トントン、おとなりです。

 「佐藤、まだ仕事が残ってるだろ?」

 先輩が手を離して言った。
 仕事?仕事、仕事……。

 「そうだ!チャリティの準備しないと!」

 午後からはエントランスでパウンドケーキの販売をする。スタンドは用意してあるけど、肝心のケーキを運ばないといけない。

 「ごめん、山下くん。僕、もう行くね」

 テーブルの上を片付けながら言った。

 「はいはーい、俺もあとで買いに行きますよ」

 山下くんは頬杖をついて、ひらりと手を振った。

 「佐藤、俺も手伝うよ」

 思いがけない先輩の言葉に、目を丸くする。

 「え、いいんですか?先輩だって忙しいんじゃ…」

 「大丈夫。行こう」

 そう言いながら、椅子に置いてある僕のリュックを持ち上げた。

 「すみません、ありがとうございます」

 もう一度、山下くんに向き直る。

 「じゃ、あとで……ん?」

 山下くんは、またニヤニヤしながら、今度は先輩をじっと見ていた。

 「鈴木先輩、でしたっけ?なんか、すげーイケメンだし、隙のない人だと思ったけど、意外と余裕ないんすね」

 ……えっと、なんの話?

 先輩を見ると、ピクリと眉を動かした。どういう意味なのか分からないけど、きっと失礼なことを言ったんだろう。
 僕はため息をついて、今度こそ山下くんを睨みつけた。

 「山下くん、いい加減にしなよ。そうやって、誰にでもからまないの!」

 けれど、山下くんはいかにも面白そうに、声を上げて笑う。

 「だから、東くんのそれは可愛いだけなんだってば!」

 山下くんに可愛いって言われても、1ミリも響かないんだけど。お隣さんじゃなきゃ、意味がない。
 ムッと唇をとがらせると、先輩がまた僕の手首を掴んだ。

 「ほら、行くよ」

 優しい口調だけど、有無を言わせない雰囲気がある。僕は引っ張られるまま、先輩のあとをついていった。



 2人でそれぞれ、ケーキの入ったコンテナをエントランスまで運ぶ。佐々木さんと宮崎さんが、ポップやメニュー表なんかを用意してくれていた。

 「お疲れさまです」

 「お疲れ……って、えっ?!」 

 2人は、僕の後ろから着いてくる鈴木先輩を見て、すごくびっくりしていた。

 「すすす、鈴木先輩!手伝ってくれたんですか?!ありがとうございます!!」

 コンテナをテーブルに置く。
 鈴木先輩は「いいよ。ついでだったから」と、さわやかな笑顔で言った。
 佐々木さんは興奮したように顔を赤くしているし、いつもクールな宮崎さんですら、直視できないように目を細めている。

 「佐藤、もう一往復、行こう」

 「あ、はい」

 そんな2人を尻目に、もう一度調理室に向かう。1人だったら4往復だったから、本当にありがたい。
 歩きながら先輩の横顔を見ると、笑顔を貼り付けたまま、口の横がピクピクしている。

 「あはは!先輩、笑顔が固まってますよ」

 思わず吹き出すと、先輩は僕を見た。眉を上げて、少し口を開いている。
 ……どうしたんだろう。もしかして、失礼だったかな?

 「……なんで」

 「え?」

 「なんで、佐藤には分かっちゃうの」

 先輩はそう言って、少し歩調を早めた。慌てて追いかける。僕より足が長いんだから、ちょっと加減してほしい。

 「なんで…って」

 「今まで、誰にも言われたことない」

 「先輩、けっこう分かりやすいですよ」

 ずんずん進んでいく背中に話しかける。
 先輩は振り返らないまま、「それは佐藤が人のことをよく見てるからだよ」と言った。



 運び終わると、先輩は「バイトだから」と急ぎ足で帰っていった。

 やっぱり忙しかったんじゃん。申し訳ないことしちゃったな。でも、お礼に完成品のパウンドケーキを渡せたから良かった。前は試作品、しかも失敗しちゃったやつだったし。

 チョコとラム酒入りの2種類のパウンドケーキと、塩味のケークサレは飛ぶように売れて、あっという間になくなった。
 最初に買ってくれた人が、わざわざ戻ってきて、「美味しかった」と言ってくれた。

