「佐藤東さん?これ、合ってます?」
玄関で差し出された段ボールに張り付いている宅配伝票。
その懐かしい字を見た途端、なんの引っかかりもなく、涙が頬を伝っていた。
「あー、と……それ、アパートの名前と部屋番号が書いてないから、事業所どまりになってたんだ。電話番号も間違ってるみたいで連絡とれなかったらしくて…」
宅配便のお兄さんは、口を噤んでほろほろと泣いている僕に言い訳のように説明した。
おかんのミスなんだから、そんなの気にしなくていいのに。
「あ、ありがとうございます」
やっと声を絞り出した僕に、お兄さんは深くかぶった帽子を少しだけ持ち上げる。
それから、口角を上げて
「がんばろうな」
と、励ますように微笑んだ。
ウキウキした気分で始まった一人暮らしと大学生活。
1ヶ月も経つと、そんな気分は風船のようにしぼみ、ただただ虚しさが襲ってくる。
それなりに友達もできた。
テニスサークルに入り、傍から見れば充実した大学生活に見えるんだろう。
けれど、賑やかなキャンパスから離れ、アパートの部屋に戻ると、その静けさがガラスのかけらのように刺さってくる。
「ただいま……」
誰もいない空間に低い声が響く。
当然返事なんてない。
「はぁ」
壁に背をつけて座り、夕飯どうしようかな、今日もコンビニでいいか、なんて考えている。
お腹を満たすためだけのごはんは、なんとも味気ない。
実家の食卓はいつも賑やかだったなぁ。
おとんが釣ってきた魚を、おかんが文句言いながらさばいて、その日の釣果をくどくど自慢しながらお酒を飲む。
弟の北斗が食卓におもちゃを置くと、じいちゃんが怒る怒る、それを姉ちゃんがなだめて。
北斗は怒られても全然へっちゃらで、「兄ちゃん、食べたら遊ぼうね!」なんて言ってくる。
ばあちゃんは仏壇の写真の中だけど、いつも笑って見ているような気がしてた。
思い出すと、目の奥が熱くなってくる。
こんなことで泣いて、おとんに男らしくないって怒られるかな。
だめだと思うほど、堪えきれなくなってきて
「ふっ、うっ、う〜〜」
と、肩を震わせて泣いてしまう。
その時、壁の向こうから
「トン、トン」
と、ノックのような音が聞こえた。
やばい!と思って、慌てて壁から離れる。
「ごめんなさ〜い」
小さな声だからさすがに聞こえないだろうけど、つい謝ってしまう。
焦って涙は引っ込んだ。
変な声出して、うるさいし、キモかったかな。
隣の部屋がどんな人かは知らない。
今どきは引っ越しの挨拶はしないもんだと言われて、時々、このアパートの住人っぽい人は見かけるけど、誰とも言葉を交わしたことはなかった。
でも、ここは学生アパートだから、同じ大学の学生だということは確かだ。
「トン、トン」
さっきと同じリズムで壁をノックされる。
なんだろう、と思って近づくと
「大丈夫?」
と言う声が聞こえた。
低い、男の人の声だけど、気遣うような雰囲気が滲んでいる。
口の横に手をつけて
「大丈夫です。すみません、うるさくして」
と、壁に向かって答える。
これで終わりだろうと思いきや、思いがけず声が返ってきた。
「泣いてんだろ?」
言葉に詰まってしまい、黙っていると
「どうした?さびしくなった?」
と、柔らかい声が聞こえる。
その声を聞いた途端、僕はたまらなくなって
「さびしいんです。1人ぼっちで」
と答えていた。
「実家はどこ?」
「富山です」
「遠いな……1人で来たのか?」
「そうなんです。親は仕事で離れられないし、弟がまだ小さいから」
「弟さん、何歳?」
「5歳です」
「可愛いだろうな」
「すごく可愛いです」
言葉を交わした時間は5分もないくらいだったけど、その後、僕はなんだか元気になってきた。
今日はコンビニ弁当はやめにする。
実家から送られてきた野菜があるし、カレーでも作ろうか。
たくさん作ったら、隣の人にもお裾分けしようかな。
そこまで考えて頭を振る。
優しい人だけど、さすがにそれは困るだろう。
……そういえばこの前、荷物を届けてくれた宅配便のお兄さん。
僕がいきなり泣き出したから困っただろうな。
今さらながら恥ずかしくなってくる。
帽子をかぶっていて顔は見えなかったけど、あのお兄さんも優しい人だった。
さびしいと思うばかりで周りが見えてなかったけど、ここには優しい人もいっぱいいるんだ。
あの日から1週間。
「ただいま〜」
ドアを開けると、誰もいない部屋は相変わらず静かだ。
でも、前みたいにその静けさが怖いとは感じなかった。
荷物を置いて、壁にそっと寄りかかる。
「トン、トン」
軽くノックすると、少し時間を置いて
「お疲れ」
と、柔らかい声が返ってくる。
