風が通り抜けるテラスは、休憩するのにぴったりだ。さわさわという葉擦れの音が、耳に心地良い。
あー平和だなぁ。
なんて思いながらも、初めての気持ちに昨日からずっとドキドキしてる。
僕もとうとう恋をしてしまった。
遥くんが彼女の話をしていたときの、穏やかな顔を思い出す。
僕って今、どんな顔してるんだろう。にこにこ?にやにや?とにかく、頬が緩みっぱなしだ。こんなんじゃ、ここにいる人みんなに、恋してるってバレちゃうんじゃないかな。
ふわふわした気持ちのまま、テーブルの上で包みを広げる。ふたを開けて、またにんまりした。
昨日の夜、お隣さんに作ったお弁当の残りを詰めてきただけ。それなのに、あのホッとする声を思い出してしまう。
「それ、食わねーの?」
完全に油断しているところに話しかけられて、違う意味で心臓が跳ねる。
……あれ?この声……
まさかと思いながら振り向くと、少し口角を上げた鈴木先輩が立っていた。
「なぁんだ」
思わず言葉が口をついて出てしまい、バッと両手で押さえる。
「……じゃなくて」
先輩は、「ん?」と首を傾げた。
「鈴木先輩、どーも」
取り繕うように頭を下げると、先輩は表情を変えないまま「どーも」と答えた。
「で?それ、食わねーの?眺めてるだけ?」
言いながら、僕の隣の席に座る。
「いえ、食べますよ。心を整えていただけで」
腕を広げて深呼吸すると、甘い卵焼きのにおいがした。
「ん?ふーん?……今日は1人?」
キョロキョロと周りを見回して「桐谷は?」と問われる。
「あいつは推しのライブに行ってて、今日は休んでます」
「へぇ、だから1人なんだ。珍しいなと思って」
前髪を撫でつけるのを横目で見ながら、僕はわざと怒った顔をした。
「あいつ、僕に代返頼んできたんですよ。もちろん断りましたけど!」
先輩は目を丸くする。と、同時に「ふははっ」と弾けるような笑顔を見せた。
「この間も思ったけど、佐藤って意外と気が強いところあるよな」
「……うん?」
僕って、そんなイメージなの?確かに、桐谷がいつもからかってくるから、ついツッコんでしまう。
「そうですか?先輩こそ、ちゃんと笑ってるとこ初めて見ました」
といっても、そんなにいつも顔を合わせているわけじゃない。でも、僕にとって先輩は、はにかんだ笑顔の人だ。
……そうそう、そういう顔。
悔しいけど、かっこいい。いや、悔しいなんて思うのさえ、おこがましいけど。
「ところで、先輩は何かご用ですか?」
口をとがらせながら聞く。
「いや、今日は学食じゃないんだな、と思って。珍しいから」
先輩はひょいっと僕のお弁当を覗き込んだ。
「あ、卵焼き。……いいな」
視線が吸い寄せられている。
「1つあげましょうか?……あ、やっぱりあげたくないです」
「なんだそれ」
自分でも子どもっぽいと思う。でも、この卵焼きだけは譲れなかった。 昨日、お隣さんが「美味い」と言ってくれた卵焼きだから。
お弁当を手で覆って隠すと、先輩は拗ねたように下唇を突き出した。
えぇー、そんな顔もするんだ……。先輩だって、なんだか子どもみたい。
思わず「ふふ」と笑ってしまう。
「これは他の人のために作ったものなので」
「そうなのか……」
「今度、機会があったら作りますよ。嫌じゃなければ、ですけど」
先輩は一瞬だけ視線をそらし、耳をかいてから 「……食べたい。作って」と、小さな声で言った。
「……あ、はい」
そんな反応されると思わなくて、思わずドキッとしてしまう。なんか、先輩って沼、だなぁ。
