放課後、死ぬ練習をする場所で

 あの日から、僕の日常は少しずつ変わっていった。朝、目が覚めると窓を開けて深呼吸をする。冷たい空気が肺を満たす感覚に、まだ少し戸惑いながらも、嫌な気はしなかった。むしろ、その冷たさを確かめることが、毎朝の小さな儀式のようになっていた。生きている、ということを、体の感覚から少しずつ取り戻していくような時間だった。学校へ向かう道では、道端の花にふと目が留まる。名前も知らない雑草の花でも、その色や形をしばらく眺めてしまう。以前の僕なら、視界に入っていても気づきもしなかったはずのものだった。校門で詩織と会うと、自然と頬が緩む。彼女の横顔を見ているだけで、胸の奥が温かくなる。これが、生きるということなんだと、最近になってようやくわかってきた気がした。
 でも同時に、僕の心には不安もあった。詩織は番人だ。消えた者の記憶を保持する存在として、生と死の狭間に立ち続けている。そして、僕は次の番人候補。戻るか、番人になるか。その選択を出す時が、近づいていることを感じていた。誰かに急かされているわけではないのに、時間だけが静かに、確実に減っていくような感覚があった。
 夜、布団の中でその選択について考えることが増えた。詩織のことを思うと、自分が番人になって彼女を解放してあげる、という選択肢が頭をよぎることもあった。でも、そのたびに、詩織が悲しそうな顔をするところが目に浮かんで、その考えを振り払った。彼女が望んでいるのは、僕が番人になることじゃない。一緒に、戻ることだ。
 二時間目が終わった休み時間、担任が教室の戸口から僕を呼んだ。
「桐谷、生徒会室に行ってくれ。朝倉が呼んでる」
 担任はそれだけ言って、もう次の用事に向かっていった。なぜ生徒会に関わったこともない僕が呼ばれるのか、心当たりはなかった。
 放課後、僕は生徒会室の前に立った。ノックをすると、中から「どうぞ」という、落ち着いた、でも少し緊張を含んだ男性の声が聞こえた。
 中は思ったより広く、壁には活動記録や予定表が整然と貼られている。奥の机に、一人の男子生徒が座っていた。胸の名札には「生徒会副会長 朝倉隼人 三年二組」とある。先輩だった。背が高く、引き締まった体格をしていて、目には強い意志が宿っている。彼は僕を見ると、少し緊張したような表情を見せた。
「桐谷蓮、だったな」
「はい」
「座れ」
 朝倉が向かいの椅子を指す。僕は言われた通りに座った。朝倉はしばらく黙ったまま僕を見つめていた。その沈黙が、妙に長く感じられた。窓の外で誰かが部活のかけ声を上げているのが、遠く聞こえていた。机の上に置かれたファイルの角を、朝倉は指先で何度も揃え直していた。
「お前、まだ屋上に行ってるのか」
 その一言で、僕の心臓は跳ねた。
「なんでそれを、知ってるんですか」
 声が震える。朝倉は深く息を吸ってから、ゆっくりと口を開いた。
「俺の妹が、あの場所で消えたんだ」
 部屋の空気が、急に重くなった。
「妹?」
 朝倉は一瞬、言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。それから、覚悟を決めたように僕を見た。
「お前にしか、話せないと思ったんだ。お前は、まだ屋上に通ってるんだろう。だったら、信じてくれるかもしれないと思って」
 朝倉は窓の外に目をやり、少し考えるような間を置いてから話し始めた。
「朝倉美咲。一年前のある朝、いつものように起きてこなかった。部屋を覗いたら、もぬけの殻だった。荷物も、布団も、何もかも。家には両親もいたのに、誰も変だとは思ってなかった。俺だけが、おかしいと思って騒いだ。両親に聞いたら『美咲? 誰それ?』って言われた」
 拳が、机の上でゆっくり握りしめられていく。
「最初から娘なんていなかったみたいに、両親は美咲のことを忘れてた。友達に聞いても、誰も覚えてない。『朝倉に妹なんていたっけ?』って、不思議そうな顔をされた」