「お疲れさまです。今日のサークルも、たくさん走りました〜」
ため息まじりに言うと、壁の向こうで笑っている気配がする。
「腹減っただろ?ごはん食ったか?」
気遣うような言葉に、胸の奥がじんわり温かくなって、思わず笑顔がこぼれた。
「これからです。今日はもうクタクタだから、野菜炒めにしようかな。もう食べましたか?」
「俺は、まかない食ってきた」
「飲食店バイトいいですね。僕はコンビニなので」
「まあな。疲れてるなら、飯食って早く寝ろよ」
「はぁい。じゃあ、また」
たったそれだけの会話だけど、今の僕にとっては何よりも大切な時間だ。
やっぱりお隣さんと話すと、不思議と元気が出るなぁ。
「よし!」
僕は一人気合を入れて、腕まくりをした。
お隣さんと他愛ないおしゃべりをするのが日課になったある日、同じ1年でテニスサークルの桐谷が声をかけてきた。
「佐藤、佐藤。テニサーの鈴木先輩、知ってるだろ?」
「あぁ、3年の鈴木理来先輩、だっけ?バイトが忙しいとかで、あんまり顔出さないよね」
「それが、今日は来てるらしいぜ」
へぇ、と気のない返事をして、いつもよりそわそわしている桐谷とテニスコートへ向かう。
近づくにつれ、僕は目を丸くした。
コートの周りにはたくさんの人だかりができていて、いつもと明らかに雰囲気が違う。
熱心に見学している女子が、時々「きゃあ!」なんて叫んでいた。
「え?何事?」
呆気にとられていると、桐谷がやれやれというように、僕の肩をポンとたたく。
「佐藤、知らねーの?鈴木先輩はガチのイケメン。優しくて、頭が良くて、スポーツ万能。おまけに背も高い!こんなの女子がほっとかねーだろ」
桐谷が指を折って説明してくれる。
そんなすごい人が同じ大学、しかも同じサークルにいるなんて、今まで全然知らなかった。
「ほら、こっち」
桐谷に腕を引っ張られて、フェンスの隙間からコートをのぞく。
あ、あの人……
一目見てすぐに分かるくらい、鈴木先輩はコートの中で誰よりも輝いていて、目が離せなかった。
みんながこうやって騒ぐのも納得だ。
あまりにも眩しくて、僕まで変に緊張してしまう。
落ち着かない気持ちのまま、ラケットを持って中に入ると、僕たちを見つけた中本先輩が「理来!」と、彼を呼んだ。
鈴木先輩は一瞬こっちを見て、帽子をかぶり直しながら駆け寄ってくる。
その仕草すらかっこよくて、また女子がきゃあきゃあと声を上げていた。
「理来、初めてだろ?こっちが1年の桐谷」
桐谷が帽子を脱いで「桐谷っす。よろしくっす」と頭を下げると、鈴木先輩はかすかに微笑んで「よろしく」と返す。
「で、こっちが佐藤な」
中本先輩に呼ばれて、僕もあわてて帽子を脱いだ。
「さ、佐藤です。よろしくお願いします」
それだけ言って頭を上げると、鈴木先輩と目が合う。
先輩は少しだけ目を見開いて、僕の顔をじっと見つめてきた。
ほんの一瞬だったけど、僕はなぜかドキッとしてしまう。
「2人とも経験者なんだよね?」
中本先輩に言われて、ハッとする。
桐谷が「中学からっす」と答えて、僕も「ソフトテニスでしたけど、中学からやってました」と答えた。
鈴木先輩は何事もなかったみたいに、さらに深く帽子をかぶる。
「よろしく。俺、あんまり参加できないから教えてやれないけど、2人とも頑張ってな」
はにかんだような笑顔がすごくかっこいい。
僕たちが頭を下げると、鈴木先輩は走ってコートへ戻っていく。
桐谷が僕の腕に肘打ちして、「な?」と言ったから、僕は黙って頷いた。
ルンルン気分でうどんを茹でていると、隣の部屋から「ガチャ」という音が聞こえた。
火を弱めて、壁に軽く寄りかかる。
少しすると、壁の向こうから「トン、トン」とノックが聞こえた。
「お疲れさまです。バイトでした?」
「ん、まぁ」
「僕もさっき帰ってきたところで、今はうどん茹でてます」
「うまそうだな」
「はい!富山のうどんなんです」
「いいな。……今日はどうだった?」
今日はいろいろあったけど、真っ先に浮かんだのは鈴木先輩のことだった。
「すごく、かっこいい先輩に会いました」
壁の向こうから、「ガタン」と音が聞こえて首を傾げる。
「大丈夫ですか?何か落としました?」
「ん……」
少し間が空く。
「何落としました?」
「本」
「えぇ?」
また少し沈黙してから
「……かっこいいって、顔が?」
と、いつもより低い声が聞こえる。
「顔はもちろんかっこいいです。でもそれだけじゃなくて、僕にも優しく話しかけてくれたんです」
「……そうか」
「はい。すごくいい人でした」
「…………」
ん?何も言わなくなっちゃった。
聞こえなかった?