 3人でハイタッチして、栄光を分かち合う。僕たちの3週間の努力はちゃんと実を結んだ。

 それから、後片付けをして解散。お隣さん用にラッピングしていると、宮崎さんが後ろから覗き込んできた。

 「佐藤くん、それ、誰にあげるの?」

 「……えっと、お世話になってる人に」

 佐々木さんが正面から僕の顔を見つめる。

 「あ、佐藤くん、赤くなってる!」

 そう言われて、ますます頬が熱くなった。

 「ふーん、その人のこと、好きなんだね」

 宮崎さんが、分析するみたいに腕を組む。僕が小さく頷くと、2人は散々からかってきた。
 嬉しいような、恥ずかしいような。なんだか、この2人が気が合う理由が、よく分かった気がする。



 今日は暑かったから、冷やし中華の気分だった。キュウリにトマト、ハム、薄焼き玉子は余熱で火を通す。
 よし!あとはお湯を沸かして、麺を茹でるだけ。昨日お隣さんに、帰ってくる時間を教えてもらったから、それに合わせてお湯を沸かそう。

 ふと、デスクの上の紙袋が目に留まる。じっと見ていると、胸がドキドキしてきた。
 喜んでくれるかな。食べたいって言ってたし。
 こんなふうに考えている時間も、僕にとっては幸せだ。

 「ガチャリ」と、鍵を開ける音がして、僕は壁を背に座った。
 今日も話したいことがたくさんある。オープンキャンパスや、チャリティイベントのこと。冷やし中華と、パウンドケーキの感想も聞きたい。

 いつもより長く、10分ほど待ってから「トン、トン」が聞こえた。

 「お疲れさまですっ」

 思ったより弾んだ声が出てしまい、口を手で押さえる。

 「お疲れ。元気だな」

 「えへへ、嬉しくて。今日のチャリティ、大成功だったんですよ」

 「良かったな」

 「はい!鈴木先輩も手伝ってくれたんです」

 「……そうか」

 ガサガサと紙袋を開く音がする。

 「……これ、ありがとな。お菓子も」

 「いえ。僕、お菓子作りは初心者なんですけど、頑張りました」

 「そうだったのか?……すごいな。きれいにできてる」

 ふっと、張り詰めていた糸が緩む。気づかなかったけど、こんなに肩に力が入っていたんだな。

 「良かった。3種類の詰め合わせなんですけど、おすすめはチョコです。僕、チョコが好きなので」

 「なるほどな……」

 「はい!」

 定番だけど、これはどうしても外せなかった。焦げやすいから、火加減が難しかったけど。

 「美味かった」

 「え?!もう食べたんですか?」

 思わず大きい声が出る。

 「いや、えっと」

 一瞬、息をのむような気配がした。

 「……絶対美味いだろうなって」

 少し上擦った声。初めて、僕の料理をお裾分けしたときのことを思い出す。
 「口に合うか分からない」と弱気な僕に、「合うに決まってる!」って、言ってくれたっけ。まだ食べる前だったのに。
 あのときは嬉しかったなぁ。

 「ふふ、何ですか、それ」

 僕が笑うと、お隣さんも遠慮がちに笑った。なんだか恥ずかしそう。

 「とりあえず、こっちの冷やし中華、先に食べるよ」

 その声に、パッと口を開く。

 「あ、はい!……材料切って、麺を茹でただけなんですけどね」

 「それでも俺には作れない」 

 拗ねたような言い方に、また胸の奥が疼く。

 「……可愛い」

 無意識に漏れた言葉。壁の向こうが静まり返る。

 「あの!……はい……可愛いなって、思ってしまいました」

 あぁ、白状してしまった。

 「……可愛いのは、そっちだろ」

 「いえ、お隣さんです」

 「いや」

 「いや、じゃなくて……」

 なんだかおかしくなってきて、ひとしきり笑い合う。
 それが落ち着くと、壁にもたれて目を閉じた。笑い声を聞いているだけで、心が温かくなる。

 ふと、鈴木先輩のはにかんだ笑顔が頭をよぎった。
 ……なんで、今?お隣さんと話しているはずなのに。声が少し似ているから?話し方が似ているから?
 それとも――

 そこまで考えて、僕は慌てて首を振った。
 ないない。同じ大学だからって、そんな偶然あるわけない。それに、お隣さんはお隣さん、 鈴木先輩は鈴木先輩。
 そう自分に言い聞かせて、また話し始めた。



