ふと、食堂内がざわめいた。
うどんを食べていた僕は、顔を上げてみんなの視線を追う。そこにいたのは、友達らしき人と券売機に並ぶ鈴木先輩だった。
「桐谷、桐谷。鈴木先輩」
「んぁ?」
前に座る桐谷に声をかけると、なんとも間抜けな声を出して、丼から顔をあげる。僕が顎でさすと「あぁ、別に鈴木先輩はレアキャラじゃねーぞ」と言った。
「え、そうなの?」
ぽかんとする。
この前、サークルにきたときはあんなに騒いでいたのに。それに、僕はキャンパス内で先輩を見かけたことがなかった。
「そりゃ、同じ大学なんだから普通にいるだろ。佐藤が気にしてなかっただけ」
「でもこの前、すごかったじゃん」
「テニサーに顔出すんがレアなんだよ」
そうなんだ……。僕はずいぶんのほほんと大学生活を送っていたみたいだ。
その時、先輩がトレーを持ってこっちに向かってくるのに気づく。少し緊張して、背筋を伸ばした。
挨拶したほうがいいよね。僕たちのこと覚えてるのかな。
けれど先輩は、僕たちに視線を向けることもなく通り過ぎて、隣のテーブルについた。
「おばちゃんに唐揚げおまけしてもらったー」
「マジかよ、理来!さすがだな」
「俺、こんなに食えないからやるよ」
「神じゃん!」
笑い声が上がる。先輩は照れくさそうに笑って、「別に」と肩をすくめた。
その会話を聞いて、変に緊張していたのが恥ずかしくなる。先輩はレアキャラでもなく、雲の上の存在でもなく、普通の大学生なんだ。
……やっぱり優しい人だ。それに、なんとなく似てる気がする。優しい人の話し方だ。
「佐藤、あの後大丈夫だった?」
桐谷に声をかけられてハッとする。
「あ、うん。ちゃんと送ってもらったから、そんなに濡れなかったよ」
「遥くんとお前じゃあ身長差ありすぎて、傘差してても雨が吹き込むだろ」
僕はムッとして唇をとがらせた。
「それ、僕がチビって言いたいの?」
「俺は調子いいと171だから」
「2センチなんて誤差だし」
「その2センチで雨の当たり方が変わるんだよ」
桐谷とやいのやいの言っているところへ、ふと影がさす。
なんだ?と思って見ると、思わず息をのんだ。
いつの間にか、鈴木先輩がそばに立っていて、僕たちを見下ろしている。
「えっと……」
言葉に詰まってしまう。
先輩はあのはにかんだような笑顔で「どーも」と言った。
「ど、どーも」
ぺこりと頭を下げる。
桐谷が「先輩、こんちゃーす」と、挨拶した。先輩は「こんにちは。……ここ、いい?」と、僕の隣の席を指差す。
「あ、どーぞどーぞ」
慌てて荷物をどけると、先輩は「ありがと」と笑って腰を下ろした。
先輩の友達、まだ隣のテーブルにいるけど、こっちに来ちゃって大丈夫だったのかな。
「佐藤、うどん好きなの?」
「はい。学食の、すごく美味しいですよ。先輩は食べたことあります?」
「そういえば、ないかも」
そう言って、僕のうどんをじっと見つめる。……食べたいのかな?
「佐藤と桐谷は今日もサークル?」
「はい」
「うす」
すごい、僕たちの名前覚えててくれたんだ。桐谷が『頭がいい』って言ってたもんな。それでも、一言挨拶しただけの後輩のことを覚えてるなんて。
それに、こうして気さくに話しかけてくれたし。
「先輩はバイトですか?」
僕がおずおずと聞くと、先輩は眉尻を下げた。
「そうなんだよ。俺、バイトかけもちしてるから」
「え、めちゃ働くんすね」
桐谷が呆気にとられたように言う。
「何のバイトしてるんですか?」
僕が聞くと「飲食とか、販売とか、あとはイベント設営とか、単発の派遣も色々やってる」と答えてくれた。
「すげー、体力の消耗やばそう」
桐谷が声を上げる。
「そうだね。家に帰るとクタクタ」
「帰っても寝るだけになっちゃいますね」
「でも、最近はそうでもないよ」
「へぇー、何かあるんすか?」
桐谷が軽い調子で聞くと、先輩は少しだけ視線を泳がせた。
「帰る理由ができたから」
照れくさそうに笑う。
「帰る理由、って」
なんだろう。見たいドラマでもあるのかな?
