トントン、おとなりです。

 side 理来



 言いたいのに、言えない―――

 俺はみんなが思うような、完璧な人間なんかじゃない。
 嫌われたくないから優しくする。空気を読んで、望まれる言葉を返す。ノリを合わせて冗談も言うし、褒められても妬まれないように聞き流す。
 言いたいことを飲み込んで、やりたいことは諦めて……。そうしているうちに「いいやつ」なんて言われるようになった。

 ――いつからだろう。誰にでも同じ顔で笑うことが苦しくなったのは。

 ある日、鏡に写る自分の顔を見ながら、ふと気づいてしまった。
 『こんなのは俺じゃない』
 俺はただ、どこにでもいる、普通の人だと思われたかっただけなのに。

 みんなは『鈴木理来』という人間じゃなく、『鈴木理来』の外側にあるものを見ている。俺を『ただの俺』として見てくれる人は、もう誰もいなくなっていた。



 ――だから、あの日。

 高いところから低いところへ水が落ちていくのと同じように、はらはらと涙を流すあいつを放っておけなかった。

 まだ俺が俺だったころ、一人暮らしを始めたばかりのころを思い出した。
 あのとき「がんばろうな」と言ったのは、嫌われたくないからじゃない。本心から出た言葉だった。

 壁の向こうから、またあいつの泣き声が聞こえたときも、気がつけば声をかけていた。
 向こうは俺のことを知らない。顔を合わせる必要もないし、深く関わることもない。

 だから、『完璧な鈴木理来』を演じなくていい。
 不思議と、息がしやすかった。
 俺は『ただの俺』でいてもいいんだ。あいつの楽しそうな声を聞くと、そう思えた。
 だから、他愛ない話をするあの時間が、いつしか『帰る理由』になっていた。



 最初はそれでいいと思っていた。5分だけでも話ができれば、もう充分だった。
 それなのに……。
 サークルで顔を合わせたときから、壁の向こうだけでは満足できなくなった。大学でも会いたくて、先輩として近づいた。

 それが、間違いだったんだろう。あいつの中で『隣人の俺』と『先輩の俺』は、別の人間になっていた。
 それでも会えると嬉しくて、あいつから目が離せなくて……。

 だから、欲が出た。
 声を聞くだけじゃなく、俺を見てほしい。隣人でも先輩でもない『ただの俺』を、その瞳に映してほしい、と。

 本当は、何度も言おうとした。
 『俺だよ』
 その一言が、どうしても言えなかった。
 明かしてしまえば、隣人の俺は消えてしまう。あいつにとって、ただの先輩でしかなくなる。
 それでも、同じように笑ってくれるのだろうか。同じように心を開いてくれるのだろうか。

 しかも、俺だけが知っている。あいつの顔も、名前も、夢も。
 泣き顔も、笑顔も……。でも、あいつは俺のことを何も知らない。

 打ち明けたらどう思うだろう。

 「なぜ隠していたの」
 「ずっと騙していたの」

 そう言われたら。……きっと終わる。
 だから、今日も言えなかった。こんなに近くにいるのに、本当に伝えたいことだけが遠ざかっていく。



 ✳✳✳

 「トン、トン」

 少しの間、重たい沈黙があって、「お疲れ」と声が聞こえた。

 「あれ?ホントに疲れてる。……大丈夫ですか?」

 そっと壁に手を添える。

 「いや、疲れてはいない」

 「そうですか?」

 表情は分からないけど、疲れていないのなら、……落ち込んでる?
 なぜか、鈴木先輩の顔が頭をよぎった。どことなく寂しそうに笑った顔。

 「僕で良ければ、話聞きますよ」

 「……大丈夫だよ」

 優しいその声が、今日は棘みたいに僕の胸に刺さる。

 「でも」

 「それより、君の話が聞きたい。今日はどうだった?」

 「………」

 話、そらされたのかな?
 壁1枚の距離が、急に遠くなったように感じる。額をくっつけても、お隣さんの顔が見えるわけじゃない。こんなとき、何も言わなくても、隣で寄り添えたらいいのに。
 ……でも、いつかは話してくれるといいな。