 朝倉の目に涙が浮かんでいたが、彼はそれを拭わなかった。
「でも、俺だけは覚えてた。一緒に育って、一緒に笑って、一緒に泣いた、その全部を」
 深く息を吸って、続ける。
「美咲の部屋も、写真も、記録も全部消えてた。でも俺の記憶だけは残ってた。十五年分、全部鮮明に」
 朝倉は僕を見た。怒りと悲しみが、その目の中で混ざり合っていた。
「美咲は、優しい妹だった。いつも俺の後ろをついてきて、『お兄ちゃん、お兄ちゃん』って。小学生の頃、膝を擦りむいたときは、俺がおんぶして保健室まで運んだ」
 目を閉じて、遠い記憶を辿るように。
「中学の頃、友達と喧嘩して泣いてたときは、話を聞いてやって、一緒にアイスを食べに行った。『お兄ちゃんがいてよかった』って、笑ってくれた」
 声が途切れ、表情が暗くなる。
「でも、高校生になって、美咲は変わった。前ほど話さなくなって、一人で部屋にいるようになって、笑顔も減った。気づいてたんだ。何か抱え込んでるって。でも、何もできなかった。生徒会の仕事を理由にして、『後でね』『明日ね』って、言い続けてた」
 拳が、もう一度強く握られた。
「ある日、美咲が部屋に来て、『お兄ちゃん、私ね』って言いかけた。でも俺は、会議があるからって言って、『後でね』って答えた。美咲は少し寂しそうに笑って、『うん、後でいい』って出ていった。それが、最後だった。翌日、消えた」
 その言葉が、僕の胸に突き刺さった。大切な人が何かを言おうとしていたのに、聞いてあげられなかった。そして、失った。朝倉の話は、僕の話そのものだった。胸の奥が、鈍く痛んだ。窓の外の声援が、いつの間にか止んでいた。
「俺は調べた。美咲の部屋に、日記が残ってた。そこに屋上のことが書いてあった。『放課後の特定の時間だけ入れる屋上。そこで、死に方を語る。でも、私はまだ決められない。お兄ちゃんと、もう一度ちゃんと話したい』って」
 朝倉は僕を見た。その目に、初めて恐怖の色が混じった。
「俺は屋上に行った。でも、入れなかった。ドアが開かなかった。何度試しても、駄目だった」
 朝倉は一度言葉を切り、自分の手のひらを見下ろした。
「ドアの向こうに、美咲がいたかもしれないのに、俺は届かなかった」
 朝倉はしばらく黙り、それから絞り出すように続けた。
「実はな、俺も二年前、あの屋上に通っていた時期がある。誰にも言ったことはないけど、当時の俺自身も死に方を語る生徒の一人だった。でも、ある日、一人の同級生と話すうちに、俺は初めて生きたい理由を共有できた。それで、戻れた」
 朝倉は一度目を伏せた。
「その後、普通の生活に戻って、生徒会に入って、前を向いて生きてきた。美咲が屋上に通い始めていたことに、俺は気づいていなかった。いや、気づこうとしていなかったのかもしれない。自分が戻れたから、大丈夫だって、どこかで思い込んでた」
 声が低くなった。
「自分が抜け出せたのに、美咲には手を差し伸べられなかった。それが、ずっと胸に刺さってる。覚えているのに、何もできなかったということが、毎日のしかかってくる」
 朝倉は窓の外に視線をやった。
「普通の人間なら、家族が消えても何もかも忘れる。でも俺は、美咲の記憶だけは、消える前のまま、ずっと持ち続けてるんだ。それが救いなのか、呪いなのか、今でもわからない」
 朝倉は続けて、低い声で言った。
「お前のことは、前から知ってた。最近、放課後によく屋上の方に向かう生徒がいるって、用務員さんから聞いてたんだ。最初は誰かわからなかったけど、ある日、廊下ですれ違ったときに気づいた。お前の目が、消える前の美咲と同じだった」
 彼は立ち上がり、僕の肩を強く掴んだ。その手には、思っていたより力がこもっていた。
「やめろ。お前も消える。あの場所は危険だ。近づくな。美咲は戻れなかった。だから消えた。お前も同じ道を辿るつもりか」
 その目には、本当の心配があった。もう誰も失いたくない、という強い思いが滲んでいた。
