。
ドンッとテーブルにたたきつけるようにして、グラスを置いた。
「桐谷、それ、烏龍茶だよな……?」
桐谷は俺の言葉を無視して、もう一度グラスを持ち上げる。
「で?お前、何なんだよ」
うぅ、なんか酔っ払いに絡まれてる気分。
「何なんだよ、と言われましても……」
オレンジジュースをちびちび飲みながら、つい敬語になってしまう。
「だって、ずーーーっと落ち込んでんじゃん!」
「……そ、そうかな」
「いや、誰がどう見てもそうじゃん」
「……だよね」
僕は全く立ち直れていない。桐谷だけでなく、遥くんからも心配そうな視線を向けられた。
以前のように静まり返った部屋。いや、お隣さんと知り合う前よりも、今のほうがずっと寒々しい。
どうしようもない虚しさに襲われて、料理をする気にもなれず、コンビニ弁当で済ませている。
料理は幸せを運んでくれる、はずだった。でも、今の僕にとっては、ただ苦しいだけ。
恋って、楽しいばかりだと思ってたけど、それだけじゃなかった。僕はそんなこと知らなかったよ。だって、何もかも初めてだったから。
「佐藤、俺とお前は、この大学に入って初めて会ったな?」
僕は目尻を擦って、ただ頷く。僕が最初に声をかけて、意気投合し、テニスサークルに誘った。
「俺たち、まだ短い付き合いだけどさ。お前とは、これからもずっと友達でいたいと思ってる。だから一人で抱えんな」
「き、きりたに〜」
僕は桐谷にすがりつくように、肩に顔を埋める。
「佐藤、やっぱり何かあったんだろ?」
「……何もないよ」
「嘘つけ」
「………」
「俺たち、友達だろ?」
僕はグッと下唇を噛み締めた。じっとテーブルを見つめてから、桐谷に顔を向ける。
「……笑わない?」
桐谷はコクリと喉を鳴らして、頷いた。
僕は、お隣さんとの出来事を、出会いから失恋にいたるまで何もかも話した。
桐谷は最初驚いていたようだ。
そりゃ、そうだよな。初めて好きになったのが、顔も知らない人、しかも同性だなんて。
けれど最後には、僕の肩に腕を回し、「佐藤、お前はちゃんとがんばってるよ」と励ましてくれた。
僕がしばらくおしぼりを目に当てている間、桐谷は黙って烏龍茶をおかわりする。
「―――でさ、鈴木先輩もなんか元気ねーんだよな。佐藤、なんか知ってる?」
桐谷の言葉に、首を横に振った。相変わらず、先輩の名前を聞くと、胸の奥が疼く。先輩とは「お帰りなさい」を言った日以来、会っていなかった。
元気、ないのか。まさかね……。
「知らないよ。なんで?」
「……そうか」
桐谷は口の中のものを飲み込むと、額に手をつく。
「お前と鈴木先輩、仲良いんだと思ってた」
黙って口を閉じる。
先輩は、きっと呆れてる。そんなつもりはないけど、僕が誰にでも思わせぶりだからなのかもしれない。コンビニで言われたことを何度も考えた結果、そう思った。
それに、お隣さんと鈴木先輩。
好きなのはお隣さんなのに、先輩を見ると心臓が変になる。お隣さんが先輩だったらいいのに……なんて、自分勝手なことを考えてしまっている。
こんなの知らない。好きって、もっと簡単なものだと思っていた。一人を好きになったら、その人だけを見ているものだと思っていた。
なのに僕は――
箸をおいて、笑顔を作る。
「桐谷、今日はありがとう。少し元気出てきた」
桐谷はニカッと笑って「それなら良かった。あんまり考えすぎるなよ」と言った。
1人で歩く帰り道。桐谷の言葉を思い出す。
「考えすぎるなよ、か」
僕って考えすぎてたのかな。
会えない以外は順調に仲良くなれてると思っていたのに、急に拒絶された。
