お隣さんがいなくなってから3日。
アパートの部屋には、またガラスのかけらのような静けさが戻っていた。
帰ってくると壁際に座り、「トン、トン」と習慣のようにノックする。
もちろん、返事はない。
壁に耳を当ててみても、何一つ聞こえない。
そんなことは分かっているんだけど……
どうしようもない寂しさに襲われて、僕のため息だけが部屋に満ちていった。
よし!と気合を入れる。
ここで立ち止まってるわけにはいかない。
僕の夢――お隣さんに「いいね」と言ってもらえた夢に向かって、今は料理の特訓をしなくちゃ。
お隣さんは偏った食事が多いから、野菜をたくさん使った新メニューを開発しよう。
それに、お菓子作りにも挑戦したい。
そしたらまた、「美味い」って笑ってくれるかな。
……そういえば。
鈴木先輩にまだ卵焼きを作っていなかった。
別に約束したわけじゃないけど。
「食べたい、作って」と恥ずかしそうに言った顔。
ちょっとだけ可愛かったな……
ハッと気づいて頭を振る。
僕は一体、何を考えているんだろう。
お隣さんがいなくなってから1週間。
「佐藤、なんか元気なくね?」
そう言ったのは桐谷だ。
サークルのコンパに3年生の姿はなく、1・2年生がポツポツといるだけ。
夏休み中だし、帰省してる人が多いんだろうな。
「そうかな?……普通だよ」
桐谷は僕を横目に見ながら、烏龍茶を一口飲んだ。
「それならいいけど」
探るような視線を避けながら頷くと、桐谷はふいっと顔をそらして宙を見る。
「中本先輩も鈴木先輩も、今頃インターンでバリバリやってんだろーな」
ふいに鈴木先輩の名前が出て、心臓がドクンと鳴ってしまった。
ダメダメ。
こんなことで動揺するな。
「そう、……だね」
気持ちを落ち着けるように、お隣さんのことを考える。
僕の焦がした餃子を食べて、「わはは」と笑った声。
それから、僕が料理している姿を想像して、「可愛い」と言ってくれた。
つい、「ふっ」と頬が緩む。
「おっ!佐藤、すげーいい顔してんね。思い出し笑い?」
桐谷が僕の脇腹をつつきながら言う。
身をよじりながら、「ふはっ」と吹き出す。
「やめてよ〜」
「なんだよ、幸せそうな顔しちゃって」
「僕、そんな顔してる?」
「してるしてる」
そうだ。
お隣さんに恋してから、僕はずっと幸せだった。
あと1週間……なのかは分からないけど、早く話したい。
あの優しい声が聞きたい。
お隣さんがいなくなってから12日。
『ピンポーン』とチャイムが鳴った。
「どうもー、お荷物のお届けでーす」
あ、宅配便!
もしかして、と期待しながら「はぁい」と答えてドアを開ける。
そこにいたのは、中年の小柄なおじさんだった。
「あ〜、……ありがとうございます」
少しがっかりしてしまう。
宅配便のお兄さんとは、コンビニで会ってから一度も顔を合わせていなかったから。
「佐藤……東さん、で、合ってます?」
「はい、そうですけど」
「ああ、良かった。アパートの名前と部屋番号がなかったから」
「えっ?!」
あわてて宅配伝票を見ると、またおかんからの仕送りだった。
おかん……!あれほど言ったのに!
