放課後、死ぬ練習をする場所で

 卒業式の朝、僕は早めに家を出た。
 三月の空気は冷たくて、でも日差しに春の気配がある。通学路を歩きながら、この道を歩くのも最後だと気づいた。二年半、毎日歩いてきた道。でも今日は、いつもより少しだけ遠く感じた。
 校門をくぐると、すでに何人かの生徒が集まっていた。誰もが制服を着て、少し緊張した顔をしている。保護者の姿も見える。卒業式の朝、特有の空気だった。
 詩織の姿を探すと、校舎の入口近くに立っていた。彼女は一人で、少し遠くを見ているような目をしていた。僕は声をかけた。
「おはよう」
「おはよう」
 詩織は振り返って、微笑んだ。その笑顔は、一年前に初めて見た笑顔とは違う。あの頃の笑顔は、表面だけの笑顔だった。今は違う。今の詩織の笑顔には、ちゃんと中身がある。
「緊張してる?」
「少し。蓮は?」
「俺も」
 二人で笑った。卒業式が終わった後のことを、昨夜から考えていた。詩織は春から大学に進む。僕も同じ。キャンパスは違うけれど、同じ街にいる。それだけで、今は十分だった。
 式が終わって、クラスメイトたちが写真を撮り合ったり、泣いたり、笑ったりしている中で、詩織が僕の隣に来た。
「ねえ、最後にあそこに行こう」
 彼女の目が、上を向いた。屋上への階段の方向。
「うん」
 僕は頷いた。
 卒業式の日、僕と詩織は最後にもう一度、あの階段の前に立った。
 屋上へ続くドアは、相変わらず閉まっている。古い立ち入り禁止の看板。固く閉ざされた鍵。もう誰も入ることはできない。でも、僕たちは知っている。あの場所で何があったかを。消えた人たち、戻ってきた人たち、そして僕たちが見つけたもの。
「最後に来たくなった」
 詩織の言葉に、僕は頷いた。
「俺も」
 ドアを見ながら、あの日々を思い出す。夕焼けに染まった屋上、死に方を語る生徒たち、詩織の横顔。あの場所は、僕に生きることを教えてくれた。死を語ることで、どう生きたいかが見えてきた。
 藤崎健太のことを思い出す。白鳥美月のことを思い出す。二人は戻ってきてくれた。でも、戻れなかった人たちのことも、忘れない。彼らの顔は、今でも鮮明に覚えている。名前も、最後に語った言葉も、全部。それが番人候補だった僕に残された役割で、今も変わらない。消えた人たちのことを覚えているのは、この世界で僕と詩織だけだ。それでいいと、今は思う。誰かが覚えていれば、その人は完全には消えない。
「ありがとう」
 詩織がドアに向かって、小さく呟いた。僕も同じ気持ちだった。
「行こう」
 僕は詩織の手を握って、階段を降りた。
 卒業式が終わって、僕たちは電車に乗った。詩織が「海を見たい」と言い出したのは、校舎を出てすぐのことだった。理由は言わなかったけれど、僕にはわかった。椿先生のことを思い出していたんだと思う。
 椿先生は今年の春、海の近くの病院に転勤した。保健室の先生をやめて、精神科の相談員になると聞いた。屋上で見てきたものが、彼女をそこへ向かわせたのだと思う。十年間、一人で抱えてきたものを、今度は別の形で誰かのために使おうとしている。そんな気がした。最後に挨拶に行ったとき、椿先生は「あなたたちが無事でよかった」とだけ言った。その言葉の重さが、まだ胸に残っている。
 一時間ほどで、海に着いた。三月の海は風が冷たくて、人もまばらで、波の音だけが静かに響いている。砂浜を歩きながら、詩織は深く息を吸った。
「椿先生、元気かな」
「きっと元気だよ。毎朝、海を見ながら深呼吸してると思う」
 詩織は笑って、それから空を見上げた。青い空に、白い雲が流れている。
「私ね、番人だった頃、海の夢をよく見てた。底まで沈んでいく夢。でも今は、波が来るたびに岸に押し戻される夢を見る」
「それ、いい夢だ」
 詩織は僕を見て、微笑んだ。
「番人をやめてから、夢が変わった。前は毎晩、消えた子たちの顔が出てきてた。今も、たまに出てくる。でも、今は怖くない。藤崎くんも、白鳥さんも、戻ってきてくれた。でも、戻れなかった子たちのことも、忘れない。それだけでいいと思えるようになった」
 詩織は砂の上にしゃがんで、波打ち際を眺めた。
「もし私が忘れても、あなたが覚えてる」
「うん。忘れない」
 僕は言った。本当のことだった。戻れなかった人たちのことも、あの場所で消えていった全員のことも、忘れない。それが、あの場所に通った僕に残ったものだ。
「……私も。絶対に」
 詩織は立ち上がって、水平線を見た。遠くの海が、夕日に染まり始めている。オレンジ色の光が、海面に反射して揺れている。
「大樹も、どこかでこの海を見てるかな」
 僕の呟きに、詩織は黙って手を握り返してくれた。言葉はいらなかった。
 大樹のことは、今でもたまに夢に見る。彼が「話がある」と言ったときの顔。僕が「明日でいい」と答えたときの、諦めたような顔。その夢は、消えない。消えなくていいと思っている。大樹のことを忘れたくないから。忘れることが、裏切りのような気がするから。
 でも、夢から覚めるたびに、今は少しだけ違う気持ちがある。大樹が見つけられなかったものを、俺は今、持っている。詩織と一緒にいたいという気持ち。生きたい理由。それを見つけられたことが、大樹への返事なのかもしれない。
 大樹、俺は生きてる。君が見つけられなかったものを、見つけた。詩織と一緒に。
 波が来て、足元の砂を浚っていく。また波が来る。また、岸に戻る。
 この繰り返しが、なんだか生きることに似ていると思った。押し流されて、それでも岸に戻る。また波に飲まれて、また戻る。それでいい。それが、生きるということなのかもしれない。
「帰ろう」
 詩織の言葉に、僕は頷いた。
「ああ。帰ろう」
 僕たちは手を繋いで、砂浜を歩いた。波の音が、後ろから追いかけてくる。

(完)