side 理来
縋るように壁に体を寄せた。
この向こうに俺の好きな子がいる。
泣いている。
本当は今すぐ抱きしめたい。
「俺だよ」って言いたい。
でも、そうしたら俺は消える。
あいつが心を開いてくれた隣人。
疲れて帰ってきた日に「お疲れ」を言い合える相手。
それを、自分の手で壊すことになる。
『隣人』と『先輩』
どっちも大切にしたかった。
どっちの俺も、あいつのそばにいたかった。
でも欲張った結果、どっちも中途半端になった。
コンビニで、あいつとバイト仲間の姿を見たとき。
どうしようもなくイライラした。
近づくな。
そう思った。
俺じゃないやつに、そんなふうに笑いかけるな、って。
……最低だ。
正体を隠しているくせに、そんなことを思う資格なんてないのに。
「このままじゃ、俺は」あいつの全部を奪いたくなる。
俺だけを見て欲しくなる。
傷つけてしまう。
そんな自分が怖かった。
俺が見たいのは、あいつの泣き顔じゃなくて、笑顔なんだ。
……だから、これでいい。
俺は、ただの隣人のままで終わればいい。
それが、俺なりのあいつへの優しさ……。
――本当は、そんなんじゃ嫌だ。
『お隣さん』じゃなく、俺の名前を呼ばれたい。
笑いかけくれる顔を見て『好き』って言いたい。
未練がましくドアを見つめるけど、一歩を踏み出すことは出来なかった。
ラケットを握る手が痺れていた。
何度もラケットを持ち替え、脇におろして手を振る。
「佐藤、大丈夫かよ」
桐谷が心配そうに駆け寄ってきた。
僕は「大丈夫」と言ったけど、桐谷は「やりすぎだぞ。もう終わりにしよう」と、汗まみれの腕を躊躇なく引っぱる。
「でも……」
「俺も限界!明日、絶対筋肉痛だろ」
僕を振り返って、口角を上げた。
「ご、ごめん」
桐谷にラリーの相手を頼んで、1時間以上、休みなくラケットを振っていた。
ボールを追いかけている間は、何も考えずに済む。
何かしていないと、すぐにお隣さんのことを考えてしまうから。
あれから1週間。
何度もノックしようとした。
でも、出来なかった。
「帰ろう」
黙って頷くと、桐谷が俺の顔をじっと見る。
「……よっしゃ!佐藤、飯食いに行こうぜ!」
「えっ?」
桐谷は明るい声で言うと、後ろに回り込んで、僕の肩をぐいぐいと押した。
ドンッとテーブルにたたきつけるようにして、グラスを置いた。
「桐谷、それ、烏龍茶だよな……?」
桐谷は俺の言葉を無視して、もう一度グラスを持ち上げる。
「で?お前、何なんだよ」
うぅ、なんか酔っ払いに絡まれてる気分。
「何なんだよ、と言われましても……」
オレンジジュースをちびちび飲みながら、つい敬語になってしまう。
「だって、ずーーーっと落ち込んでんじゃん!」
「……そ、そうかな」
「いや、誰がどう見てもそうじゃん」
「……だよね」
僕は全く立ち直れていない。
桐谷だけでなく、遥くんからも心配そうな視線を向けられた。
以前のように静まり返った部屋。
いや、お隣さんと知り合う前よりも、今のほうがずっと寒々しい。
どうしようもない虚しさに襲われて、料理をする気にもなれず、コンビニ弁当で済ませている。
料理は幸せを運んでくれる、はずだった。
でも、今の僕にとっては、ただ苦しいだけ。
恋って、楽しいばかりだと思ってたけど、それだけじゃなかった。
僕はそんなこと知らなかったよ。
だって、何もかも初めてだったから。
「佐藤、俺とお前は、この大学に入って初めて会ったな?」
僕は目尻を擦って、ただ頷く。
僕が最初に声をかけて、意気投合し、テニスサークルに誘った。
「俺たち、まだ短い付き合いだけどさ。お前とは、これからもずっと友達でいたいと思ってる。だから一人で抱えんな」
「き、きりたに〜」
僕は桐谷にすがりつくように、肩に顔を埋める。
「佐藤、やっぱり何かあったんだろ?」
「……何もないよ」
「嘘つけ」
「………」
「俺たち、友達だろ?」
僕はグッと下唇を噛み締めた。
じっとテーブルを見つめてから、桐谷に顔を向ける。
「……笑わない?」
桐谷はコクリと喉を鳴らして、頷いた。
僕は、お隣さんとの出来事を、出会いから失恋にいたるまで何もかも話した。
桐谷は最初驚いていたようだ。
そりゃ、そうだよな。
初めて好きになったのが、顔も知らない人、しかも同性だなんて。