 聞き慣れたチャイムと、自動ドアの開く音に、小さく息を吐く。

 「ありがとうございましたー」

 背中に声をかけて、最後のお客さんを見送った。

 土曜日のお昼時、しかも夏休み。お客さんのいなくなったコンビニ内は、一気に空気が緩む。遥くんが肩に手を当てて、首を回した。

 「ふー、ピーク過ぎましたね」

 「だね。お疲れ」

 ほんの3ヶ月前は、あんなにパニック状態だったのに、今はもう慣れたもんだ。

 「そういえば、東さん。お隣さんとはどうなったんすか?」

 ペットボトルの水を一口飲んで、遥くんがこっちを向く。

 「どうって……何も変わってないよ」

 「じゃあ、まだ会ってないんすか?」

 やっぱり、聞かれると思った。レジ袋の在庫をチェックするふりをして、遥くんの視線から逃れる。

 「……いいんだよ。僕は充分幸せだから」

 「でも、会えたらもっと幸せでしょ?」

 そんなこと分かってる。もう、5分じゃ全然足りない。もっと話していたい。
 それに、声だけじゃ満足できないってことも。会いたい、できることなら触れたい。
 好きだと思えば思うほど、欲が出る。でも……。

 「まだ怖い?」

 遥くんが覗き込むように聞いてきた。僕は黙って、小さく首を傾げる。

 「分からない。……きっと、お隣さんはそんな人じゃない」

 僕を見ても、がっかりはしないと思う。お隣さんはたぶん、人を見た目で判断する人じゃない。たった3ヶ月だけど、そう思える。

 「じゃあ、なんでためらってんの?」

 カウンターを指でトントンとたたきながら、遥くんが言った。

 「……なんでだろうね」

 「ていうか、向こうから会いたいって言ってこないんすか?」

 「言われたこと、ないなぁ」

 「同じ大学なんでしょ?なんか、それ怪しくないっすか?」

 「え、何が?」

 顔を上げた僕に、遥くんがすぐ隣まで近づいてきて囁く。

 「何か、隠してるんだと思いますよ」

 その瞬間、鈴木先輩の顔が浮かんだ。
 心臓がどくんと鳴る。
 いやいや、ないってば。
 残像を打ち消すように、ぎゅっと目を瞑ると、ちょうどチャイムが鳴る。

 「いらっしゃ………あ!!」

 バッと振り返った視線の先には、自動ドアの前に佇む鈴木先輩がいた。

 「先輩……」

 さっきまで頭の中にあった顔が、今は目の前にいる。心臓がドキドキして……ん?なんか怖い顔してる?
 そう思ったのは束の間で、先輩はにこっと笑いながら、レジまで歩いてくる。