箸を持った手を頬に当てて、「うーん」と考えていると、桐谷が身を乗り出す。
「それって、彼女っすか?」
一瞬の沈黙。
「……さぁね、どうだろ」
先輩はそれだけ言うと、ひらりと片手を上げて隣のテーブルへ戻っていった。
あ、たぶんだけど、ごまかしたんだな。
僕たちから顔をそむけるようにして座った先輩の、首の後ろが赤いような気がして、こっちまでむずがゆくなる。
そっか、恋人かぁ。あんなにかっこいい人だもん、そりゃいるんだろうな。
「トン、トン」
夕飯の食器を洗っているとき、ノックの音が聞こえた。急いで手についた泡を流して、壁に話しかける。
「お疲れさまです。バイトですか?」
「お疲れ。そう。疲れた」
「こんな時間まで、大変ですね」
机の上の時計を見ると、21時を過ぎている。
「今日は力仕事だったから腰が死んだ」
しょげたようなため息が聞こえる。
「それ、飲食じゃないですよね。バイト、かけもちしてるんですか?」
「うん」
今時はそういう大学生が多いのかな。
いろんな職種で働くって、覚えることがいっぱいあって大変そう。
「無理しないでください」
「……ありがとう」
「もし体調崩したら、僕が看病しますよ」
「ん、お願いする」
なんとなく甘酸っぱい雰囲気が漂う中、ふと、鈴木先輩との会話を思い出す。
「そういえば、かっこいいって言ってた先輩と、今日話したんですけど」
「………」
「彼女がいるらしいですよ」
一瞬、間が空いてから、「へぇ」とだけ返ってきた。こういう話題、あんまり興味ないかなぁ。
「恋してる人、いいなぁって思います。キラキラしてて」
「そいつのこと、気になってるの?」
「……え?」
気になってるってどういう意味で?そりゃかっこいいし、今日はちょっと可愛かったけど……。まさか、僕が先輩のこと、好きだとか思ってる?
「いやいやいや、ただの先輩ですよ」
無駄に手を振ると、壁の向こうからため息が聞こえた。
なんのため息?
「お隣さんはいるんですか?……恋人」
なぜか緊張して、手をぎゅっと握りしめた。
「いないよ」
すぐに低い声が返ってきて、一気に肩の力が抜ける。
「いたら、こんな時間に壁と話してない」
思わず吹き出した。
「それは、そうですね」
あれ?なんで僕、ホッとしてるんだろう。お隣さんに恋人がいても、僕には関係ないのに。でも、いたらきっと、すごく大切にするんだろうな。
なぜかその想像はしたくなくて、僕はあわてて話題を変えた。
「ごはんはこれからですか?」
「うん、コンビニのおにぎり、買ってきた」
「ちゃんと食べないと、体力持たないですよ」
「作れない」
子どもみたいな言い方に、「ふふ」と笑ってしまう。
「僕が作ったので良ければ、今度お裾分けしましょうか」
言ってからハッとした。壁の向こうが、しんと静まり返る。
やっちゃった!恋人の話といい、今日はちょっと踏み込みすぎちゃったかも。
「すすすすみません!図々しかったですよね」
次の瞬間、ふっと笑う気配がした。
「なんでお前が図々しいんだよ。それを言うなら俺だろ?」
「え?」
「お前が作ったの、食いたい」
思わず息をのむ。
「いいんですか?」
「何がだよ」
「顔も知らない人間が作ったものですよ」
お隣さんは、ふっと柔らかく笑って「お前なら、いい」と言った。
心臓がドキドキしてる。
顔も分からないのに。
声しか知らないのに。
なんでこんなに嬉しいんだろう。
あの言葉が、翌日になっても頭から離れなかった。
「おーい、佐藤くん!」
店長に呼びかけられて、ハッと顔を上げる。
「レジ混んできたから、こっち出てきて」
「あ、はい」
両手に持ったペットボトルを、急いで冷蔵ケースに並べた。
バックヤードから出ると、桐谷がさばくレジには、すでに5人以上のお客さんが並んでいた。
「お待ちのお客様、こちらへどうぞ」
もう片方のレジに向かいながら声をかける。時計を見ると、11時50分。気がついたら、お昼の混む時間帯になってしまっていた。
しっかりしないと!
