放課後、死ぬ練習をする場所で

 翌朝、目が覚めたとき、僕は一瞬、全てが夢だったんじゃないかと思った。でも、枕元の携帯には詩織からのメッセージが残っていて、「おはよう、蓮。今日、一緒に学校行こう」という文字が画面に表示されている。僕は携帯を握りしめて、深く息を吸った。これは夢じゃない。僕たちは確かに戻ってきた。一緒に。
 ベッドから起き上がって、カーテンを開けると、朝日が部屋に差し込んできた。窓の外には青い空が広がっていて、雲が流れている。いつもと同じ朝。でも、何かが違う。世界が、少しだけ明るく見える。
 朝の準備をしながら、鏡に映る自分を見た。変わったのか、変わっていないのか、自分でもよくわからない。でも、一つだけ確かなことがあった。昨日までとは違う。もう、無気力じゃない。もう、ただ時間が過ぎるのを待つだけじゃない。今日という日が、楽しみだった。詩織と会える。それだけで、朝起きる理由になった。
 制服を着て、鞄を持って、部屋を出る。階段を降りながら、母親の声が聞こえてきた。
「蓮、朝ごはんできてるわよ」
 普通の朝。普通の日常。でも、その普通が、今はとても貴重に感じられた。
 食卓に座って、朝食を食べる。母親が作ってくれたトーストと目玉焼き、サラダ。いつもと同じメニュー。でも、今日は美味しく感じられた。母親は新聞を読みながら、時々僕を見て微笑んだ。
「蓮、最近なんだか元気そうね」
 母親の言葉に、僕は少し驚いた。そんなに変わって見えるんだろうか。
「そう?」
「ええ。表情が、柔らかくなった気がするわ」
 母親は優しく微笑んで、それから新聞に目を戻した。僕は自分の胸に手を当てた。確かに、何かが変わった。詩織と出会って、屋上を経験して、生きることを選んで。その全てが、僕を変えた。
 家を出て、いつもの通学路を歩く。空は青く晴れていて、遠くから登校する生徒たちの声が聞こえてくる。笑い声、呼び合う名前、自転車のブレーキ音。以前は耳を素通りしていたその音が、今日は一つひとつ確かに聞こえた。世界は、ずっとこんなに音に満ちていたんだろうか。
 信号で立ち止まって、青になるのを待つ。その時、隣に誰かが立った。振り返ると、詩織がいた。長い黒髪を風になびかせて、制服姿で立っている。僕を見つけると、彼女は微笑んだ。その笑顔は、屋上で見たどの表情よりも温かかった。
「おはよう、蓮」
 詩織の声が響いて、僕も微笑んだ。
「おはよう、詩織」
 信号が青に変わって、二人で並んで横断歩道を渡る。その時、詩織が僕の手を握った。僕は少し驚いたけれど、その手を握り返した。温かい手。確かにそこにある手。
「ねえ、蓮」
 詩織が口を開いて、僕は彼女を見た。
「今日も、一緒にいてくれる?」
 その問いに、僕は強く頷いた。
「もちろん。ずっと一緒だ」
 詩織は嬉しそうに微笑んで、その手をもっと強く握った。僕たちは並んで学校へ向かった。
 校門をくぐると、いつもの光景が広がっている。生徒たちが談笑していて、部活の朝練に向かう人たちが走っていく。校舎の窓から朝日が反射して、眩しい光を放っている。普通の朝。普通の学校。でも、僕と詩織にとっては、特別な朝だった。
 昇降口で上履きに履き替えていると、クラスメイトの神崎理沙が声をかけてきた。
「おはよう、桐谷君!」
 理沙の明るい声が響いて、僕は振り返った。
「おはよう」
 理沙は僕の隣にいる詩織を見て、少し驚いたような顔をして、それから嬉しそうに笑った。
「あれ? 七瀬さんと一緒なんだ! なんか仲良くなった?」
 その問いに、僕と詩織は顔を見合わせた。どう答えればいいのだろう。
「まあ、ちょっとね」
 僕の曖昧な返答に、理沙は満面の笑みを浮かべた。
「そっか! よかったね、桐谷君。最近、なんか明るくなったと思ってたんだ。七瀬さんのおかげかな」