「朝倉先輩」
 僕はゆっくりと口を開いた。
「俺は、先輩と同じなんです。大切な人を失いました。自分が気づいてあげられなかったことを、ずっと後悔してます」
 声が震えて、視界がにじんだ。
「だから、わかります。先輩の気持ちが」
 朝倉の目にも涙が浮かび、彼は小さく頷いた。それまでの先輩然とした硬さが、わずかに緩んでいくのがわかった。
「でも、俺には逃げられない理由があるんです」
「逃げられない理由?」
「大切な人がいます。その人と一緒にいたい。それが、俺の生きたい理由です」
 朝倉は少し驚いたように眉を上げた。
「大切な人?」
「七瀬詩織です」
「七瀬、あの、黒髪の?」
「はい。彼女は、番人なんです。屋上システムを見届ける存在で、消えた者の記憶を保持する役割を担っています。そして、彼女自身、もう一度戻ろうとしてる。番人としてじゃなく、普通の生徒として」
 朝倉は息を呑んだ。
「番人、そんな存在が」
「だから、俺は彼女と一緒に戻ります。それが、俺の選択です」
 朝倉はしばらく黙って、それから小さく微笑んだ。
「そうか。お前は、逃げないつもりなんだな」
「はい。もう、逃げたくないんです」
 朝倉は僕をまっすぐ見た。
「じゃあ、俺は止めない。でも、一つだけ約束してくれ」
「何でしょうか」
「生きて戻ってこい。絶対に」
 静かな声に、重みがあった。
「それと、もし可能なら。美咲も、戻してやってくれないか」
「それは」
 朝倉は首を横に振った。
「無理かもしれない。わかってる。でも、もし可能なら、俺は美咲にちゃんと謝りたい。『後でね』って言ったこと、話を聞いてあげられなかったこと、全部」
 その目に、本当の後悔があった。
「わかりました。約束します」
 朝倉は小さく頷き、涙を拭った。
「ありがとう」
 生徒会室を出て、廊下を歩いた。夕日が窓から差し込み、床をオレンジ色に染めている。朝倉との会話が、頭の中を巡り続けた。彼も、大切な人を失った。彼も、後悔している。僕と同じだ。でも、僕は逃げない。詩織と一緒に、前を向く。そして、もし可能なら、美咲も戻してあげたい。その願いが、新しい重みとして胸の中に加わっていた。廊下を歩く自分の足音だけが、やけに大きく響いて聞こえた。
 その夜、携帯に詩織からメッセージが届いた。
「明日、話したいことがある。放課後、音楽室で」
 短い文面だったが、何か大事な話があるのだろうという予感が、胸の奥にざわりと残った。何度も画面を見返したが、文字の意味以上のものは読み取れなかった。布団に入ってからも、その一文がずっと頭の中をぐるぐると回っていて、なかなか寝つけなかった。
 翌日、授業の合間も、僕はずっと時計の針ばかり気にしていた。詩織は、何を話すつもりなのだろう。システムのこと、それとも、僕たちのこと。考えても答えは出ないまま、放課後のチャイムが鳴った。
 音楽室へ向かう廊下は、いつもより長く感じられた。ドアをノックすると、中から詩織の声がした。
「どうぞ」
 窓から差し込む夕日が、いつものように部屋をオレンジ色に染めている。けれど、窓際に立つ詩織の表情は、いつもと違って暗かった。
「詩織」
 名前を呼ぶと、彼女は振り返って小さく微笑んだ。その笑顔は、悲しかった。
「来てくれたんだ」
「メッセージ、見たから」
 詩織は少し迷うような間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「蓮、私ね、実は……もう消えかけてるの」
 息が止まった。
「どういうこと」
「前に話した、次の番人が現れるまでの繋ぎってやつ」
 僕は頷いた。以前、詩織自身から聞いていた話だった。
「それが、もう」
「うん。そろそろ、限界みたい」
 詩織は自分の両手を見た。窓からの夕日が、その手を通り抜けている。
 言われてみれば、ここ数日、詩織と話すたびに、彼女の指先がいつもより白く見える気がしていた。気のせいだと思おうとしていたが、それは違った。