「佐藤、料理が好きなの?」
無意識に背筋を伸ばす。
「……はい、好きです」
小さいころから、母を手伝ってきた。出来上がった料理を、家族みんなで食べる時間が何より好きだった。料理は幸せを運んでくれる。僕も幸せを運びたい。
照れくさいけど、ついそんな話をしてしまった。
「――だから、将来は食品メーカーとか、料理に関わる仕事に就きたいと思ってます」
なんでだろう。いつもだったらこんなこと、絶対言わないのに。今日の僕は、やっぱり相当浮かれてる。
なんだか恥ずかしくなって俯くと、先輩は柔らかく目を細めて、「……うん、いいじゃん」と頷いた。
その一言で、胸の奥がじんわり温かくなる。自分の夢を認めてもらえるのって、こんなに嬉しいんだ。
あー、お隣さんにも話したい。今日あったこととか、僕の夢のこととか、全部。きっと「いいじゃん」って言ってくれるような気がするから。
なんて考えて、小さく笑った。
鼻歌をうたいながら掃除していると、「すごいご機嫌じゃないですか」と遥くんが言った。
僕はチラッと、品出ししている背中に視線を送る。店内にお客さんはおらず、僕たちは大っぴらにおしゃべりしていた。
「まぁねー。おかげさまで」
これは嫌味だよ、という気持ちをこめて返事をする。遥くんにはしっかり伝わったようで、作業の手をとめて僕を見上げてきた。
「この前はすみませんでした。あいつ、普段はいいやつなんすけど、ちょっとチャラいところがあって」
「いやぁ、いいけどさ」
あまりにも申し訳なさそうな顔をしているから、怒る気もなくなる。いや、近頃はもう、誰に何をされても許してしまいそうだ。
恋を自覚してから一ヶ月。
お隣さんとの壁越しの交流は順調に続いていて、僕の恋心もすくすくと育っている。人を好きになるって、こんなに楽しいもんなんだ。
毎日、今日は何を話そうか、何を作ろうか、なんて考えてしまう。
「前言ってたダチって、あいつですよ」
「へ?」
「ほら、俺のダチにいるって言ったじゃないすか。恋愛対象が同性なやつ」
「……あ、あぁ〜」
そういえば、雨の日に送ってもらったとき、そんな話をしていた。
「東さんのこと話したら、会ってみたいって言われちゃって」
「え、僕のことって?」
一体、どんなふうに言ったんだろう。はたきの柄をぎゅっと握りしめる。
「あ、違いますよ!ただ、バイト先の先輩が、大学生には見えないって話を……」
そこまで言ってから、遥くんはハッとして口を噤む。ご機嫌な僕は、睨みつけたいところをグッと我慢した。
「遥くん、それ悪口だから」
「……す、すみません」
「いいよ、別に」
笑顔を崩さないまま、掃除に戻る。
気まずい沈黙が流れたのは一瞬で、遥くんは何事もなかったように「そういえば」と話し出した。
「お隣さんとは、あれからどうなんすか?」
僕は自然と口角が上がって、「うん、いい感じだよ」と答える。
「僕の夢の話をしたら、『いいね』って言ってもらえたし」
「夢って?」
「それは内緒」
きっぱり言うと、遥くんはパチパチと瞬きした。
「あと、たまに料理も食べてもらってる」
「へぇー、なんかそれって付き合ってるみたい。……えっ、ていうか好きなんすか?!まさか、もう付き合ってる?」
遥くんに指差されて、つい顔が熱くなる。
「ち、違うよ。付き合ってないよ。……僕の片思い」
目をそらしながら言うと、遥くんは片手で顔を覆い、「はぁ〜、やっぱりかぁ」と上を向いた。
やっぱりってどういうこと?