 理沙はそう言って、教室へ向かっていった。僕と詩織は、再び顔を見合わせた。
「明るくなった、か」
 僕の呟きに、詩織は微笑んだ。
「そうだね。あなた、確かに変わった」
「詩織も」
 僕は詩織を見た。
「前より、笑うようになった」
 詩織は少し照れたように頬を染めて、それから小さく頷いた。
「うん。あなたのおかげ」
 僕たちは並んで階段を上がった。廊下を歩きながら、すれ違う生徒たちが挨拶をしてくる。
「おはよう」
「おはよう」
 その普通の挨拶が、今はとても温かく感じられた。詩織は隣のクラスなので、廊下の途中で別れた。でも、休み時間や昼休みには会える。それだけで、授業を受けるのが楽しみになった。
 教室に入った瞬間、僕は足を止めた。
 藤崎の席がない。白鳥美月の席もない。昨夜、「全部元通りに戻ってるはずだ」と詩織に言った。でも、消えた人たちの痕跡は、この教室からは完全に消えたままだった。戻っていない。僕の見込みは、外れていた。胸の奥に、静かな落胆が広がった。
 でも、僕は覚えている。藤崎の顔も、美月の顔も、消えた他の生徒たちの顔も、全部鮮明に覚えている。記憶が残っているなら、まだ間に合うかもしれない。そう思いながら、僕は自分の席に座った。
 授業が始まって、先生が教科書を開くように指示する。でも、頭の中では、放課後に何をすべきか考え続けていた。
 昼休み、僕と詩織は中庭のベンチに座った。二人でお弁当を食べながら、空を見上げる。雲が流れていて、鳥が飛んでいる。
「私たち、本当に戻ってきたんだよね」
 詩織の声が、少し頼りなく聞こえた。僕は彼女の手を握った。
「ああ。確かに戻ってきた。一緒に」
 詩織は僕の手を握り返して、その手は温かかった。
「でも、まだ終わってない気がする」
「うん。俺もそう思う。教室に来たら、藤崎の席も美月の席もなかった。戻ってなかった」
 詩織は少し考えるような顔をした。
「消えた人たちは、まだどこかにいるのかな」
「わからない。でも、完全には消えてないんじゃないかって思う。記録には残ってるかもしれない。写真とか、名簿とか、新聞記事とか」
「じゃあ、放課後、図書館で調べてみよう。それから、椿先生にも聞きたい」
 僕は頷いた。詩織はお弁当の続きを食べ始めた。その横顔が、昼の光に照らされて穏やかに見えた。昨日まで透けていたその顔が、今はこんなにはっきりとここにある。それだけで、十分だと思った。
 午後の授業が終わって、放課後のチャイムが鳴る。僕と詩織は教室を出て、図書館へ向かった。廊下を歩きながら、窓から差し込む夕日が床を照らしている。
 図書館に入ると、静かな空間が広がっていて、本の匂いが漂っている。司書の先生が受付にいて、僕たちに会釈をした。僕たちも会釈を返して、資料室へ向かった。
 資料室のドアを開けると、古い本やアルバム、新聞が並んでいる棚が見える。僕たちは棚の前に立って、一つずつ確認し始めた。
「まず、新聞から調べてみよう」
 僕は古い新聞の束を手に取って、ページをめくり始めた。一年前、二年前、三年前。日付を確認しながら、記事を読んでいく。
 地域のニュース、学校行事の報道、スポーツの結果。その中に、見覚えのある名前がないか、目を凝らして探す。
「これ」
 僕は手を止めて、ある記事を見つめた。それは一年前の地域新聞で、学校のサッカー大会の記事だった。そして、その記事の中に、確かに藤崎健太の名前があった。
「藤崎健太選手(1年)が決勝ゴールを決め、チームを優勝に導いた」
 僕は記事を読み上げて、詩織も覗き込んできた。
「藤崎くん」
 詩織の声が震えて、彼女は記事を指でなぞった。
「確かにいたんだ。ここに」