「最初は、指先だけだった。一週間前、朝起きたら右手の人差し指が少しぼやけてて、感覚が薄くて、誰かの手みたいだった。それから毎日、少しずつ広がっていって、今は両手全体がこんな感じ」
 彼女は手のひらを僕に向けた。夕日が透けて見えるその光景に、僕は言葉を失った。薄々感じていた違和感が、こんなにもはっきりした形をしていたとは思わなかった。
「鏡を見ると、自分の顔も少しぼやけてる。写真が色褪せていくみたいに」
 窓の外に目をやり、深く息を吸う。
「番人になって一年。最初は、これが私の役割だって思ってた。記憶を保持して、次の生徒を導いて、見届ける。それが、存在意義だって」
 声が途切れ、目が閉じられる。
「でも、辛かった。本当に」
 涙が頬を伝った。
 一人目の男の子のことも、六人目の女の子のことも、以前詩織が話してくれたことを、僕はもう一度頭の中で辿った。あのときよりも今の方が、彼女の声に滲む疲れが重く感じられた。
「数えるのをやめてからも、全員の顔を覚えてる。全員の最後の言葉を覚えてる。それが、番人の役割だから」
 その目に、深い悲しみがあった。
 詩織は一度言葉を切り、窓枠に指先を這わせた。
「最初の頃は、ノートに書き残そうとしたこともあった。誰かが消えたら、その日のうちに、覚えていることを全部書く。名前も、好きだった食べ物も、笑い方も。でも、それをしても、心が軽くなることはなかった。書けば書くほど、自分だけがその人を覚えているっていう事実が、はっきりするだけだった」
 詩織は小さく自嘲するように笑った。
「今、そのノートは何十冊にもなった。誰にも見せられない、私だけの記録」
 詩織は小さく息をついてから、続けた。
「でも、誰にも言えなかった。クラスメイトは、消えた人たちのことを知らない。先生に話しても『そんな生徒はいなかった』って言われる。椿先生だけが理解してくれたけど、彼女も管理者として、見届けることしかできない」
 窓の外を見つめる横顔。夕日が、その輪郭をいっそう薄く見せていた。
「孤独だった。毎日屋上に行って、死に方を語る生徒たちを見て、誰かが消えて、また新しい生徒が来て。その繰り返し。私は、ただそれを見ているだけ」
 声が少し震える。
「ある日、気づいた。私はもう、普通の生徒じゃないって。朝、学校に行っても、クラスメイトと本当の意味では繋がれない。昼休み、一人で弁当を食べてても、誰も本当のことは知らない」
 涙が止まらなくなる。
「戻りたかった。番人としてじゃなくて、普通の生徒として。友達と笑いながら学校に行って、授業中にこっそり隣の子と話して、昼休みはみんなでお弁当を食べて。そんな普通の日常を、もう一度」
 窓の外を見たまま、声が途切れる。
「それでも、番人は続けなきゃいけない。次の番人が現れるまで」
 深く息を吸って、涙を拭う。
「そして、次の番人が現れなければ、私は消える。消えた人たちと同じように」
 その言葉が、僕の胸を引き裂いた。
「じゃあ、俺が番人になれば」
 詩織は激しく首を振った。
「ダメ。あなたには、戻ってほしい」
 彼女が僕の手を握る。その手は、冷たかった。
「でも、君は」
 僕は詩織の肩を掴んだ。
「君が消えるなんて、嫌だ」
 詩織の目から涙があふれる。
「私は、もう一度戻りたいって思ってた。でも、あなたと出会うまでは、叶わない夢だって諦めてた。だから、せめてあなたには戻ってほしい。それが、私の願い」
 詩織の涙が、僕の手の甲に落ちた。
「そんなの嫌だ。君と一緒に戻りたい」
 詩織は声を殺して泣いた。
「ありがとう。でも、私は、もう決めたの」
「待って。まだ、何か方法があるはずだ」
「ない。私は、もう」
「椿先生なら」
 僕は彼女の言葉を遮った。
「何か知ってるかもしれない。一緒に、聞きに行こう。まだ、諦めたくない」
 詩織はしばらく黙ってから、小さく頷いた。
