放課後、死ぬ練習をする場所で

 朝倉美咲が戻ってきてから、数週間が過ぎた。僕と詩織は、毎日放課後になると屋上へ向かった。17時43分から17時58分の15分間。その時間だけ、僕たちは生と死の狭間に入ることができる。そして、消えた者たちを、一人ずつ呼び戻していった。
 最初に戻したのは、藤崎健太だった。
 あの日、屋上のドアを開けると、藤崎の姿が見えた。透けていて、輪郭がぼやけているけれど、彼がそこにいた。フェンスに寄りかかって、夕焼けを見ている。ずっとそこで待っていたかのように。
「おい」
 僕が呼びかけると、藤崎はゆっくりと振り返った。その顔は、ぼやけていて、表情がよくわからない。でも、目だけが、こちらを見ていた。
「誰?」
 藤崎の声が聞こえた。小さく、かすれるように、どこか遠い場所から聞こえてくるような声。
「桐谷蓮。こっちは七瀬詩織。迎えに来た」
 藤崎は少し首を傾けた。
「迎えに? 俺のことを、知ってるの?」
「ああ。お前が俺に、屋上のことを教えてくれた」
 藤崎の目が、かすかに動いた。でも、すぐに首を横に振った。
「そんな記憶、ない。俺、何も覚えてない。お前のことも、自分のことも、何もかも」
「覚えてなくていい。好きだったもの、やり残したこと、何か思い当たることはないか」
 藤崎は黙っていた。その姿が、炎のように不安定に揺らいでいる。何も言わず、ただそこに立って、どこか遠くを見ていた。ここでも、待つしかなかった。
「好きだったもの」
 風に溶けそうな声だった。
「なんか、走ってた気がする。でも、誰と走ってたのか、なぜ走ってたのか、全部霧の中みたいで」
 声が、ふつりと途切れた。その輪郭が、さらに薄れていく。
「思い出せない。思い出そうとすると、もっと遠くなる」
 また間があった。
「俺は、最初からいなかったのかもしれない」
 その言葉が、胸の奥に刺さった。最初からいなかった。消えた人間が行き着く、一番深い場所にある言葉だった。
「お前は確かにいた」
 風が吹いて、藤崎の姿が揺れた。
「お前のことを、俺たちは覚えてる。誰も覚えていなくても、俺たちだけはずっと覚えてた」
 藤崎は黙っていた。その輪郭が、少しだけはっきりしてきた。でも、まだ遠い目をしていた。
「なんで、お前たちだけが覚えてるんだ」
「俺たちに残された役割だから」
 また沈黙が続いた。
「走ってた……」
 今度は、少し違う声だった。何かが少しだけ近づいてきたような。
「ボールを、追いかけてた気がする。仲間と一緒に、汗かいて。でも、それがいつのことなのか、誰と一緒だったのか、全部ぼやけてる」
「お前の活躍が、新聞に載ってた。一年のとき、決勝ゴールを決めたって。俺は図書館で見た」
 その言葉が届いた瞬間、藤崎の輪郭がわずかに震えた。
「そんな、こと」
 しばらく、何も言わなかった。でも、次の瞬間、表情が歪んだ。
「でも、その後、ケガをした気がする。足が、動かなくなった気がする」
 声が低く、かすれていった。記憶が戻っているのではなく、体の奥に残った感覚が少しずつ浮かび上がってきているような、そういう声だった。
「走れなくなった。そういう感覚だけが、ある。チームから、離れた。グラウンドに、近づけなくなった。そのうち、何も、わからなくなった」
 言葉が断片的で、繋がっていなかった。でも、その断片の一つ一つに、重さがあった。夢を断たれた人間の絶望は、こういう形をしている。一つのことだけを信じて、それを失ったとき、何も残らないと感じる。その感覚が、屋上の空気にじわりと広がった。
「また走れるかどうか、わからない。戻っても、あの頃みたいには、動けないかもしれない」
「それでも、試したいなら、それだけで十分だ」
 藤崎は答えなかった。でも、その目が揺れていた。
「藤崎」
 初めて名前を呼んだ。何かが、空気の中でかすかに変わった。
「お前のことを、俺たちは覚えてる。それだけは、変わらない」
 一拍置いてから、続けた。
「こっちに帰ってきてほしい」
 長い沈黙だった。
 藤崎は自分の手を見た。透けている手。その手を、じっと見つめていた。夕焼けの色が、少し深くなっていた。揺らぎが、ほとんど止まっていく。ただ、待った。それしかできなかった。