自分に気合を入れて、お給料をもらってる分はちゃんと働く。
「なんか、今日変だよな?」
お客さんがまばらになったころ、桐谷が僕の顔を覗き込んで言った。僕はギクリとして、手に持っていたメモ帳を落とす。
それを拾うふりをして、少し顔を隠した。
「そ、そんなことっ、ないよ」
「いや、やっぱ変だ。時々、魂抜けてるし」
「うぅ……」
桐谷は探るような視線を僕に向ける。
「顔、赤いぞ」
次の瞬間、桐谷は何かに気づいたように目を瞬いて、口を両手で覆った。
「もしかして佐藤、俺のこと好きになった?」
「はあぁぁ?!」
からかってるだけだと分かっているのに、思わず大声が出る。店内にいた女性客が、ビクッとしてこっちを向いた。あわてて「申し訳ございません!」と陳謝する。
事務所にいる店長に気づかれたらまずい。
「違うし!なんで桐谷なんだよ!僕は―――」
小声で詰め寄るが、途中で言葉が途切れる。
僕は?
僕は……その後、なんて言おうとしたんだ?
自分で自分に対して、首を傾げる。
その時、自動ドアが開くと同時にチャイムが鳴り、同じ制服を着た男子高校生が2人入ってきた。
「あ、遥くん」
「お疲れっす」
1人は遥くん、もう1人はお友達だろう。遥くんと同じくらい背が高くてイケメンだ。お友達のほうは、僕と目が合うとにっこり微笑んだ。
2人で連れ立って店内を歩くと、さっきの女性客が圧倒されたように眺めている。まるで、モデルのランウェイだ。
もう一度チャイムがなり、今度は集荷業者が入ってきた。まっすぐレジに向かってくる。
今日はいつも来てくれる愛想のいいおじさんじゃなく、背の高い若そうな男の人だった。目深に帽子をかぶり、メガネとマスクをつけているから顔は見えないけど。
「集荷お願いします」
目が合わないまま、くぐもった声で言われ、「はぁい」と返事する。その時、一瞬だけ顔を上げて、じっと見られたような気がした。
不思議に思いつつ、事務所にいる店長に「業者さん来ましたー!」と声をかける。
その間に、お菓子とジュースを選んだ遥くんとお友達が僕のいるレジに来た。
「学校帰り?お友達と一緒に寄ってくれたんだね」
バーコードを読み取りながら話しかけると、お友達のほうがいきなり身を乗り出して、僕の前髪を触ってきた。
「この子がお前の先輩?マジで年上なの?!」
「おい、やめろよ!」
遥くんがその手を払う。突然のことに言葉を失っていた僕は、ハッとして眉を顰めた。
僕が子どもっぽいって言いたいのか?はっきり言って、身長は平均より少し低いかもしれないけど、この凛々しい眉毛はよく褒められるんだ。
ムッとして、高いところにある顔を睨みあげる。
「わっ!睨んでる。可愛いんだけど」
「はぁ?!」
僕が声をあげると、そいつは面白そうに見下ろしてきた。
「ホント、童顔だな。年下って言われても信じるわ」
「ずいぶん失礼ですね!」
「おいって!ちょっかい出すなよ」
遥くんが苦笑いする。その時だった。
「お客様」
低い声が店内に響いた。
振り返ると、業者さんが伝票を持ったまま立っている。
「レジ、止まってます」
「あっ!」
僕はあわてて、バーコードの読み取りを再開した。
「おい、お前のせいだぞ」
遥くんがお友達の肩をたたく。
「東さん、すみません」
「……別に、いいけど」
会計を終えても、そいつは嫌らしい笑顔を浮かべていたが、それ以上は何も言ってこない。
ふと視線をあげると、業者さんはもう店長と集荷の確認をしていた。
この人って……あのときの宅配便のお兄さん?この制服、たぶんそうだよね。あのときも今も、顔はよく分からないけど、すごく雰囲気が似てる。また助けてくれたし。
思わずじっと見つめると、ふいに目が合う。さっきまでの無表情とは違っていた。目元だけで笑い、「がんばろうな」と小声で言う。
あ、この言い方、やっぱりそうだ。こんなところで会えるなんて。
