トントン、おとなりです。

風が通り抜けるテラスは、休憩するのにぴったりだ。
さわさわという葉擦れの音が、耳に心地良い。
あー平和だなぁ。
なんて思いながらも、初めての気持ちに昨日からずっとドキドキしてる。
僕もとうとう恋をしてしまった。
遥くんが彼女の話をしていたときの、穏やかな顔を思い出す。 
僕って今、どんな顔してるんだろう。
にこにこ?にやにや?
とにかく、頬が緩みっぱなしだ。
こんなんじゃ、ここにいる人みんなに、恋してるってバレちゃうんじゃないかな。
ふわふわした気持ちのまま、テーブルの上で包みを広げる。
ふたを開けて、またにんまりした。
昨日の夜、お隣さんに作ったお弁当の残りを詰めてきただけ。
それなのに、あのホッとする声を思い出してしまう。
「それ、食わねーの?」
完全に油断しているところに話しかけられて、違う意味で心臓が跳ねる。
……あれ?この声……
まさかと思いながら振り向くと、少し口角を上げた鈴木先輩が立っていた。
「なぁんだ」
思わず言葉が口をついて出てしまい、バッと両手で押さえる。
「……じゃなくて」
先輩は、「ん?」と首を傾げた。
「鈴木先輩、どーも」
取り繕うように頭を下げると、先輩は表情を変えないまま「どーも」と答えた。
「で?それ、食わねーの?眺めてるだけ?」
言いながら、僕の隣の席に座る。
「いえ、食べますよ。心を整えていただけで」腕を広げて深呼吸すると、甘い卵焼きのにおいがした。
「ん?ふーん?……今日は1人?」
キョロキョロと周りを見回して「桐谷は?」と問われる。
「あいつは推しのライブに行ってて、今日は休んでます」
「へぇ、だから1人なんだ。珍しいなと思って」
前髪を撫でつけるのを横目で見ながら、僕はわざと怒った顔をした。
「あいつ、僕に代返頼んできたんですよ。もちろん断りましたけど!」
先輩は目を丸くする。
と、同時に「ふははっ」と弾けるような笑顔を見せた。
「この間も思ったけど、佐藤って意外と気が強いところあるよな」
「……うん?」
僕って、そんなイメージなの?
確かに、桐谷がいつもからかってくるから、ついツッコんでしまう。
「そうですか?先輩こそ、ちゃんと笑ってるとこ初めて見ました」
といっても、そんなにいつも顔を合わせているわけじゃない。
でも、僕にとって先輩は、はにかんだ笑顔の人だ。
そうそう、そういう顔。
悔しいけど、かっこいい。
いや、悔しいなんて思うのさえ、おこがましいけど。
「ところで、先輩は何かご用ですか?」
口をとがらせながら聞く。
「いや、今日は学食じゃないんだな、と思って。珍しいから」
先輩はひょいっと僕のお弁当を覗き込んだ。
「あ、卵焼き。……いいな」
視線が吸い寄せられている。
「1つあげましょうか?……あ、やっぱりあげたくないです」
「なんだそれ」
自分でも子どもっぽいと思う。
でも、この卵焼きだけは譲れなかった。
昨日、お隣さんが「美味い」と言ってくれた卵焼きだから。
お弁当を手で覆って隠すと、先輩は拗ねたように下唇を突き出した。
えぇー、そんな顔もするんだ……
先輩だって、なんだか子どもみたい。
思わず「ふふ」と笑ってしまう。
「これは他の人のために作ったものなので」
「そうなのか……」
「今度、機会があったら作りますよ。嫌じゃなければ、ですけど」
先輩は一瞬だけ視線をそらし、耳をかいてから 「……食べたい。作って」と、小さな声で言った。
「……あ、はい」
そんな反応されると思わなくて、思わずドキッとしてしまう。