なぜ?もしかして、僕の正体に気づいて、がっかりした?それとも、僕の気持ちがバレちゃった?気持ち悪い、って思われたかな……
目を閉じて、頭を振る。
違う……あの人は、絶対そんな人じゃない。泣いてる僕に『大丈夫?』と言ってくれた。焦がした餃子を『美味い』と食べてくれた。それに、僕の夢を笑わないでくれた。あの人は、受け止めてくれる。
――このまま何も言わずに終わるほうが、きっと後悔する。最後くらい、ちゃんと気持ちを伝えて、お礼を言いたい。
それに、はっきりさせたい。お隣さんが好きなのか、先輩が好きなのか。
よし!僕は気合を入れた。
張り詰めた空気の中で、僕は壁に向かっていた。
桐谷にもらった勇気に背中を押され、右手の拳をゆっくり持ち上げる。壁に当たる直前、一瞬だけ躊躇したけど、もう一度息を吸って「トン、トン」とノックした。
少しの間、待つ。
人のいる気配はするけど、返事はない。僕は深呼吸して、壁に額をつけた。
「いますよね?答えてくれなくていいから、僕の話だけ聞いてもらえませんか?」
もう一度深呼吸、それからぎゅっと目を瞑る。壁の向こうは黙ったまま。
「一人暮らしを初めて、すごく寂しかったんです。夢のためにここまで来たのに、毎日毎日、帰りたいって思ってました」
一旦言葉を切る。
「そんなとき、あなたが声をかけてくれた」
少しの間、口を閉じると、静けさが広がった。
「あなたと話すと、楽しくて、何気ない優しさが嬉しくて、寂しくなくなりました。……料理も、あなたが美味しいって言ってくれるから、前よりもっと楽しくなった」
目を閉じたまま、すーっと息を吸う。
「気づいたら……あなたのことが好きになりました」
耳を澄ませても、物音すらしない。でも、きっと聞いてくれている。
「返事は、いりません。僕が言いたくなっただけだから。……今まで、ありがとう、ございました……」
壁の向こうは最後まで静かなままだった。
本当は、隣で『ありがとう』を言いたかった。『美味い』って言いながら、僕の作った料理を食べるところが見たかった。笑った顔が見たかった。
ううん、笑っているときだけじゃなくて、悩んでいるときも、そばにいたかった。
『いつか、それだけじゃ満足できなくなりますよ』
遥くんが言ってた通りだったな。
あのころは、5分でも話せるだけで幸せだった。それで充分だと思っていたのに……。今はただ、会いたくて仕方ない。
「先輩」
空き教室で1人座る鈴木先輩の姿が目に入り、思わず声をかけていた。
僕の声が聞こえているはずなのに、なぜか振り返らない。足音を立てないように近づいて、先輩の前に回り込む。
「先輩?」
体を傾けて、顔を覗き込んだ。
あ……もしかして、泣いてた?目の周りが赤くなっていて、まつ毛が濡れたように束になっている。
「……佐藤」
先輩は驚いたふうもなく、僕の名前を呼んだ。また目が潤み始めている。
振り返らないんじゃなく、振り返れなかったんだ。
「先輩が元気ないって、桐谷が……」
「……そうか」
先輩はそれだけ言って、顔を俯けた。
「どうしたんですか?もし良かったら、話聞きますよ」
「………」
「僕も、すっごく悩んでたんですけど、桐谷に話聞いてもらって……」
「……吹っ切れたのか?」
今までの鈴木先輩からは想像できないくらい、低い声だった。ふいにお隣さんの声と重なる。やっぱり……。
僕は深呼吸すると、先輩の顔を見据えた。
「恋の悩みですか?……もしかして、断りきれなくて悩んでるとか」
先輩は何も言わない。無言の肯定だ。
「えへへ、実は僕、フラれちゃいました。……不思議とすっきりしてます。だからって、好きな気持ちがなくなるわけじゃないけど」
「……どこを見て、好きになったの?」