「それ、会いたいと思わないんすか?」
僕は少し考えてから、小さく笑う。
「……思うよ」
その一言だけで、胸がぎゅっと苦しくなった。
会ってみたい。声だけじゃなくて、笑った顔を見てみたい。僕の料理を食べてるとき、どんな顔をしているんだろう。一緒に食べたら、どんなに幸せだろう。
「でも、今のままでも充分かなって思ってる」
「え?」
「顔を知らないから気楽に話せるところもあるし、もし会って、イメージと違うって思われたら……今までの関係がなくなっちゃう気がして」
恋心が大きくふくらむほど、失うのが怖い。お隣さんは僕の好きな人であると同時に、心の拠り所なんだ。今のまま、片思いのまま、ずっと好きでいさせてほしい。
そんなふうに思うなんて、実は僕って重いやつなのかな。
遥くんは少し唇をとがらせて、「ふーん」と言った。
「でも、きっといつか、それだけじゃ満足できなくなりますよ」
予言のような言葉が、僕の心の深いところに落ちていくのを感じた。
そんな日は来ないって思いたい。でも、小さな何かが囁きかけてくるような気がして、口をきゅっと結んだ。
「あぁ〜、ちょっと焦がしちゃった」
今日の餃子は過去イチって言ってもいいくらい、上手に包めたのに。ひっくり返してみて、焼き目がいつもより黒くなっているのに気づいた。
焦って時計を見ると、もうすぐ21時。お隣さんがそろそろ帰ってくる。
仕方ない、諦めるしかない、食べられないほどじゃないし。自分に言い聞かせて、泣く泣く容器に詰めた。
今日は保温バッグに入れて、そっと隣のドアの前に置く。今日も食べてくれますように、と願いながら。
そんなに時間が経たないうちに「ガチャリ」と鍵を開ける音がした。少ししてから「トン、トン」とノックの音。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
いつもの挨拶。それだけで、心がぷかぷかと浮きそうになる。
「これ、ありがとう。まだ温かいな」
「はい、焼きたてなんです」
「……わ!餃子いいね。しかも手作り?」
「はい。……でも、ちょっと失敗しちゃって」
割り箸を割る音が聞こえて、今さらながら緊張してきた。正座した膝の上で、ぎゅっと拳を握る。
「いただきます…………うん、美味い。どこが失敗?」
ホッと息を吐く。手に変な汗をかいていて、スボンを擦った。
「部屋の電気、ちゃんとつけてます?焦げてるでしょ?」
僕がわざと拗ねたように言うと、「わはは」と声を上げて笑う。
「電気はちゃんとつけてる。確かにちょっと焦げてるけど、これが美味いんだろ」
本当に優しい人だな。僕はふっと笑って、「苦くないですか?」と聞いた。
「全然。うちの餃子なんか、もっと焦げてるときあったから」
「うちもです。焦げたところだけとって食べてました」
また「わはは」が聞こえて、僕もつい吹き出す。
あ、なんかいいな、この感じ。
「でも、僕の実力はそんなもんじゃないですよ。次はもっと上手に作りますから」
「うん、楽しみにしてる」
気のせいだろうか。そう言ったお隣さんの声に、少し甘さが混ざっているように感じた。
もう、鏡を見なくても分かる。僕の顔、絶対赤くなってるだろうな。
お隣さんはまたクスクスと笑っているようだ。
「なんで笑ってるんですか?」
「いや、一生懸命作ってる姿、想像したら可愛くて」
「……え?」
可愛い……。
可愛いって言った?!
今の言葉で、僕の心は完全に浮き上がった。どこまでも飛んでいってしまいそうなくらい。
あぁ、今、どんな顔で笑ってるんだろう。見たい、会いたい。でも……。
「ぼっ、僕は可愛くないですよ!男ですし」
そう言った途端、針を刺したように心がしぼんだ。
会ったら可愛いなんて、思ってもらえないかも……。もしも、がっかりされたら立ち直れそうにない。だから、今のままで、この距離で話せればいいんだ。
壁の向こうで、小さく息をつく気配がした。