なんか、先輩って沼、だなぁ。
「佐藤、料理が好きなの?」
無意識に背筋を伸ばす。
「……はい、好きです」
小さいころから、母を手伝ってきた。
出来上がった料理を、家族みんなで食べる時間が何より好きだった。
料理は幸せを運んでくれる。
僕も幸せを運びたい。
照れくさいけど、ついそんな話をしてしまった。
「――だから、将来は食品メーカーとか、料理に関わる仕事に就きたいと思ってます」
なんでだろう。
いつもだったらこんなこと、絶対言わないのに。
今日の僕は、やっぱり相当浮かれてる。
なんだか恥ずかしくなって俯くと、先輩は柔らかく目を細めて、「……うん、いいじゃん」と頷いた。
その一言で、胸の奥がじんわり温かくなる。
自分の夢を認めてもらえるのって、こんなに嬉しいんだ。
あー、お隣さんにも話したい。
今日あったこととか、僕の夢のこととか、全部。
きっと「いいじゃん」って言ってくれるような気がするから。
なんて考えて、小さく笑った。


鼻歌をうたいながら掃除していると、「すごいご機嫌じゃないですか」と遥くんが言った。
僕はチラッと、品出ししている背中に視線を送る。
店内にお客さんはおらず、僕たちは大っぴらにおしゃべりしていた。
「まぁねー。おかげさまで」
これは嫌味だよ、という気持ちをこめて返事をする。
遥くんにはしっかり伝わったようで、作業の手をとめて僕を見上げてきた。
「この前はすみませんでした。あいつ、普段はいいやつなんすけど、ちょっとチャラいところがあって」
「いやぁ、いいけどさ」
あまりにも申し訳なさそうな顔をしているから、怒る気もなくなる。
いや、近頃はもう、誰に何をされても許してしまいそうだ。
恋を自覚してから一ヶ月。
お隣さんとの壁越しの交流は順調に続いていて、僕の恋心もすくすくと育っている。
人を好きになるって、こんなに楽しいもんなんだ。
毎日、今日は何を話そうか、何を作ろうか、なんて考えてしまう。
「前言ってたダチって、あいつですよ」
「へ?」
「ほら、俺のダチにいるって言ったじゃないすか。恋愛対象が同性なやつ」
「……あ、あぁ〜」
そういえば、雨の日に送ってもらったとき、そんな話をしていた。
「東さんのこと話したら、会ってみたいって言われちゃって」
「え、僕のことって?」
一体、どんなふうに言ったんだろう。
はたきの柄をぎゅっと握りしめる。
「あ、違いますよ!ただ、バイト先の先輩が、大学生には見えないって話を……」
そこまで言ってから、遥くんはハッとして口を噤む。
ご機嫌な僕は、睨みつけたいところをグッと我慢した。
「遥くん、それ悪口だから」
「……す、すみません」
「いいよ、別に」
笑顔を崩さないまま、掃除に戻る。
気まずい沈黙が流れたのは一瞬で、遥くんは何事もなかったように「そういえば」と話し出した。
「お隣さんとは、あれからどうなんすか?」
僕は自然と口角が上がって、「うん、いい感じだよ」と答える。
「僕の夢の話をしたら、『いいね』って言ってもらえたし」
「夢って?」
「それは内緒」
きっぱり言うと、遥くんはパチパチと瞬きした。
「あと、たまに料理も食べてもらってる」
「へぇー、なんかそれって付き合ってるみたい。……えっ、ていうか好きなんすか?!まさか、もう付き合ってる?」
遥くんに指差されて、つい顔が熱くなる。
「ち、違うよ。付き合ってないよ。……僕の片思い」
目をそらしながら言うと、遥くんは片手で顔を覆い、「はぁ〜、やっぱりかぁ」と上を向いた。
やっぱりってどういうこと?