 僕はさらに新聞をめくって、他の記事も探した。すると、別の記事にも藤崎の名前が載っていた。文化祭の実行委員として活動していたという記事、生徒会選挙に立候補したという記事。藤崎は、確かにこの学校にいた。
「記録には残ってる」
 僕の言葉に、詩織は頷いた。
「でも、誰も覚えていない」
 僕たちは顔を見合わせて、それから別の資料を探し始めた。今度は、学校のアルバムを手に取る。
 アルバムのページをめくると、文化祭の写真が次々と現れた。クラスの出し物、部活の発表、模擬店の様子。その中に、見覚えのある顔がいくつも見つかった。
「これ、白鳥さん」
 詩織が指差した写真を見ると、確かに白鳥美月が写っていた。文化祭の写真で、クラスの出し物で笑顔でポーズを取っている。彼女の周りには他のクラスメイトもいて、みんな楽しそうに笑っている。
「白鳥さん……」
 詩織の声が途切れて、彼女は写真を見つめた。
「こんなに笑ってたんだ」
 僕も写真を見た。美月は、屋上では毎日違う死に方を語っていた。でも、この写真の中では、こんなに楽しそうに笑っている。彼女にも、楽しい日常があったんだ。
 さらにページをめくると、他の写真も見つかった。体育祭の写真、修学旅行の写真。その中に、消えた生徒たちの姿があった。
「こんなにたくさん」
 詩織の声が震えて、彼女は涙を浮かべた。
「みんな、確かにここにいたのに」
 僕は詩織の肩に手を置いた。
「大丈夫。俺たちが覚えてる。そして、戻してあげられる」
 詩織は涙を拭って、強く頷いた。
「うん」
 僕たちはアルバムを閉じて、資料を棚に戻した。そして、図書館を出て、保健室へ向かった。
 保健室のドアをノックすると、中から椿先生の声が聞こえた。
「どうぞ」
 僕たちはドアを開けて中に入った。
 椿先生は机の前に座っていて、書類を整理していたけれど、僕たちを見ると手を止めて微笑んだ。
「桐谷くんと七瀬さん。また二人で?」
 僕は一歩前に出て、椿先生を見た。
「先生、消えた人たちの記録を見つけました。新聞にも、アルバムにも、確かに残っていた」
 椿先生は少し驚いたような顔をして、それから深く息を吸った。
「そう。やっぱり、記録は残ってたのね」
「はい。でも、教室に来たら席がなかった。システムが崩壊したのに、なぜ消えた人たちは戻っていないんですか」
 椿先生は静かに首を横に振った。
「システムは崩壊した。でも、崩壊したのは、これ以上誰かを生と死の狭間に閉じ込める機能だけ。既に狭間にいる者は、誰かが手を差し伸べなければ戻れない」
 その言葉が、保健室に重く響いた。
「生と死の狭間、ですか」
「そう。消えた者たちは、記憶からは切り離されても、完全には消えていない。生きている世界と、消えた世界の、どこでもない場所にいる」
 椿先生は机の上のノートを手に取った。
「神原先生は、こう書いていた。『記録は真実の証明。たとえ記憶が消えても、記録は残る。それが、戻る道しるべになる』」
 僕は椿先生を見た。
「じゃあ、記録があれば、戻せるんですか」
 椿先生は頷いた。
「可能性はある。でも、それだけじゃ足りない。その人自身が、戻りたいと思うこと。そして、誰かが手を差し伸べること」
 詩織が口を開いた。
「じゃあ、私たちが」
 椿先生は微笑んだ。その目には期待があった。
「そう。あなたたちなら、できる。屋上に、もう一度行きなさい。今度は、あなたたちが『呼び戻す側』になる」
「消えた者は、狭間にいる。そこから引き戻すには、誰かが手を差し伸べなきゃいけない。あなたたちは『戻った者』。でも、戻ってからまだ日が浅い。だから、狭間との繋がりがまだ残っている」
 僕は一つ、気になっていたことを口にした。
「先生、消えた人に、会いたがっている人がいます。朝倉先輩です。でも先輩は以前、屋上のドアが開かなかったと言っていた。先輩は、狭間に入れないんですか」