「そういう真面目なところが、可愛いんだよ」
何それ、ずるいよ……。そんなこと言われたら、もっと好きになってしまう。
今だけは、素直に受け取ってもいいのかな。顔が見えないからこそ、そう思えた。
調理室には、バターの甘い香りが立ち込めている。女子2人に挟まれた僕は、そわそわしながら焼き上がりを待っていた。ガスオーブンなんて初めて使うから、火加減が分からない。
ピピッと音が鳴って、ミトンをはめた手で慎重に取り出す。
「あちち!」
調理台の上に天板を置いた。
湯気を上げるパウンドケーキ。
よし、きれいな黄金色だ。
「うん、いい感じだね」
建築学部の佐々木さんが、満足そうに頷いた。けれど――
「あ、だめだ」
僕が竹串をさすと、とろっとした生地がくっついてきた。
「中が生だ」
「うーん、温度が高かったみたい」
僕と同じ理学部の宮崎さんが、そう言って腕を組む。3人してうなだれた。
来月の大学見学のときに、チャリティイベントで販売するパウンドケーキ。 料理好きということで、試作品作りに立候補した僕だけど、お菓子作りはまだまだ修業中だ。
将来、食品メーカーで働くなら、お菓子だって作れたほうがいい。この機会に、しっかり勉強させてもらわなくちゃ。
「これ、どうすればいいの?」
失敗作を指差して、2人に問いかけた。中に火が通るまで焼いたら、また焦げちゃう。
「大丈夫!」
佐々木さんが僕に手のひらを突きつけた。
「アルミホイルをかぶせて、もう一回焼けばいいよ」
「へぇ〜」
なるほど、さすが佐々木さん。
「それなら、味見ができるね」
今日のパウンドケーキには、隠し味としてラム酒が入っている。ちょっと大人の味になるはずだ。
「あぁ〜」
佐々木さんが嘆いた。
「私はパス。ちょっと太っちゃった」
お腹をさすりながら言う。すると、宮崎さんも横に並んだ。
「じゃあ、私もパス」
「えぇ!」
「だって、甘いの苦手だし」
じゃあ、なんで試食係なんだよぉ。
「佐藤くん、もらっていいよ」
2人から拒否されて、「うーん」と、お腹の肉をつまむ。実は僕も、連日の試食でこの辺がぷにぷにしてきた。
そのとき、桐谷の顔が頭に浮かぶ。
そうだ、あいつにあげよう。きっと喜んで食べてくれる。
「じゃ、僕がもらうよ」
どうぞどうぞ、と言う2人に感謝して、もう一度オーブンに入れた。
「次は、甘くないのもありかもね」
僕が人差し指を掲げると、佐々木さんと宮崎さんが、顔を見合わせて大きく頷いた。
どうせなら……。
お隣さんにも食べてもらおうかな。あ、でもラム酒が入ってるんだった。お酒、どうなんだろう。
「あ、鈴木先輩だ」
エントランスを横切ったとき、女子の塊の真ん中に鈴木先輩の顔を見つけて、思わず声をあげた。一気に視線が集まり、僕の頬がじりじりと熱くなる。
「あ、えっと……」
「佐藤」
先輩は身を乗り出すと、そのまま駆け寄ってきた。
「行こう」
「え?ちょ、ちょっと!待って」
腕をがっしり掴まれる。
ぐいぐいと引っ張られていったのは、今は誰もいない空き教室だった。
「先輩、ちょっと痛い」
僕が言うと、ハッとしたように手を離す。
「ご、ごめん」
「いいですけど……」
掴まれていた腕を見下ろすと、ほんのり赤くなっていた。先輩はそれを見て、さらに申し訳なさそうに眉尻を下げる。いつもは冷静な先輩が、こんなに慌てているのを見るのは初めてだ。
「どうしたんですか?何かお話してたんじゃないですか?」
「いや、たいした話じゃないよ」
先輩はいつもの顔に戻っていた。
「ただ、佐藤に呼ばれたから」
確かに呼んだ。
でも、そこにいたから呼んだだけ。呼び止めたかったわけでも、急ぎの用事があったわけでもない。
……やっぱり先輩って沼だ。それも、無自覚の。
「ん?なんか佐藤、甘いにおいする?」
先輩が鼻をすんとさせる。
「あぁ」
僕は手に持っていた袋を持ち上げた。
「先輩って、お酒大丈夫ですか?」
「お酒?大丈夫だよ」