けれど最後には、僕の肩に腕を回し、「佐藤、お前はちゃんとがんばってるよ」と励ましてくれた。
僕がしばらくおしぼりを目に当てている間、桐谷は黙って烏龍茶をおかわりする。
「―――でさ、鈴木先輩もなんか元気ねーんだよな。佐藤、なんか知ってる?」
桐谷の言葉に、首を横に振った。
相変わらず、先輩の名前を聞くと、胸の奥が疼く。
先輩とは「お帰りなさい」を言った日以来、会っていなかった。
元気、ないのか。
まさかね……
「知らないよ。なんで?」
「……そうか」
桐谷は口の中のものを飲み込むと、額に手をつく。
「お前と鈴木先輩、仲良いんだと思ってた」
黙って口を閉じる。
先輩は、きっと呆れてる。
そんなつもりはないけど、僕が誰にでも思わせぶりだからなのかもしれない。
コンビニで言われたことを何度も考えた結果、そう思った。
それに、お隣さんと鈴木先輩。
好きなのはお隣さんなのに、先輩を見ると心臓が変になる。
お隣さんが先輩だったらいいのに……なんて、自分勝手なことを考えてしまっている。
こんなの知らない。
好きって、もっと簡単なものだと思っていた。
一人を好きになったら、その人だけを見ているものだと思っていた。
なのに僕は――
箸をおいて、笑顔を作る。
「桐谷、今日はありがとう。少し元気出てきた」桐谷はニカッと笑って「それなら良かった。あんまり考えすぎるなよ」と言った。
1人で歩く帰り道。
桐谷の言葉を思い出す。
「考えすぎるなよ、か」
僕って考えすぎてたのかな。
会えない以外は順調に仲良くなれてると思っていたのに、急に拒絶された。
なぜ?
もしかして、僕の正体に気づいて、がっかりした?
それとも、僕の気持ちがバレちゃった?
気持ち悪い、って思われたかな……
目を閉じて、頭を振る。
違う……あの人は、絶対そんな人じゃない。
泣いてる僕に『大丈夫?』と言ってくれた。
焦がした餃子を『美味い』と食べてくれた。
それに、僕の夢を笑わないでくれた。
あの人は、受け止めてくれる。
――このまま何も言わずに終わるほうが、きっと後悔する。
最後くらい、ちゃんと気持ちを伝えて、お礼を言いたい。
それに、はっきりさせたい。
お隣さんが好きなのか、先輩が好きなのか。
よし!僕は気合を入れた。
張り詰めた空気の中で、僕は壁に向かっていた。
桐谷にもらった勇気に背中を押され、右手の拳をゆっくり持ち上げる。
壁に当たる直前、一瞬だけ躊躇したけど、もう一度息を吸って「トン、トン」とノックした。
少しの間、待つ。
人のいる気配はするけど、返事はない。
僕は深呼吸して、壁に額をつけた。
「いますよね?答えてくれなくていいから、僕の話だけ聞いてもらえませんか?」
もう一度深呼吸、それからぎゅっと目を瞑る。
壁の向こうは黙ったまま。
「一人暮らしを初めて、すごく寂しかったんです。夢のためにここまで来たのに、毎日毎日、帰りたいって思ってました」
一旦言葉を切る。
「そんなとき、あなたが声をかけてくれた」
少しの間、口を閉じると、静けさが広がった。
「あなたと話すと、楽しくて、何気ない優しさが嬉しくて、寂しくなくなりました。……料理も、あなたが美味しいって言ってくれるから、前よりもっと楽しくなった」
目を閉じたまま、すーっと息を吸う。
「気づいたら……あなたのことが好きになりました」
耳を澄ませても、物音すらしない。
でも、きっと聞いてくれている。
「返事は、いりません。僕が言いたくなっただけだから。……今まで、ありがとう、ございました……」
壁の向こうは最後まで静かなままだった。
本当は、隣で『ありがとう』を言いたかった。
『美味い』って言いながら、僕の作った料理を食べるところが見たかった。
笑った顔が見たかった。
ううん、笑っているときだけじゃなくて、悩んでいるときも、そばにいたかった。
『いつか、それだけじゃ満足できなくなりますよ』
遥くんが言ってた通りだったな。
あのころは、5分でも話せるだけで幸せだった。
それで充分だと思っていたのに……
今はただ、会いたくて仕方ない。
「先輩」
空き教室で1人座る鈴木先輩の姿が目に入り、思わず声をかけていた。
僕の声が聞こえているはずなのに、なぜか振り返らない。
足音を立てないように近づいて、先輩の前に回り込む。
「先輩?」
体を傾けて、顔を覗き込んだ。
あ……もしかして、泣いてた?
