side 理来
言いたいのに、言えない―――
俺はみんなが思うような、完璧な人間なんかじゃない。
嫌われたくないから優しくする。
空気を読んで、望まれる言葉を返す。
ノリを合わせて冗談も言うし、褒められても妬まれないように聞き流す。
言いたいことを飲み込んで、やりたいことは諦めて……
そうしているうちに「いいやつ」なんて言われるようになった。
――いつからだろう。
誰にでも同じ顔で笑うことが苦しくなったのは。
ある日、鏡に写る自分の顔を見ながら、ふと気づいてしまった。
『こんなのは俺じゃない』
俺はただ、どこにでもいる、普通の人だと思われたかっただけなのに。
みんなは『鈴木理来』という人間じゃなく、『鈴木理来』の外側にあるものを見ている。
俺を『ただの俺』として見てくれる人は、もう誰もいなくなっていた。
――だから、あの日。
高いところから低いところへ水が落ちていくのと同じように、はらはらと涙を流すあいつを放っておけなかった。
まだ俺が俺だったころ、一人暮らしを始めたばかりのころを思い出した。
あのとき「がんばろうな」と言ったのは、嫌われたくないからじゃない。
本心から出た言葉だった。
壁の向こうから、またあいつの泣き声が聞こえたときも、気がつけば声をかけていた。
向こうは俺のことを知らない。
顔を合わせる必要もないし、深く関わることもない。
だから、『完璧な鈴木理来』を演じなくていい。
不思議と、息がしやすかった。
俺は『ただの俺』でいてもいいんだ。
あいつの楽しそうな声を聞くと、そう思えた。
だから、他愛ない話をするあの時間が、いつしか『帰る理由』になっていた。
最初はそれでいいと思っていた。
5分だけでも話ができれば、もう充分だった。
それなのに……
サークルで顔を合わせたときから、壁の向こうだけでは満足できなくなった。
大学でも会いたくて、先輩として近づいた。
それが、間違いだったんだろう。
あいつの中で『隣人の俺』と『先輩の俺』は、別の人間になっていた。
それでも会えると嬉しくて、あいつから目が離せなくて……
だから、欲が出た。
声を聞くだけじゃなく、俺を見てほしい。
隣人でも先輩でもない『ただの俺』を、その瞳に映してほしい、と。
本当は、何度も言おうとした。
『俺だよ』
その一言が、どうしても言えなかった。
明かしてしまえば、隣人の俺は消えてしまう。
あいつにとって、ただの先輩でしかなくなる。
それでも、同じように笑ってくれるのだろうか。
同じように心を開いてくれるのだろうか。
しかも、俺だけが知っている。
あいつの顔も、名前も、夢も。
泣き顔も、笑顔も……
でも、あいつは俺のことを何も知らない。
打ち明けたらどう思うだろう。
「なぜ隠していたの」
「ずっと騙していたの」
そう言われたら。
……きっと終わる。
だから、今日も言えなかった。
こんなに近くにいるのに、本当に伝えたいことだけが遠ざかっていく。
「トン、トン」
少しの間、重たい沈黙があって、「お疲れ」と声が聞こえた。
「あれ?ホントに疲れてる。……大丈夫ですか?」
そっと壁に手を添える。
「いや、疲れてはいない」
「そうですか?」
表情は分からないけど、疲れていないのなら、……落ち込んでる?
なぜか、鈴木先輩の顔が頭をよぎった。
どことなく寂しそうに笑った顔。
「僕で良ければ、話聞きますよ」
「……大丈夫だよ」
優しいその声が、今日は棘みたいに僕の胸に刺さる。
「でも」
「それより、君の話が聞きたい。今日はどうだった?」
「………」
話、そらされたのかな?
