トントン、おとなりです。

ふと、食堂内がざわめいた。
うどんを食べていた僕は、顔を上げてみんなの視線を追う。
そこにいたのは、友達らしき人と券売機に並ぶ鈴木先輩だった。
「桐谷、桐谷。鈴木先輩」
「んぁ?」
前に座る桐谷に声をかけると、なんとも間抜けな声を出して、丼から顔をあげる。
僕が顎でさすと「あぁ、別に鈴木先輩はレアキャラじゃねーぞ」と言った。
「え、そうなの?」
ぽかんとする。
この前、サークルにきたときはあんなに騒いでいたのに。
それに、僕はキャンパス内で先輩を見かけたことがなかった。
「そりゃ、同じ大学なんだから普通にいるだろ。佐藤が気にしてなかっただけ」
「でもこの前、すごかったじゃん」
「テニサーに顔出すんがレアなんだよ」
そうなんだ……
僕はずいぶんのほほんと大学生活を送っていたみたいだ。
その時、先輩がトレーを持ってこっちに向かってくるのに気づく。
少し緊張して、背筋を伸ばした。
挨拶したほうがいいよね。
僕たちのこと覚えてるのかな。
けれど先輩は、僕たちに視線を向けることもなく通り過ぎて、隣のテーブルについた。
「おばちゃんに唐揚げおまけしてもらったー」
「マジかよ、理来!さすがだな」
「俺、こんなに食えないからやるよ」
「神じゃん!」
笑い声が上がる。
先輩は照れくさそうに笑って、「別に」と肩をすくめた。
その会話を聞いて、変に緊張していたのが恥ずかしくなる。
先輩はレアキャラでもなく、雲の上の存在でもなく、普通の大学生なんだ。
……やっぱり優しい人だ。
それに、なんとなく似てる気がする。
優しい人の話し方だ。
「佐藤、あの後大丈夫だった?」
桐谷に声をかけられてハッとする。
「あ、うん。ちゃんと送ってもらったから、そんなに濡れなかったよ」
「遥くんとお前じゃあ身長差ありすぎて、傘差してても雨が吹き込むだろ」
僕はムッとして唇をとがらせた。
「それ、僕がチビって言いたいの?」
「俺は調子いいと171だから」
「2センチなんて誤差だし」
「その2センチで雨の当たり方が変わるんだよ」
桐谷とやいのやいの言っているところへ、ふと影がさす。
なんだ?と思って見ると、思わず息をのんだ。
いつの間にか、鈴木先輩がそばに立っていて、僕たちを見下ろしている。
「えっと……」
言葉に詰まってしまう。
先輩はあのはにかんだような笑顔で「どーも」と言った。
「ど、どーも」
ぺこりと頭を下げる。
桐谷が「先輩、こんちゃーす」と、挨拶した。
先輩は「こんにちは。……ここ、いい?」と、僕の隣の席を指差す。
「あ、どーぞどーぞ」
慌てて荷物をどけると、先輩は「ありがと」と笑って腰を下ろした。
先輩の友達、まだ隣のテーブルにいるけど、こっちに来ちゃって大丈夫だったのかな。
「佐藤、うどん好きなの?」
「はい。学食の、すごく美味しいですよ。先輩は食べたことあります?」
「そういえば、ないかも」
そう言って、僕のうどんをじっと見つめる。
……食べたいのかな?
「佐藤と桐谷は今日もサークル?」
「はい」
「うす」
すごい、僕たちの名前覚えててくれたんだ。
桐谷が『頭がいい』って言ってたもんな。
それでも、一言挨拶しただけの後輩のことを覚えてるなんて。
それに、こうして気さくに話しかけてくれたし。
「先輩はバイトですか?」
僕がおずおずと聞くと、先輩は眉尻を下げた。
「そうなんだよ。俺、バイトかけもちしてるから」
「え、めちゃ働くんすね」
桐谷が呆気にとられたように言う。
「何のバイトしてるんですか?」
僕が聞くと「飲食とか、販売とか、あとはイベント設営とか、単発の派遣も色々やってる」と答えてくれた。
「すげー、体力の消耗やばそう」
と桐谷。
「そうだね。家に帰るとクタクタ」
「帰っても寝るだけになっちゃいますね」
「でも、最近はそうでもないよ」
「へぇー、何かあるんすか?」
桐谷が軽い調子で聞く。
先輩は少しだけ視線を泳がせると
「帰る理由ができたから」
と、照れくさそうに笑った。
「帰る理由、って」
なんだろう。
見たいドラマでもあるのかな?