「す、すみません。……よく分かりましたね」
穴があったら入りたいとは、このことだ。
おじさんは気の良さそうな笑顔で「ええ、うちのバイトのやつに聞いたら、ここだって教えてくれたもんで」と言った。
「それって……」
あの人のことだよね。
「じゃ、失礼しまーす」
「あ、お疲れさまでした!」
おじさんを見送って、しばらくその場にたたずむ。
また助けられちゃったな。
会えなかったのは残念だけど、僕のことを覚えていてくれたんだ。
『がんばろうな』
あの一言を思い出すと、不思議と胸が温かくなる。
送られてきたのは夏野菜だった。
これで、お隣さんにカレーでも作ろうかな。
僕はルンルンで、ドアを閉めた。
お隣さんがいなくなって2週間。
バイト終わり、遥くんが額の汗を拭いながら言った。
「お隣さん、まだいないんですか?」
「うん。いつ帰ってくるか、分からないんだ」
「連絡先も知らないんすよね」
「うっ……」
遥くんに言われて言葉が詰まる。
「やっぱり、何か隠してますって」
「いや、向こうは僕のこと、ただの話し相手としか思ってないからだよ」
自分で言ってて悲しくなる。
それでも、あの優しい声に救われたのは確かで……
「意外と身近にいるかもしれないすね」
遥くんの言葉に、鈴木先輩の顔が浮かぶ。
僕は諦めて肩を落とした。
もうバカみたいに、先輩の顔とお隣さんの声を重ねてしまっている。
会えない分、話せない分だけ、勝手な想像が膨らんで止まらない。
鈴木先輩のことを考えると、胸が騒ぐ。
お隣さんのことを思うと、胸が温かくなる。
似ているようで、少し違う。
僕はいったい、誰を好きなんだろう。
茄子を油から上げながら、チラッと時計を見る。
21時。
なんとなくいつも、この時間に食べられるように作ってしまう。
でも、壁の向こうは静まり返ったまま。
1時間経ったとき、意を決して壁をノックした。
「トン、トン」
じっと返事を待つけど、物音一つしない。
いつ帰ってくるのかな。
カレー、冷めちゃったよ。
絶対「美味い」って言わせるくらいの自信作だったのに。
どうしようもなく胸が締め付けられて、手の甲で目尻を拭った。
次の日。
廊下の向こうから、鈴木先輩が歩いてくるのを見て、思わず立ち止まる。
先輩は僕の前までくると、「どーも」と言った。
僕が「お帰りなさい」と言うと、先輩はにこっと笑った。
いつもの優しい笑顔。
なのに、どこか遠い。
一瞬だけ、先輩の目が僕の手元に落ちた気がした。
「……佐藤」
名前を呼ばれただけなのに、胸が跳ねる。
でも先輩は、何かを言いかけてやめたように口を閉じた。
そのまま通り過ぎていく。
期待していたわけじゃない。
それなのに、なぜか胸がズキンと痛んだ。
「ガタッ」という音が聞こえた気がして、目を開ける。
ボーッとしていると、今度ははっきり「ガチャン」と音がした。
ハッと体を起こして、いつもの壁に手をつく。
でも、耳を澄ましてみても、何も聞こえない。
お隣さんがいなくなってから3週間。
時刻は22時。
「トン、トン」
ノックしてみても、返事はない。
さっきの「ガチャン」が鍵を閉めた音なら、荷物だけ取りに来て、もう行ってしまったのかもしれない。
ああ、なんで寝ちゃったんだろう。
後悔と悲しみが押し寄せて、壁に額をつける。
知らず知らずのうちに涙が頬を伝っていた。
そのとき――
「……お疲れ」
待ち望んだ声に、顔を上げた。
幻聴?……じゃないよね。
「お帰りなさい」
声が揺れるのを押さえるように、奥歯を噛みしめる。
「何?泣いてんの?」
すぐにバレてしまって、僕は力なく笑った。
「だって、遅いですよ」
「……ごめん」
「いいんです。帰ってきてくれたから」
「……ごめん」
苦しそうな声に、胸が締め付けられる。
「だから、いいですって」
「そうじゃなくて……」
低く掠れた声に、口を閉ざした。
何を謝りたいのか分からなくて、じっと次の言葉を待つ。
「……もう、話すの、やめよう」
すぐには言われたことが理解できなかった。
どういうこと?
話すのを、やめる?
もう、あの優しい声を聞くことも、「わはは」と笑い合うこともできないの?