それとも、帰ってきたばかりで忙しかったかな?
その時、うどんの鍋が吹きこぼれそうになっているのに気づく。
「すみません!うどんがやばくて!今日はこれで」
急いで火を消して、ふーっと息をつく。
壁に耳を当ててみるけど、向こう側は静かなままだ。
どうしたんだろう。
今日はあんまり話したい気分じゃないのかな?もしかして、体調悪いとか?
なんだか不安になってくる。
ついこの前まで、隣に誰が住んでいるかなんて気にもしていなかったのに。
明日はまた、いつもみたいに話せるといいな。
どんよりした曇り空で始まった木曜日。
今日は大学が休みで講義がないから、僕は朝からバイトに勤しんでいた。
桐谷も一緒。
というのも、なかなかバイトが決まらず困っていた僕に、このコンビニを紹介してくれたのが桐谷だからだ。
桐谷は実家住まいで、高校時代からここでバイトしているらしい。
アパートからは少し遠いけど、ありがたく働かせてもらっている。
「今日暇だなー」
桐谷がカウンターに頬杖をついて、自動ドアを眺めた。
「だね。雨だからかな」
ポツリポツリと降り出した雨が、アスファルトに模様を作っている。
外を歩く人はほとんどいない。
そういえば今朝は、曇りだからと傘を持ってこなかった。
帰るまでにはやんでるといいな。
この空模様だと、期待は薄そうだけど。
「あーあ、品出しもほとんど終わったし」
「でも忙しすぎるよりいいよ。一昨日のレジなんて地獄だったもん」
「あぁ、遥くんと一緒だった日?」
「うん」
一昨日は桐谷が休みで、僕と最近入った高校生の二人だった。
僕だってまだ人に教えられるほど慣れていないのに、彼は次から次へと質問してくる。
しかも夕方の混雑する時間帯と重なって、レジ前には長い列。
二人そろって軽くパニックになっていた。
――あれは、もう思い出したくない。
「あの子もやたらイケメンだよなー。高2で185センチって、バグってるだろ」
「ホント、僕に10センチ分けてほしいよ」
それこそ一昨日は、隣に立つ彼を見上げすぎて、バイトが終わるころにはすっかり首がバキバキになっていた。
「佐藤は何センチ?」
「調子がいいと170。桐谷は?」
「俺は調子悪いと170」
「ふはっ!なにそれ」
そんな話をしていると、聞き慣れたチャイムが鳴って顔を上げた。
桐谷が「あ」と小さく声をあげる。
入ってきたのは、制服姿の背の高い男子高生だった。
ワイシャツの袖をひじまでまくりあげて、濡れた靴底をマットにこすりつけている。
「遥くんじゃん」
桐谷の言葉に、僕も目を丸くする。
「お疲れさまです」
顔を上げた彼は、そう言ってまっすぐレジにやってきた。
「あれ?今日バイトじゃないよね?」
僕が言うと、遥くんが雨に濡れたとは思えないほど爽やかな笑顔を浮かべる。
「じゃないです。普通に客です。ちゃんと接客してくださいね」
いたずらっぽい言い方に、僕はあわてて頭を下げた。
「い、いらっしゃいませ!」
「はーい!…っていうのは冗談で、雨やばくないですか?」
僕は「ふふっ」と軽く笑ってから、外を見つめる。
「うん、どんどん強くなってるね。僕、傘ないんだよなぁ。桐谷は持ってきた?」
桐谷に水を向けると、ポケットからスマホを出して「持ってきてない。……あ、母ちゃんが車で迎えに来てるっぽい」と言った。
店内の時計を見ると、もうすぐ15時。
バイトが終わる時間だ。
「佐藤のアパート少し遠いだろ?母ちゃんに送ってもらうよう頼もうか?」
桐谷はそう言ったけど、僕は首を横に振る。
「いいよ。うちまで行く道狭いし、遠いって言っても15分くらいだから」
「でも、傘持ってないんだろ?」
「売ってるんだから、買って帰るよ」
僕は傘がかかっている陳列棚を指さした。
一人暮らしの大学生には痛い出費だけど、風邪をひくよりはいいだろう。
その時、遥くんが僕のほうへ身を乗り出した。
「俺が、東さん送りますよ」
思わぬ言葉にあわてて両手を上げる。
「え!いいよいいよ、悪いよ。高校生に送ってもらうなんて」
「でも……」
遥くんは品定めするように、僕を上から下まで眺めた。
「たぶん、俺のほうが強いし」
「えっ?遥くん、僕が襲われるとか思ってる?!」
僕が素っ頓狂な声を出すと、隣の桐谷が「ぶぶっ」と吹き出している。
「佐藤、せっかくだから送ってもらえば?遥くんが守ってくれるってさ」