壁1枚の距離が、急に遠くなったように感じる。
額をくっつけても、お隣さんの顔が見えるわけじゃない。
こんなとき、何も言わなくても、隣で寄り添えたらいいのに。
……でも、いつかは話してくれるといいな。
ふーっと息を吐き出して、「実は最近、お菓子作りをしているんです」と、明るい声を出す。
チャリティイベントのことを話すと、お隣さんは「がんばってるんだな」と、言ってくれた。
「なかなかうまくいかなくて、失敗続きなんですよ」
「失敗?」
「はい。今日はラム酒を入れてみたんですけど、中が生焼けでした」
「そうだったのか?俺のは……」
「あ、すみません。知り合いにあげちゃいました」
慌てて言う。
「お隣さんがお酒大丈夫なのか、分からなかったから」
「違う」
「え?」
「……いや、なんでもない。酒、大丈夫だよ」
ためらうような言い方に、首を傾げる。
食べたいわけじゃなかったのかな?
「お隣さんには、試作品じゃなくて、ちゃんとした完成品をあげます。そしたら食べてくれますか?」
「……うん、食べたい」
良かった……
ホッと胸をなで下ろす。
そのとき、大きく息を吸う気配がした。
「……あのさ」
「はい?」
そのまま黙り込んでしまう。
身じろぎする音も聞こえない。
口を開きかけたとき、「……誰にあげたの?」と、やけにはっきりした声が聞こえた。
んん?
誰って、桐谷と鈴木先輩だけど。
「大学の人です」
「大学の人?」
「ほら、前にかっこいいって話してた先輩ですよ」
長い沈黙。
僕も黙って返事を待つ。
「……名前は?」
「あぁ、お隣さん、同じ大学だから知ってるかもしれないですね」
僕はクスッと笑って、「鈴木理来先輩です」と答えた。
ガシャン―――
壁の向こうで、何かが盛大に落ちた。
「え?大丈夫ですか?」
お隣さんって、よく物を落とす。
案外、おちょこちょいなのかもしれない。
今ごろ慌てて拾っているんだろうか。
想像したら可愛くて、ちょっとにまにましてしまう。
「………だったのか………気づかなかった」
呟くような声に、耳を澄ませる。
「すみません。なんて言いました?」
「いや。……その人なら、知ってる」
やっぱり、鈴木先輩は有名なんだろうな。
「人気者ですよね。優しいし」
「そう、だな」
「これは内緒ですけど、意外と子どもっぽいところもあるんですよ」
ふふ、とつい笑いがこぼれる。
「かっこいいけど、それだけの人じゃないと思います」
「……………」
「……でも僕は、お隣さんのほうが話しやすいです」
少しドキドキしながら言う。
返ってきたのは、「そうか」という、ため息みたいな声だけだった。
そんなこと言われても、嬉しくなかったかな。
ちくりと、胸が痛んだ。
太陽がサンサンと照りつける中、僕は大学のロゴ入りの法被を着て、声を張り上げていた。
「理学部はこちらでーす!理学部の見学の方は、こちらに集合お願いしまーす!!」
高校の制服を着ている人、私服の人、親御さんらしき人、僕のように法被を着ている人……
キャンパス内はいつも以上にごった返していて、まるでお祭りのようだ。
首にかけたタオルで額の汗を拭う。
あ、暑い……
風を通さない素材の法被だから、余計に汗がダラダラと出てくる。
ちょっとだけボーッとしてしていると「東さーーーん!」と声をかけられた。
この声は……
「遥くん!」
振り向くと、群衆の中で頭一つ分抜き出た遥くんの姿が見える。
人混みをかき分けるようにして、真っすぐこっちに向かってきた。
「来てくれたんだね!」
笑顔で答える。
と、その時、遥くんの後ろにもう一人の顔が見えて、つい眉を顰めた。
あのニヤついた顔……
バイト先のコンビニで、僕をおちょくってきた、遥くんの例の友達だ。
「東さん、すみません。こいつがどうしても行きたいって言って」
申し訳なさそうに頭を下げる遥くん。
対照的に、いかにも面白そうに僕を見下ろすそいつ。
顔がいいのは認めるけど、この表情は絶対やめたほうがいいぞ。
イラッとしつつ、愛想笑いを浮かべた。
「もちろん、歓迎だよ。暑い中よく来てくれたね」
ここは大人の余裕ってやつを見せておこう。
すると、そいつは一歩僕に近づいた。
「東くん、こんにちは。俺の名前、祐翔っす。ひろとでも、ひろくんでも好きに呼んでね」
あ、東くん、だぁ?