 椿先生は少し考えるような仕草を見せた。
「狭間に入る資格は、今現在も生と死の狭間に関わっている者に限られる。戻った者でも、完全に現実に戻り切った者は入れない。朝倉くんは二年前に自力で戻って以来、システムとの繋がりが完全に切れてしまっている。だから、ドアが開かない」
「でも、声は届きますか。ドアの外から」
 椿先生は少し間を置いてから、頷いた。
「届くかもしれない。狭間は完全に遮断された場所じゃない。強い想いは、境界を越えることがある」
 僕は詩織を見た。詩織も頷いた。
「わかりました」
 椿先生は微笑んだ。その目には期待があった。
「気をつけて。狭間は、不安定な場所。長くいすぎると、あなたたちも引き込まれる可能性がある」
「わかりました」
 保健室を出て、廊下を歩いた。時計を見ると、16時50分。あと50分ほどで、屋上の時間が始まる。
「蓮」
 詩織が立ち止まって、僕も立ち止まった。
「本当に、大丈夫?」
 詩織の声が、わずかに震えていた。僕は彼女の手を握った。
「大丈夫。一緒なら」
 詩織は僕の手を握り返した。その手は少し冷たかったけれど、力がこもっていた。
「うん。一緒なら大丈夫だよね」
 その時、廊下の向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。生徒会の腕章をつけた男子生徒。朝倉だった。
 朝倉は僕たちを見つけると、少し驚いたような顔をして、それから近づいてきた。
「桐谷と七瀬」
 朝倉は立ち止まって、僕たちを見た。その目に、何かが揺れていた。
「本当に、戻ってこれたんだな」
 僕は頷いた。
「はい。先輩と約束したことが、力になりました」
 朝倉は深く息を吸って、それから窓の外を見た。その横顔には、昨日話した後悔がまだ残っているようだった。
「約束、覚えてるか」
「はい。美咲さんを戻してみせます」
 朝倉の目が、わずかに揺れた。
「俺も、手伝わせてくれ」
「先輩は、屋上には入れないかもしれません」
 僕は正直に言った。朝倉は少し驚いたような顔をしたけれど、すぐに頷いた。
「わかってる。でも、ドアの前で、美咲に声をかけることはできるか」
「椿先生が、強い想いなら届くかもしれないと言っていました。だから、ドアの前で美咲さんに話しかけてください。俺たちが中から美咲さんを探します」
 朝倉は唇を結んで、それから静かに頷いた。
「わかった」
 三人で並んで歩き出した。時計を見ると、17時30分。あと13分で、屋上の時間が始まる。
 階段を上がりながら、朝倉が口を開いた。
「美咲に、何を言えばいい」
 僕は少し考えてから、答えた。
「本当のことを。先輩が今、一番伝えたいことを」
 朝倉はそれ以上何も言わず、ただ前を向いて歩き続けた。その背中には、決意が見えた。
 17時43分、僕たちは屋上のドアの前に立っていた。
「先輩はここで」
 僕は朝倉を見た。朝倉は頷いて、ドアの前に立った。
「頼む」
 僕はドアに手をかけた。確かに鍵は開いている。詩織と顔を見合わせて、深く息を吸って、開ける。
 屋上に出ると、空は既に薄暗くなりはじめていて、地平線の端だけがかすかに赤い。風が冷たく、フェンスの金属が夕暮れの光を鈍く反射している。誰もいない。でも、空気が違う。誰かがいるような、いないような。
「美咲さん」
 僕は屋上に向かって声をかけた。返事はない。詩織と二人で屋上を歩いた。フェンスの端、隅、どこにも姿は見えない。
 その時、詩織が何かに気づいたように目を見開いた。
「蓮、あそこ」
 詩織が指差す方向を見ると、屋上の端。最初は影かと思ったけれど、よく見ると、それは人の形をしていた。透けている。そこにいるけれど、いないような。
「美咲さん!」