遥くんまでにこにこと頷いている。
なんで2人ともそんな顔なんだ。
僕はムッとして頬を膨らませた。
遥くんの傘は、男2人で入っても余裕な大きさだった。
「いつもこんなに大きい傘持ち歩いてるの?」
僕が聞くと、遥くんは照れくさそうにこめかみをかく。
「彼女を駅まで送ってからきたんで」
「そっかぁ、彼女いるんだ」
「はい」と微笑む遥くんは、いつもよりずっと穏やかな顔をしていた。
恋をしてる人って、こんなにいい顔するんだな。
ちょっと羨ましい。
「東さんは、恋人いるんですか?」
「……えっと、いないよ」
「へぇー、今はフリーなんですね」
遥くんの軽い口調に、僕はごまかすように頭をかいた。
それから、少し間が空いて「今はっていうか……いたことない」と答える。
恋人どころか、今まで誰かを好きになったことすらなかった。
恋する気持ちが、僕にはまだ分からない。
「ふーん、東さんって初心なんですね
」
抑揚のない言い方。
子供っぽいって言われたみたいで、ちょっとムッとする。
「でも、気になってる人はいるよ」
反発するように口をついて出た言葉に、遥くんは思いがけず興味を引かれたようだ。
「え、誰っすか?」と、急に僕の顔を覗き込んでくる。
「えっと……それは……」
僕が言い淀むと、遥くんは「なぁんだ」と肩をすくめた。
「ホントだし!」
「じゃあ、誰っすか?」
同じことを聞かれ、小さく息を吐く。
「……お隣さんだよ。会ったことはないけど」
「会ったことないの?!」
遥くんは、敬語を忘れるくらい驚いたらしい。
僕はおずおずと頷く。
「え、男?女?」
「たぶん、男の人。声は男の人だった」
「好きなの?」
「……え?!」
思わぬ言葉に、僕はあわてて両手を振った。
「違う、違う!全然、そういうんじゃないよ」
遥くんは、僕の様子を伺うようにじっと見つめてから、ふっと眉を上げた。
「俺、そういうの偏見ないっすよ。俺のダチにも一人いるし」
遥くんの思い違いに、へにゃへにゃと力が抜ける。
「いや、本当に違うよ。ただ、少し気になってるだけ」
「気になってる、ねぇ」
遥くんは何か考えるように顎に手を当てて、ニヤッと不敵に笑った。
「送ってくれてありがとね。助かったよ」
アパートの手前で足を止めた。
「全然いいっすよ。じゃ、またバイトで」
「うん、じゃあね」
手を振って見送ると、遥くんがふいに振り返る。
「あ、お隣さんと進展あったら教えてくださいよ」
「え、ないってば!顔も知らないんだし」
できれば、ここでその話はしてほしくない。
僕はキョロキョロと周りを伺った。
「まぁ、実際会ったらがっかりするかもしれないっすね」
「いや、それはない」
僕はなぜか即答してしまった。
アパートは静まり返っていて、鍵を「ガチャリ」と開ける音がやけに響く。
濡れた靴と靴下を脱いで玄関を上がり、湿気でうねった髪をなでつけた。
壁に寄りかかり、少し緊張しながら「トン、トン」と、ノックする。
不在だろうか、体調は大丈夫だろうか。
ややあってから「お疲れ」と言う声が聞こえてホッとする。
「お疲れさまです。雨すごいですね」
「そうだな。濡れなかったか?」
「大丈夫です。お隣さんも大丈夫ですか?風邪ひいてないですか?」
「ん?なんで?」
「……昨日、なんとなく元気がなかったので」
少し沈黙する。
身じろぎする音が小さく聞こえて「体調が悪いわけじゃない」と返事があった。
「良かった」
また沈黙。
何か言わなきゃと思うが、言葉が出てこない。
「今日、遅かったな」
「……バイトでした。傘を持ってなくて、バイト仲間に送ってもらったんです」
「親切なやつだな」
「はい、いい後輩くんです」
少し間があって「……そうか」と聞こえた。
その声は少しだけ低くて、僕は首を傾げる。
また何か変なことを言っただろうか。
玄関で差し出された段ボールに張り付いている宅配伝票。
その懐かしい字を見た途端、なんの引っかかりもなく、涙が頬を伝っていた。
「あー、と……それ、アパートの名前と部屋番号が書いてないから、事業所どまりになってたんだ。電話番号も間違ってるみたいで連絡とれなかったらしくて…」
宅配便のお兄さんは、口を噤んでほろほろと泣いている僕に言い訳のように説明した。
おかんのミスなんだから、そんなの気にしなくていいのに。
「あ、ありがとうございます」