目の周りが赤くなっていて、まつ毛が濡れたように束になっている。
「……佐藤」
先輩は驚いたふうもなく、僕の名前を呼んだ。
また目が潤み始めている。
振り返らないんじゃなく、振り返れなかったんだ。
「先輩が元気ないって、桐谷が……」
「……そうか」
先輩はそれだけ言って、顔を俯けた。
「どうしたんですか?もし良かったら、話聞きますよ」
「………」
「僕も、すっごく悩んでたんですけど、桐谷に話聞いてもらって……」
「……吹っ切れたのか?」
今までの鈴木先輩からは想像できないくらい、低い声だった。
ふいにお隣さんの声と重なる。
やっぱり……。
僕は深呼吸すると、先輩の顔を見据えた。
「恋の悩みですか?……もしかして、断りきれなくて悩んでるとか」
先輩は何も言わない。
無言の肯定だ。
「えへへ、実は僕、フラれちゃいました。……不思議とすっきりしてます。だからって、好きな気持ちがなくなるわけじゃないけど」
「……どこを見て、好きになったの?」
そう聞かれて、僕はリュックのひもを握りしめた。
確信なんてない。
でも、僕がそれを望んでしまっている。
だから、伝えたい。
「……会ったこと、ないんです。声だけで、姿も見えないのに、好きになっちゃいました」
僕が小さく笑うと、先輩はデスクの上で指を組んだ。
「それ、怖くない?会ってみたら、がっかりするかもしれないよ」
「それは絶対ないです」
先輩は顔をそらしたまま、目を見開いた。
「僕、見た目で好きになったわけじゃないから。もし見た目だけで選ぶなら、大学にはかっこいい人がいっぱいいます。鈴木先輩だって……その一人です」
僕はお隣さんとのことを思い出して、ふっと笑った。
「僕の好きな人、よく物を落とすんですよ」
「……そうか」
「はい、それが可愛くて」
胸が締め付けられるように痛くなる。
先輩は無表情のまま、僕を見上げた。
その視線に、否が応でも心臓がドキドキしてしまう。
「でも、先輩はいつもかっこいいです」
「………」
「すみません、こんなこと言って。また呆れられちゃいますね」
「……俺、かっこいい?今、こんなに情けないところ見せてるけど」
まるで子どもみたいな言い方に、少し困ってしまう。
「そうですね。今の先輩は、正直言うと、ちょっと可愛いかもしれないです」
「………」
「僕は見たかったですよ。好きな人のかっこいいところも、情けないところも、泣いているところも。……もう、叶わないですけど」
涙をこらえながら言うと、先輩は僕を見た。
「佐藤は、ただ寂しくて、そのときに近くにいた人を好きになっただけなんじゃないか?」
そう言われて、僕はムッと口をとがらせる。
「先輩、僕のこと、ばかにしてます?そんなことで好きになるわけないじゃないですか。確かに今も寂しくなるけど、その寂しさを癒やしてほしいと思うのは、あの人だけなんです」
先輩はしばらく黙り込んだ。
「……もし、その人が想像と違ったら?」
先輩がポツリと呟く。
「思ってるような人じゃなくて、佐藤を騙してるんだとしたら?」
僕は肩を落として、「それでも、好きでした」とだけ答える。
「……っ!佐藤!」
先輩は立ち上がって、今まで見たことがないほど苦しそうな顔をしていた。
そのとき。
「あ、理来!」
女子学生がぞろぞろと、先輩の名前を呼びながら入ってくる。
「今日、時間ある?このあとさ―――」
あっという間に囲まれた先輩に背を向け、僕はそっと教室を出た。
もう、お隣さんと先輩を重ねるのはやめる。
僕は2人から同時に、失恋したんだ。
縋るように壁に体を寄せた。
この向こうに俺の好きな子がいる。
泣いている。
本当は今すぐ抱きしめたい。
「俺だよ」って言いたい。
でも、そうしたら俺は消える。
あいつが心を開いてくれた隣人。
疲れて帰ってきた日に「お疲れ」を言い合える相手。
それを、自分の手で壊すことになる。
『隣人』と『先輩』
どっちも大切にしたかった。
どっちの俺も、あいつのそばにいたかった。
でも欲張った結果、どっちも中途半端になった。