 僕たちは駆け寄った。フェンスの前に立つと、確かに少女の姿が見えた。透明で、輪郭がぼやけているけれど、確かに人の形をしている。長い髪、制服姿。朝倉の妹、朝倉美咲。
 美咲がゆっくりと振り返った。その顔は、ぼやけていて、表情がよくわからない。でも、目だけが、確かに僕たちを見ていた。
「誰?」
 美咲の声が聞こえた。小さく、かすれるように、どこか遠い場所から聞こえてくるような声。
「俺は桐谷蓮。こっちは七瀬詩織。君を迎えに来た」
 美咲は少し首を傾けた。
「迎えに? 私のことを、知ってるの?」
「ああ。君のことを覚えてる人がいる。ドアの外に」
 美咲の姿が、わずかに揺れた。
「私のことを、覚えてる人?」
 その言葉に、美咲の声には疑いが滲んでいた。当然だと思った。ずっと一人でいた人間が、急に「覚えている人がいる」と言われても、信じられるはずがない。
「そう。君のお兄さんだ」
 美咲の表情が、かすかに動いた。でも、すぐに首を横に振った。
「お兄ちゃん? 違う。私には、そんな人いない。誰のことも覚えてないし、誰も私のことなんか覚えてない」
 美咲の声が、わずかに乱れた。
「ずっと、そうだった。ここにいるのに、誰にも見えなくて、誰の声も聞こえなくて。私は、最初からいなかったのかもしれない」
 美咲の目から、透明な涙が流れた。
「記憶がなくても、感情は残ってる」
 僕は美咲を見て、静かに言った。
「心の奥底に、想いは残ってる。だから、聞いてほしい。ドアの外に、君に伝えたいことがある人がいる」
 美咲は首を横に振ろうとした。その時、ドアの外から声が聞こえてきた。
「美咲」
 朝倉の声だった。くぐもっていて、でも確かに届いていた。
 美咲の体が、びくりと震えた。そして、動かなくなった。
「誰、これ」
 美咲の呟きは、僕たちに向けたものではなかった。自分自身に問いかけるような声だった。
「知らない声なのに。なんで、泣きたくなるんだろう」
 朝倉の声が続いた。
「お前は、いつも一人で頑張ってた。俺は気づいてたのに、何もしてあげられなかった」
 美咲の輪郭が、わずかに揺れた。でも、まだ遠い目をしていた。記憶が戻っているのではなく、何か懐かしいものに引っ張られているような、そんな顔だった。
「生徒会の仕事を理由にして、『後でね』『明日ね』って言い続けた。お前が『お兄ちゃん、私ね』って言いかけたとき、俺は『後でね』って答えた。そのことを、どれだけ後悔したか。毎日、毎日、思い出すんだ。あの時、ちゃんと聞いてあげればよかったって」
 美咲が小さく息を呑んだ。
「……お兄ちゃん」
 その言葉は、ほとんど音にならなかった。でも、確かに聞こえた。
「覚えてないのに。なんで、その言葉が出てくるんだろう」
 美咲は自分の口元を、震える手で押さえた。その姿が、激しく揺らいでいる。
「おかしい。私、何も覚えてないのに。何も、何も、誰のことも。なのに、なんで」
 朝倉の声が続いた。
「俺は、お前と一緒にいたい。お前の話を全部聞きたい。お前と一緒に、これからを生きたい。それが俺の、生きたい理由だ。美咲、戻ってきてくれ」
 美咲は動かなかった。でも、その目に、何かが灯り始めていた。記憶ではなく、もっと深いところにある何かが、少しずつ浮かび上がってくるような。
 しばらく、沈黙が続いた。美咲は目を閉じて、唇を噛んだ。その体の揺らぎが、細かく、激しくなっていく。
「怖い」
 美咲が小さく言った。
「戻ったら、また傷つくかもしれない。また、一人になるかもしれない。そっちの世界に、私の居場所なんてないかもしれない」
 僕は口を開いた。
「怖くて当然だ。でも、あの声を聞いてみてくれ。あの人は、君のことを覚えてる。君が消えた後も、ずっと」
 美咲は目を開けた。涙が、頬を伝っていた。
「覚えてる、って」