やっと声を絞り出した僕に、お兄さんは深くかぶった帽子を少しだけ持ち上げる。
それから、口角を上げて
「がんばろうな」
と、励ますように微笑んだ。
ウキウキした気分で始まった一人暮らしと大学生活。
1ヶ月も経つと、そんな気分は風船のようにしぼみ、ただただ虚しさが襲ってくる。
それなりに友達もできた。
テニスサークルに入り、傍から見れば充実した大学生活に見えるんだろう。
けれど、賑やかなキャンパスから離れ、アパートの部屋に戻ると、その静けさがガラスのかけらのように刺さってくる。
「ただいま……」
誰もいない空間に低い声が響く。
当然返事なんてない。
「はぁ」
壁に背をつけて座り、夕飯どうしようかな、今日もコンビニでいいか、なんて考えている。
お腹を満たすためだけのごはんは、なんとも味気ない。
実家の食卓はいつも賑やかだったなぁ。
おとんが釣ってきた魚を、おかんが文句言いながらさばいて、その日の釣果をくどくど自慢しながらお酒を飲む。
弟の北斗が食卓におもちゃを置くと、じいちゃんが怒る怒る、それを姉ちゃんがなだめて。
北斗は怒られても全然へっちゃらで、「兄ちゃん、食べたら遊ぼうね!」なんて言ってくる。
ばあちゃんは仏壇の写真の中だけど、いつも笑って見ているような気がしてた。
思い出すと、目の奥が熱くなってくる。
こんなことで泣いて、おとんに男らしくないって怒られるかな。
だめだと思うほど、堪えきれなくなってきて
「ふっ、うっ、う〜〜」
と、肩を震わせて泣いてしまう。
その時、壁の向こうから
「トン、トン」
と、ノックのような音が聞こえた。
やばい!と思って、慌てて壁から離れる。
「ごめんなさ〜い」
小さな声だからさすがに聞こえないだろうけど、つい謝ってしまう。
焦って涙は引っ込んだ。
変な声出して、うるさいし、キモかったかな。
隣の部屋がどんな人かは知らない。
今どきは引っ越しの挨拶はしないもんだと言われて、時々、このアパートの住人っぽい人は見かけるけど、誰とも言葉を交わしたことはなかった。
でも、ここは学生アパートだから、同じ大学の学生だということは確かだ。
「トン、トン」
さっきと同じリズムで壁をノックされる。
なんだろう、と思って近づくと
「大丈夫?」
と言う声が聞こえた。
低い、男の人の声だけど、気遣うような雰囲気が滲んでいる。
口の横に手をつけて
「大丈夫です。すみません、うるさくして」
と、壁に向かって答える。
これで終わりだろうと思いきや、思いがけず声が返ってきた。
「泣いてんだろ?」
言葉に詰まってしまい、黙っていると
「どうした?さびしくなった?」
と、柔らかい声が聞こえる。
その声を聞いた途端、僕はたまらなくなって
「さびしいんです。1人ぼっちで」
と答えていた。
「実家はどこ?」
「富山です」
「遠いな……1人で来たのか?」
「そうなんです。親は仕事で離れられないし、弟がまだ小さいから」
「弟さん、何歳?」
「5歳です」
「可愛いだろうな」
「すごく可愛いです」
言葉を交わした時間は5分もないくらいだったけど、その後、僕はなんだか元気になってきた。
今日はコンビニ弁当はやめにする。
実家から送られてきた野菜があるし、カレーでも作ろうか。
たくさん作ったら、隣の人にもお裾分けしようかな。
そこまで考えて頭を振る。
優しい人だけど、さすがにそれは困るだろう。
……そういえばこの前、荷物を届けてくれた宅配便のお兄さん。
僕がいきなり泣き出したから困っただろうな。
今さらながら恥ずかしくなってくる。
帽子をかぶっていて顔は見えなかったけど、あのお兄さんも優しい人だった。
さびしいと思うばかりで周りが見えてなかったけど、ここには優しい人もいっぱいいるんだ。
あの日から1週間。
「ただいま〜」
ドアを開けると、誰もいない部屋は相変わらず静かだ。
でも、前みたいにその静けさが怖いとは感じなかった。
荷物を置いて、壁にそっと寄りかかる。
「トン、トン」
軽くノックすると、少し時間を置いて
「お疲れ」
と、柔らかい声が返ってくる。
「お疲れさまです。今日のサークルも、たくさん走りました〜」
ため息まじりに言うと、壁の向こうで笑っている気配がする。
「腹減っただろ?ごはん食ったか?」
気遣うような言葉に、胸の奥がじんわり温かくなって、思わず笑顔がこぼれた。