そう聞かれて、僕はリュックのひもを握りしめた。
確信なんてない。でも、僕がそれを望んでしまっている。だから、伝えたい。
「……会ったこと、ないんです。声だけで、姿も見えないのに、好きになっちゃいました」
僕が小さく笑うと、先輩はデスクの上で指を組んだ。
「それ、怖くない?会ってみたら、がっかりするかもしれないよ」
「それは絶対ないです」
先輩は顔をそらしたまま、目を見開いた。
「僕、見た目で好きになったわけじゃないから。もし見た目だけで選ぶなら、大学にはかっこいい人がいっぱいいます。鈴木先輩だって……その一人です」
僕はお隣さんとのことを思い出して、ふっと笑った。
「僕の好きな人、よく物を落とすんですよ」
「……そうか」
「はい、それが可愛くて」
胸が締め付けられるように痛くなる。
先輩は無表情のまま、僕を見上げた。その視線に、否が応でも心臓がドキドキしてしまう。
「でも、先輩はいつもかっこいいです」
「………」
「すみません、こんなこと言って。また呆れられちゃいますね」
「……俺、かっこいい?今、こんなに情けないところ見せてるけど」
まるで子どもみたいな言い方に、少し困ってしまう。
「そうですね。今の先輩は、正直言うと、ちょっと可愛いかもしれないです」
「………」
「僕は見たかったですよ。好きな人のかっこいいところも、情けないところも、泣いているところも。……もう、叶わないですけど」
涙をこらえながら言うと、先輩は僕を見た。
「佐藤は、ただ寂しくて、そのときに近くにいた人を好きになっただけなんじゃないか?」
そう言われて、僕はムッと口をとがらせる。
「先輩、僕のこと、ばかにしてます?そんなことで好きになるわけないじゃないですか。確かに今も寂しくなるけど、その寂しさを癒やしてほしいと思うのは、あの人だけなんです」
先輩はしばらく黙り込んだ。
「……もし、その人が想像と違ったら?」
先輩がポツリと呟く。
「思ってるような人じゃなくて、佐藤を騙してるんだとしたら?」
僕は肩を落として、「それでも、好きでした」とだけ答える。
「……っ!佐藤!」
先輩は立ち上がって、今まで見たことがないほど苦しそうな顔をしていた。
そのとき。
「あ、理来!」
女子の先輩がぞろぞろと、鈴木先輩の名前を呼びながら入ってくる。
「今日、時間ある?このあとさ―――」
あっという間に囲まれた先輩に背を向け、僕はそっと教室を出た。
もう、お隣さんと先輩を重ねるのはやめる。僕は2人から同時に、失恋したんだ。
縋るように壁に体を寄せた。
この向こうに俺の好きな子がいる。泣いている。本当は今すぐ抱きしめたい。「俺だよ」って言いたい。
でも、そうしたら俺は消える。
あいつが心を開いてくれた隣人。疲れて帰ってきた日に「お疲れ」を言い合える相手。それを、自分の手で壊すことになる。
『隣人』と『先輩』
どっちも大切にしたかった。どっちの俺も、あいつのそばにいたかった。でも欲張った結果、どっちも中途半端になった。
コンビニで、あいつとバイト仲間の姿を見た時、どうしようもなくイライラした。
近づくな。
そう思った。
俺じゃないやつに、そんなふうに笑いかけるな、って。
……最低だ。
正体を隠しているくせに、そんなことを思う資格なんてないのに。
「このままじゃ、俺は」あいつの全部を奪いたくなる。
俺だけを見て欲しくなる。傷つけてしまう。そんな自分が怖かった。
俺が見たいのは、あいつの泣き顔じゃなくて、笑顔なんだ。
……だから、これでいい。俺は、ただの隣人のままで終わればいい。それが、俺なりのあいつへの優しさ……。