膝から崩れ落ちる。
やっと……やっと話せたのに。
「なんで?……僕、何かしちゃいました?」
声が震えて、肩に力を入れた。
「違う。このままじゃ、俺は――」
息を飲むような沈黙。
「……いや、なんでもない。お前は何も悪くない。でも、これ以上は話さないほうがいい」
それきり、何も言えず、何も聞こえない。
「分かりました」とは、どうしても言えなかった。
すぐそこにいるのに、壁1枚隔てているだけなのに、遠くへ行ってしまったみたい。
しかも、もう戻ってこないような気がする。
静まり返った部屋の中、枕に顔を押しつけて、ただ泣くよりほかなかった。
アパートの部屋には、またガラスのかけらのような静けさが戻っていた。
帰ってくると壁際に座り、「トン、トン」と習慣のようにノックする。
もちろん、返事はない。
壁に耳を当ててみても、何一つ聞こえない。
そんなことは分かっているんだけど……
どうしようもない寂しさに襲われて、僕のため息だけが部屋に満ちていった。
よし!と気合を入れる。
ここで立ち止まってるわけにはいかない。
僕の夢――お隣さんに「いいね」と言ってもらえた夢に向かって、今は料理の特訓をしなくちゃ。
お隣さんは偏った食事が多いから、野菜をたくさん使った新メニューを開発しよう。
それに、お菓子作りにも挑戦したい。
そしたらまた、「美味い」って笑ってくれるかな。
……そういえば。
鈴木先輩にまだ卵焼きを作っていなかった。
別に約束したわけじゃないけど。
「食べたい、作って」と恥ずかしそうに言った顔。
ちょっとだけ可愛かったな……
ハッと気づいて頭を振る。
僕は一体、何を考えているんだろう。
お隣さんがいなくなってから1週間。
「佐藤、なんか元気なくね?」
そう言ったのは桐谷だ。
サークルのコンパに3年生の姿はなく、1・2年生がポツポツといるだけ。
夏休み中だし、帰省してる人が多いんだろうな。
「そうかな?……普通だよ」
桐谷は僕を横目に見ながら、烏龍茶を一口飲んだ。
「それならいいけど」
探るような視線を避けながら頷くと、桐谷はふいっと顔をそらして宙を見る。
「中本先輩も鈴木先輩も、今頃インターンでバリバリやってんだろーな」
ふいに鈴木先輩の名前が出て、心臓がドクンと鳴ってしまった。
ダメダメ。
こんなことで動揺するな。
「そう、……だね」
気持ちを落ち着けるように、お隣さんのことを考える。
僕の焦がした餃子を食べて、「わはは」と笑った声。
それから、僕が料理している姿を想像して、「可愛い」と言ってくれた。
つい、「ふっ」と頬が緩む。
「おっ!佐藤、すげーいい顔してんね。思い出し笑い?」
桐谷が僕の脇腹をつつきながら言う。
身をよじりながら、「ふはっ」と吹き出す。
「やめてよ〜」
「なんだよ、幸せそうな顔しちゃって」
「僕、そんな顔してる?」
「してるしてる」
そうだ。
お隣さんに恋してから、僕はずっと幸せだった。
あと1週間……なのかは分からないけど、早く話したい。
あの優しい声が聞きたい。
お隣さんがいなくなってから12日。
『ピンポーン』とチャイムが鳴った。
「どうもー、お荷物のお届けでーす」
あ、宅配便!
もしかして、と期待しながら「はぁい」と答えてドアを開ける。
そこにいたのは、中年の小柄なおじさんだった。
「あ〜、……ありがとうございます」
少しがっかりしてしまう。
宅配便のお兄さんとは、コンビニで会ってから一度も顔を合わせていなかったから。
「佐藤……東さん、で、合ってます?」
「はい、そうですけど」
「ああ、良かった。アパートの名前と部屋番号がなかったから」
「えっ?!」
あわてて宅配伝票を見ると、またおかんからの仕送りだった。
おかん……!あれほど言ったのに!