「これからです。今日はもうクタクタだから、野菜炒めにしようかな。もう食べましたか?」
「俺は、まかない食ってきた」
「飲食店バイトいいですね。僕はコンビニなので」
「まあな。疲れてるなら、飯食って早く寝ろよ」
「はぁい。じゃあ、また」
たったそれだけの会話だけど、今の僕にとっては何よりも大切な時間だ。
やっぱりお隣さんと話すと、不思議と元気が出るなぁ。
「よし!」
僕は一人気合を入れて、腕まくりをした。
お隣さんと他愛ないおしゃべりをするのが日課になったある日、同じ1年でテニスサークルの桐谷が声をかけてきた。
「佐藤、佐藤。テニサーの鈴木先輩、知ってるだろ?」
「あぁ、3年の鈴木理来先輩、だっけ?バイトが忙しいとかで、あんまり顔出さないよね」
「それが、今日は来てるらしいぜ」
へぇ、と気のない返事をして、いつもよりそわそわしている桐谷とテニスコートへ向かう。
近づくにつれ、僕は目を丸くした。
コートの周りにはたくさんの人だかりができていて、いつもと明らかに雰囲気が違う。
熱心に見学している女子が、時々「きゃあ!」なんて叫んでいた。
「え?何事?」
呆気にとられていると、桐谷がやれやれというように、僕の肩をポンとたたく。
「佐藤、知らねーの?鈴木先輩はガチのイケメン。優しくて、頭が良くて、スポーツ万能。おまけに背も高い!こんなの女子がほっとかねーだろ」
桐谷が指を折って説明してくれる。
そんなすごい人が同じ大学、しかも同じサークルにいるなんて、今まで全然知らなかった。
「ほら、こっち」
桐谷に腕を引っ張られて、フェンスの隙間からコートをのぞく。
あ、あの人……
一目見てすぐに分かるくらい、鈴木先輩はコートの中で誰よりも輝いていて、目が離せなかった。
みんながこうやって騒ぐのも納得だ。
あまりにも眩しくて、僕まで変に緊張してしまう。
落ち着かない気持ちのまま、ラケットを持って中に入ると、僕たちを見つけた中本先輩が「理来!」と、彼を呼んだ。
鈴木先輩は一瞬こっちを見て、帽子をかぶり直しながら駆け寄ってくる。
その仕草すらかっこよくて、また女子がきゃあきゃあと声を上げていた。
「理来、初めてだろ?こっちが1年の桐谷」
桐谷が帽子を脱いで「桐谷っす。よろしくっす」と頭を下げると、鈴木先輩はかすかに微笑んで「よろしく」と返す。
「で、こっちが佐藤な」
中本先輩に呼ばれて、僕もあわてて帽子を脱いだ。
「さ、佐藤です。よろしくお願いします」
それだけ言って頭を上げると、鈴木先輩と目が合う。
先輩は少しだけ目を見開いて、僕の顔をじっと見つめてきた。
ほんの一瞬だったけど、僕はなぜかドキッとしてしまう。
「2人とも経験者なんだよね?」
中本先輩に言われて、ハッとする。
桐谷が「中学からっす」と答えて、僕も「ソフトテニスでしたけど、中学からやってました」と答えた。
鈴木先輩は何事もなかったみたいに、さらに深く帽子をかぶる。
「よろしく。俺、あんまり参加できないから教えてやれないけど、2人とも頑張ってな」
はにかんだような笑顔がすごくかっこいい。
僕たちが頭を下げると、鈴木先輩は走ってコートへ戻っていく。
桐谷が僕の腕に肘打ちして、「な?」と言ったから、僕は黙って頷いた。
ルンルン気分でうどんを茹でていると、隣の部屋から「ガチャ」という音が聞こえた。
火を弱めて、壁に軽く寄りかかる。
少しすると、壁の向こうから「トン、トン」とノックが聞こえた。
「お疲れさまです。バイトでした?」
「ん、まぁ」
「僕もさっき帰ってきたところで、今はうどん茹でてます」
「うまそうだな」
「はい!富山のうどんなんです」
「いいな。……今日はどうだった?」
今日はいろいろあったけど、真っ先に浮かんだのは鈴木先輩のことだった。
「すごく、かっこいい先輩に会いました」
壁の向こうから、「ガタン」と音が聞こえて首を傾げる。
「大丈夫ですか?何か落としました?」
「ん……」
少し間が空く。
「何落としました?」
「本」
「えぇ?」
また少し沈黙してから
「……かっこいいって、顔が?」
と、いつもより低い声が聞こえる。
「顔はもちろんかっこいいです。でもそれだけじゃなくて、僕にも優しく話しかけてくれたんです」
「……そうか」
「はい。すごくいい人でした」
「…………」
ん?何も言わなくなっちゃった。
聞こえなかった?