こめかみのあたりをピクピクさせつつ、そっと拳を握る。
笑顔、笑顔。
今日はボランティアじゃなくてバイトだから、しっかり働かないと。
「こんにちは。名字はなんていうの?」
「山下っす。いや、やっぱ俺的に、東くんにはひろくんって可愛く呼んでほしいっすね」
そう言って、にこにこと笑っている。
「山下くんだね。よろしく!」
僕も同じようににっこりしながら、強調するように言った。
山下くんはわざとらしくしょんぼりして、「ひろくんって呼んでよ〜」と俯いている。
遥くんは話に入らず、困ったように眉尻を下げて、ずーっと苦笑いしていた。
「はい!時間になったので始めまーす。まずは説明から」
ペアになった2年の先輩が、声を張り上げた。
僕と同じ、オレンジ色の法被を着ている。
僕も集まった人々と向かい合うように、前へ出た。
2人で交代で、今日の日程なんかを説明していく。
それから、学内に入るんだけど……
今日は本当に暑い。
今いるテラスはめちゃくちゃ日当たりが良くて、帽子をかぶったり、タオルを頭に乗せている人もいた。
ずっと気になっていたのは、遥くんたちのすぐ前にいる女性。
黒い日傘を差しているんだけど、それがちょうど、2人の顔に当たる高さにあった。
あれは、危ないよね。
それに、後ろの人たちの視界が遮られていて、うっとおしそうに横から顔を出す人もいる。
注意したほうがいいかな。
でも、説明の途中だし、こんな大勢の前で言うのは……
そう思ったとき、山下くんがその女性の肩をちょんちょんとつついた。
なんだ?文句でも言うのか?
思わず身構えると、山下くんは日傘を受け取って、女性の頭上に掲げる。
それは、僕が予想していた行動とは全然違っていた。
……ん?
もしかして、代わりに差してあげてる?
ちゃんと、その女性が日陰になるように微調整しているし。
女性が後ろを振り向いて、なにやら短い言葉を交わした。
山下くんは人懐こい笑顔を浮かべて、首を横に振る。
後ろにいる人たちも、一斉に不満気な顔を緩めた。
……あいつ。
あんなことするやつだったのか。
僕には何もできなかった。
さりげなく教えることも、はっきり注意することも。
悔しいけど、遥くんが「普段はいいやつ」と言った意味が分かった気がする。
あのニヤけた顔も、今は少し違って見えた。
「東くん、お疲れっす」
僕の仕事が終わり、食堂で一息ついていたとき、後ろから声をかけられた。
食堂にはいろんな色の法被を着ている人や、制服姿の高校生なんかがいる。
振り向くと、そこにいたのは山下くんだった。
「お疲れさま。……あれ?遥くんは?」
「あー、あっち」
山下くんが呆れたように指差したのは、食堂の窓からも見える中庭。
そこで、遥くんが大勢の女子に囲まれている。
わぁ、すごい……
めちゃくちゃモテてる。
遥くんはにこにこしているけど、たぶん困ってるだろうな。
でも、一見すると嬉しそうにも見えた。
あーぁ、もしここに彼女がいたら、あの光景を見てどう思うんだろう。
人は見かけによらない。
見た目だけで判断してはいけない。
それは、ついさっき、目の前の人物によって思い知らされたことだ。
「山下くんは囲まれなかったの?」
山下くんは僕の隣の席に座り、小さく笑った。
「あぁ、俺は恋愛対象が男なんで、それ言ったら解放してくれました」
こっちが動揺してしまうほど、あっけらかんと言う。
「へ、へぇ、強いね。怖くないの?」