「俺は、本当にいたのか」
「いた」
「誰かが、覚えてるのか」
「俺たちが覚えてる」
 藤崎は目を閉じた。揺らぎが、完全に静まっていく。
 やがて、藤崎は手を伸ばした。
「また走れるかわからない。でも、戻る。もう一度、試したい」
 その瞬間、光が藤崎を包んだ。夕焼けの色に似た橙色の光で、眩しいのに、冷たくなかった。温度のある光。僕と詩織は目を細めながらも、その光から目を離せなかった。藤崎の姿が完全に実体化していく。透明だった体が確かな色を持ち始めて、髪も、制服も、全てがはっきりと見える。
 光が消えると、そこには藤崎が立っていた。もう透けていない。
 藤崎は自分の手を見た。それだけ見つめて、何も言わなかった。でも、その目が少し赤くなっていた。
「おかえり、藤崎」
 藤崎は小さく頷いた。
 翌日、藤崎健太は転入生として紹介された。クラスメイトたちは何も疑わず、最初からそこにいたかのように彼を受け入れた。
 そして、次は白鳥美月だった。
 屋上のドアを開けると、美月の姿が見えた。フェンスの向こう、屋上の端に立っていて、夕焼けを見ている。彼女も透けていて、そこにいるけれど、いないような。
「白鳥さん」
 詩織が一歩前に出た。僕は少し後ろで、その場を見守った。美月はゆっくりと振り返った。その顔は、ぼやけていて、でもその目には、何かがあった。
「誰?」
 美月の声が聞こえた。かすれるように、遠く。
「七瀬詩織。一緒に屋上に通っていた」
 美月は少し首を傾けた。
「屋上? 私、何も覚えてない。あなたのこともわからない。自分のことも、何もかも」
「覚えてなくていい。何か、体が覚えてることはない?」
 美月は黙っていた。その姿が、不安定に揺らいでいる。藤崎の揺らぎが炎のようだったとすれば、美月の揺らぎは水面の反射に似ていた。触れれば崩れる、でもすぐに戻る。詩織も、黙って待っていた。
「覚えてること……」
 美月の声は、風に押されて消えそうだった。
「なんか、色が好きだった気がする。赤とか、黄色とか。でも、なぜ好きだったのか、全部霧の中で」
「絵を描いていたんだよ」
 詩織の声が、優しく響いた。
「絵?」
「そう。あなたはいろんなものを描いていた。赤と黄色が混ざった夕焼けとか、好きな景色とか、自分の色で。あなたが描いた絵の前で、私は足を止めたことがある」
 美月の輪郭が、少しだけはっきりしてきた。でも、すぐに揺らいだ。
「赤と、黄色」
 美月がその言葉を繰り返した。どこか遠くに手を伸ばすような目をしていた。
 詩織は何も言わなかった。ただ、待った。
 長い沈黙が続いた。消えそうで、消えない。夕焼けの風が、二人の周りを吹き抜けていく。どのくらい経っただろう。美月の輪郭が、またほんの少しだけはっきりした。
「赤と、黄色……夕焼けを、描いてたの、私」
 また、沈黙。
「でも……確かに、描いては消して、描いては消して、そういう感覚がある。何度描いても、これじゃない、って思い続けてた気がする」
「それが、あなたが苦しんでいた理由のひとつだった」
 詩織は続けた。
「あなたは毎日、違う死に方を語っていた。でも、それはまだ諦めたくなかったからだって、私は思ってた。どの死に方も、本当は選びたくなかったから」
 美月の姿が、根元から揺さぶられるように震えた。
「諦めたくなかった?」
「うん。あなたは、答えを探していた。でも、見つけられないまま、消えた」
 美月は黙っていた。遠くを見ているようだった。しばらく、詩織も何も言わなかった。その沈黙の中で、美月の揺らぎが少しだけ変わった。何かが、近づいてきているような。
「描いては消して……」
 美月がまた繰り返した。今度は、少し違うニュアンスだった。
「絵を描いてる間だけ、私がここにいる気がした。他のことは何もなくても、絵を描いてる間だけは、自分がここにいるって思えた」
 美月の声が、少し掠れた。
「一度だけ、友達に見せたことがある。そしたら、『普通だね』って言われた。その言葉が、ずっと頭から離れなかった。普通。私には、何もかもが崩れる音がした。絵を描いてる間だけ自分がいると思えてたのに、その場所まで、なくなった気がした」