それとも、帰ってきたばかりで忙しかったかな?
その時、うどんの鍋が吹きこぼれそうになっているのに気づく。
「すみません!うどんがやばくて!今日はこれで」
急いで火を消して、ふーっと息をつく。
壁に耳を当ててみるけど、向こう側は静かなままだ。
どうしたんだろう。
今日はあんまり話したい気分じゃないのかな?もしかして、体調悪いとか?
なんだか不安になってくる。
ついこの前まで、隣に誰が住んでいるかなんて気にもしていなかったのに。
明日はまた、いつもみたいに話せるといいな。
どんよりした曇り空で始まった木曜日。
今日は大学が休みで講義がないから、僕は朝からバイトに勤しんでいた。
桐谷も一緒。
というのも、なかなかバイトが決まらず困っていた僕に、このコンビニを紹介してくれたのが桐谷だからだ。
桐谷は実家住まいで、高校時代からここでバイトしているらしい。
アパートからは少し遠いけど、ありがたく働かせてもらっている。
「今日暇だなー」
桐谷がカウンターに頬杖をついて、自動ドアを眺めた。
「だね。雨だからかな」
ポツリポツリと降り出した雨が、アスファルトに模様を作っている。
外を歩く人はほとんどいない。
そういえば今朝は、曇りだからと傘を持ってこなかった。
帰るまでにはやんでるといいな。
この空模様だと、期待は薄そうだけど。
「あーあ、品出しもほとんど終わったし」
「でも忙しすぎるよりいいよ。一昨日のレジなんて地獄だったもん」
「あぁ、遥くんと一緒だった日?」
「うん」
一昨日は桐谷が休みで、僕と最近入った高校生の二人だった。
僕だってまだ人に教えられるほど慣れていないのに、彼は次から次へと質問してくる。
しかも夕方の混雑する時間帯と重なって、レジ前には長い列。
二人そろって軽くパニックになっていた。
――あれは、もう思い出したくない。
「あの子もやたらイケメンだよなー。高2で185センチって、バグってるだろ」
「ホント、僕に10センチ分けてほしいよ」
それこそ一昨日は、隣に立つ彼を見上げすぎて、バイトが終わるころにはすっかり首がバキバキになっていた。
「佐藤は何センチ?」
「調子がいいと170。桐谷は?」
「俺は調子悪いと170」
「ふはっ!なにそれ」
そんな話をしていると、聞き慣れたチャイムが鳴って顔を上げた。
桐谷が「あ」と小さく声をあげる。
入ってきたのは、制服姿の背の高い男子高生だった。
ワイシャツの袖をひじまでまくりあげて、濡れた靴底をマットにこすりつけている。
「遥くんじゃん」
桐谷の言葉に、僕も目を丸くする。
「お疲れさまです」
顔を上げた彼は、そう言ってまっすぐレジにやってきた。
「あれ?今日バイトじゃないよね?」
僕が言うと、遥くんが雨に濡れたとは思えないほど爽やかな笑顔を浮かべる。
「じゃないです。普通に客です。ちゃんと接客してくださいね」
いたずらっぽい言い方に、僕はあわてて頭を下げた。
「い、いらっしゃいませ!」
「はーい!…っていうのは冗談で、雨やばくないですか?」
僕は「ふふっ」と軽く笑ってから、外を見つめる。
「うん、どんどん強くなってるね。僕、傘ないんだよなぁ。桐谷は持ってきた?」
桐谷に水を向けると、ポケットからスマホを出して「持ってきてない。……あ、母ちゃんが車で迎えに来てるっぽい」と言った。
店内の時計を見ると、もうすぐ15時。
バイトが終わる時間だ。
「佐藤のアパート少し遠いだろ?母ちゃんに送ってもらうよう頼もうか?」
桐谷はそう言ったけど、僕は首を横に振る。
「いいよ。うちまで行く道狭いし、遠いって言っても15分くらいだから」
「でも、傘持ってないんだろ?」
「売ってるんだから、買って帰るよ」
僕は傘がかかっている陳列棚を指さした。
一人暮らしの大学生には痛い出費だけど、風邪をひくよりはいいだろう。
その時、遥くんが僕のほうへ身を乗り出した。
「俺が、東さん送りますよ」
思わぬ言葉にあわてて両手を上げる。
「え!いいよいいよ、悪いよ。高校生に送ってもらうなんて」
「でも……」
遥くんは品定めするように、僕を上から下まで眺めた。
「たぶん、俺のほうが強いし」