山下くんは何か思い出すように「うーん」と唸った。
「強くないっすよ。昔は言えなかったし。でも、事実は事実なんで。今は『これが俺です』って言えるようになりました」
言い方は軽いけど、その言葉には説得力がある。
きっと、今まで数え切れないくらい悩んできたんだろうな。
多感なころの山下くんを思うと、言葉が詰まってしまい、ただじっと見つめる。
そんな僕に、山下くんはさっと頬を赤らめて、「あれ?東くん、もしかして落ちた?」と言った。
「……落ちた?って、何?」
意味が分からず、首を傾げる。
山下くんはニヤニヤを抑えられないようで、片手で口を隠した。
「そんなに見つめちゃって、俺の顔に見惚れてるんじゃん。好きになってもいいよ」
「は?いやいやいや!そうじゃないし」
思わず椅子を引いて距離をとると、山下くんはグイッと身を乗り出し、さらに近づいてくる。
せっかく少し見直したのに、やっぱりこの軽さだけは苦手だ。
どうしたらいいか分からず焦っていると、突然、頬に冷たいものが触れた。
「ひゃっ!な、何?」
触れたものを見ると……ペットボトル?
それをたどるように見上げると、蛍光ピンクの法被を着た鈴木先輩が、無表情で僕を見ていた。
「え?鈴木先輩、どうしたんですか?」
僕が驚いて声を上げると、先輩は「ん」とペットボトルを押しつけてきた。
「暑いから、ちゃんと水分とって」
「あ、ありがとうございます」
おずおずと両手で受け取る。
今買ったばかりだろう冷えたペットボトル。
本当に気遣いのできる人だな。
先輩は一瞬だけ、山下くんに視線を向けた。
「後輩?」
「え?い、いえ、そうじゃなくて、……僕のバイト仲間の友達です」
急に聞かれて、うろたえてしまう。
山下くんは片側の口角だけで笑い、少し顎を上げた。
お〜い、それじゃ睨んでるよ?
山下くんって、わざと人に嫌われるような態度とってるみたい。
「仲良いの?」
思いがけない言葉に先輩を見上げる。
「いえ。ほぼ初対面です!」
「そうなんだ」
僕の言葉に、先輩はあのはにかんだような笑顔を浮かべた。
その顔は男の僕ですら、ドキッとさせる。
なぜか目をそらせなくて、しばらくそのまま見つめ合ってしまった。
見かねたように、山下くんがまた身を乗り出す。
「これから仲良くなる予定なんすよ」
「は?」
僕が出した声と、先輩の出した声が重なった。
「俺、東くんのこと可愛いな〜って思ってるんで」
「ままま、待って!先輩の前で何言ってんの?!」
山下くんが僕の斜め上を見て、煽るように笑う。
僕もゆっくり見上げた。
だけど、先輩の目には、何の感情も浮かんでいない。
ただ、じっと山下くんを見据えている。
……でも。
なんとなく空気が張り詰めているような気がした。
「ね、山下くん。先輩にそういう態度はだめだよ」
なだめるように言うと、山下くんはふっと僕に笑いかけた。
「東くんが俺のこと、ひろくんって呼んでくれるなら直しますよ」
「ななな、何言ってるの?!それとこれとは関係ないでしょ!」
思わず、山下くんの口を手で押さえる。
山下くんは「あははっ!」と笑いながら、僕の手を掴んであっさり引きはがした。
「東くんって、やっぱりすげー可愛い」
「もう、冗談ばっかり言わないでよ」
そのまま手を握られそうになったから、思いきり引く。
―――と、先輩が僕の手首をつかんだ。
言いたいのに、言えない―――
俺はみんなが思うような、完璧な人間なんかじゃない。