――本当は、そんなんじゃ嫌だ。『お隣さん』じゃなく、俺の名前を呼ばれたい。 笑いかけくれる顔を見て『好き』って言いたい。
未練がましくドアを見つめるけど、一歩を踏み出すことは出来なかった。
ラケットを握る手が痺れていた。何度もラケットを持ち替え、脇におろして手を振る。
「佐藤、大丈夫かよ」
桐谷が心配そうに駆け寄ってきた。
僕は「大丈夫」と言ったけど、桐谷は「やりすぎだぞ。もう終わりにしよう」と、汗まみれの腕を躊躇なく引っぱる。
「でも……」
「俺も限界!明日、絶対筋肉痛だろ」
僕を振り返って、口角を上げた。
「ご、ごめん」
桐谷にラリーの相手を頼んで、1時間以上、休みなくラケットを振っていた。
ボールを追いかけている間は、何も考えずに済む。何かしていないと、すぐにお隣さんのことを考えてしまうから。
あれから1週間。
何度もノックしようとした。でも、出来なかった。
「帰ろう」
黙って頷くと、桐谷が俺の顔をじっと見る。
「……よっしゃ!佐藤、飯食いに行こうぜ!」
「えっ?」
桐谷は明るい声で言うと、後ろに回り込んで、僕の肩をぐいぐいと押した。
ドンッとテーブルにたたきつけるようにして、グラスを置いた。
「桐谷、それ、烏龍茶だよな……?」
桐谷は俺の言葉を無視して、もう一度グラスを持ち上げる。
「で?お前、何なんだよ」
うぅ、なんか酔っ払いに絡まれてる気分。
「何なんだよ、と言われましても……」
オレンジジュースをちびちび飲みながら、つい敬語になってしまう。
「だって、ずーーーっと落ち込んでんじゃん!」
「……そ、そうかな」
「いや、誰がどう見てもそうじゃん」
「……だよね」
僕は全く立ち直れていない。桐谷だけでなく、遥くんからも心配そうな視線を向けられた。
以前のように静まり返った部屋。いや、お隣さんと知り合う前よりも、今のほうがずっと寒々しい。
どうしようもない虚しさに襲われて、料理をする気にもなれず、コンビニ弁当で済ませている。
料理は幸せを運んでくれる、はずだった。でも、今の僕にとっては、ただ苦しいだけ。
恋って、楽しいばかりだと思ってたけど、それだけじゃなかった。僕はそんなこと知らなかったよ。だって、何もかも初めてだったから。
「佐藤、俺とお前は、この大学に入って初めて会ったな?」
僕は目尻を擦って、ただ頷く。僕が最初に声をかけて、意気投合し、テニスサークルに誘った。
「俺たち、まだ短い付き合いだけどさ。お前とは、これからもずっと友達でいたいと思ってる。だから一人で抱えんな」
「き、きりたに〜」
僕は桐谷にすがりつくように、肩に顔を埋める。
「佐藤、やっぱり何かあったんだろ?」
「……何もないよ」
「嘘つけ」
「………」
「俺たち、友達だろ?」
僕はグッと下唇を噛み締めた。じっとテーブルを見つめてから、桐谷に顔を向ける。
「……笑わない?」
桐谷はコクリと喉を鳴らして、頷いた。
僕は、お隣さんとの出来事を、出会いから失恋にいたるまで何もかも話した。
桐谷は最初驚いていたようだ。
そりゃ、そうだよな。初めて好きになったのが、顔も知らない人、しかも同性だなんて。
けれど最後には、僕の肩に腕を回し、「佐藤、お前はちゃんとがんばってるよ」と励ましてくれた。
僕がしばらくおしぼりを目に当てている間、桐谷は黙って烏龍茶をおかわりする。
「―――でさ、鈴木先輩もなんか元気ねーんだよな。佐藤、なんか知ってる?」
桐谷の言葉に、首を横に振った。相変わらず、先輩の名前を聞くと、胸の奥が疼く。先輩とは「お帰りなさい」を言った日以来、会っていなかった。
元気、ないのか。まさかね……。
「知らないよ。なんで?」
「……そうか」