「えっ?遥くん、僕が襲われるとか思ってる?!」
僕が素っ頓狂な声を出すと、隣の桐谷が「ぶぶっ」と吹き出している。
「佐藤、せっかくだから送ってもらえば?遥くんが守ってくれるってさ」
遥くんまでにこにこと頷いている。
なんで2人ともそんな顔なんだ。
僕はムッとして頬を膨らませた。
遥くんの傘は、男2人で入っても余裕な大きさだった。
「いつもこんなに大きい傘持ち歩いてるの?」
僕が聞くと、遥くんは照れくさそうにこめかみをかく。
「彼女を駅まで送ってからきたんで」
「そっかぁ、彼女いるんだ」
「はい」と微笑む遥くんは、いつもよりずっと穏やかな顔をしていた。
恋をしてる人って、こんなにいい顔するんだな。
ちょっと羨ましい。
「東さんは、恋人いるんですか?」
「……えっと、いないよ」
「へぇー、今はフリーなんですね」
遥くんの軽い口調に、僕はごまかすように頭をかいた。
それから、少し間が空いて「今はっていうか……いたことない」と答える。
恋人どころか、今まで誰かを好きになったことすらなかった。
恋する気持ちが、僕にはまだ分からない。
「ふーん、東さんって初心なんですね
」
抑揚のない言い方。
子供っぽいって言われたみたいで、ちょっとムッとする。
「でも、気になってる人はいるよ」
反発するように口をついて出た言葉に、遥くんは思いがけず興味を引かれたようだ。
「え、誰っすか?」と、急に僕の顔を覗き込んでくる。
「えっと……それは……」
僕が言い淀むと、遥くんは「なぁんだ」と肩をすくめた。
「ホントだし!」
「じゃあ、誰っすか?」
同じことを聞かれ、小さく息を吐く。
「……お隣さんだよ。会ったことはないけど」
「会ったことないの?!」
遥くんは、敬語を忘れるくらい驚いたらしい。
僕はおずおずと頷く。
「え、男?女?」
「たぶん、男の人。声は男の人だった」
「好きなの?」
「……え?!」
思わぬ言葉に、僕はあわてて両手を振った。
「違う、違う!全然、そういうんじゃないよ」
遥くんは、僕の様子を伺うようにじっと見つめてから、ふっと眉を上げた。
「俺、そういうの偏見ないっすよ。俺のダチにも一人いるし」
遥くんの思い違いに、へにゃへにゃと力が抜ける。
「いや、本当に違うよ。ただ、少し気になってるだけ」
「気になってる、ねぇ」
遥くんは何か考えるように顎に手を当てて、ニヤッと不敵に笑った。
「送ってくれてありがとね。助かったよ」
アパートの手前で足を止めた。
「全然いいっすよ。じゃ、またバイトで」
「うん、じゃあね」
手を振って見送ると、遥くんがふいに振り返る。
「あ、お隣さんと進展あったら教えてくださいよ」
「え、ないってば!顔も知らないんだし」
できれば、ここでその話はしてほしくない。
僕はキョロキョロと周りを伺った。
「まぁ、実際会ったらがっかりするかもしれないっすね」
「いや、それはない」
僕はなぜか即答してしまった。
アパートは静まり返っていて、鍵を「ガチャリ」と開ける音がやけに響く。
濡れた靴と靴下を脱いで玄関を上がり、湿気でうねった髪をなでつけた。
壁に寄りかかり、少し緊張しながら「トン、トン」と、ノックする。
不在だろうか、体調は大丈夫だろうか。
ややあってから「お疲れ」と言う声が聞こえてホッとする。
「お疲れさまです。雨すごいですね」
「そうだな。濡れなかったか?」
「大丈夫です。お隣さんも大丈夫ですか?風邪ひいてないですか?」
「ん?なんで?」
「……昨日、なんとなく元気がなかったので」
少し沈黙する。
身じろぎする音が小さく聞こえて「体調が悪いわけじゃない」と返事があった。
「良かった」
また沈黙。
何か言わなきゃと思うが、言葉が出てこない。
「今日、遅かったな」
「……バイトでした。傘を持ってなくて、バイト仲間に送ってもらったんです」
「親切なやつだな」
「はい、いい後輩くんです」
少し間があって「……そうか」と聞こえた。
その声は少しだけ低くて、僕は首を傾げる。
また何か変なことを言っただろうか。



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