「あ、あの、僕のこと分かりますか?あのときはありがとうございました。先程も助けていただいて……」
急いで頭を下げる。
ずーっと、お礼が言いたかったんだ。
お兄さんはマスクの口元に人差し指を当てて、「今、仕事中」と笑った。それから、すぐに店長に向き直る。大人の余裕を感じさせるような仕草に、思わず見入ってしまった。
お兄さん、やっぱり優しい人だなぁ。
その横顔を見ていると、不思議と気持ちが落ち着くような気がした。
鮭に唐揚げ、きんぴらに卵焼き。彩りにミニトマトとブロッコリーを添えた。
「よし!」
完成したお弁当をすみずみまでチェックしてから、ふたを閉じる。使い捨ての容器だから、洗って返してもらう必要はない。ペットボトルのお茶も一緒に入れようか。
そこまで考えて、さすがにやりすぎか、と思い直した。
――本当に持って行くの?
昨日「お前が作ったの、食いたい」と言われたけど、社交辞令だったらどうしよう。重いと思われたら?
「きっと大丈夫、大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるように呟く。
お隣さん、今日も遅くなるって言ってたな。
そろーっと玄関の外に出て、隣の部屋のドアの前に、お弁当の入ったクーラーボックスを置いた。食べてくれますように、と願いをこめて。
21時過ぎ、「ガチャリ」と鍵を開ける音が響いて、体をこわばらせた。
少し時間を置いて「トン、トン」とノックする音が聞こえてくる。僕はおずおずと壁に寄りかかり「おっ、お疲れさまです」と言った。
「……これ、俺がもらっていいの?」
いつもより少し高い声。
「は、はい。お口に合うか分からないですけど」
「合うに決まってる!」
間髪入れずに返事がきて、心臓がどくんと跳ねる。
「食べてみないと、分からないじゃないですか」
僕が拗ねたように言うと「今、ここで食べていい?」と聞かれた。無言で頷く。
僕が頷いたのなんて見えていないはずなのに、「じゃあ食べるね。いただきます」と箸を割る音が聞こえた。
「まずは唐揚げ。…………うん、美味い」
「味付けは、母の秘伝なんです」
「鶏肉がすごく柔らかい」
「それもコツがあるんですよ」
「……ごはんに合うね。このごはんも美味い。富山のお米?」
「それはすみません。近くのスーパーで買ったやつです」
「ふははっ」
初めて聞く笑い声。僕の口角も自然と上がる。
「鮭とか、久しぶりに食べた」
「たまには魚も食べないとダメですよ?」
「このきんぴら、ばあちゃんを思い出す」
「それって褒めてます?」
「褒めてる褒めてる」
あわてたように早口で言う声に、僕は顔を俯けて笑った。
「卵焼き。…………美味い」
「甘いの、大丈夫でした?」
「これくらいの甘さがちょうどいい」
ホッとして息を吐く。
「ごちそうさま」
「もう食べ終わったんですか?」
「うん、ありがとう」
その言葉に胸の奥がじわっと熱くなった。
また作りたい。またこの人に食べてもらいたい。『美味い』って笑ってほしい。
そのためなら、料理だってもっと頑張れる気がした。
……あれ?どうしてこんなことを思うんだろう。
名前も知らない。顔も分からないのに。『ありがとう』だけでこんなに幸せになれるなんて。
「好き、なのかな」
思わずこぼれた言葉に、あわてて口を塞いだ。
「……ん?全部、美味かったよ。特に卵焼き」
「そ、それは良かったです!」
部屋の姿見に映る顔が、真っ赤になっている。胸に手を当てると、いつもより早い心臓の音。
はっきり分かってしまった。ごまかすことなんてできなかった。
壁1枚隔てた向こうの人。
声しか知らない人。
それなのに……僕はお隣さんを好きになってしまったんだ。
うどんを食べていた僕は、顔を上げてみんなの視線を追う。そこにいたのは、友達らしき人と券売機に並ぶ鈴木先輩だった。