 音楽室を出て、僕たちは保健室へ向かった。廊下を並んで歩く間、僕は詩織の手を握り続けた。その冷たさが、僕の手のひらにもじんわりと伝わってきた。窓の外では、すでに陽が落ちかけていて、廊下の照明が点いたり消えたりを繰り返しながら、ようやく安定して灯った。
 保健室のドアをノックすると、椿先生の声がした。中に入ると、先生は書類から顔を上げ、僕たちを見て少し驚いた表情をした。
「桐谷くんと、七瀬さん。二人で来るなんて、珍しいわね」
「先生。詩織のことで、聞きたいことがあります」
 先生は詩織を見て、その目に悲しみを浮かべた。
「やっぱり……七瀬さん、あなた、もう消えかけてるわね」
「はい」
 僕は身を乗り出した。
「何か方法はないんですか。詩織を、戻す方法は」
 先生は少し考えるような間を置いてから、机の古いノートを取り出した。表紙はすでに色褪せ、角が丸くなっている。
「落ち着いて。番人が戻るには、二つの方法がある。一つは、代わりの番人を立てること。つまり、桐谷くんが番人になれば、七瀬さんは戻れる」
「でも、それじゃあ」
 詩織が首を振る。
「蓮が番人になってしまう。それは、誰かを犠牲にすることになる」
 先生は頷き、ページをめくった。
「だから、もう一つの方法がある。番人と生徒が、同時に『生きたい理由』を共有すること」
「それ、前に詩織から聞いた話と同じですか。生きたい理由を共有できなかった生徒が消えるっていう」
「似てるけど、少し違う。生徒が消えるかどうかの話じゃない。番人と生徒、両方が同時に、それを心から共有できたとき、それはシステムにとって『バグ』になる」
 ノートを閉じ、窓の外に目をやる。
「システムは、番人を『繋ぎ』として設定している。番人は戻れない。それが前提。でも、もし番人が『戻りたい』と思い、生徒と『生きたい理由』を共有できれば、システムそのものが崩壊するかもしれない」
「それって、危険なことですか」
 先生の表情が暗くなった。
「ええ。何が起きるかわからない。神原先生の記録には、こう書いてある。『番人と生徒が同時に戻ることは、システムの崩壊を意味する。それは、全ての前提を覆す。もし成功すれば、システムは終わる。もし失敗すれば、二人は永遠に狭間に閉じ込められる』」
 失敗すれば、二人とも消える。成功すれば、二人で戻れる。その両極端のあいだに、選べる道は他にないようだった。
 先生はノートを机に置き、僕たちを交互に見た。
「正直に言うと、私もこの記述を読んだのは初めてじゃない。何年か前にも、同じ状況に立った生徒たちがいた。結果がどうなったかは、ここには書かれていない。神原先生も、そこから先は記録を残さなかった」
 その沈黙が、何よりも重く感じられた。誰も成功した記録がない。あるいは、成功したかどうかすら、誰にもわからないということなのかもしれなかった。
「でも、それしか、方法はない」
 先生は僕たちを見た。
「あなたたちは、どうする?」
 僕は詩織を見た。彼女も、僕を見ていた。失敗するかもしれない。それでも、試したい。詩織が消えていくのを、ただ見ていることなんてできない。
「やります」
 はっきりと、言った。
「俺は、詩織と一緒に戻ります」
 詩織が目を見開き、それから小さく微笑んだ。
「蓮」
 先生の声が、少し優しくなった。
「わかった。今日の屋上で試してみなさい。覚悟はいい?」
 僕たちは頷いた。
「はい」
 声が、重なった。
 保健室を出て、僕たちは廊下を歩いた。時計を見ると、17時30分。あと13分で、屋上の時間が始まる。階段を上がりながら、僕は自分の鼓動が、いつもより速いことに気づいていた。一段ごとに、足の裏に伝わる感触が、やけに鮮明に感じられた。
 最後の階段の前で、詩織が立ち止まった。
「蓮。本当に、いいの。もし失敗したら、二人とも」
 その声には不安があり、同時に覚悟もあった。僕は彼女の手を握った。
「ああ。俺は、君と一緒にいたい。それが全てだ」