嫌われたくないから優しくする。
空気を読んで、望まれる言葉を返す。
ノリを合わせて冗談も言うし、褒められても妬まれないように聞き流す。
言いたいことを飲み込んで、やりたいことは諦めて……
そうしているうちに「いいやつ」なんて言われるようになった。
――いつからだろう。
誰にでも同じ顔で笑うことが苦しくなったのは。
ある日、鏡に写る自分の顔を見ながら、ふと気づいてしまった。
『こんなのは俺じゃない』
俺はただ、どこにでもいる、普通の人だと思われたかっただけなのに。
みんなは『鈴木理来』という人間じゃなく、『鈴木理来』の外側にあるものを見ている。
俺を『ただの俺』として見てくれる人は、もう誰もいなくなっていた。
――だから、あの日。
高いところから低いところへ水が落ちていくのと同じように、はらはらと涙を流すあいつを放っておけなかった。
まだ俺が俺だったころ、一人暮らしを始めたばかりのころを思い出した。
あのとき「がんばろうな」と言ったのは、嫌われたくないからじゃない。
本心から出た言葉だった。
壁の向こうから、またあいつの泣き声が聞こえたときも、気がつけば声をかけていた。
向こうは俺のことを知らない。
顔を合わせる必要もないし、深く関わることもない。
だから、『完璧な鈴木理来』を演じなくていい。
不思議と、息がしやすかった。
俺は『ただの俺』でいてもいいんだ。
あいつの楽しそうな声を聞くと、そう思えた。
だから、他愛ない話をするあの時間が、いつしか『帰る理由』になっていた。
最初はそれでいいと思っていた。
5分だけでも話ができれば、もう充分だった。
それなのに……
サークルで顔を合わせたときから、壁の向こうだけでは満足できなくなった。
大学でも会いたくて、先輩として近づいた。
それが、間違いだったんだろう。
あいつの中で『隣人の俺』と『先輩の俺』は、別の人間になっていた。
それでも会えると嬉しくて、あいつから目が離せなくて……
だから、欲が出た。
声を聞くだけじゃなく、俺を見てほしい。
隣人でも先輩でもない『ただの俺』を、その瞳に映してほしい、と。
本当は、何度も言おうとした。
『俺だよ』
その一言が、どうしても言えなかった。
明かしてしまえば、隣人の俺は消えてしまう。
あいつにとって、ただの先輩でしかなくなる。
それでも、同じように笑ってくれるのだろうか。
同じように心を開いてくれるのだろうか。
しかも、俺だけが知っている。
あいつの顔も、名前も、夢も。
泣き顔も、笑顔も……
でも、あいつは俺のことを何も知らない。
打ち明けたらどう思うだろう。
「なぜ隠していたの」
「ずっと騙していたの」
そう言われたら。
……きっと終わる。
だから、今日も言えなかった。
こんなに近くにいるのに、本当に伝えたいことだけが遠ざかっていく。
「トン、トン」
少しの間、重たい沈黙があって、「お疲れ」と声が聞こえた。
「あれ?ホントに疲れてる。……大丈夫ですか?」
そっと壁に手を添える。
「いや、疲れてはいない」
「そうですか?」
表情は分からないけど、疲れていないのなら、……落ち込んでる?
なぜか、鈴木先輩の顔が頭をよぎった。
どことなく寂しそうに笑った顔。
「僕で良ければ、話聞きますよ」
「……大丈夫だよ」
優しいその声が、今日は棘みたいに僕の胸に刺さる。
「でも」
「それより、君の話が聞きたい。今日はどうだった?」
「………」
話、そらされたのかな?