「桐谷、桐谷。鈴木先輩」
「んぁ?」
前に座る桐谷に声をかけると、なんとも間抜けな声を出して、丼から顔をあげる。僕が顎でさすと「あぁ、別に鈴木先輩はレアキャラじゃねーぞ」と言った。
「え、そうなの?」
ぽかんとする。
この前、サークルにきたときはあんなに騒いでいたのに。それに、僕はキャンパス内で先輩を見かけたことがなかった。
「そりゃ、同じ大学なんだから普通にいるだろ。佐藤が気にしてなかっただけ」
「でもこの前、すごかったじゃん」
「テニサーに顔出すんがレアなんだよ」
そうなんだ……。僕はずいぶんのほほんと大学生活を送っていたみたいだ。
その時、先輩がトレーを持ってこっちに向かってくるのに気づく。少し緊張して、背筋を伸ばした。
挨拶したほうがいいよね。僕たちのこと覚えてるのかな。
けれど先輩は、僕たちに視線を向けることもなく通り過ぎて、隣のテーブルについた。
「おばちゃんに唐揚げおまけしてもらったー」
「マジかよ、理来!さすがだな」
「俺、こんなに食えないからやるよ」
「神じゃん!」
笑い声が上がる。先輩は照れくさそうに笑って、「別に」と肩をすくめた。
その会話を聞いて、変に緊張していたのが恥ずかしくなる。先輩はレアキャラでもなく、雲の上の存在でもなく、普通の大学生なんだ。
……やっぱり優しい人だ。それに、なんとなく似てる気がする。優しい人の話し方だ。
「佐藤、あの後大丈夫だった?」
桐谷に声をかけられてハッとする。
「あ、うん。ちゃんと送ってもらったから、そんなに濡れなかったよ」
「遥くんとお前じゃあ身長差ありすぎて、傘差してても雨が吹き込むだろ」
僕はムッとして唇をとがらせた。
「それ、僕がチビって言いたいの?」
「俺は調子いいと171だから」
「2センチなんて誤差だし」
「その2センチで雨の当たり方が変わるんだよ」
桐谷とやいのやいの言っているところへ、ふと影がさす。
なんだ?と思って見ると、思わず息をのんだ。
いつの間にか、鈴木先輩がそばに立っていて、僕たちを見下ろしている。
「えっと……」
言葉に詰まってしまう。
先輩はあのはにかんだような笑顔で「どーも」と言った。
「ど、どーも」
ぺこりと頭を下げる。
桐谷が「先輩、こんちゃーす」と、挨拶した。先輩は「こんにちは。……ここ、いい?」と、僕の隣の席を指差す。
「あ、どーぞどーぞ」
慌てて荷物をどけると、先輩は「ありがと」と笑って腰を下ろした。
先輩の友達、まだ隣のテーブルにいるけど、こっちに来ちゃって大丈夫だったのかな。
「佐藤、うどん好きなの?」
「はい。学食の、すごく美味しいですよ。先輩は食べたことあります?」
「そういえば、ないかも」
そう言って、僕のうどんをじっと見つめる。……食べたいのかな?
「佐藤と桐谷は今日もサークル?」
「はい」
「うす」
すごい、僕たちの名前覚えててくれたんだ。桐谷が『頭がいい』って言ってたもんな。それでも、一言挨拶しただけの後輩のことを覚えてるなんて。
それに、こうして気さくに話しかけてくれたし。
「先輩はバイトですか?」
僕がおずおずと聞くと、先輩は眉尻を下げた。
「そうなんだよ。俺、バイトかけもちしてるから」
「え、めちゃ働くんすね」
桐谷が呆気にとられたように言う。
「何のバイトしてるんですか?」
僕が聞くと「飲食とか、販売とか、あとはイベント設営とか、単発の派遣も色々やってる」と答えてくれた。
「すげー、体力の消耗やばそう」
桐谷が声を上げる。
「そうだね。家に帰るとクタクタ」
「帰っても寝るだけになっちゃいますね」
「でも、最近はそうでもないよ」
「へぇー、何かあるんすか?」
桐谷が軽い調子で聞くと、先輩は少しだけ視線を泳がせた。
「帰る理由ができたから」
照れくさそうに笑う。
「帰る理由、って」
なんだろう。見たいドラマでもあるのかな?