 詩織の目に涙が浮かんだ。でも今度は、悲しみの涙ではなかった。
「私も。私も、あなたと一緒にいたい」
 17時43分。ドアに手をかけると、確かに鍵は開いていた。深く息を吸って、開ける。
 夕焼けに染まった空が広がっていた。オレンジ色の空、赤く染まる雲、沈んでいく太陽。その全てが、不思議なくらい静かに美しかった。風が吹いて、詩織の髪が揺れる。僕たちは並んでフェンスに寄りかかった。誰もいない、二人だけの屋上だった。遠くで、誰かの自転車のベルの音が、かすかに聞こえた気がした。
 僕は詩織の手を握った。冷たかったその手が、少しずつ温かくなっていく。
「一緒に戻ろう」
「蓮、でも、もし失敗したら」
「失敗しない。俺たちは、絶対に戻る。一緒に」
 詩織は小さく微笑んで、涙を拭った。
「私も。この場所に、最後に来られてよかった」
「覚えてる? 俺たちが初めて会った日。君は言った。『生きてるふりもしなくていいから』って。その言葉が、すごく胸に刺さった」
 詩織は懐かしそうに目を細めた。
「覚えてる。あなた、最初は何も語れなかったよね」
「ああ。でも、君がいてくれたから、少しずつ自分の気持ちに向き合えた」
 詩織の目に涙が浮かぶ。
「私もね。あなたと出会って初めて思った。番人としてじゃなくて、一人の人間として、誰かと繋がりたいって」
 僕は手を握り返した。
「じゃあ、最後の死に方を語ろう」
「うん」
 夕焼けを見ながら、僕は語り始めた。
「もし今日が最後なら、俺は、君の隣で終わりたい。君の手を握って、君の顔を見て、君の声を聞きながら、最後の瞬間まで一緒にいたい」
「もし今日が最後なら、私も、あなたの隣で終わりたい。あなたの温かさを感じながら、最後まで一緒にいたい」
 声が重なる。
「でも、それは死に方じゃない……生きる理由だ」
 その瞬間、屋上が光に包まれた。眩しい光が周りの全てを白く染めていく。音が消え、風も鳥の声も静かになる。詩織の手だけが、確かにそこにあった。冷たかったはずのその手が、じわりと熱を持っていく。光の密度が増していくにつれ、僕は自分の輪郭すら曖昧になっていくような感覚を覚えたが、握っている手の感触だけは、はっきりとしていた。
 光は、最初はゆっくりと、やがて鼓動のリズムに合わせるように強くなっていった。僕の足元から、まるで光そのものが何かを問いかけてくるような気配があった。本当に戻りたいのか、本当にこの選択でいいのか、と。僕は迷わなかった。詩織の手を握る力を、少しだけ強めた。
「蓮、怖くない?」
 詩織が訊ねた。
「怖くない。君がいるから」
 彼女は手を強く握り返した。
「私も。あなたがいるから、怖くない」
 しばらく無言のまま、互いの手の温度だけを確かめ合っていた。やがて、詩織が小さく息を吸う音が聞こえた。
「蓮、ありがとう。あなたと出会えて、本当によかった。あなたがいなかったら、私はきっと、このまま消えていた」
 喉の奥が熱くなった。
「俺も。君がいなかったら、まだ過去に囚われたままだった」
 詩織の声が震える。
「私、番人になってから、ずっと誰かと繋がることを諦めてた。でも、あなたと出会って、もう一度繋がりたいって思えた」
 彼女は僕の両手を握り、まっすぐ見つめた。
「私、あなたのことが好き。あなたと一緒にいると、生きててよかったって思える」
 その言葉が胸に染み込んでいくのを感じながら、僕は答えた。
「俺も、君のことが好きだ。君と一緒にいると、生きる意味がわかる」
 僕は詩織の手を引き寄せた。
「だから、一緒に戻ろう。一緒に、生きよう」
 詩織が微笑む。今まで見た中で、一番穏やかな笑顔だった。
「うん。一緒に」
 光がさらに強くなり、世界の輪郭がぼやけていく。屋上のフェンスが消え、夕焼けの空が消え、全てが白に溶けていく。古い世界が終わり、新しい世界が始まるように。僕たちを包む光は、熱くも冷たくもなく、ただ穏やかだった。
 僕は詩織の手を離さなかった。