壁1枚の距離が、急に遠くなったように感じる。
額をくっつけても、お隣さんの顔が見えるわけじゃない。
こんなとき、何も言わなくても、隣で寄り添えたらいいのに。
……でも、いつかは話してくれるといいな。
ふーっと息を吐き出して、「実は最近、お菓子作りをしているんです」と、明るい声を出す。
チャリティイベントのことを話すと、お隣さんは「がんばってるんだな」と、言ってくれた。
「なかなかうまくいかなくて、失敗続きなんですよ」
「失敗?」
「はい。今日はラム酒を入れてみたんですけど、中が生焼けでした」
「そうだったのか?俺のは……」
「あ、すみません。知り合いにあげちゃいました」
慌てて言う。
「お隣さんがお酒大丈夫なのか、分からなかったから」
「違う」
「え?」
「……いや、なんでもない。酒、大丈夫だよ」
ためらうような言い方に、首を傾げる。
食べたいわけじゃなかったのかな?
「お隣さんには、試作品じゃなくて、ちゃんとした完成品をあげます。そしたら食べてくれますか?」
「……うん、食べたい」
良かった……
ホッと胸をなで下ろす。
そのとき、大きく息を吸う気配がした。
「……あのさ」
「はい?」
そのまま黙り込んでしまう。
身じろぎする音も聞こえない。
口を開きかけたとき、「……誰にあげたの?」と、やけにはっきりした声が聞こえた。
んん?
誰って、桐谷と鈴木先輩だけど。
「大学の人です」
「大学の人?」
「ほら、前にかっこいいって話してた先輩ですよ」
長い沈黙。
僕も黙って返事を待つ。
「……名前は?」
「あぁ、お隣さん、同じ大学だから知ってるかもしれないですね」
僕はクスッと笑って、「鈴木理来先輩です」と答えた。
ガシャン―――
壁の向こうで、何かが盛大に落ちた。
「え?大丈夫ですか?」
お隣さんって、よく物を落とす。
案外、おちょこちょいなのかもしれない。
今ごろ慌てて拾っているんだろうか。
想像したら可愛くて、ちょっとにまにましてしまう。
「………だったのか………気づかなかった」
呟くような声に、耳を澄ませる。
「すみません。なんて言いました?」
「いや。……その人なら、知ってる」
やっぱり、鈴木先輩は有名なんだろうな。
「人気者ですよね。優しいし」
「そう、だな」
「これは内緒ですけど、意外と子どもっぽいところもあるんですよ」
ふふ、とつい笑いがこぼれる。
「かっこいいけど、それだけの人じゃないと思います」
「……………」
「……でも僕は、お隣さんのほうが話しやすいです」
少しドキドキしながら言う。
返ってきたのは、「そうか」という、ため息みたいな声だけだった。
そんなこと言われても、嬉しくなかったかな。
ちくりと、胸が痛んだ。
太陽がサンサンと照りつける中、僕は大学のロゴ入りの法被を着て、声を張り上げていた。
「理学部はこちらでーす!理学部の見学の方は、こちらに集合お願いしまーす!!」
高校の制服を着ている人、私服の人、親御さんらしき人、僕のように法被を着ている人……
キャンパス内はいつも以上にごった返していて、まるでお祭りのようだ。
首にかけたタオルで額の汗を拭う。
あ、暑い……
風を通さない素材の法被だから、余計に汗がダラダラと出てくる。
ちょっとだけボーッとしてしていると「東さーーーん!」と声をかけられた。
この声は……
「遥くん!」
振り向くと、群衆の中で頭一つ分抜き出た遥くんの姿が見える。
人混みをかき分けるようにして、真っすぐこっちに向かってきた。
「来てくれたんだね!」
笑顔で答える。
と、その時、遥くんの後ろにもう一人の顔が見えて、つい眉を顰めた。
あのニヤついた顔……
バイト先のコンビニで、僕をおちょくってきた、遥くんの例の友達だ。
「東さん、すみません。こいつがどうしても行きたいって言って」
申し訳なさそうに頭を下げる遥くん。
対照的に、いかにも面白そうに僕を見下ろすそいつ。
顔がいいのは認めるけど、この表情は絶対やめたほうがいいぞ。
イラッとしつつ、愛想笑いを浮かべた。
「もちろん、歓迎だよ。暑い中よく来てくれたね」
ここは大人の余裕ってやつを見せておこう。
すると、そいつは一歩僕に近づいた。
「東くん、こんにちは。俺の名前、祐翔っす。ひろとでも、ひろくんでも好きに呼んでね」
あ、東くん、だぁ?