 美月の輪郭が、細かく震えた。今にも霧散しそうで、でも消えない。
「それから、描くのが怖くなった。描いては消して、描いては消して。誰かに見せる前に消してた。ずっとそうしてた。そのうち、描くことまで怖くなった。絵がなくなったら、私がここにいる理由が、何もなくなった」
 美月は一度目を閉じた。
「消えてしまえば、もう怖くないと思った。見せる前にいなくなれば、誰にも駄目だとは言われない。そう思って、屋上に来た。でも」
 美月の声が途切れた。
「何も、解決しなかった」
 詩織が静かに言った。美月の言葉を、そのまま受け取るように。
「うん。ここにいるだけで、何も描けないまま、ただいるだけで。怖さは、どこにも行かなかった。消えても、怖いままだった。それが、一番怖かった」
 詩織は美月の前に立った。
「私はね、番人として一年間、屋上に来る人たちを見てきた。白鳥さんのことも、覚えてる。あなたの絵の前で、足を止めて見ていた人がいた。あなたは知らないかもしれないけど、私は見ていた」
 美月の揺らぎが、一瞬だけ、完全に止まった。
「嘘」
 震えた声だった。信じたくて、でも信じることが怖い。その両方が、声の奥で揺れていた。
「嘘じゃない。あなたの絵の前で、誰かが立ち止まった。それは、本当のこと」
 長い沈黙が続いた。美月の姿が、また揺れ始める。消えそうで、消えない。
「覚えてる人が、いるの?」
「いる。私が覚えてる」
 美月はしばらく、詩織を見つめていた。その目に、小さな光が灯った。でも、すぐに揺らいだ。
「戻っても、また怖くなる。また消したくなるかもしれない」
「なるかもしれない。でも、それでも描きたいなら、それだけで十分だよ」
 美月は長い間、黙っていた。目を閉じて、ゆっくりと息を吸った。揺らぎが、少しずつ静まっていく。でも、まだ踏み出せないでいる。
「怖い。本当に、怖い」
「怖くて当然だよ」
 詩織は手を差し伸べた。
「私も怖かった。番人をやめて、ここに戻るのが。でも、怖くても戻れた。あなたも、戻れる」
 美月は、その手をじっと見つめていた。長い時間だった。
 やがて、美月は手を伸ばした。
「……戻る。怖いけど、戻る。もう一度、描いてみる。消したくなっても、また描く」
 その瞬間、美月を包んだ光は、藤崎の時とは違った。白に近い、静かな光。音もなく、広がっていく。美月の姿が、完全に実体化していく。
 光が消えると、そこには美月が立っていた。もう透けていない。
 美月は自分の手を見つめて、何も言わなかった。しばらく、ただ自分の手を見ていた。それから、詩織を見た。
「戻れた」
 美月の声は、まだ少し遠かった。でも、ここにある声だった。
「おかえり、白鳥さん」
 翌日、白鳥美月も転入生として紹介された。誰も疑わず、最初からそこにいたかのように彼女を受け入れた。
 それから数週間、僕たちは他の消えた生徒たちも、一人ずつ戻していった。一人一人に、生きたい理由があった。音楽を聴きたい、友達と笑いたい、家族と話したい、好きな本を読みたい。そんな小さな、でも大切な理由。
 でも、全員を戻せたわけじゃなかった。中には、どうしても戻りたくないと言う人もいた。その選択を尊重することが、どれだけ苦しかったか。手を差し伸べたのに、その手を取ってもらえなかった夜は、眠れなかった。でも、それが一人一人の決断だから。僕たちにできるのは、覚えていることだけだった。
 ある日、椿先生が僕たちを保健室に呼んだ。
 椿先生は窓際に立っていて、外を見ていた。窓枠に手をついて、少し前傾みに立っている。その背中が、何かの重さを引き受けているように見えた。
「先生、お呼びですか」
 僕が声をかけると、椿先生は振り返った。微笑んでいたけれど、その目は少し遠かった。
「ええ。そろそろ、全てを話す時が来たわ」
 椿先生は机の前に戻って、古いノートを取り出した。神原聡の記録。それをしばらく見つめてから、口を開いた。
「あなたたちは、よくやってくれた。多くの人を、戻してあげた。でも、神原聡の本当のことと、詩織さんのことを、まだ話していなかった」