「良かった。ラム酒入りのパウンドケーキなんですけど、食べます?」
先輩は袋の中を覗きながら、「佐藤が作ったの?」と言った。
「1人ではないですけど。チャリティイベントの試作品なんですよ」
「食べる」
食い気味に言われ、ちょっと驚く。
「人にあげた残りなんですけど、良かったら先輩もどうぞ」
ラップに包まれたケーキを突き出すと、先輩は遠慮がちに受け取った。それから、僕の目を覗き込む。
「いいの?」
「はい。本当は、いつもお世話になってるお隣さんにあげようと思ったんですけど、お酒が大丈夫か分からないから」
先輩は手の中のケーキをそっと撫でて、「……そうか」と、小さく笑った。
「その人、きっと喜んでくれるよ」
「え?」
「佐藤が作ったものだったら、なんでも」
でも、その笑顔はどことなく寂しそうで、胸がちくりと痛む。
いつもかっこいい先輩が、どうしてそんな顔をするんだろう。その理由を知りたいと思うのは、これが初めてだった。
あー平和だなぁ。
なんて思いながらも、初めての気持ちに昨日からずっとドキドキしてる。
僕もとうとう恋をしてしまった。
遥くんが彼女の話をしていたときの、穏やかな顔を思い出す。
僕って今、どんな顔してるんだろう。にこにこ?にやにや?とにかく、頬が緩みっぱなしだ。こんなんじゃ、ここにいる人みんなに、恋してるってバレちゃうんじゃないかな。
ふわふわした気持ちのまま、テーブルの上で包みを広げる。ふたを開けて、またにんまりした。
昨日の夜、お隣さんに作ったお弁当の残りを詰めてきただけ。それなのに、あのホッとする声を思い出してしまう。
「それ、食わねーの?」
完全に油断しているところに話しかけられて、違う意味で心臓が跳ねる。
……あれ?この声……
まさかと思いながら振り向くと、少し口角を上げた鈴木先輩が立っていた。
「なぁんだ」
思わず言葉が口をついて出てしまい、バッと両手で押さえる。
「……じゃなくて」
先輩は、「ん?」と首を傾げた。
「鈴木先輩、どーも」
取り繕うように頭を下げると、先輩は表情を変えないまま「どーも」と答えた。
「で?それ、食わねーの?眺めてるだけ?」
言いながら、僕の隣の席に座る。
「いえ、食べますよ。心を整えていただけで」
腕を広げて深呼吸すると、甘い卵焼きのにおいがした。
「ん?ふーん?……今日は1人?」
キョロキョロと周りを見回して「桐谷は?」と問われる。
「あいつは推しのライブに行ってて、今日は休んでます」
「へぇ、だから1人なんだ。珍しいなと思って」
前髪を撫でつけるのを横目で見ながら、僕はわざと怒った顔をした。
「あいつ、僕に代返頼んできたんですよ。もちろん断りましたけど!」
先輩は目を丸くする。と、同時に「ふははっ」と弾けるような笑顔を見せた。
「この間も思ったけど、佐藤って意外と気が強いところあるよな」
「……うん?」
僕って、そんなイメージなの?確かに、桐谷がいつもからかってくるから、ついツッコんでしまう。
「そうですか?先輩こそ、ちゃんと笑ってるとこ初めて見ました」
といっても、そんなにいつも顔を合わせているわけじゃない。でも、僕にとって先輩は、はにかんだ笑顔の人だ。
……そうそう、そういう顔。
悔しいけど、かっこいい。いや、悔しいなんて思うのさえ、おこがましいけど。
「ところで、先輩は何かご用ですか?」
口をとがらせながら聞く。
「いや、今日は学食じゃないんだな、と思って。珍しいから」
先輩はひょいっと僕のお弁当を覗き込んだ。
「あ、卵焼き。……いいな」
視線が吸い寄せられている。
「1つあげましょうか?……あ、やっぱりあげたくないです」
「なんだそれ」
自分でも子どもっぽいと思う。でも、この卵焼きだけは譲れなかった。 昨日、お隣さんが「美味い」と言ってくれた卵焼きだから。
お弁当を手で覆って隠すと、先輩は拗ねたように下唇を突き出した。