 ふーっと息を吐き出して、「実は最近、お菓子作りをしているんです」と、明るい声を出す。チャリティイベントのことを話すと、お隣さんは「がんばってるんだな」と、言ってくれた。

 「なかなかうまくいかなくて、失敗続きなんですよ」

 「失敗?」

 「はい。今日はラム酒を入れてみたんですけど、中が生焼けでした」

 「そうだったのか?俺のは……」

 「あ、すみません。知り合いにあげちゃいました」

 慌てて言う。

 「お隣さんがお酒大丈夫なのか、分からなかったから」

 「違う」

 「え?」

 「……いや、なんでもない。酒、大丈夫だよ」

 ためらうような言い方に、首を傾げる。
 食べたいわけじゃなかったのかな?

 「お隣さんには、試作品じゃなくて、ちゃんとした完成品をあげます。そしたら食べてくれますか?」

 「……うん、食べたい」

 良かった……。
 ホッと胸をなで下ろす。そのとき、大きく息を吸う気配がした。

 「……あのさ」

 「はい?」

 そのまま黙り込んでしまう。身じろぎする音も聞こえない。
 口を開きかけたとき、「……誰にあげたの?」と、やけにはっきりした声が聞こえた。

 んん?誰って、桐谷と鈴木先輩だけど。

 「大学の人です」

 「大学の人?」

 「ほら、前にかっこいいって話してた先輩ですよ」

 長い沈黙。
 僕も黙って返事を待つ。

 「……名前は?」

 「あぁ、お隣さん、同じ大学だから知ってるかもしれないですね」

 僕はクスッと笑って、「鈴木理来先輩です」と答えた。

 ガシャン―――

 壁の向こうで、何かが盛大に落ちた。

 「え?大丈夫ですか?」

 お隣さんって、よく物を落とす。案外、おちょこちょいなのかもしれない。今ごろ慌てて拾っているんだろうか。想像したら可愛くて、ちょっとにまにましてしまう。

 「………だったのか………気づかなかった」

 呟くような声に、耳を澄ませる。

 「すみません。なんて言いました?」

 「いや。……その人なら、知ってる」

 やっぱり、鈴木先輩は有名なんだろうな。

 「人気者ですよね。優しいし」

 「そう、だな」

 「これは内緒ですけど、意外と子どもっぽいところもあるんですよ」

 ふふ、とつい笑いがこぼれる。

 「かっこいいけど、それだけの人じゃないと思います」 

 「……………」

 「……でも僕は、お隣さんのほうが話しやすいです」

 少しドキドキしながら言う。返ってきたのは、「そうか」という、ため息みたいな声だけだった。
 
 そんなこと言われても、嬉しくないよね。
 ちくりと、胸が痛んだ。



 太陽がサンサンと照りつける中、僕は大学のロゴ入りの法被を着て、声を張り上げていた。

 「理学部はこちらでーす!理学部の見学の方は、こちらに集合お願いしまーす!!」

 高校の制服を着ている人、私服の人、親御さんらしき人、僕のように法被を着ている人……。キャンパス内はいつも以上にごった返していて、まるでお祭りのようだ。

 首にかけたタオルで額の汗を拭う。
 あ、暑い……。風を通さない素材の法被だから、余計に汗がダラダラと出てくる。

 ちょっとだけボーッとしてしていると「東さーーーん!」と声をかけられた。この声は……。

 「遥くん!」

 振り向くと、群衆の中で頭一つ分抜き出た遥くんの姿が見える。人混みをかき分けるようにして、真っすぐこっちに向かってきた。

 「来てくれたんだね!」

 笑顔で答える。と、その時、遥くんの後ろにもう一人の顔が見えて、つい眉を顰めた。
 あのニヤついた顔……。バイト先のコンビニで、僕をおちょくってきた、遥くんの例の友達だ。