箸を持った手を頬に当てて、「うーん」と考えていると、桐谷が身を乗り出す。
「それって、彼女っすか?」
一瞬の沈黙。
「……さぁね、どうだろ」
先輩はそれだけ言うと、ひらりと片手を上げて隣のテーブルへ戻っていった。
あ、たぶんだけど、ごまかしたんだな。
僕たちから顔をそむけるようにして座った先輩の、首の後ろが赤いような気がして、こっちまでむずがゆくなる。
そっか、恋人かぁ。
あんなにかっこいい人だもん、そりゃいるんだろうな。


「トン、トン」
夕飯の食器を洗っているとき、ノックの音が聞こえた。
急いで手についた泡を流して、壁に話しかける。
「お疲れさまです。バイトですか?」
「お疲れ。そう。疲れた」
「こんな時間まで、大変ですね」
机の上の時計を見ると、21時を過ぎている。
「今日は力仕事だったから腰が死んだ」
しょげたようなため息が聞こえる。
「それ、飲食じゃないですよね。バイト、かけもちしてるんですか?」
「うん」
今時はそういう大学生が多いのかな。
いろんな職種で働くって、覚えることがいっぱいあって大変そう。
「無理しないでください」
「……ありがとう」
「もし体調崩したら、僕が看病しますよ」
「ん、お願いする」
なんとなく甘酸っぱい雰囲気が漂う中、ふと、鈴木先輩との会話を思い出す。
「そういえば、かっこいいって言ってた先輩と、今日話したんですけど」
「………」
「彼女がいるらしいですよ」
一瞬、間が空いてから
「……へぇ」
とだけ返ってきた。
こういう話題、あんまり興味ないかなぁ。
「恋してる人、いいなぁって思います。キラキラしてて」
「そいつのこと、気になってるの?」
「……え?」
気になってるってどういう意味で?
そりゃかっこいいし、今日はちょっと可愛かったけど……
まさか、僕が先輩のこと、好きだとか思ってる?
「いやいやいや、ただの先輩ですよ」
無駄に手を振ると、壁の向こうからため息が聞こえた。
なんのため息?
「お隣さんはいるんですか?……恋人」
なぜか緊張して、手をぎゅっと握りしめた。
「いないよ」
すぐに低い声が返ってきて、一気に肩の力が抜ける。
「いたら、こんな時間に壁と話してない」
思わず吹き出した。
「それは、そうですね」
あれ?なんで僕、ホッとしてるんだろう。
お隣さんに恋人がいても、僕には関係ないのに。
でも、いたらきっと、すごく大切にするんだろうな。
なぜかその想像はしたくなくて、僕はあわてて話題を変えた。
「ごはんはこれからですか?」
「うん、コンビニのおにぎり、買ってきた」
「ちゃんと食べないと、体力持たないですよ」
「作れない」
子どもみたいな言い方に、「ふふ」と笑ってしまう。
「僕が作ったので良ければ、今度お裾分けしましょうか」
言ってからハッとした。
壁の向こうが、しんと静まり返る。
やっちゃった!
恋人の話といい、今日はちょっと踏み込みすぎちゃったかも。
「すすすすみません!図々しかったですよね」
次の瞬間、ふっと笑う気配がした。
「なんでお前が図々しいんだよ。それを言うなら俺だろ?」
「え?」
「お前が作ったの、食いたい」
思わず息をのむ。
「いいんですか?」
「何がだよ」
「顔も知らない人間が作ったものですよ」
お隣さんは、ふっと柔らかく笑って「お前なら、いい」と言った。


心臓がドキドキしてる。
顔も分からないのに。
声しか知らないのに。
なんでこんなに嬉しいんだろう。
あの言葉が、翌日になっても頭から離れなかった。
「おーい、佐藤くん!」
店長に呼びかけられて、ハッと顔を上げる。
「レジ混んできたから、こっち出てきて」
「あ、はい」
両手に持ったペットボトルを、急いで冷蔵ケースに並べた。
バックヤードから出ると、桐谷がさばくレジには、すでに5人以上のお客さんが並んでいた。
「お待ちのお客様、こちらへどうぞ」
もう片方のレジに向かいながら声をかける。
時計を見ると、11時50分。
気がついたら、お昼の混む時間帯になってしまっていた。
しっかりしないと!