箸を持った手を頬に当てて、「うーん」と考えていると、桐谷が身を乗り出す。
「それって、彼女っすか?」
一瞬の沈黙。
「……さぁね、どうだろ」
先輩はそれだけ言うと、ひらりと片手を上げて隣のテーブルへ戻っていった。
あ、たぶんだけど、ごまかしたんだな。
僕たちから顔をそむけるようにして座った先輩の、首の後ろが赤いような気がして、こっちまでむずがゆくなる。
そっか、恋人かぁ。あんなにかっこいい人だもん、そりゃいるんだろうな。
「トン、トン」
夕飯の食器を洗っているとき、ノックの音が聞こえた。急いで手についた泡を流して、壁に話しかける。
「お疲れさまです。バイトですか?」
「お疲れ。そう。疲れた」
「こんな時間まで、大変ですね」
机の上の時計を見ると、21時を過ぎている。
「今日は力仕事だったから腰が死んだ」
しょげたようなため息が聞こえる。
「それ、飲食じゃないですよね。バイト、かけもちしてるんですか?」
「うん」
今時はそういう大学生が多いのかな。
いろんな職種で働くって、覚えることがいっぱいあって大変そう。
「無理しないでください」
「……ありがとう」
「もし体調崩したら、僕が看病しますよ」
「ん、お願いする」
なんとなく甘酸っぱい雰囲気が漂う中、ふと、鈴木先輩との会話を思い出す。
「そういえば、かっこいいって言ってた先輩と、今日話したんですけど」
「………」
「彼女がいるらしいですよ」
一瞬、間が空いてから、「へぇ」とだけ返ってきた。こういう話題、あんまり興味ないかなぁ。
「恋してる人、いいなぁって思います。キラキラしてて」
「そいつのこと、気になってるの?」
「……え?」
気になってるってどういう意味で?そりゃかっこいいし、今日はちょっと可愛かったけど……。まさか、僕が先輩のこと、好きだとか思ってる?
「いやいやいや、ただの先輩ですよ」
無駄に手を振ると、壁の向こうからため息が聞こえた。
なんのため息?
「お隣さんはいるんですか?……恋人」
なぜか緊張して、手をぎゅっと握りしめた。
「いないよ」
すぐに低い声が返ってきて、一気に肩の力が抜ける。
「いたら、こんな時間に壁と話してない」
思わず吹き出した。
「それは、そうですね」
あれ?なんで僕、ホッとしてるんだろう。お隣さんに恋人がいても、僕には関係ないのに。でも、いたらきっと、すごく大切にするんだろうな。
なぜかその想像はしたくなくて、僕はあわてて話題を変えた。
「ごはんはこれからですか?」
「うん、コンビニのおにぎり、買ってきた」
「ちゃんと食べないと、体力持たないですよ」
「作れない」
子どもみたいな言い方に、「ふふ」と笑ってしまう。
「僕が作ったので良ければ、今度お裾分けしましょうか」
言ってからハッとした。壁の向こうが、しんと静まり返る。
やっちゃった!恋人の話といい、今日はちょっと踏み込みすぎちゃったかも。
「すすすすみません!図々しかったですよね」
次の瞬間、ふっと笑う気配がした。
「なんでお前が図々しいんだよ。それを言うなら俺だろ?」
「え?」
「お前が作ったの、食いたい」
思わず息をのむ。
「いいんですか?」
「何がだよ」
「顔も知らない人間が作ったものですよ」
お隣さんは、ふっと柔らかく笑って「お前なら、いい」と言った。
心臓がドキドキしてる。
顔も分からないのに。
声しか知らないのに。
なんでこんなに嬉しいんだろう。
あの言葉が、翌日になっても頭から離れなかった。
「おーい、佐藤くん!」
店長に呼びかけられて、ハッと顔を上げる。
「レジ混んできたから、こっち出てきて」
「あ、はい」
両手に持ったペットボトルを、急いで冷蔵ケースに並べた。
バックヤードから出ると、桐谷がさばくレジには、すでに5人以上のお客さんが並んでいた。
「お待ちのお客様、こちらへどうぞ」
もう片方のレジに向かいながら声をかける。時計を見ると、11時50分。気がついたら、お昼の混む時間帯になってしまっていた。
しっかりしないと!
