トントン、おとなりです。

 理来には3つの顔がある。宅配便のお兄さん、大学での鈴木先輩、僕の恋人の理来。

 でも、もっとあるのかも……。ある日ふと、そんなことを考えた。

 「ねぇねぇ」

 「……んー?」

 僕の膝に頭を乗せて、うつらうつらしていた理来が、うっすらと目を開ける。

 「理来のバイト先に、お茶しに行きたい」

 「んー、いいけど」

 理来は目を開けて、僕を見上げた。

 「けど?」

 「構ってやれないよ」

 その言葉に、頬を膨らませる。

 「僕はそんな子供じゃない!仕事中に構ってほしいなんて、思わないよ」

 「そう?それならいいよ」

 そう言いながら、僕のお腹に額をつけて、すーすーと寝息を立て始めた。



 おっしゃれなカフェ!
 リュックのひもをギュッと握ったまま、店内を見渡す。
 アンティークっていうの?分かんないけど、年季の入った木のテーブルに椅子、磨き込まれた床。無数の観葉植物が、完璧な角度で配置されている。
 今までの僕には、縁のなかった場所だ。

 「こちら、どうぞ」

 柔らかな微笑みをたたえた女性店員さんが、席に案内してくれた。

 「ありがとうございます。あ、とりあえず、コーヒーで」

 『とりあえずビール』みたいな言い方をしてしまう。

 「承知しました」

 女性店員さんは何事もなかったように頷いて、去っていった。メニューを取って、それを見るふりをしながら理来を探す。

 「あ」

 いた!
 カウンターの奥から、トレーを持って出てきた理来は、白のワイシャツに黒のショートエプロンをつけている。

 う、わ〜!かっこいい!僕の恋人、かっこよすぎでしょ。
 ドキドキしながら見ていると、ふいに目が合った。理来が一瞬だけ、目を細めて笑う。僕はメニューを持ち替えるふりをして、指先をひらひらさせた。

 そのとき、一人の女性客がさっと手を挙げて、理来はそっちに向かっていった。

 さて、仕事の邪魔をしない約束だ。リュックからテキストとペンケースを出して広げる。でも、意識は理来に集中したまま。

 楽しそうな笑い声が聞こえて、つい視線を向けると、さっきの女性客と親しげに話していた。
 ……もや。
 女性は理来の腕に手を添えて、理来も何も気にしてないみたいに笑っている。いつもの優しい顔だけど……。

 宅配便のお兄さんのときは、寡黙な働く男って雰囲気なのに、今の理来は……。
 大学でのはにかんだような顔とも、家での甘えたな顔とも違う、余裕のある大人みたいな笑顔。大人の対応ってやつ。

 そんなの当たり前だろ、仕事なんだから。でも……理来の顔が、また一つ増えちゃったじゃん。

 雑念を振り切るように、テキストに目を向けた。
 もやもや、そわそわ、もやもや、そわそわ……。あぁ、全然集中なんかできない。

 「お待たせしました」

 低い声に、パッと顔を上げる。理来が穏やかな店員の顔で、静かにカップを置いた。

 「ありがとう、ございます」

 小さな声で言って、ぺこりと頭を下げる。

 「ごゆっくりどうぞ」

 理来はそのまま背を向けた。

 え、それだけ?……そう、だよね。分かってる、分かってるけど、なんか……。

 「鈴木くん」

 近くのテーブルから呼ばれた理来が、「はい」と言って向きを変えた。

 「ご注文ですか?」

 「この前、鈴木くんがおすすめしてくれたケーキ、今日ある?」

 「ありますよ。お持ちしましょうか?」

 「お願い。それと、いつもの」

 「ブレンドですね。承知しました」

 「ありがとう。つい鈴木くんがいる日に来ちゃうのよね」

 「ありがとうございます。俺も、お会いできるのが楽しみですよ」

 お客さんとの会話を、肩越しに聞く。聞きたくなんかないのに、勝手に耳に入ってきた。
 営業トークだって、分かってる。けど、『楽しみ』と言った理来の声が、僕の胸に刺さった。

 理来の表情は見えないけど、僕と2人のときの話し方とは全然違う。会話の内容も、大学でも絶対言わないようなことだ。

 カウンターに戻っていく理来の背中をじっと見つめて、コーヒーを一口飲んだ。
 ……苦い。
 二口目を飲んでから、砂糖を入れ忘れたことに気づいた。

 はぁ、全然文字なんか頭に入んないし、もう帰ろうかな。
 テキストを閉じたとき、「お待たせしました」と低い声が聞こえて、またまた顔を上げた。
 理来が僕の座っているテーブルの前に、トレーを持って立っている。

 ……ん?僕、コーヒーしか注文してないんだけど。コト、と置かれたのはチョコレートケーキ。
 なんで?

 呆気にとられてお皿を見つめていると、理来がトレーで顔を隠すようにして腰をかがめた。

 「これ、サービス」

 僕にだけ聞こえる声で言う。照れくさそうに笑うその顔は、僕がよく知っているものだった。

 「いいの?」

 僕も小声で返すと、理来は小さく頷く。

 「鈴木くーん」

 「はい」

 さっきのお客さんに呼ばれて、店員の顔に戻った理来は、すっと僕に背中を向けた。その背中を見送って、ケーキに視線を戻す。
 僕がチョコ好きだから、だよね。
 にやにやが抑えられず、両手で口を覆った。そのケーキは、甘くて、ちょっとだけ苦かった。



 「理来、今日ケーキ奢ってくれてありがと」

 膝の上にある頭を、さらさらと撫でながら言った。

 「んー」

 理来が向きを変えて、僕を見上げる。その顔はいつもの甘えたな理来だ。

 「気に入ったんなら、また来れば?」

 僕は首を横に振った。

 「ううん、もう行かない」

 「……なんで?」

 「仕事中の理来、かっこよすぎるから」

 「……嫉妬した?」

 「ちょっとだけ」

 理来は起き上がって、僕の背中に腕を回した。ギューギュー抱きしめられて苦しかったけど、すごく幸せだ。
 理来のこんな姿は、僕だけが知っている。それで充分だ。