「ああ。君が消えた後も、君のことだけは忘れられなかったんだ。今も、ドアの外で待ってる」
 美咲はしばらく、ドアの方を見つめていた。長い時間だった。その間も、朝倉はドアの外で黙って待っていた。何も言わずに、ただそこにいた。
 やがて、美咲は小さく、でも確かに頷いた。
「戻る。怖いけど、戻る」
 その瞬間、光が美咲を包んだ。眩しい光が屋上全体を照らして、僕と詩織は目を細めた。美咲の姿が、完全に実体化していく。透明だった体が、確かな色を持ち始めて、髪も、制服も、全てがはっきりと見える。
 光が消えると、美咲は確かにそこに立っていた。もう透けていない。
「戻れた」
 美咲は自分の手を見つめて、小さく呟いた。まだ涙が頬に光っていた。
 僕はドアを開けた。朝倉がドアの前に立っていて、僕たちを見た瞬間、その目が美咲に向いた。
「美咲!」
 朝倉が駆け寄って、美咲を強く抱きしめた。美咲も、朝倉の背中に手を回した。その瞬間、美咲の体が小さく震えた。
「お兄ちゃん」
 今度は、はっきりと聞こえた。記憶が戻ったのか、それとも体が先に覚えていたのか。美咲は朝倉の胸に顔を埋めたまま、声を上げて泣いた。
「ごめんね、ごめんね、心配かけて」
「いいんだ、もう、いいんだ。お前が戻ってきてくれた。それだけで十分だ」
 朝倉は首を横に振って、美咲をさらに強く抱きしめた。その背中が、小さく震えていた。
 17時58分、誰かの腕時計が鳴った。
 僕と詩織は顔を見合わせて、微笑んだ。一人、戻せた。
 屋上を降りて、校舎を出ると、空はすっかり暗くなっていた。街灯が道を照らしていて、遠くから車の音が聞こえてくる。朝倉と美咲は手を繋いで歩いていて、二人とも笑顔だった。
「桐谷、七瀬」
 朝倉が振り返って、僕たちを見た。目に涙が浮かんでいて、でもその顔は笑っていた。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
「約束、守ってくれたな」
 僕は首を横に振った。
「戻ってこれたのは、先輩の声が届いたからです」
 詩織も頷いた。
「先輩の言葉が、美咲ちゃんを引き戻したんです」
 美咲は僕たちを見て、深く頭を下げた。まだ少し涙の跡が残っていたが、その顔は穏やかだった。
「ありがとうございます。戻れて、よかった。お兄ちゃんと、もう一度一緒にいられる」
 朝倉は美咲の頭をそっと撫でた。美咲は少し照れたように笑って、でもそのまま朝倉の隣に寄り添った。その光景が、夜の街灯の下でとても温かく見えた。
 僕と詩織は微笑んで、二人を見送った。朝倉と美咲は手を繋いで、夜道を歩いていく。その背中が、街灯の光に照らされて、少しずつ遠ざかっていった。
 二人が角を曲がって見えなくなった後、僕と詩織はしばらくその場に立っていた。
「一人、戻せたね」
 詩織の言葉に、僕は頷いた。
「ああ。でも、まだ他にもいる。藤崎も、白鳥も、他の人たちも」
「一人ずつ、丁寧に。焦らなくていい」
 詩織は僕の手を握った。その手の温かさが、昨夜起きたことを確かなものにしてくれる気がした。
「ああ」
 僕たちは歩き出した。次に誰を呼び戻すか、頭の中で考えながら。やるべきことは、まだある。でも、それでいい。これが、僕たちが選んだ道だから。
 翌日、教室に入ると、驚くべき光景が広がっていた。朝倉美咲が、教壇の前に立っている。担任の先生が彼女を紹介していて、クラス全員が注目していた。
「今日から、朝倉美咲さんがこのクラスに転入してきました。みんな、仲良くしてあげてください」
 美咲は少し緊張したような顔で、でも笑顔でお辞儀をした。
「朝倉美咲です。よろしくお願いします」
 クラスメイトたちは拍手をして、美咲を迎え入れた。誰も疑問を持たない。誰も、美咲が「戻ってきた者」だとは気づかない。