「それ、会いたいと思わないんすか?」
僕は少し考えてから、小さく笑う。
「……思うよ」
その一言だけで、胸がぎゅっと苦しくなった。
会ってみたい。
声だけじゃなくて、笑った顔を見てみたい。
僕の料理を食べてるとき、どんな顔をしているんだろう。
一緒に食べたら、どんなに幸せだろう。
「でも、今のままでも充分かなって思ってる」
「え?」
「顔を知らないから気楽に話せるところもあるし、もし会って、イメージと違うって思われたら……今までの関係がなくなっちゃう気がして」
恋心が大きくふくらむほど、失うのが怖い。
お隣さんは僕の好きな人であると同時に、心の拠り所なんだ。
今のまま、片思いのまま、ずっと好きでいさせてほしい。
そんなふうに思うなんて、実は僕って重いやつなのかな。
遥くんは少し唇をとがらせて、「ふーん」と言った。
「でも、きっといつか、それだけじゃ満足できなくなりますよ」
予言のような言葉が、僕の心の深いところに落ちていくのを感じた。
そんな日は来ないって思いたい。
でも、小さな何かが囁きかけてくるような気がして、口をきゅっと結んだ。


「あぁ〜、ちょっと焦がしちゃった」
今日の餃子は過去イチって言ってもいいくらい、上手に包めたのに。
ひっくり返してみて、焼き目がいつもより黒くなっているのに気づいた。
焦って時計を見ると、もうすぐ21時。
お隣さんがそろそろ帰ってくる。
仕方ない、諦めるしかない、食べられないほどじゃないし。
自分に言い聞かせて、泣く泣く容器に詰めた。
今日は保温バッグに入れて、そっと隣のドアの前に置く。
今日も食べてくれますように、と願いながら。

そんなに時間が経たないうちに「ガチャリ」と鍵を開ける音がした。
少ししてから「トン、トン」とノックの音。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
いつもの挨拶。
それだけで、心がぷかぷかと浮きそうになる。
「これ、ありがとう。まだ温かいな」
「はい、焼きたてなんです」
「……わ!餃子いいね。しかも手作り?」
「はい。……でも、ちょっと失敗しちゃって」
割り箸を割る音が聞こえて、今さらながら緊張してきた。
正座した膝の上で、ぎゅっと拳を握る。
「いただきます…………うん、美味い。どこが失敗?」
ホッと息を吐く。
手に変な汗をかいていて、スボンを擦った。
「部屋の電気、ちゃんとつけてます?焦げてるでしょ?」
僕がわざと拗ねたように言うと、「わはは」と声を上げて笑う。
「電気はちゃんとつけてる。確かにちょっと焦げてるけど、これが美味いんだろ」
本当に優しい人だな。
僕はふっと笑って、「苦くないですか?」と聞いた。
「全然。うちの餃子なんか、もっと焦げてるときあったから」
「うちもです。焦げたところだけとって食べてました」
また「わはは」が聞こえて、僕もつい吹き出す。
あ、なんかいいな、この感じ。
「でも、僕の実力はそんなもんじゃないですよ。次はもっと上手に作りますから」
「うん、楽しみにしてる」
気のせいだろうか。
そう言ったお隣さんの声に、少し甘さが混ざっているように感じた。
もう、鏡を見なくても分かる。
僕の顔、絶対赤くなってるだろうな。
お隣さんはまたクスクスと笑っているようだ。
「なんで笑ってるんですか?」
「いや、一生懸命作ってる姿、想像したら可愛くて」
「……え?」
可愛い……
可愛いって言った?!
今の言葉で、僕の心は完全に浮き上がった。
どこまでも飛んでいってしまいそうなくらい。
あぁ、今、どんな顔で笑ってるんだろう。
見たい、会いたい。
でも……
「ぼっ、僕は可愛くないですよ!男ですし」
そう言った途端、針を刺したように心がしぼんだ。
会ったら可愛いなんて、思ってもらえないかも……
もしも、がっかりされたら立ち直れそうにない。
だから、今のままで、この距離で話せればいいんだ。
壁の向こうで、小さく息をつく気配がした。
「そういう真面目なところが、可愛いんだよ」
何それ、ずるいよ……
そんなこと言われたら、もっと好きになってしまう。
今だけは、素直に受け取ってもいいのかな。
顔が見えないからこそ、そう思えた。


調理室には、バターの甘い香りが立ち込めている。
女子2人に挟まれた僕は、そわそわしながら焼き上がりを待っていた。
ガスオーブンなんて初めて使うから、火加減が分からない。
ピピッと音が鳴って、ミトンをはめた手で慎重に取り出す。