 椿先生は詩織を見た。
「詩織さん、あなたがなぜ『海に沈む』と語っていたのか」
 詩織の息が、止まった。
 喉が詰まった。あの言葉が、ずっと頭の片隅に引っかかっていた。詩織と藤崎が、同じ死に方を語っていた。最初に気づいた時から、それが何を意味するのか、わからなかった。誰も指摘しなかったけれど、そこにあった。ずっと、そこにあった。
「ずっと、わからなかった」
 詩織の声が、細くなった。
「なぜ自分がそう語るのか。海に、特別な思い入れがあるわけでもなかった。でも、毎日語るたびに、それが自分の言葉のように感じられた。なぜだか、わからなかった」
 椿先生は静かに頷いた。少し間を置いてから、窓の外に目をやった。その横顔が、夕日に照らされていた。
 窓の外を見たまま、椿先生は続けた。
「神原聡は、私の父です」
 その言葉が、保健室に落ちた。
 窓の外の夕焼けが、床をオレンジ色に染めていた。椿先生は涙を拭わずにいた。保健室の外から、遠くで部活の声が聞こえてくる。それが、奇妙なほど静かな沈黙を際立たせていた。しばらく、誰も動かなかった。
「神原先生のことは、以前話したわね。でも、父だとは言えなかった」
「なぜ、あの時は」
「自分の中でまだ整理がついていなかったから。神原先生として話すことはできた。でも、私の父として話すには、もう少し時間が必要だった」
 父のことを他人として語り続けていたんだ、と思った。それがどれだけ苦しかったか。
「父がシステムを今の形に作り直したのは、私を救うためだった。十年前、私はこの学校の生徒だった。毎日この学校の屋上に通っていた。父は心理学者として、娘の異変に気づいていた。でも、私はカウンセリングも薬も全部拒否していた。だから、父は別の方法を考えた」
 椿先生はノートの表紙を指先でなぞった。
「ある日、父は私に言った。『どう死にたいか、話してくれないか』って。私は仕方なく語った」
 重い沈黙が、保健室を満たした。
「『私は、海に沈む』」
 詩織が、息を呑んだ。
「深い海の底まで沈んで、静かに目を閉じる。それが、私の終わり方だと思っていた」
 その言葉が、胸の奥に刺さった。
「詩織さん。あなたも、同じ言葉を語っていた」
「……はい」
 詩織の声が、震えていた。
「番人になると、管理者の影響を、無意識に受けることがある。私が管理者として、あなたを見届けてきた。あなたが屋上に来た時、私の記憶の中にあった死に方が、あなたに伝わっていた。あなたは気づかないまま、私と同じ言葉を語り続けていた」
 詩織は目を伏せて、唇を結んだ。やがて、絞り出すように口を開いた。
「……じゃあ、私が毎日語っていたあの言葉は」
「私から来ていた。あなた自身の言葉でもあったかもしれないけれど、その根っこには、私の言葉があった」
 詩織の手が、膝の上でゆっくりと握られた。
「藤崎くんも、同じだった」
 一拍置いてから、椿先生は続けた。
「藤崎くんは、あなたと深く共鳴していた。番人であるあなたの死に方が、彼にも伝播した。だから、二人が同じ言葉を語った」
 詩織が、視線を床に落とした。
 黙っていた。ずっと気になっていた。詩織と藤崎が同じ死に方を語っていたこと。それが何を意味するのか、ずっとわからなかった。でも、今やっとわかった。詩織が番人として一年間背負っていたものが、藤崎にも流れていた。詩織は知らないまま、その重さを藤崎と分け合っていた。
 父親が娘を救うために作ったシステムに、その娘が十年間縛られてきた。救われた人間が、救った場所を守り続けるために、十年間一人でここにいた。椿先生が管理者として背負ってきたものの重さが、やっとわかった。
「私の言葉が、藤崎くんに伝わっていたんだ」
 詩織の声が、かすれていた。
「私が番人として存在していたことで、藤崎くんも同じ言葉を語ることになった」
「それは、あなたのせいじゃない」
 椿先生の声には、揺るぎがなかった。
「藤崎くんが屋上に来たのは、藤崎くん自身の苦しみがあったから。でも、同じ言葉を語ったのは、番人と管理者が繋がっていたから。それは、彼があなたを必要としていた証拠でもある」