えぇー、そんな顔もするんだ……。先輩だって、なんだか子どもみたい。
思わず「ふふ」と笑ってしまう。
「これは他の人のために作ったものなので」
「そうなのか……」
「今度、機会があったら作りますよ。嫌じゃなければ、ですけど」
先輩は一瞬だけ視線をそらし、耳をかいてから 「……食べたい。作って」と、小さな声で言った。
「……あ、はい」
そんな反応されると思わなくて、思わずドキッとしてしまう。なんか、先輩って沼、だなぁ。
「佐藤、料理が好きなの?」
無意識に背筋を伸ばす。
「……はい、好きです」
小さいころから、母を手伝ってきた。出来上がった料理を、家族みんなで食べる時間が何より好きだった。料理は幸せを運んでくれる。僕も幸せを運びたい。
照れくさいけど、ついそんな話をしてしまった。
「――だから、将来は食品メーカーとか、料理に関わる仕事に就きたいと思ってます」
なんでだろう。いつもだったらこんなこと、絶対言わないのに。今日の僕は、やっぱり相当浮かれてる。
なんだか恥ずかしくなって俯くと、先輩は柔らかく目を細めて、「……うん、いいじゃん」と頷いた。
その一言で、胸の奥がじんわり温かくなる。自分の夢を認めてもらえるのって、こんなに嬉しいんだ。
あー、お隣さんにも話したい。今日あったこととか、僕の夢のこととか、全部。きっと「いいじゃん」って言ってくれるような気がするから。
なんて考えて、小さく笑った。
鼻歌をうたいながら掃除していると、「すごいご機嫌じゃないですか」と遥くんが言った。
僕はチラッと、品出ししている背中に視線を送る。店内にお客さんはおらず、僕たちは大っぴらにおしゃべりしていた。
「まぁねー。おかげさまで」
これは嫌味だよ、という気持ちをこめて返事をする。遥くんにはしっかり伝わったようで、作業の手をとめて僕を見上げてきた。
「この前はすみませんでした。あいつ、普段はいいやつなんすけど、ちょっとチャラいところがあって」
「いやぁ、いいけどさ」
あまりにも申し訳なさそうな顔をしているから、怒る気もなくなる。いや、近頃はもう、誰に何をされても許してしまいそうだ。
恋を自覚してから一ヶ月。
お隣さんとの壁越しの交流は順調に続いていて、僕の恋心もすくすくと育っている。人を好きになるって、こんなに楽しいもんなんだ。
毎日、今日は何を話そうか、何を作ろうか、なんて考えてしまう。
「前言ってたダチって、あいつですよ」
「へ?」
「ほら、俺のダチにいるって言ったじゃないすか。恋愛対象が同性なやつ」
「……あ、あぁ〜」
そういえば、雨の日に送ってもらったとき、そんな話をしていた。
「東さんのこと話したら、会ってみたいって言われちゃって」
「え、僕のことって?」
一体、どんなふうに言ったんだろう。はたきの柄をぎゅっと握りしめる。
「あ、違いますよ!ただ、バイト先の先輩が、大学生には見えないって話を……」
そこまで言ってから、遥くんはハッとして口を噤む。ご機嫌な僕は、睨みつけたいところをグッと我慢した。
「遥くん、それ悪口だから」
「……す、すみません」
「いいよ、別に」
笑顔を崩さないまま、掃除に戻る。
気まずい沈黙が流れたのは一瞬で、遥くんは何事もなかったように「そういえば」と話し出した。
「お隣さんとは、あれからどうなんすか?」
僕は自然と口角が上がって、「うん、いい感じだよ」と答える。
「僕の夢の話をしたら、『いいね』って言ってもらえたし」
「夢って?」
「それは内緒」
きっぱり言うと、遥くんはパチパチと瞬きした。
「あと、たまに料理も食べてもらってる」
「へぇー、なんかそれって付き合ってるみたい。……えっ、ていうか好きなんすか?!まさか、もう付き合ってる?」
遥くんに指差されて、つい顔が熱くなる。
「ち、違うよ。付き合ってないよ。……僕の片思い」
目をそらしながら言うと、遥くんは片手で顔を覆い、「はぁ〜、やっぱりかぁ」と上を向いた。
やっぱりってどういうこと?