「す、すみません。……よく分かりましたね」
穴があったら入りたいとは、このことだ。
おじさんは気の良さそうな笑顔で「ええ、うちのバイトのやつに聞いたら、ここだって教えてくれたもんで」と言った。
「それって……」
あの人のことだよね。
「じゃ、失礼しまーす」
「あ、お疲れさまでした!」
おじさんを見送って、しばらくその場にたたずむ。
また助けられちゃったな。
会えなかったのは残念だけど、僕のことを覚えていてくれたんだ。
『がんばろうな』
あの一言を思い出すと、不思議と胸が温かくなる。
送られてきたのは夏野菜だった。
これで、お隣さんにカレーでも作ろうかな。
僕はルンルンで、ドアを閉めた。
お隣さんがいなくなって2週間。
バイト終わり、遥くんが額の汗を拭いながら言った。
「お隣さん、まだいないんですか?」
「うん。いつ帰ってくるか、分からないんだ」
「連絡先も知らないんすよね」
「うっ……」
遥くんに言われて言葉が詰まる。
「やっぱり、何か隠してますって」
「いや、向こうは僕のこと、ただの話し相手としか思ってないからだよ」
自分で言ってて悲しくなる。
それでも、あの優しい声に救われたのは確かで……
「意外と身近にいるかもしれないすね」
遥くんの言葉に、鈴木先輩の顔が浮かぶ。
僕は諦めて肩を落とした。
もうバカみたいに、先輩の顔とお隣さんの声を重ねてしまっている。
会えない分、話せない分だけ、勝手な想像が膨らんで止まらない。
鈴木先輩のことを考えると、胸が騒ぐ。
お隣さんのことを思うと、胸が温かくなる。
似ているようで、少し違う。
僕はいったい、誰を好きなんだろう。
茄子を油から上げながら、チラッと時計を見る。
21時。
なんとなくいつも、この時間に食べられるように作ってしまう。
でも、壁の向こうは静まり返ったまま。
1時間経ったとき、意を決して壁をノックした。
「トン、トン」
じっと返事を待つけど、物音一つしない。
いつ帰ってくるのかな。
カレー、冷めちゃったよ。
絶対「美味い」って言わせるくらいの自信作だったのに。
どうしようもなく胸が締め付けられて、手の甲で目尻を拭った。
次の日。
廊下の向こうから、鈴木先輩が歩いてくるのを見て、思わず立ち止まる。
先輩は僕の前までくると、「どーも」と言った。
僕が「お帰りなさい」と言うと、先輩はにこっと笑った。
いつもの優しい笑顔。
なのに、どこか遠い。
一瞬だけ、先輩の目が僕の手元に落ちた気がした。
「……佐藤」
名前を呼ばれただけなのに、胸が跳ねる。
でも先輩は、何かを言いかけてやめたように口を閉じた。
そのまま通り過ぎていく。
期待していたわけじゃない。
それなのに、なぜか胸がズキンと痛んだ。
「ガタッ」という音が聞こえた気がして、目を開ける。
ボーッとしていると、今度ははっきり「ガチャン」と音がした。
ハッと体を起こして、いつもの壁に手をつく。
でも、耳を澄ましてみても、何も聞こえない。
お隣さんがいなくなってから3週間。
時刻は22時。
「トン、トン」
ノックしてみても、返事はない。
さっきの「ガチャン」が鍵を閉めた音なら、荷物だけ取りに来て、もう行ってしまったのかもしれない。
ああ、なんで寝ちゃったんだろう。
後悔と悲しみが押し寄せて、壁に額をつける。
知らず知らずのうちに涙が頬を伝っていた。
そのとき――
「……お疲れ」
待ち望んだ声に、顔を上げた。
幻聴?……じゃないよね。
「お帰りなさい」
声が揺れるのを押さえるように、奥歯を噛みしめる。
「何?泣いてんの?」
すぐにバレてしまって、僕は力なく笑った。
「だって、遅いですよ」
「……ごめん」
「いいんです。帰ってきてくれたから」
「……ごめん」
苦しそうな声に、胸が締め付けられる。
「だから、いいですって」
「そうじゃなくて……」
低く掠れた声に、口を閉ざした。
何を謝りたいのか分からなくて、じっと次の言葉を待つ。
「……もう、話すの、やめよう」
すぐには言われたことが理解できなかった。
どういうこと?
話すのを、やめる?
もう、あの優しい声を聞くことも、「わはは」と笑い合うこともできないの?
膝から崩れ落ちる。
やっと……やっと話せたのに。
「なんで?……僕、何かしちゃいました?」
声が震えて、肩に力を入れた。
「違う。このままじゃ、俺は――」
息を飲むような沈黙。
「……いや、なんでもない。お前は何も悪くない。でも、これ以上は話さないほうがいい」
それきり、何も言えず、何も聞こえない。
「分かりました」とは、どうしても言えなかった。
すぐそこにいるのに、壁1枚隔てているだけなのに、遠くへ行ってしまったみたい。
しかも、もう戻ってこないような気がする。
静まり返った部屋の中、枕に顔を押しつけて、ただ泣くよりほかなかった。



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