 詩織は小さく頷いた。でも、まだ何かが胸につかえているように見えた。
「私は、一年間、自分がなぜその言葉を語るのかわからないまま、語り続けていた。それが、あなたから来ていたなんて、知らなかった」
「私も、番人にここまで深く影響が出るとは思っていなかった。管理者として、見届けるだけだと思っていた。でも、管理者と番人は繋がっていた。見届けるだけじゃなく、深いところで」
 椿先生の声が、わずかに震えた。
「あなたが一年間、番人として耐えられたのは、その言葉を語り続けたからだと、私は思う。海に沈む、という言葉を語り続けながら、本当は戻りたかった。その矛盾を、一年間抱えていた」
 詩織の目から、涙が流れた。
「先生も、同じだったんですね」
「そう。私も、海に沈むと語りながら、本当は海が好きだった。波の音を聞くと、落ち着いた。小さい頃、家族で海に行ったときのことを思い出した。語ることで、気づいた。私は死にたいんじゃなくて、海の近くで生きたかったんだって」
 椿先生はノートを机に置いた。
「父が消える前日の夜、私にだけ言った。『椿、お前を救えてよかった』って。それだけ言って、翌日消えた。誰も父のことを覚えていなかった。でも、私だけは覚えていた。そして、ずっと一人で抱えてきた」
 椿先生の涙が、頬を伝った。それでも、拭おうとしなかった。
「父のことを、今まで言えなかった。ごめんなさい」
 詩織は涙を拭って、椿先生を見た。しばらく、何も言わなかった。でも、その沈黙には、言葉より重いものがあった。
「もう、一人じゃない」
 詩織がそっと言った。
 椿先生は微笑んだ。十年間、管理者として守り続けてきた仮面が、ようやく外れたような顔だった。
「システムは、終わりに向かっている。あなたたちが番人と生徒として同時に戻った時から、ずっとそうだった。もう、誰も消えない。管理者として、それだけははっきりとわかる」
 詩織は椿先生を見つめて、小さく頷いた。
「ありがとうございました。先生がいなければ、私たちはここまで来られなかった」
 椿先生は詩織の肩に手を置いた。言葉はなかった。でも、その手の重さが、十年間の全てを伝えていた。
「これからは、ただ生徒たちを見守る先生として生きる。管理者としての役割は、終わった。いつか海の近くに住む。それが、私の夢」
 保健室を出て、廊下を歩いた。夕日が窓から差し込んでいて、床がオレンジ色に染まっている。僕と詩織は並んで歩いた。
 詩織は黙っていた。保健室での話を、まだ整理しているのかもしれなかった。その横顔が、夕日の色に染まっている。
「大丈夫か」
 詩織はしばらく沈黙してから、答えた。
「うん。ただ、なんか、色々と繋がった気がして」
「海に沈む、か」
「そう。あの言葉を語るたびに、なんで自分がそう思うのかわからなかった。でも、椿先生から来ていたなら、納得できる。椿先生も、海が好きで、それで生きることを選んだ。私も、番人として見届けながら、本当は誰かと一緒にいたかった」
 詩織は少し間を置いた。
「藤崎くんに同じ言葉が伝わっていたことは、まだちゃんと受け止めきれてない。でも」
 詩織は立ち止まって、窓の外を見た。夕焼けが、廊下の床を赤く染めていた。
「あの言葉が椿先生から来ていて、私を通して藤崎くんに伝わったなら、椿先生と私と藤崎くんが、同じ場所にいたということなのかもしれない。誰も気づかないまま、でも繋がっていた」
 詩織は黙ったまま、窓の外の夕焼けをじっと見ていた。
「それが、怖いことなのか、悲しいことなのか、まだわからない。でも、藤崎くんが戻ってきてくれた。それだけは、よかった」
「ああ」
 僕は詩織の手を握った。
「わからないままでいい。ゆっくり受け止めればいい」
 詩織は頷いた。でも、すぐには歩き出さなかった。夕焼けの中に立ったまま、しばらくそこにいた。僕も、隣でただ立っていた。言葉は、何もいらなかった。
 やがて、詩織は息を吐いて、歩き始めた。
 時計を見ると、17時30分だった。あと13分で、屋上の時間が始まる。
「今日も、屋上に行く?」
「ああ。最後に、もう一度」