「それ、会いたいと思わないんすか?」
僕は少し考えてから、小さく笑う。
「……思うよ」
その一言だけで、胸がぎゅっと苦しくなった。
会ってみたい。声だけじゃなくて、笑った顔を見てみたい。僕の料理を食べてるとき、どんな顔をしているんだろう。一緒に食べたら、どんなに幸せだろう。
「でも、今のままでも充分かなって思ってる」
「え?」
「顔を知らないから気楽に話せるところもあるし、もし会って、イメージと違うって思われたら……今までの関係がなくなっちゃう気がして」
恋心が大きくふくらむほど、失うのが怖い。お隣さんは僕の好きな人であると同時に、心の拠り所なんだ。今のまま、片思いのまま、ずっと好きでいさせてほしい。
そんなふうに思うなんて、実は僕って重いやつなのかな。
遥くんは少し唇をとがらせて、「ふーん」と言った。
「でも、きっといつか、それだけじゃ満足できなくなりますよ」
予言のような言葉が、僕の心の深いところに落ちていくのを感じた。
そんな日は来ないって思いたい。でも、小さな何かが囁きかけてくるような気がして、口をきゅっと結んだ。
「あぁ〜、ちょっと焦がしちゃった」
今日の餃子は過去イチって言ってもいいくらい、上手に包めたのに。ひっくり返してみて、焼き目がいつもより黒くなっているのに気づいた。
焦って時計を見ると、もうすぐ21時。お隣さんがそろそろ帰ってくる。
仕方ない、諦めるしかない、食べられないほどじゃないし。自分に言い聞かせて、泣く泣く容器に詰めた。
今日は保温バッグに入れて、そっと隣のドアの前に置く。今日も食べてくれますように、と願いながら。
そんなに時間が経たないうちに「ガチャリ」と鍵を開ける音がした。少ししてから「トン、トン」とノックの音。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
いつもの挨拶。それだけで、心がぷかぷかと浮きそうになる。
「これ、ありがとう。まだ温かいな」
「はい、焼きたてなんです」
「……わ!餃子いいね。しかも手作り?」
「はい。……でも、ちょっと失敗しちゃって」
割り箸を割る音が聞こえて、今さらながら緊張してきた。正座した膝の上で、ぎゅっと拳を握る。
「いただきます…………うん、美味い。どこが失敗?」
ホッと息を吐く。手に変な汗をかいていて、スボンを擦った。
「部屋の電気、ちゃんとつけてます?焦げてるでしょ?」
僕がわざと拗ねたように言うと、「わはは」と声を上げて笑う。
「電気はちゃんとつけてる。確かにちょっと焦げてるけど、これが美味いんだろ」
本当に優しい人だな。僕はふっと笑って、「苦くないですか?」と聞いた。
「全然。うちの餃子なんか、もっと焦げてるときあったから」
「うちもです。焦げたところだけとって食べてました」
また「わはは」が聞こえて、僕もつい吹き出す。
あ、なんかいいな、この感じ。
「でも、僕の実力はそんなもんじゃないですよ。次はもっと上手に作りますから」
「うん、楽しみにしてる」
気のせいだろうか。そう言ったお隣さんの声に、少し甘さが混ざっているように感じた。
もう、鏡を見なくても分かる。僕の顔、絶対赤くなってるだろうな。
お隣さんはまたクスクスと笑っているようだ。
「なんで笑ってるんですか?」
「いや、一生懸命作ってる姿、想像したら可愛くて」
「……え?」
可愛い……。
可愛いって言った?!
今の言葉で、僕の心は完全に浮き上がった。どこまでも飛んでいってしまいそうなくらい。
あぁ、今、どんな顔で笑ってるんだろう。見たい、会いたい。でも……。
「ぼっ、僕は可愛くないですよ!男ですし」
そう言った途端、針を刺したように心がしぼんだ。
会ったら可愛いなんて、思ってもらえないかも……。もしも、がっかりされたら立ち直れそうにない。だから、今のままで、この距離で話せればいいんだ。
壁の向こうで、小さく息をつく気配がした。
「そういう真面目なところが、可愛いんだよ」
何それ、ずるいよ……。そんなこと言われたら、もっと好きになってしまう。
今だけは、素直に受け取ってもいいのかな。顔が見えないからこそ、そう思えた。
調理室には、バターの甘い香りが立ち込めている。女子2人に挟まれた僕は、そわそわしながら焼き上がりを待っていた。ガスオーブンなんて初めて使うから、火加減が分からない。
ピピッと音が鳴って、ミトンをはめた手で慎重に取り出す。