こめかみのあたりをピクピクさせつつ、そっと拳を握る。
笑顔、笑顔。
今日はボランティアじゃなくてバイトだから、しっかり働かないと。
「こんにちは。名字はなんていうの?」
「山下っす。いや、やっぱ俺的に、東くんにはひろくんって可愛く呼んでほしいっすね」
そう言って、にこにこと笑っている。
「山下くんだね。よろしく!」
僕も同じようににっこりしながら、強調するように言った。
山下くんはわざとらしくしょんぼりして、「ひろくんって呼んでよ〜」と俯いている。
遥くんは話に入らず、困ったように眉尻を下げて、ずーっと苦笑いしていた。
「はい!時間になったので始めまーす。まずは説明から」
ペアになった2年の先輩が、声を張り上げた。
僕と同じ、オレンジ色の法被を着ている。
僕も集まった人々と向かい合うように、前へ出た。
2人で交代で、今日の日程なんかを説明していく。
それから、学内に入るんだけど……
今日は本当に暑い。
今いるテラスはめちゃくちゃ日当たりが良くて、帽子をかぶったり、タオルを頭に乗せている人もいた。
ずっと気になっていたのは、遥くんたちのすぐ前にいる女性。
黒い日傘を差しているんだけど、それがちょうど、2人の顔に当たる高さにあった。
あれは、危ないよね。
それに、後ろの人たちの視界が遮られていて、うっとおしそうに横から顔を出す人もいる。
注意したほうがいいかな。
でも、説明の途中だし、こんな大勢の前で言うのは……
そう思ったとき、山下くんがその女性の肩をちょんちょんとつついた。
なんだ?文句でも言うのか?
思わず身構えると、山下くんは日傘を受け取って、女性の頭上に掲げる。
それは、僕が予想していた行動とは全然違っていた。
……ん?
もしかして、代わりに差してあげてる?
ちゃんと、その女性が日陰になるように微調整しているし。
女性が後ろを振り向いて、なにやら短い言葉を交わした。
山下くんは人懐こい笑顔を浮かべて、首を横に振る。
後ろにいる人たちも、一斉に不満気な顔を緩めた。
……あいつ。
あんなことするやつだったのか。
僕には何もできなかった。
さりげなく教えることも、はっきり注意することも。
悔しいけど、遥くんが「普段はいいやつ」と言った意味が分かった気がする。
あのニヤけた顔も、今は少し違って見えた。
「東くん、お疲れっす」
僕の仕事が終わり、食堂で一息ついていたとき、後ろから声をかけられた。
食堂にはいろんな色の法被を着ている人や、制服姿の高校生なんかがいる。
振り向くと、そこにいたのは山下くんだった。
「お疲れさま。……あれ?遥くんは?」
「あー、あっち」
山下くんが呆れたように指差したのは、食堂の窓からも見える中庭。
そこで、遥くんが大勢の女子に囲まれている。
わぁ、すごい……
めちゃくちゃモテてる。
遥くんはにこにこしているけど、たぶん困ってるだろうな。
でも、一見すると嬉しそうにも見えた。
あーぁ、もしここに彼女がいたら、あの光景を見てどう思うんだろう。
人は見かけによらない。
見た目だけで判断してはいけない。
それは、ついさっき、目の前の人物によって思い知らされたことだ。
「山下くんは囲まれなかったの?」
山下くんは僕の隣の席に座り、小さく笑った。
「あぁ、俺は恋愛対象が男なんで、それ言ったら解放してくれました」
こっちが動揺してしまうほど、あっけらかんと言う。
「へ、へぇ、強いね。怖くないの?」
山下くんは何か思い出すように「うーん」と唸った。