桐谷は口の中のものを飲み込むと、額に手をつく。
「お前と鈴木先輩、仲良いんだと思ってた」
黙って口を閉じる。
先輩は、きっと呆れてる。そんなつもりはないけど、僕が誰にでも思わせぶりだからなのかもしれない。コンビニで言われたことを何度も考えた結果、そう思った。
それに、お隣さんと鈴木先輩。
好きなのはお隣さんなのに、先輩を見ると心臓が変になる。お隣さんが先輩だったらいいのに……なんて、自分勝手なことを考えてしまっている。
こんなの知らない。好きって、もっと簡単なものだと思っていた。一人を好きになったら、その人だけを見ているものだと思っていた。
なのに僕は――
箸をおいて、笑顔を作る。
「桐谷、今日はありがとう。少し元気出てきた」
桐谷はニカッと笑って「それなら良かった。あんまり考えすぎるなよ」と言った。
1人で歩く帰り道。桐谷の言葉を思い出す。
「考えすぎるなよ、か」
僕って考えすぎてたのかな。
会えない以外は順調に仲良くなれてると思っていたのに、急に拒絶された。
なぜ?もしかして、僕の正体に気づいて、がっかりした?それとも、僕の気持ちがバレちゃった?気持ち悪い、って思われたかな……
目を閉じて、頭を振る。
違う……あの人は、絶対そんな人じゃない。泣いてる僕に『大丈夫?』と言ってくれた。焦がした餃子を『美味い』と食べてくれた。それに、僕の夢を笑わないでくれた。あの人は、受け止めてくれる。
――このまま何も言わずに終わるほうが、きっと後悔する。最後くらい、ちゃんと気持ちを伝えて、お礼を言いたい。
それに、はっきりさせたい。お隣さんが好きなのか、先輩が好きなのか。
よし!僕は気合を入れた。
張り詰めた空気の中で、僕は壁に向かっていた。
桐谷にもらった勇気に背中を押され、右手の拳をゆっくり持ち上げる。壁に当たる直前、一瞬だけ躊躇したけど、もう一度息を吸って「トン、トン」とノックした。
少しの間、待つ。
人のいる気配はするけど、返事はない。僕は深呼吸して、壁に額をつけた。
「いますよね?答えてくれなくていいから、僕の話だけ聞いてもらえませんか?」
もう一度深呼吸、それからぎゅっと目を瞑る。壁の向こうは黙ったまま。
「一人暮らしを初めて、すごく寂しかったんです。夢のためにここまで来たのに、毎日毎日、帰りたいって思ってました」
一旦言葉を切る。
「そんなとき、あなたが声をかけてくれた」
少しの間、口を閉じると、静けさが広がった。
「あなたと話すと、楽しくて、何気ない優しさが嬉しくて、寂しくなくなりました。……料理も、あなたが美味しいって言ってくれるから、前よりもっと楽しくなった」
目を閉じたまま、すーっと息を吸う。
「気づいたら……あなたのことが好きになりました」
耳を澄ませても、物音すらしない。でも、きっと聞いてくれている。
「返事は、いりません。僕が言いたくなっただけだから。……今まで、ありがとう、ございました……」
壁の向こうは最後まで静かなままだった。
本当は、隣で『ありがとう』を言いたかった。『美味い』って言いながら、僕の作った料理を食べるところが見たかった。笑った顔が見たかった。
ううん、笑っているときだけじゃなくて、悩んでいるときも、そばにいたかった。
『いつか、それだけじゃ満足できなくなりますよ』
遥くんが言ってた通りだったな。
あのころは、5分でも話せるだけで幸せだった。それで充分だと思っていたのに……。今はただ、会いたくて仕方ない。
「先輩」
空き教室で1人座る鈴木先輩の姿が目に入り、思わず声をかけていた。
僕の声が聞こえているはずなのに、なぜか振り返らない。足音を立てないように近づいて、先輩の前に回り込む。