 「東さん、すみません。こいつがどうしても行きたいって言って」

 申し訳なさそうに頭を下げる遥くん。対照的に、いかにも面白そうに僕を見下ろすそいつ。顔がいいのは認めるけど、この表情は絶対やめたほうがいいぞ。
 イラッとしつつ、愛想笑いを浮かべた。

 「もちろん、歓迎だよ。暑い中よく来てくれたね」

 ここは大人の余裕ってやつを見せておこう。
 すると、そいつは一歩僕に近づいた。

 「東くん、こんにちは。俺の名前、祐翔(ひろと)っす。ひろとでも、ひろくんでも好きに呼んでね」

 あ、東くん、だぁ?

 こめかみのあたりをピクピクさせつつ、そっと拳を握る。
 笑顔、笑顔。今日はボランティアじゃなくてバイトだから、しっかり働かないと。

 「こんにちは。名字はなんていうの?」

 「山下っす。いや、やっぱ俺的に、東くんにはひろくんって可愛く呼んでほしいっすね」

 そう言って、にこにこと笑っている。

 「山下(・・)くんだね。よろしく!」

 僕も同じようににっこりしながら、強調するように言った。山下くんはわざとらしくしょんぼりして、「ひろくんって呼んでよ〜」と俯いている。
 遥くんは話に入らず、困ったように眉尻を下げて、ずーっと苦笑いしていた。

 「はい!時間になったので始めまーす。まずは説明から」

 ペアになった2年の先輩が、声を張り上げた。僕と同じ、オレンジ色の法被を着ている。僕も集まった人々と向かい合うように、前へ出た。2人で交代で、今日の日程なんかを説明していく。

 それから、学内に入るんだけど……。今日は本当に暑い。今いるテラスはめちゃくちゃ日当たりが良くて、帽子をかぶったり、タオルを頭に乗せている人もいた。

 ずっと気になっていたのは、遥くんたちのすぐ前にいる女性。黒い日傘を差しているんだけど、それがちょうど、2人の顔に当たる高さにあった。

 あれは、危ないよね。
 それに、後ろの人たちの視界が遮られていて、うっとおしそうに横から顔を出す人もいる。
 注意したほうがいいかな。でも、説明の途中だし、こんな大勢の前で言うのは……。

 そう思ったとき、山下くんがその女性の肩をちょんちょんとつついた。
 なんだ?文句でも言うのか?
 思わず身構えると、山下くんは日傘を受け取って、女性の頭上に掲げる。それは、僕が予想していた行動とは全然違っていた。

 ……ん?もしかして、代わりに差してあげてる?
 ちゃんと、その女性が日陰になるように微調整している。女性が後ろを振り向いて、なにやら短い言葉を交わした。山下くんは人懐こい笑顔を浮かべて、首を横に振る。
 後ろにいる人たちも、一斉に不満気な顔を緩めた。

 ……あいつ。あんなことするやつだったのか。
 僕には何もできなかった。さりげなく教えることも、はっきり注意することも。
 悔しいけど、遥くんが「普段はいいやつ」と言った意味が分かった気がする。あのニヤけた顔も、今は少し違って見えた。



 「東くん、お疲れっす」

 僕の仕事が終わり、食堂で一息ついていたとき、後ろから声をかけられた。食堂にはいろんな色の法被を着ている人や、制服姿の高校生なんかがいる。
 振り向くと、そこにいたのは山下くんだった。

 「お疲れさま。……あれ?遥くんは?」

 「あー、あっち」

 山下くんが呆れたように指差したのは、食堂の窓からも見える中庭。そこで、遥くんが大勢の女子に囲まれている。

 わぁ、すごい……。めちゃくちゃモテてる。
 遥くんはにこにこしているけど、たぶん困ってるだろうな。でも、一見すると嬉しそうにも見えた。
 あーあ、もしここに彼女がいたら、あの光景を見てどう思うんだろう。