コンビニで、あいつとバイト仲間の姿を見たとき。
どうしようもなくイライラした。
近づくな。
そう思った。
俺じゃないやつに、そんなふうに笑いかけるな、って。
……最低だ。
正体を隠しているくせに、そんなことを思う資格なんてないのに。
「このままじゃ、俺は」あいつの全部を奪いたくなる。
俺だけを見て欲しくなる。
傷つけてしまう。
そんな自分が怖かった。
俺が見たいのは、あいつの泣き顔じゃなくて、笑顔なんだ。
……だから、これでいい。
俺は、ただの隣人のままで終わればいい。
それが、俺なりのあいつへの優しさ……。
――本当は、そんなんじゃ嫌だ。
『お隣さん』じゃなく、俺の名前を呼ばれたい。
笑いかけくれる顔を見て『好き』って言いたい。
未練がましくドアを見つめるけど、一歩を踏み出すことは出来なかった。
ラケットを握る手が痺れていた。
何度もラケットを持ち替え、脇におろして手を振る。
「佐藤、大丈夫かよ」
桐谷が心配そうに駆け寄ってきた。
僕は「大丈夫」と言ったけど、桐谷は「やりすぎだぞ。もう終わりにしよう」と、汗まみれの腕を躊躇なく引っぱる。
「でも……」
「俺も限界!明日、絶対筋肉痛だろ」
僕を振り返って、口角を上げた。
「ご、ごめん」
桐谷にラリーの相手を頼んで、1時間以上、休みなくラケットを振っていた。
ボールを追いかけている間は、何も考えずに済む。
何かしていないと、すぐにお隣さんのことを考えてしまうから。
あれから1週間。
何度もノックしようとした。
でも、出来なかった。
「帰ろう」
黙って頷くと、桐谷が俺の顔をじっと見る。
「……よっしゃ!佐藤、飯食いに行こうぜ!」
「えっ?」
桐谷は明るい声で言うと、後ろに回り込んで、僕の肩をぐいぐいと押した。
ドンッとテーブルにたたきつけるようにして、グラスを置いた。
「桐谷、それ、烏龍茶だよな……?」
桐谷は俺の言葉を無視して、もう一度グラスを持ち上げる。
「で?お前、何なんだよ」
うぅ、なんか酔っ払いに絡まれてる気分。
「何なんだよ、と言われましても……」
オレンジジュースをちびちび飲みながら、つい敬語になってしまう。
「だって、ずーーーっと落ち込んでんじゃん!」
「……そ、そうかな」
「いや、誰がどう見てもそうじゃん」
「……だよね」
僕は全く立ち直れていない。
桐谷だけでなく、遥くんからも心配そうな視線を向けられた。
以前のように静まり返った部屋。
いや、お隣さんと知り合う前よりも、今のほうがずっと寒々しい。
どうしようもない虚しさに襲われて、料理をする気にもなれず、コンビニ弁当で済ませている。
料理は幸せを運んでくれる、はずだった。
でも、今の僕にとっては、ただ苦しいだけ。
恋って、楽しいばかりだと思ってたけど、それだけじゃなかった。
僕はそんなこと知らなかったよ。
だって、何もかも初めてだったから。
「佐藤、俺とお前は、この大学に入って初めて会ったな?」
僕は目尻を擦って、ただ頷く。
僕が最初に声をかけて、意気投合し、テニスサークルに誘った。
「俺たち、まだ短い付き合いだけどさ。お前とは、これからもずっと友達でいたいと思ってる。だから一人で抱えんな」
「き、きりたに〜」
僕は桐谷にすがりつくように、肩に顔を埋める。
「佐藤、やっぱり何かあったんだろ?」
「……何もないよ」
「嘘つけ」
「………」
「俺たち、友達だろ?」
僕はグッと下唇を噛み締めた。
じっとテーブルを見つめてから、桐谷に顔を向ける。
「……笑わない?」
桐谷はコクリと喉を鳴らして、頷いた。
僕は、お隣さんとの出来事を、出会いから失恋にいたるまで何もかも話した。
桐谷は最初驚いていたようだ。
そりゃ、そうだよな。
初めて好きになったのが、顔も知らない人、しかも同性だなんて。
けれど最後には、僕の肩に腕を回し、「佐藤、お前はちゃんとがんばってるよ」と励ましてくれた。
僕がしばらくおしぼりを目に当てている間、桐谷は黙って烏龍茶をおかわりする。
「―――でさ、鈴木先輩もなんか元気ねーんだよな。佐藤、なんか知ってる?」