 17時43分、僕たちは屋上のドアを開けた。夕焼けに染まった空が広がっていて、風が吹いている。でも、今日は誰もいない。二人だけだった。
 僕たちはフェンスに寄りかかって、夕焼けを眺めた。オレンジ色の空、赤く染まる雲、沈んでいく太陽。風が頬を撫でていく。美しかった。
 ここで、多くのことがあった。死に方を語る声も、消えていく人たちの最後の姿も、詩織と並んで立っていた時間も。藤崎が最初に屋上を教えてくれた日のことも、美月が毎日違う死に方を語っていたことも、朝倉が美咲に向かってドアの外から声をかけた夜のことも。あの頃は、まだ何もわかっていなかった。でも、この場所が終わりに向かっている今、ようやくわかった。
「ねえ、蓮」
 隣で、詩織が呟いた。
「私ね、ずっと思ってたの。番人として存在してるだけだって。感情を持っちゃいけない。誰かを好きになっちゃいけない。ただ、消えていく人たちを見届けるだけ」
 言葉が途切れた。詩織は深く息を吸って、夕焼けの空を見上げた。
「一年間、ずっとそうだった。毎日屋上に来て、生徒たちが死に方を語るのを聞いて、誰かが消えて、また新しい人が来て。何人もの人を見送った。ただ見届けることしかできなくて、心が痛くて、夜眠れないこともあった」
 涙が、頬を伝った。詩織はそれを拭わずに、僕の手を握った。
「でも、あなたと出会って。あの時、初めて誰かのために何かしたいと思った。あなたが何も語れない日も、私はただ隣にいた。それが、どれだけ嬉しかったか」
 詩織は一度言葉を切って、夕焼けの空を見上げた。
「あなたが最初に語った死に方、覚えてる? 眠ったまま目が覚めなければいい、って。あれは死に方じゃないって、その瞬間わかった。あなたは消えたいんじゃなくて、誰かに気づいてほしかっただけだって。だから、私はあなたの隣にいたかった」
 風が吹いて、詩織の髪が揺れた。
「あなたに好きだと言った言葉は、今も変わらない。でも、今はもう少しだけ、はっきりわかる。あなたの悲しみを、一緒に抱えたい。消えていった人たちのことも、あなたが一人で背負わなくていいように、隣にいたい。それが、今の私の生きたい理由」
 詩織の言葉が、夕焼けの中に溶けていくようだった。
「俺も」
 声が、自然と出た。
「大樹を失って、ずっと一人で抱えてきた。でも、君が隣にいてくれたから、少しずつ前を向けた。君が俺の重さを受け取ってくれたから、俺も君の重さを受け取りたいと思えた。それが、俺の生きたい理由になった」
 詩織の目に、涙が光った。
「これからも、一緒に抱えていきましょう」
「ああ。ずっと一緒に」
 僕は詩織を抱きしめた。その体は温かくて、ここにあった。詩織も、僕を抱きしめ返した。しばらく、二人でそこにいた。夕焼けの風が、周りを吹き抜けていく。
 そして、僕たちは、キスをした。
 優しく、ゆっくりと。詩織の唇は柔らかくて、温かかった。夕焼けの光が、瞼の裏に滲んでいた。周りの音が、少しずつ遠くなっていく。風も、鳥の声も、全てが遠ざかって、ここだけが静かになる。
 唇を離すと、詩織は照れたように頬を染めて、でも嬉しそうに微笑んだ。
「初めて」
 詩織の呟きに、僕も微笑んだ。
「俺も」
 空が、少しずつ暗くなっていく。でも、それは終わりじゃない。ただ、夜が来るだけだ。夕焼けが消えて、代わりに星が出始める。それを繰り返しながら、世界は続いていく。
「もう、誰も来ないね」
 詩織の言葉に、僕は頷いた。
「ああ」
 屋上を見回した。ここで、多くの人が死に方を語った。ここで、多くの人が消えた。でも、ここで、多くの人が戻ってきた。ここは、生きることを探すための場所だった。そして今、その役目を終えた。
 詩織も屋上を見回した。
「いつもと違って、あの特別な空気が、ない」
 フェンスに触れた。ただのフェンスだった。特別な力も、不思議な感覚も、何もない。鉄の冷たさだけがあった。
「終わったんだ」
 17時58分、時間が来た。でも、今日は何も起きない。ただ、夕焼けが少しずつ暗くなっていくだけ。
 僕たちは屋上を降りて、校舎を出た。空はすっかり暗くなっていた。星が、一つずつ出始めている。僕たちは手を繋いで、夜道を歩いた。隣に詩織がいる。それだけで、十分だった。