自分に気合を入れて、お給料をもらってる分はちゃんと働く。

「なんか、今日変だよな?」
お客さんがまばらになったころ、桐谷が僕の顔を覗き込んで言った。
僕はギクリとして、手に持っていたメモ帳を落とす。
それを拾うふりをして、少し顔を隠した。
「そ、そんなことっ、ないよ」
「いや、やっぱ変だ。時々、魂抜けてるし」
「うぅ……」
桐谷は探るような視線を僕に向ける。
「顔、赤いぞ」
次の瞬間、桐谷は何かに気づいたように目を瞬いて、口を両手で覆った。
「もしかして佐藤、俺のこと好きになった?」
「はあぁぁ?!」
からかってるだけだと分かっているのに、思わず大声が出る。
店内にいた女性客が、ビクッとしてこっちを向いた。
あわてて「申し訳ございません!」と陳謝する。
事務所にいる店長に気づかれたらまずい。
「違うし!なんで桐谷なんだよ!僕は―――」
小声で詰め寄るが、途中で言葉が途切れる。
僕は?
僕は……その後、なんて言おうとしたんだ?
自分で自分に対して、首を傾げる。
その時、自動ドアが開くと同時にチャイムが鳴り、同じ制服を着た男子高校生が2人入ってきた。
「あ、遥くん」
「お疲れっす」
1人は遥くん、もう1人はお友達だろう。
遥くんと同じくらい背が高くてイケメンだ。
お友達のほうは、僕と目が合うとにっこり微笑んだ。
2人で連れ立って店内を歩くと、さっきの女性客が圧倒されたように眺めている。
まるで、モデルのランウェイだ。
もう一度チャイムがなり、今度は集荷業者が入ってきた。
まっすぐレジに向かってくる。
今日はいつも来てくれる愛想のいいおじさんじゃなく、背の高い若そうな男の人だった。
目深に帽子をかぶり、メガネとマスクをつけているから顔は見えないけど。
「集荷お願いします」
目が合わないまま、くぐもった声で言われ、「はぁい」と返事する。
その時、一瞬だけ顔を上げて、じっと見られたような気がした。
不思議に思いつつ、事務所にいる店長に「業者さん来ましたー!」と声をかける。
その間に、お菓子とジュースを選んだ遥くんとお友達が僕のいるレジに来た。
「学校帰り?お友達と一緒に寄ってくれたんだね」
バーコードを読み取りながら話しかけると、お友達のほうがいきなり身を乗り出して、僕の前髪を触ってきた。
「この子がお前の先輩?マジで年上なの?!」
「おい、やめろよ!」
遥くんがその手を払う。
突然のことに言葉を失っていた僕は、ハッとして眉を顰めた。
僕が子どもっぽいって言いたいのか?
はっきり言って、身長は平均より少し低いかもしれないけど、この凛々しい眉毛はよく褒められるんだ。
ムッとして、高いところにある顔を睨みあげる。
「わっ!睨んでる。可愛いんだけど」
「はぁ?!」
僕が声をあげると、そいつは面白そうに見下ろしてきた。
「ホント、童顔だな。年下って言われても信じるわ」
「ずいぶん失礼ですね!」
「おいって!ちょっかい出すなよ」
遥くんが苦笑いする。
その時だった。
「お客様」
低い声が店内に響いた。
振り返ると、業者さんが伝票を持ったまま立っている。
「レジ、止まってます」
「あっ!」
僕はあわてて、バーコードの読み取りを再開した。
「おい、お前のせいだぞ」
遥くんがお友達の肩をたたく。
「東さん、すみません」
「……別に、いいけど」
会計を終えても、そいつは嫌らしい笑顔を浮かべていたが、それ以上は何も言ってこない。
ふと視線をあげると、業者さんはもう店長と集荷の確認をしていた。
この人って……あのときの宅配便のお兄さん?