桐谷の言葉に、首を横に振った。
相変わらず、先輩の名前を聞くと、胸の奥が疼く。
先輩とは「お帰りなさい」を言った日以来、会っていなかった。
元気、ないのか。
まさかね……
「知らないよ。なんで?」
「……そうか」
桐谷は口の中のものを飲み込むと、額に手をつく。
「お前と鈴木先輩、仲良いんだと思ってた」
黙って口を閉じる。
先輩は、きっと呆れてる。
そんなつもりはないけど、僕が誰にでも思わせぶりだからなのかもしれない。
コンビニで言われたことを何度も考えた結果、そう思った。
それに、お隣さんと鈴木先輩。
好きなのはお隣さんなのに、先輩を見ると心臓が変になる。
お隣さんが先輩だったらいいのに……なんて、自分勝手なことを考えてしまっている。
こんなの知らない。
好きって、もっと簡単なものだと思っていた。
一人を好きになったら、その人だけを見ているものだと思っていた。
なのに僕は――
箸をおいて、笑顔を作る。
「桐谷、今日はありがとう。少し元気出てきた」桐谷はニカッと笑って「それなら良かった。あんまり考えすぎるなよ」と言った。
1人で歩く帰り道。
桐谷の言葉を思い出す。
「考えすぎるなよ、か」
僕って考えすぎてたのかな。
会えない以外は順調に仲良くなれてると思っていたのに、急に拒絶された。
なぜ?
もしかして、僕の正体に気づいて、がっかりした?
それとも、僕の気持ちがバレちゃった?
気持ち悪い、って思われたかな……
目を閉じて、頭を振る。
違う……あの人は、絶対そんな人じゃない。
泣いてる僕に『大丈夫?』と言ってくれた。
焦がした餃子を『美味い』と食べてくれた。
それに、僕の夢を笑わないでくれた。
あの人は、受け止めてくれる。
――このまま何も言わずに終わるほうが、きっと後悔する。
最後くらい、ちゃんと気持ちを伝えて、お礼を言いたい。
それに、はっきりさせたい。
お隣さんが好きなのか、先輩が好きなのか。
よし!僕は気合を入れた。
張り詰めた空気の中で、僕は壁に向かっていた。
桐谷にもらった勇気に背中を押され、右手の拳をゆっくり持ち上げる。
壁に当たる直前、一瞬だけ躊躇したけど、もう一度息を吸って「トン、トン」とノックした。
少しの間、待つ。
人のいる気配はするけど、返事はない。
僕は深呼吸して、壁に額をつけた。
「いますよね?答えてくれなくていいから、僕の話だけ聞いてもらえませんか?」
もう一度深呼吸、それからぎゅっと目を瞑る。
壁の向こうは黙ったまま。
「一人暮らしを初めて、すごく寂しかったんです。夢のためにここまで来たのに、毎日毎日、帰りたいって思ってました」
一旦言葉を切る。
「そんなとき、あなたが声をかけてくれた」
少しの間、口を閉じると、静けさが広がった。
「あなたと話すと、楽しくて、何気ない優しさが嬉しくて、寂しくなくなりました。……料理も、あなたが美味しいって言ってくれるから、前よりもっと楽しくなった」
目を閉じたまま、すーっと息を吸う。
「気づいたら……あなたのことが好きになりました」
耳を澄ませても、物音すらしない。
でも、きっと聞いてくれている。
「返事は、いりません。僕が言いたくなっただけだから。……今まで、ありがとう、ございました……」
壁の向こうは最後まで静かなままだった。
本当は、隣で『ありがとう』を言いたかった。
『美味い』って言いながら、僕の作った料理を食べるところが見たかった。
笑った顔が見たかった。
ううん、笑っているときだけじゃなくて、悩んでいるときも、そばにいたかった。
『いつか、それだけじゃ満足できなくなりますよ』
遥くんが言ってた通りだったな。
あのころは、5分でも話せるだけで幸せだった。
それで充分だと思っていたのに……
今はただ、会いたくて仕方ない。
「先輩」
空き教室で1人座る鈴木先輩の姿が目に入り、思わず声をかけていた。
僕の声が聞こえているはずなのに、なぜか振り返らない。
足音を立てないように近づいて、先輩の前に回り込む。
「先輩?」
体を傾けて、顔を覗き込んだ。
あ……もしかして、泣いてた?