「あちち!」
調理台の上に天板を置いた。
湯気を上げるパウンドケーキ。
よし、きれいな黄金色だ。
「うん、いい感じだね」
建築学部の佐々木さんが、満足そうに頷いた。
けれど――
「あ、だめだ」
僕が竹串をさすと、とろっとした生地がくっついてきた。
「中が生だ」
「うーん、温度が高かったみたい」
僕と同じ理学部の宮崎さんが、そう言って腕を組む。
3人してうなだれた。
来月の大学見学のときに、チャリティイベントで販売するパウンドケーキ。
料理好きということで、試作品作りに立候補した僕だけど、お菓子作りはまだまだ修業中だ。
将来、食品メーカーで働くなら、お菓子だって作れたほうがいい。
この機会に、しっかり勉強させてもらわなくちゃ。
「これ、どうすればいいの?」
失敗作を指差して、2人に問いかけた。
中に火が通るまで焼いたら、また焦げちゃう。
「大丈夫!」
佐々木さんが僕に手のひらを突きつけた。
「アルミホイルをかぶせて、もう一回焼けばいいよ」
「へぇ〜」
なるほど、さすが佐々木さん。
「それなら、味見ができるね」
今日のパウンドケーキには、隠し味としてラム酒が入っている。
ちょっと大人の味になるはずだ。
「あぁ〜」
佐々木さんが嘆いた。
「私はパス。ちょっと太っちゃった」
お腹をさすりながら言う。
すると、宮崎さんも横に並んだ。
「じゃあ、私もパス」
「えぇ!」
「だって、甘いの苦手だし」
じゃあ、なんで試食係なんだよぉ。
「佐藤くん、もらっていいよ」
2人から拒否されて、「うーん」と、お腹の肉をつまむ。
実は僕も、連日の試食でこの辺がぷにぷにしてきた。
そのとき、桐谷の顔が頭に浮かぶ。
そうだ、あいつにあげよう。
きっと喜んで食べてくれる。
「じゃ、僕がもらうよ」
どうぞどうぞ、と言う2人に感謝して、もう一度オーブンに入れた。
「次は、甘くないのもありかもね」
僕が人差し指を掲げると、佐々木さんと宮崎さんが、顔を見合わせて大きく頷いた。
どうせなら……
お隣さんにも食べてもらおうかな。
あ、でもラム酒が入ってるんだった。
お酒、どうなんだろう。


「あ、鈴木先輩だ」
エントランスを横切ったとき、女子の塊の真ん中に鈴木先輩の顔を見つけて、思わず声をあげた。
一気に視線が集まり、僕の頬がじりじりと熱くなる。
「あ、えっと……」
「佐藤」
先輩は身を乗り出すと、そのまま駆け寄ってきた。
「行こう」
「え?ちょ、ちょっと!待って」
腕をがっしり掴まれる。
ぐいぐいと引っ張られていったのは、今は誰もいない空き教室だった。
「先輩、ちょっと痛い」
僕が言うと、ハッとしたように手を離す。
「ご、ごめん」
「いいですけど……」
掴まれていた腕を見下ろすと、ほんのり赤くなっていた。
先輩はそれを見て、さらに申し訳なさそうに眉尻を下げる。
いつもは冷静な先輩が、こんなに慌てているのを見るのは初めてだ。
「どうしたんですか?何かお話してたんじゃないですか?」
「いや、たいした話じゃないよ」
先輩はいつもの顔に戻っていた。
「ただ、佐藤に呼ばれたから」
確かに呼んだ。
でも、そこにいたから呼んだだけ。
呼び止めたかったわけでも、急ぎの用事があったわけでもない。
……やっぱり先輩って沼だ。それも、無自覚の。
「ん?なんか佐藤、甘いにおいする?」
先輩が鼻をすんとさせる。
「あぁ」
僕は手に持っていた袋を持ち上げた。
「先輩って、お酒大丈夫ですか?」
「お酒?大丈夫だよ」
「良かった。ラム酒入りのパウンドケーキなんですけど、食べます?」
先輩は袋の中を覗きながら、「佐藤が作ったの?」と言った。
「1人ではないですけど。チャリティイベントの試作品なんですよ」
「食べる」
食い気味に言われ、ちょっと驚く。
「人にあげた残りなんですけど、良かったら先輩もどうぞ」
ラップに包まれたケーキを突き出すと、先輩は遠慮がちに受け取った。
それから、僕の目を覗き込む。
「いいの?」
「はい。本当は、いつもお世話になってるお隣さんにあげようと思ったんですけど、お酒が大丈夫か分からないから」
先輩は手の中のケーキをそっと撫でて、「……そうか」と、小さく笑った。
「その人、きっと喜んでくれるよ」
「え?」
「佐藤が作ったものだったら、なんでも」
でも、その笑顔はどことなく寂しそうで、胸がちくりと痛む。
いつもかっこいい先輩が、どうしてそんな顔をするんだろう。
その理由を知りたいと思うのは、これが初めてだった。