「先輩?」
体を傾けて、顔を覗き込んだ。
あ……もしかして、泣いてた?目の周りが赤くなっていて、まつ毛が濡れたように束になっている。
「……佐藤」
先輩は驚いたふうもなく、僕の名前を呼んだ。また目が潤み始めている。
振り返らないんじゃなく、振り返れなかったんだ。
「先輩が元気ないって、桐谷が……」
「……そうか」
先輩はそれだけ言って、顔を俯けた。
「どうしたんですか?もし良かったら、話聞きますよ」
「………」
「僕も、すっごく悩んでたんですけど、桐谷に話聞いてもらって……」
「……吹っ切れたのか?」
今までの鈴木先輩からは想像できないくらい、低い声だった。ふいにお隣さんの声と重なる。やっぱり……。
僕は深呼吸すると、先輩の顔を見据えた。
「恋の悩みですか?……もしかして、断りきれなくて悩んでるとか」
先輩は何も言わない。無言の肯定だ。
「えへへ、実は僕、フラれちゃいました。……不思議とすっきりしてます。だからって、好きな気持ちがなくなるわけじゃないけど」
「……どこを見て、好きになったの?」
そう聞かれて、僕はリュックのひもを握りしめた。
確信なんてない。でも、僕がそれを望んでしまっている。だから、伝えたい。
「……会ったこと、ないんです。声だけで、姿も見えないのに、好きになっちゃいました」
僕が小さく笑うと、先輩はデスクの上で指を組んだ。
「それ、怖くない?会ってみたら、がっかりするかもしれないよ」
「それは絶対ないです」
先輩は顔をそらしたまま、目を見開いた。
「僕、見た目で好きになったわけじゃないから。もし見た目だけで選ぶなら、大学にはかっこいい人がいっぱいいます。鈴木先輩だって……その一人です」
僕はお隣さんとのことを思い出して、ふっと笑った。
「僕の好きな人、よく物を落とすんですよ」
「……そうか」
「はい、それが可愛くて」
胸が締め付けられるように痛くなる。
先輩は無表情のまま、僕を見上げた。その視線に、否が応でも心臓がドキドキしてしまう。
「でも、先輩はいつもかっこいいです」
「………」
「すみません、こんなこと言って。また呆れられちゃいますね」
「……俺、かっこいい?今、こんなに情けないところ見せてるけど」
まるで子どもみたいな言い方に、少し困ってしまう。
「そうですね。今の先輩は、正直言うと、ちょっと可愛いかもしれないです」
「………」
「僕は見たかったですよ。好きな人のかっこいいところも、情けないところも、泣いているところも。……もう、叶わないですけど」
涙をこらえながら言うと、先輩は僕を見た。
「佐藤は、ただ寂しくて、そのときに近くにいた人を好きになっただけなんじゃないか?」
そう言われて、僕はムッと口をとがらせる。
「先輩、僕のこと、ばかにしてます?そんなことで好きになるわけないじゃないですか。確かに今も寂しくなるけど、その寂しさを癒やしてほしいと思うのは、あの人だけなんです」
先輩はしばらく黙り込んだ。
「……もし、その人が想像と違ったら?」
先輩がポツリと呟く。
「思ってるような人じゃなくて、佐藤を騙してるんだとしたら?」
僕は肩を落として、「それでも、好きでした」とだけ答える。
「……っ!佐藤!」
先輩は立ち上がって、今まで見たことがないほど苦しそうな顔をしていた。
そのとき。
「あ、理来!」
女子の先輩がぞろぞろと、鈴木先輩の名前を呼びながら入ってくる。
「今日、時間ある?このあとさ―――」
あっという間に囲まれた先輩に背を向け、僕はそっと教室を出た。
もう、お隣さんと先輩を重ねるのはやめる。僕は2人から同時に、失恋したんだ。