「朝倉さん、部活は何やってたの?」
 前の席の女子が話しかけて、美咲は少し考えるような仕草を見せた。
「えっと、美術部です」
「へえ! じゃあ、うちの美術部に入る?」
「はい、見学に行ってみます」
 美咲とクラスメイトが自然に会話を始めて、教室には温かい雰囲気が広がっていく。美咲の存在が、自然にこの世界に馴染んでいる。
 美咲の席は、窓際の後ろから二番目。ちょうど僕の斜め前だった。美咲は席に座って、周りを見回していたけれど、僕と目が合うと、小さく微笑んで会釈をした。僕も微笑み返した。昨日の記憶が、その目に宿っているのがわかった。屋上での出来事、朝倉との再会、光に包まれたこと。美咲は、全て覚えている。
 授業が始まって、先生が教科書を開くように指示する。でも、僕は教科書を開きながら、美咲の様子を横目で見ていた。彼女は真剣に授業を聞いていて、ノートを取っている。普通の生徒として、ここにいる。本当に、戻ってきたんだ。
 休み時間、美咲の周りには何人かのクラスメイトが集まっていて、色々と質問をしている。美咲は一つ一つ丁寧に答えていて、その表情は明るかった。昨日の屋上での姿とは、全く違う。本当に戻ってきたんだ、と改めて思った。
 廊下の窓から、生徒会室の方向を見ると、朝倉が廊下を歩いているのが見えた。彼は美咲の教室の方を見て、小さく微笑んだ。昨日までとは違う柔らかさが、その顔ににじんでいた。妹が戻ってきた。その安堵が、表情を変えていた。
 昼休み、僕と詩織は中庭のベンチに座っていた。
「美咲ちゃん、無事に馴染めたね」
 詩織の言葉に、僕は頷いた。
「ああ。誰も不思議に思わない。最初からそうだったかのように」
「次は、誰を戻す?」
 詩織の問いに、僕は少し考えた。
「藤崎か、白鳥か」
 僕は空を見上げた。青い空に、白い雲が流れている。
「藤崎は、俺に屋上のことを教えてくれた。彼がいなければ、俺はあの場所を知らなかった。詩織とも出会えなかった」
「じゃあ、藤崎くんから?」
「ああ。でも、彼が戻りたいと思ってるかどうか」
 僕は詩織を見た。
「白鳥も同じだ。彼女は毎日違う死に方を語ってた。それは、まだ諦めたくなかったから。でも、最後には『誰にも見つからない場所で消える』って言った」
 詩織は少し悲しそうな顔をした。
「でも、試してみる価値はある。少なくとも、声をかけてみる。戻るかどうかは、彼ら自身が決めることだ」
 詩織は僕の手を握った。
「一人ずつ、丁寧に」
 僕は詩織の手を握り返した。
「ああ」
 午後の授業が終わって、放課後のチャイムが鳴る。僕と詩織は教室を出て、階段の前で待ち合わせた。
「今日も、屋上に行く?」
 詩織の問いに、僕は頷いた。
「ああ。誰かが、待ってるかもしれない」
 僕たちは並んで階段を上がって、屋上への扉の前に立った。時計を見ると、17時40分。あと3分で、屋上の時間が始まる。
「蓮」
 詩織が僕の手を握って、僕も握り返した。
「一緒に、頑張ろう」
「ああ。一緒に」
 17時43分、僕たちは扉を開けて、屋上へ上がった。風が冷たく、空には星が出始めている。今日は誰もいない。でも、明日は誰かがいるかもしれない。藤崎か、白鳥か、それとも他の誰かか。
 僕たちはフェンスに寄りかかって、暗くなっていく空を眺めた。
「ねえ、蓮」
 詩織が口を開いた。
「私たち、どこまで戻せるんだろう」
「わからない。でも、できる限りのことをする」
 僕は詩織の手を握った。
「一人でも多く、戻してあげたい。それが、俺たちが生きる理由の一つだから」
 詩織は微笑んで、その手を握り返した。
「うん。私も」
 17時58分、時間が来た。僕たちは屋上を降りて、校舎を出た。
 昨日は一人、戻せた。明日は、また別の誰かに手を差し伸べる。それが、僕たちの続けていくことだった。