自分に気合を入れて、お給料をもらってる分はちゃんと働く。
「なんか、今日変だよな?」
お客さんがまばらになったころ、桐谷が僕の顔を覗き込んで言った。僕はギクリとして、手に持っていたメモ帳を落とす。
それを拾うふりをして、少し顔を隠した。
「そ、そんなことっ、ないよ」
「いや、やっぱ変だ。時々、魂抜けてるし」
「うぅ……」
桐谷は探るような視線を僕に向ける。
「顔、赤いぞ」
次の瞬間、桐谷は何かに気づいたように目を瞬いて、口を両手で覆った。
「もしかして佐藤、俺のこと好きになった?」
「はあぁぁ?!」
からかってるだけだと分かっているのに、思わず大声が出る。店内にいた女性客が、ビクッとしてこっちを向いた。あわてて「申し訳ございません!」と陳謝する。
事務所にいる店長に気づかれたらまずい。
「違うし!なんで桐谷なんだよ!僕は―――」
小声で詰め寄るが、途中で言葉が途切れる。
僕は?
僕は……その後、なんて言おうとしたんだ?
自分で自分に対して、首を傾げる。
その時、自動ドアが開くと同時にチャイムが鳴り、同じ制服を着た男子高校生が2人入ってきた。
「あ、遥くん」
「お疲れっす」
1人は遥くん、もう1人はお友達だろう。遥くんと同じくらい背が高くてイケメンだ。お友達のほうは、僕と目が合うとにっこり微笑んだ。
2人で連れ立って店内を歩くと、さっきの女性客が圧倒されたように眺めている。まるで、モデルのランウェイだ。
もう一度チャイムがなり、今度は集荷業者が入ってきた。まっすぐレジに向かってくる。
今日はいつも来てくれる愛想のいいおじさんじゃなく、背の高い若そうな男の人だった。目深に帽子をかぶり、メガネとマスクをつけているから顔は見えないけど。
「集荷お願いします」
目が合わないまま、くぐもった声で言われ、「はぁい」と返事する。その時、一瞬だけ顔を上げて、じっと見られたような気がした。
不思議に思いつつ、事務所にいる店長に「業者さん来ましたー!」と声をかける。
その間に、お菓子とジュースを選んだ遥くんとお友達が僕のいるレジに来た。
「学校帰り?お友達と一緒に寄ってくれたんだね」
バーコードを読み取りながら話しかけると、お友達のほうがいきなり身を乗り出して、僕の前髪を触ってきた。
「この子がお前の先輩?マジで年上なの?!」
「おい、やめろよ!」
遥くんがその手を払う。突然のことに言葉を失っていた僕は、ハッとして眉を顰めた。
僕が子どもっぽいって言いたいのか?はっきり言って、身長は平均より少し低いかもしれないけど、この凛々しい眉毛はよく褒められるんだ。
ムッとして、高いところにある顔を睨みあげる。
「わっ!睨んでる。可愛いんだけど」
「はぁ?!」
僕が声をあげると、そいつは面白そうに見下ろしてきた。
「ホント、童顔だな。年下って言われても信じるわ」
「ずいぶん失礼ですね!」
「おいって!ちょっかい出すなよ」
遥くんが苦笑いする。その時だった。
「お客様」
低い声が店内に響いた。
振り返ると、業者さんが伝票を持ったまま立っている。
「レジ、止まってます」
「あっ!」
僕はあわてて、バーコードの読み取りを再開した。
「おい、お前のせいだぞ」
遥くんがお友達の肩をたたく。
「東さん、すみません」
「……別に、いいけど」
会計を終えても、そいつは嫌らしい笑顔を浮かべていたが、それ以上は何も言ってこない。
ふと視線をあげると、業者さんはもう店長と集荷の確認をしていた。
この人って……あのときの宅配便のお兄さん?この制服、たぶんそうだよね。あのときも今も、顔はよく分からないけど、すごく雰囲気が似てる。また助けてくれたし。
思わずじっと見つめると、ふいに目が合う。さっきまでの無表情とは違っていた。目元だけで笑い、「がんばろうな」と小声で言う。