目の周りが赤くなっていて、まつ毛が濡れたように束になっている。
「……佐藤」
先輩は驚いたふうもなく、僕の名前を呼んだ。
また目が潤み始めている。
振り返らないんじゃなく、振り返れなかったんだ。
「先輩が元気ないって、桐谷が……」
「……そうか」
先輩はそれだけ言って、顔を俯けた。
「どうしたんですか?もし良かったら、話聞きますよ」
「………」
「僕も、すっごく悩んでたんですけど、桐谷に話聞いてもらって……」
「……吹っ切れたのか?」
今までの鈴木先輩からは想像できないくらい、低い声だった。
ふいにお隣さんの声と重なる。
やっぱり……。
僕は深呼吸すると、先輩の顔を見据えた。
「恋の悩みですか?……もしかして、断りきれなくて悩んでるとか」
先輩は何も言わない。
無言の肯定だ。
「えへへ、実は僕、フラれちゃいました。……不思議とすっきりしてます。だからって、好きな気持ちがなくなるわけじゃないけど」
「……どこを見て、好きになったの?」
そう聞かれて、僕はリュックのひもを握りしめた。
確信なんてない。
でも、僕がそれを望んでしまっている。
だから、伝えたい。
「……会ったこと、ないんです。声だけで、姿も見えないのに、好きになっちゃいました」
僕が小さく笑うと、先輩はデスクの上で指を組んだ。
「それ、怖くない?会ってみたら、がっかりするかもしれないよ」
「それは絶対ないです」
先輩は顔をそらしたまま、目を見開いた。
「僕、見た目で好きになったわけじゃないから。もし見た目だけで選ぶなら、大学にはかっこいい人がいっぱいいます。鈴木先輩だって……その一人です」
僕はお隣さんとのことを思い出して、ふっと笑った。
「僕の好きな人、よく物を落とすんですよ」
「……そうか」
「はい、それが可愛くて」
胸が締め付けられるように痛くなる。
先輩は無表情のまま、僕を見上げた。
その視線に、否が応でも心臓がドキドキしてしまう。
「でも、先輩はいつもかっこいいです」
「………」
「すみません、こんなこと言って。また呆れられちゃいますね」
「……俺、かっこいい?今、こんなに情けないところ見せてるけど」
まるで子どもみたいな言い方に、少し困ってしまう。
「そうですね。今の先輩は、正直言うと、ちょっと可愛いかもしれないです」
「………」
「僕は見たかったですよ。好きな人のかっこいいところも、情けないところも、泣いているところも。……もう、叶わないですけど」
涙をこらえながら言うと、先輩は僕を見た。
「佐藤は、ただ寂しくて、そのときに近くにいた人を好きになっただけなんじゃないか?」
そう言われて、僕はムッと口をとがらせる。
「先輩、僕のこと、ばかにしてます?そんなことで好きになるわけないじゃないですか。確かに今も寂しくなるけど、その寂しさを癒やしてほしいと思うのは、あの人だけなんです」
先輩はしばらく黙り込んだ。
「……もし、その人が想像と違ったら?」
先輩がポツリと呟く。
「思ってるような人じゃなくて、佐藤を騙してるんだとしたら?」
僕は肩を落として、「それでも、好きでした」とだけ答える。
「……っ!佐藤!」
先輩は立ち上がって、今まで見たことがないほど苦しそうな顔をしていた。
そのとき。
「あ、理来!」
女子学生がぞろぞろと、先輩の名前を呼びながら入ってくる。
「今日、時間ある?このあとさ―――」
あっという間に囲まれた先輩に背を向け、僕はそっと教室を出た。
もう、お隣さんと先輩を重ねるのはやめる。
僕は2人から同時に、失恋したんだ。



![[超短編]推し語りしてたら幼馴染に迫られた。](https://novema.jp/img/member/1396597/krbj6xtdrp-thumb.jpg)