「強くないっすよ。昔は言えなかったし。でも、事実は事実なんで。今は『これが俺です』って言えるようになりました」
言い方は軽いけど、その言葉には説得力がある。
きっと、今まで数え切れないくらい悩んできたんだろうな。
多感なころの山下くんを思うと、言葉が詰まってしまい、ただじっと見つめる。
そんな僕に、山下くんはさっと頬を赤らめて、「あれ?東くん、もしかして落ちた?」と言った。
「……落ちた?って、何?」
意味が分からず、首を傾げる。
山下くんはニヤニヤを抑えられないようで、片手で口を隠した。
「そんなに見つめちゃって、俺の顔に見惚れてるんじゃん。好きになってもいいよ」
「は?いやいやいや!そうじゃないし」
思わず椅子を引いて距離をとると、山下くんはグイッと身を乗り出し、さらに近づいてくる。
せっかく少し見直したのに、やっぱりこの軽さだけは苦手だ。
どうしたらいいか分からず焦っていると、突然、頬に冷たいものが触れた。
「ひゃっ!な、何?」
触れたものを見ると……ペットボトル?
それをたどるように見上げると、蛍光ピンクの法被を着た鈴木先輩が、無表情で僕を見ていた。
「え?鈴木先輩、どうしたんですか?」
僕が驚いて声を上げると、先輩は「ん」とペットボトルを押しつけてきた。
「暑いから、ちゃんと水分とって」
「あ、ありがとうございます」
おずおずと両手で受け取る。
今買ったばかりだろう冷えたペットボトル。
本当に気遣いのできる人だな。
先輩は一瞬だけ、山下くんに視線を向けた。
「後輩?」
「え?い、いえ、そうじゃなくて、……僕のバイト仲間の友達です」
急に聞かれて、うろたえてしまう。
山下くんは片側の口角だけで笑い、少し顎を上げた。
お〜い、それじゃ睨んでるよ?
山下くんって、わざと人に嫌われるような態度とってるみたい。
「仲良いの?」
思いがけない言葉に先輩を見上げる。
「いえ。ほぼ初対面です!」
「そうなんだ」
僕の言葉に、先輩はあのはにかんだような笑顔を浮かべた。
その顔は男の僕ですら、ドキッとさせる。
なぜか目をそらせなくて、しばらくそのまま見つめ合ってしまった。
見かねたように、山下くんがまた身を乗り出す。
「これから仲良くなる予定なんすよ」
「は?」
僕が出した声と、先輩の出した声が重なった。
「俺、東くんのこと可愛いな〜って思ってるんで」
「ままま、待って!先輩の前で何言ってんの?!」
山下くんが僕の斜め上を見て、煽るように笑う。
僕もゆっくり見上げた。
だけど、先輩の目には、何の感情も浮かんでいない。
ただ、じっと山下くんを見据えている。
……でも。
なんとなく空気が張り詰めているような気がした。
「ね、山下くん。先輩にそういう態度はだめだよ」
なだめるように言うと、山下くんはふっと僕に笑いかけた。
「東くんが俺のこと、ひろくんって呼んでくれるなら直しますよ」
「ななな、何言ってるの?!それとこれとは関係ないでしょ!」
思わず、山下くんの口を手で押さえる。
山下くんは「あははっ!」と笑いながら、僕の手を掴んであっさり引きはがした。
「東くんって、やっぱりすげー可愛い」
「もう、冗談ばっかり言わないでよ」
そのまま手を握られそうになったから、思いきり引く。
―――と、先輩が僕の手首をつかんだ。



![[超短編]推し語りしてたら幼馴染に迫られた。](https://novema.jp/img/member/1396597/krbj6xtdrp-thumb.jpg)