あ、この言い方、やっぱりそうだ。こんなところで会えるなんて。
「あ、あの、僕のこと分かりますか?あのときはありがとうございました。先程も助けていただいて……」
急いで頭を下げる。
ずーっと、お礼が言いたかったんだ。
お兄さんはマスクの口元に人差し指を当てて、「今、仕事中」と笑った。それから、すぐに店長に向き直る。大人の余裕を感じさせるような仕草に、思わず見入ってしまった。
お兄さん、やっぱり優しい人だなぁ。
その横顔を見ていると、不思議と気持ちが落ち着くような気がした。
鮭に唐揚げ、きんぴらに卵焼き。彩りにミニトマトとブロッコリーを添えた。
「よし!」
完成したお弁当をすみずみまでチェックしてから、ふたを閉じる。使い捨ての容器だから、洗って返してもらう必要はない。ペットボトルのお茶も一緒に入れようか。
そこまで考えて、さすがにやりすぎか、と思い直した。
――本当に持って行くの?
昨日「お前が作ったの、食いたい」と言われたけど、社交辞令だったらどうしよう。重いと思われたら?
「きっと大丈夫、大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるように呟く。
お隣さん、今日も遅くなるって言ってたな。
そろーっと玄関の外に出て、隣の部屋のドアの前に、お弁当の入ったクーラーボックスを置いた。食べてくれますように、と願いをこめて。
21時過ぎ、「ガチャリ」と鍵を開ける音が響いて、体をこわばらせた。
少し時間を置いて「トン、トン」とノックする音が聞こえてくる。僕はおずおずと壁に寄りかかり「おっ、お疲れさまです」と言った。
「……これ、俺がもらっていいの?」
いつもより少し高い声。
「は、はい。お口に合うか分からないですけど」
「合うに決まってる!」
間髪入れずに返事がきて、心臓がどくんと跳ねる。
「食べてみないと、分からないじゃないですか」
僕が拗ねたように言うと「今、ここで食べていい?」と聞かれた。無言で頷く。
僕が頷いたのなんて見えていないはずなのに、「じゃあ食べるね。いただきます」と箸を割る音が聞こえた。
「まずは唐揚げ。…………うん、美味い」
「味付けは、母の秘伝なんです」
「鶏肉がすごく柔らかい」
「それもコツがあるんですよ」
「……ごはんに合うね。このごはんも美味い。富山のお米?」
「それはすみません。近くのスーパーで買ったやつです」
「ふははっ」
初めて聞く笑い声。僕の口角も自然と上がる。
「鮭とか、久しぶりに食べた」
「たまには魚も食べないとダメですよ?」
「このきんぴら、ばあちゃんを思い出す」
「それって褒めてます?」
「褒めてる褒めてる」
あわてたように早口で言う声に、僕は顔を俯けて笑った。
「卵焼き。…………美味い」
「甘いの、大丈夫でした?」
「これくらいの甘さがちょうどいい」
ホッとして息を吐く。
「ごちそうさま」
「もう食べ終わったんですか?」
「うん、ありがとう」
その言葉に胸の奥がじわっと熱くなった。
また作りたい。またこの人に食べてもらいたい。『美味い』って笑ってほしい。
そのためなら、料理だってもっと頑張れる気がした。
……あれ?どうしてこんなことを思うんだろう。
名前も知らない。顔も分からないのに。『ありがとう』だけでこんなに幸せになれるなんて。
「好き、なのかな」
思わずこぼれた言葉に、あわてて口を塞いだ。
「……ん?全部、美味かったよ。特に卵焼き」
「そ、それは良かったです!」
部屋の姿見に映る顔が、真っ赤になっている。胸に手を当てると、いつもより早い心臓の音。
はっきり分かってしまった。ごまかすことなんてできなかった。
壁1枚隔てた向こうの人。
声しか知らない人。
それなのに……僕はお隣さんを好きになってしまったんだ。