 人は見かけによらない。見た目だけで判断してはいけない。それは、ついさっき、目の前の人物によって思い知らされたことだ。

 「山下くんは囲まれなかったの?」

 山下くんは僕の隣の席に座り、小さく笑った。

 「あぁ、俺は恋愛対象が男なんで、それ言ったら解放してくれました」

 こっちが動揺してしまうほど、あっけらかんと言う。

 「へ、へぇ、強いね。怖くないの?」

 山下くんは何か思い出すように「うーん」と唸った。

 「強くないっすよ。昔は言えなかったし。でも、事実は事実なんで。今は『これが俺です』って言えるようになりました」

 言い方は軽いけど、その言葉には説得力がある。きっと、今まで数え切れないくらい悩んできたんだろうな。多感なころの山下くんを思うと、言葉が詰まってしまい、ただじっと見つめる。

 そんな僕に、山下くんはさっと頬を赤らめて、「あれ?東くん、もしかして落ちた?」と言った。

 「……落ちた?って、何?」

 意味が分からず、首を傾げる。山下くんはニヤニヤを抑えられないようで、片手で口を隠した。

 「そんなに見つめちゃって、俺の顔に見惚れてるんじゃん。好きになってもいいよ」

 「は?いやいやいや!そうじゃないし」

 思わず椅子を引いて距離をとると、山下くんはグイッと身を乗り出し、さらに近づいてくる。
 せっかく少し見直したのに、やっぱりこの軽さだけは苦手だ。
 どうしたらいいか分からず焦っていると、突然、頬に冷たいものが触れた。

 「ひゃっ!な、何?」

 触れたものを見ると……ペットボトル?それをたどるように見上げると、蛍光ピンクの法被を着た鈴木先輩が、無表情で僕を見ていた。

 「え?鈴木先輩、どうしたんですか?」

 僕が驚いて声を上げると、先輩は「ん」とペットボトルを押しつけてきた。

 「暑いから、ちゃんと水分とって」

 「あ、ありがとうございます」

 おずおずと両手で受け取る。
 今買ったばかりだろう冷えたペットボトル。本当に気遣いのできる人だな。

 先輩は一瞬だけ、山下くんに視線を向けた。

 「後輩?」

 「え?い、いえ、そうじゃなくて、……僕のバイト仲間の友達です」

 急に聞かれて、うろたえてしまう。山下くんは片側の口角だけで笑い、少し顎を上げた。

 お〜い、それじゃ睨んでるよ?山下くんって、わざと人に嫌われるような態度とってるみたい。

 「仲良いの?」

 思いがけない言葉に先輩を見上げる。

 「いえ。ほぼ初対面です!」

 「そうなんだ」

 僕の言葉に、先輩はあのはにかんだような笑顔を浮かべた。その顔は男の僕ですら、ドキッとさせる。なぜか目をそらせなくて、しばらくそのまま見つめ合ってしまった。

 見かねたように、山下くんがまた身を乗り出す。

 「これから仲良くなる予定なんすよ」

 「は?」

 僕が出した声と、先輩の出した声が重なった。

 「俺、東くんのこと可愛いな〜って思ってるんで」

 「ままま、待って!先輩の前で何言ってんの?!」

 山下くんが僕の斜め上を見て、煽るように笑う。僕もゆっくり見上げた。
 だけど、先輩の目には、何の感情も浮かんでいない。ただ、じっと山下くんを見据えている。

 ……でも。
 なんとなく空気が張り詰めているような気がした。

 「ね、山下くん。先輩にそういう態度はだめだよ」

 なだめるように言うと、山下くんはふっと僕に笑いかけた。

 「東くんが俺のこと、ひろくんって呼んでくれるなら直しますよ」

 「ななな、何言ってるの?!それとこれとは関係ないでしょ!」

 思わず、山下くんの口を手で押さえる。山下くんは「あははっ!」と笑いながら、僕の手を掴んであっさり引きはがした。

 「東くんって、やっぱりすげー可愛い」

 「もう、冗談ばっかり言わないでよ」

 そのまま手を握られそうになったから、思いきり引く。
 ―――と、先輩が僕の手首をつかんだ。