 「佐藤、バイトだったの?」

 「そ、そうです。先輩はお買い物ですか?」

 「うん、今日は久しぶりの休みだから、のんびり散歩してた」

 「いいですね」

 そのとき、遥くんが僕の横腹を肘でつついてきた。

 「東さんの大学の先輩っすか?」

 僕が口を開くより先に、先輩が「そうだよ。いつも仲良くさせてもらってるんだ」と、身を乗り出してくる。

 「ほぇー、山下が言ってたのって、先輩のことだったんすね」

 そういえば、先輩と山下くんは、大学見学のときに顔を合わせてるんだった。
 先輩はきょとんとしたかと思うと、「ああ」と呟く。

 「君が、バイト仲間?佐藤が言ってた」

 「そうっす。東さんとは仲良くさせてもらってるっす」

 遥くんが、さっそく先輩の言い方を真似してるのが面白くて、口を手で押さえた。先輩はそんな僕の手のあたりを、真顔で見つめている。

 え?なんだろう。

 「じゃあ、雨の日に送ってもらったのって、彼?」

 「あ、はい、そうです」

 「ふーん」

 聞いておいて、あんまり興味なさそう。つまらなそうに口をとがらせている。
 それにしても僕、先輩にまでその話してたんだな。

 「大学生って、夏休みは何してるんすか?」

 遥くんが聞くと、先輩はふっと表情を和らげた。

 「俺は3年だから、サマーインターンシップに行くんだ」

 「へー、大変そう。いつからっすか?」

 先輩は一瞬、僕を見て「明日から」と言った。

 「2週間、がっつりなんだよ。実家から行くから、しばらくアパートには帰れない」

 そっか。……昨日お隣さんも、そんなこと言ってたな。もしかして、先輩と同じ3年生なのかも。

 「それは……彼女さんが寂しがりますね」

 「彼女?」

 先輩は目を丸くして、僕を見下ろしている。

 「前言ってた『帰る理由』でしょ?」

 「……いや、彼女はいないよ」

 「そうなんですか?じゃあ、『帰る理由』って?」

 僕が聞くと、唇を固く結ぶ。カウンターの上に乗った先輩の手が、きゅっと拳を作った。
 もしかして、聞いちゃいけないこと聞いたのかな。そう思ったとき、先輩は少し目を伏せた。

 「……会いたい人が、いるから」

 小さく呟いたその声は、聞き返したくなるくらい静かだった。

 「え?」

 先輩はハッとしたように笑う。

 「いや、なんでもない」

 「遥くーん!」

 そのとき、事務所から店長が呼んだ。

 「はーい!……東さん、ちょっと行ってきます」

 遥くんは僕の肩をポンとたたいて、奥へと消えていく。

 「それにしても、佐藤ってモテるんだね」

 「えぇ?なんでですか。僕、モテたことないんですけど」

 思いがけない言葉に、声が裏返る。
 なんでそんなこと言うんだ?僕、告白とかされたことないんだけど。

 「大学見学にきてた……山下くん、だっけ?口説かれてたよね」

 「ああ」

 なぁんだ、と僕は肩をすくめた。

 「あんなの、からかってるだけですよ」

 「桐谷だって、しょっちゅうからかってる。佐藤のこと、可愛くてしょうがないんだろうね」

 「あいつは、誰にでもあんな感じです」

 「それに、さっきの子……」

 先輩は遥くんの消えた方向を見て、目を細める。

 「ちょっと距離、近いんじゃない?」

 「え、そんなことないと思いますけど」

 僕はムッと頬を膨らませた。先輩は僕の顔を、まじまじと見つめる。

 「……さっき、お店に入ってきたとき、キスしてるのかと思った」

 「はい?!」

 カウンターに両手をついて、思わず先輩を見上げる。

 「そんなわけないじゃないですか!……ていうか、百歩譲ってモテてるとしても、先輩はそれ以上にモテるでしょ?」

 今度は先輩が眉を顰めた。

 「そんなの、好きな子にモテなきゃ意味ないし」

 「それは僕も同じです!」

 ため息をつくと、2人して押し黙る。なんだかよく分からない空気に耐えられなくなったとき、タイミングがいいのか悪いのか、遥くんが戻ってきた。

 「お待たせっす。……え、何?ケンカでもしたんすか?」

 遥くんが僕の背中に腕を回したとき、先輩は何も言わず、さっさと店を出ていった。遥くんが戸惑ったように、僕の顔と先輩の背中を交互に見ている。

 僕はカウンターに肘をついて頭を抱えた。
 これは、ケンカなんかじゃない。一方的につっかかってきただけ。でも、最後に見た、先輩の苦しそうな顔が頭から離れない。
 大きくため息をつくと、どうしようもない虚しさに襲われた。



 その夜、お隣さんがノックに返事をすることはなかった。「今日は帰る」って、ちゃんと約束してくれたのに。壁に耳を澄ませても、物音一つしない。
 もしかしたら予定を早めたのかもしれない。そう思おうとしても、胸の奥がやけにざわつく。
 「大丈夫、大丈夫」と、自分に言い聞かせて、目を閉じた。

 たった2週間だ。
 あれ?そう言っていたのは鈴木先輩だっけ。お隣さんは「しばらく」と言っていたはず。
 混乱する頭の中で、お隣さんの低い声と、鈴木先輩の苦しそうな顔が一瞬だけ重なった―――