この制服、たぶんそうだよね。
あのときも今も、顔はよく分からないけど、すごく雰囲気が似てる。
また助けてくれたし。
思わずじっと見つめると、ふいに目が合う。
さっきまでの無表情とは違っていた。
目元だけで笑い、「がんばろうな」と小声で言う。
あ、この言い方、やっぱりそうだ。
こんなところで会えるなんて。
「あ、あの、僕のこと分かりますか?あのときはありがとうございました。先程も助けていただいて……」
急いで頭を下げる。
ずーっと、お礼が言いたかったんだ。
お兄さんはマスクの口元に人差し指を当てて、「今、仕事中」と笑った。
それから、すぐに店長に向き直る。
大人の余裕を感じさせるような仕草に、思わず見入ってしまった。
お兄さん、やっぱり優しい人だなぁ。
その横顔を見ていると、不思議と気持ちが落ち着くような気がした。


鮭に唐揚げ、きんぴらに卵焼き。
彩りにミニトマトとブロッコリーを添えた。
「よし!」
完成したお弁当をすみずみまでチェックしてから、ふたを閉じる。
使い捨ての容器だから、洗って返してもらう必要はない。
ペットボトルのお茶も一緒に入れようか。
そこまで考えて、さすがにやりすぎか、と思い直した。
――本当に持って行くの?
昨日「お前が作ったの、食いたい」と言われたけど、社交辞令だったらどうしよう。
重いと思われたら?
「きっと大丈夫、大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるように呟く。
お隣さん、今日も遅くなるって言ってたな。
そろーっと玄関の外に出て、隣の部屋のドアの前に、お弁当の入ったクーラーボックスを置いた。
食べてくれますように、と願いをこめて。

21時過ぎ、「ガチャリ」と鍵を開ける音が響いて、体をこわばらせた。
少し時間を置いて「トン、トン」とノックする音が聞こえてくる。
僕はおずおずと壁に寄りかかり「おっ、お疲れさまです」と言った。
「……これ、俺がもらっていいの?」
いつもより少し高い声。
「は、はい。お口に合うか分からないですけど」
「合うに決まってる!」
間髪入れずに返事がきて、心臓がどくんと跳ねる。
「食べてみないと、分からないじゃないですか」
僕が拗ねたように言うと「今、ここで食べていい?」と聞かれた。
無言で頷く。
僕が頷いたのなんて見えていないはずなのに
「じゃあ食べるね。いただきます」
と箸を割る音が聞こえた。
「まずは唐揚げ。…………うん、美味い」
「味付けは、母の秘伝なんです」
「鶏肉がすごく柔らかい」
「それもコツがあるんですよ」
「……ごはんに合うね。このごはんも美味い。富山のお米?」
「それはすみません。近くのスーパーで買ったやつです」
「ふははっ」
初めて聞く笑い声。
僕の口角も自然と上がる。
「鮭とか、久しぶりに食べた」
「たまには魚も食べないとダメですよ?」
「このきんぴら、ばあちゃんを思い出す」
「それって褒めてます?」
「褒めてる褒めてる」
あわてたように早口で言う声に、僕は顔を俯けて笑った。
「卵焼き。…………美味い」
「甘いの、大丈夫でした?」
「これくらいの甘さがちょうどいい」
ホッとして息を吐く。
「ごちそうさま」
「もう食べ終わったんですか?」
「うん、ありがとう」
その言葉に胸の奥がじわっと熱くなった。
また作りたい。
またこの人に食べてもらいたい。
『美味い』って笑ってほしい。
そのためなら、料理だってもっと頑張れる気がした。
……あれ?
どうしてこんなことを思うんだろう。
名前も知らない。
顔も分からないのに。
『ありがとう』だけでこんなに幸せになれるなんて。
「好き、なのかな」
思わずこぼれた言葉に、あわてて口を塞いだ。
「……ん?全部、美味かったよ。特に卵焼き」
「そ、それは良かったです!」
部屋の姿見に映る顔が、真っ赤になっている。
胸に手を当てると、いつもより早い心臓の音。
はっきり分かってしまった。
ごまかすことなんてできなかった。
壁1枚隔てた向こうの人。
声しか知らない人。
それなのに……僕はお隣さんを好きになってしまったんだ。