「あちち!」
調理台の上に天板を置いた。
湯気を上げるパウンドケーキ。
よし、きれいな黄金色だ。
「うん、いい感じだね」
建築学部の佐々木さんが、満足そうに頷いた。けれど――
「あ、だめだ」
僕が竹串をさすと、とろっとした生地がくっついてきた。
「中が生だ」
「うーん、温度が高かったみたい」
僕と同じ理学部の宮崎さんが、そう言って腕を組む。3人してうなだれた。
来月の大学見学のときに、チャリティイベントで販売するパウンドケーキ。 料理好きということで、試作品作りに立候補した僕だけど、お菓子作りはまだまだ修業中だ。
将来、食品メーカーで働くなら、お菓子だって作れたほうがいい。この機会に、しっかり勉強させてもらわなくちゃ。
「これ、どうすればいいの?」
失敗作を指差して、2人に問いかけた。中に火が通るまで焼いたら、また焦げちゃう。
「大丈夫!」
佐々木さんが僕に手のひらを突きつけた。
「アルミホイルをかぶせて、もう一回焼けばいいよ」
「へぇ〜」
なるほど、さすが佐々木さん。
「それなら、味見ができるね」
今日のパウンドケーキには、隠し味としてラム酒が入っている。ちょっと大人の味になるはずだ。
「あぁ〜」
佐々木さんが嘆いた。
「私はパス。ちょっと太っちゃった」
お腹をさすりながら言う。すると、宮崎さんも横に並んだ。
「じゃあ、私もパス」
「えぇ!」
「だって、甘いの苦手だし」
じゃあ、なんで試食係なんだよぉ。
「佐藤くん、もらっていいよ」
2人から拒否されて、「うーん」と、お腹の肉をつまむ。実は僕も、連日の試食でこの辺がぷにぷにしてきた。
そのとき、桐谷の顔が頭に浮かぶ。
そうだ、あいつにあげよう。きっと喜んで食べてくれる。
「じゃ、僕がもらうよ」
どうぞどうぞ、と言う2人に感謝して、もう一度オーブンに入れた。
「次は、甘くないのもありかもね」
僕が人差し指を掲げると、佐々木さんと宮崎さんが、顔を見合わせて大きく頷いた。
どうせなら……。
お隣さんにも食べてもらおうかな。あ、でもラム酒が入ってるんだった。お酒、どうなんだろう。
「あ、鈴木先輩だ」
エントランスを横切ったとき、女子の塊の真ん中に鈴木先輩の顔を見つけて、思わず声をあげた。一気に視線が集まり、僕の頬がじりじりと熱くなる。
「あ、えっと……」
「佐藤」
先輩は身を乗り出すと、そのまま駆け寄ってきた。
「行こう」
「え?ちょ、ちょっと!待って」
腕をがっしり掴まれる。
ぐいぐいと引っ張られていったのは、今は誰もいない空き教室だった。
「先輩、ちょっと痛い」
僕が言うと、ハッとしたように手を離す。
「ご、ごめん」
「いいですけど……」
掴まれていた腕を見下ろすと、ほんのり赤くなっていた。先輩はそれを見て、さらに申し訳なさそうに眉尻を下げる。いつもは冷静な先輩が、こんなに慌てているのを見るのは初めてだ。
「どうしたんですか?何かお話してたんじゃないですか?」
「いや、たいした話じゃないよ」
先輩はいつもの顔に戻っていた。
「ただ、佐藤に呼ばれたから」
確かに呼んだ。
でも、そこにいたから呼んだだけ。呼び止めたかったわけでも、急ぎの用事があったわけでもない。
……やっぱり先輩って沼だ。それも、無自覚の。
「ん?なんか佐藤、甘いにおいする?」
先輩が鼻をすんとさせる。
「あぁ」
僕は手に持っていた袋を持ち上げた。
「先輩って、お酒大丈夫ですか?」
「お酒?大丈夫だよ」
「良かった。ラム酒入りのパウンドケーキなんですけど、食べます?」
先輩は袋の中を覗きながら、「佐藤が作ったの?」と言った。
「1人ではないですけど。チャリティイベントの試作品なんですよ」
「食べる」
食い気味に言われ、ちょっと驚く。
「人にあげた残りなんですけど、良かったら先輩もどうぞ」
ラップに包まれたケーキを突き出すと、先輩は遠慮がちに受け取った。それから、僕の目を覗き込む。
「いいの?」
「はい。本当は、いつもお世話になってるお隣さんにあげようと思ったんですけど、お酒が大丈夫か分からないから」
先輩は手の中のケーキをそっと撫でて、「……そうか」と、小さく笑った。
「その人、きっと喜んでくれるよ」
「え?」
「佐藤が作ったものだったら、なんでも」
でも、その笑顔はどことなく寂しそうで、胸がちくりと痛む。
いつもかっこいい先輩が、どうしてそんな顔をするんだろう。その理由を知りたいと思うのは、これが初めてだった。