 光が、消えた。
 気づくと、僕と詩織は校門の前に立っていた。夜になっていて、空には星が輝いている。冷たい風が頬を撫でた。
「戻れたんだ」
 声が震えた。詩織は自分の手を見つめている。
「本当に?」
 その手は、もう透けていなかった。街灯の光が、確かにそこにある手を照らしていた。
「私、戻れたんだ」
 詩織の目から涙があふれた。
「蓮」
 僕は彼女を強く抱きしめた。彼女も、僕を抱きしめ返した。その体は温かく、確かにそこにあった。
「泣いてもいいんだよ、もう」
 詩織は声を上げて泣いた。番人として見届けるだけだった一年間、消えた人たちのことを一人で覚え続けた孤独、誰にも理解されなかった苦しみ。その全てを、今、吐き出すように。
 僕は彼女の背中を、ただ静かに撫で続けた。何も言わずに、その時間が過ぎていくのを、ただ見守った。
 ようやく顔を上げた詩織は、涙に濡れた顔のまま、笑っていた。
「ありがとう、蓮」
「こっちこそ。ありがとう、詩織」
 彼女は涙を拭い、深く息をついた。
「番人じゃない。普通の生徒として、戻れた」
「ああ。俺たちは、戻れた。一緒に」
 詩織は不安げに僕を見上げた。
「ねえ、蓮。明日、学校に行ったら、みんな普通に話しかけてくれるかな。番人になってから、クラスメイトと本当の意味では繋がれなかったから」
「きっと大丈夫だよ。システムが崩壊したんだから」
 詩織は息を呑んだ。
「じゃあ、消えた人たちも」
「ああ。消えた人たちも、全部元通りに戻ってるはずだ」
 詩織の目にもう一度涙が浮かんだ。でも今度は、違う涙だった。
「よかった。本当に、よかった」
 僕たちは手を繋ぎ、夜道をゆっくりと歩いた。誰も話さなかったが、その沈黙は不思議と心地よかった。商店街の明かりが、ぽつぽつと消えていくのが見える時間帯だった。
「ねえ、蓮。明日から、どんな毎日になるんだろう」
「きっと、普通の毎日だよ。朝起きて、学校に行って、授業を受けて、昼休みは一緒にお弁当を食べて、放課後は一緒に帰る」
 僕は彼女を見て、微笑んだ。
「でも、その普通が、俺は一番嬉しい」
 詩織も微笑み、手を強く握った。
「私も。番人として見届けるだけの日々じゃなくて、あなたと一緒に、普通に生きていきたい」
 星明かりの下を歩きながら、僕は思った。僕たちは、生きることを選んだ。美咲が選べなかったもの。屋上で言葉を交わした、名前も知らない誰かが選べなかったもの。それを、僕たちは選んだ。一年生の男の子も、六人目の女の子も、選べなかった道を、僕たちはこうして並んで歩いている。その事実の重さを、僕は嚙みしめていた。
 角を曲がると、交差点が見えてきた。信号が青に変わり、向こう側から自転車に乗った誰かが通り過ぎていく。普段なら気にも留めない、ただの夜の光景だった。でも今夜は、その何でもない光景の一つひとつが、やけに輪郭をはっきりと持って見えた。誰かが自転車のかごに買い物袋を揺らしながら走っていくのも、信号機の音が変わるのも、全部が確かに今、ここで起きている出来事だった。
「蓮」
 詩織が立ち止まった。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
 僕は彼女の手を、もう一度強く握った。
「こっちこそ。君のおかげで、もう一度生きようって思えた」
 詩織は微笑み、涙を拭った。
「これから、一緒にね」
「ああ。一緒に」
 僕たちは再び歩き出した。夜道の先には、明日が待っている。その当たり前の明日こそが、僕たちが一番望んでいたものだった。
「ねえ、蓮。明日、目が覚めたら、これが夢じゃないって、信じられるかな」
 僕は彼女の手の温かさを、もう一度確かめた。
「大丈夫。これは夢じゃない。俺たちは確かに戻ってきた。一緒に」
 詩織は微笑んだ。その顔には、はっきりとした希望があった。
「そうだね。明日が、楽しみだ」
 僕たちは、生きることを選んだ。