翌日、昼休み。
僕は、教室で一人で弁当を広げていた。神崎理沙が「一緒に食べよう」と誘ってくれたけれど、今日も断った。考えることが多すぎて、誰かと話す気分になれなかった。窓の外を見ると、校庭で部活動をしている生徒たちが見えて、その笑い声が遠くから聞こえてくる。普通の昼休み、普通の日常。でも、僕にはもう、その日常が遠い世界のことのように感じられた。
詩織のことを考える。彼女は番人だ。消えた者の記憶を保持する存在。そして、僕は次の番人候補。その事実が、重く胸にのしかかっていた。戻るか、番人になるか。どちらを選べばいいのか、まだわからない。でも、一つだけわかったことがある。僕は、詩織と一緒にいたい。彼女と離れたくない。
弁当を食べ終えて、席に座ったまま窓の外を眺めていると、教室のドアが開いた。担任の先生が入ってきて、僕の席の方を見た。
「桐谷、ちょっと」
担任の声が響いて、クラスメイトたちの視線が一斉に僕に向く。僕は立ち上がって、担任の元へ向かった。
「保健室に来てほしいって、遠野先生から連絡があった」
担任の言葉に、僕は少し驚いた。保健室? 遠野先生? 保健室の先生の名前は知っていたけれど、話したことはほとんどない。
「わかりました」
僕は教室を出て、廊下を歩いた。保健室は校舎の一階、階段を降りてすぐの場所にある。廊下は静かで、遠くから聞こえる授業の声だけが響いている。階段を降りながら、僕は考えた。なぜ保健室に呼ばれたんだろう。体調が悪いわけでもない。怪我をしたわけでもない。
保健室のドアの前に立って、ノックした。
「どうぞ」
中から女性の声が聞こえた。優しげで、でも少し威厳を含んだ声だった。僕はドアを開けて、中に入った。
保健室の中は、いつもと同じように清潔で、薬品の匂いが漂っていた。ベッドが三つ並んでいて、窓からは柔らかい日差しが差し込んでいる。棚には包帯や消毒液が整然と並べられていて、壁には健康に関するポスターが貼られている。その奥に机があって、そこに彼女が座っていた。
遠野椿。保健室の先生。
二十代後半に見える女性で、落ち着いた雰囲気を持っていた。髪は肩まで伸びていて、少しウェーブがかかっている。白衣を着ていて、その下には紺色のブラウスが見える。でも一番印象的だったのは、その目だった。鋭く、まるで僕の心の中を見透かすような目。同時に、どこか疲れたような、何かを諦めたような影もある。
「桐谷くん、座って」
椿先生はベッドの横の椅子を指差した。僕は言われた通りに座った。椿先生は僕の前に立って、しばらく黙って僕を見つめていた。その沈黙が、妙に長く感じられた。
「桐谷くん、あなた最近よく屋上の階段にいるわね」
静かな声だった。でも、その言葉が持つ意味の重さが、すぐに伝わってきた。
「はい」
僕は正直に答えた。嘘をついても意味がない気がした。
「そこで、何を考えてるの?」
「色々、です」
椿先生は小さく微笑んだ。でも、その笑顔には温かさがなかった。椅子を引いて机の前に座り直すと、引き出しを開けて古いノートを取り出した。表紙が色褪せていて、角が少し擦り切れている。
「あなた、屋上でのこと全部覚えてるでしょ」
その瞬間、僕は息を呑んだ。
「なんで、それを」
「私が管理者だから」
その言葉が、部屋に響いた。管理者。屋上システムの、管理者。椿先生はノートを机に置いて、その表紙を指先でなぞった。
「屋上システムは、十年前から存在してる。正確には、十五年前に作られて、十年前に現在の形になった」
一度言葉を切って、僕の顔を確認してから続けた。
「私も、かつて屋上にいた。生徒として」
その言葉に、僕は目を見開いた。
「それは、いつですか」
「十年前。私が高校二年生のときだった」
椿先生は窓の外を見た。その目には、遠い記憶を辿るような色があった。
「当時の私は、死にたいと思ってた。理由は、今思えば、些細なことだった。友達との関係が上手くいかなくて、勉強も思うようにいかなくて、家にも居場所がなかった」
椿先生は手を組んだ。その手が、微かに震えている。
「毎日、消えたいって思ってた。でも、死ぬ勇気もなかった。ただ、生きることに疲れてた」
僕は黙って聞いていた。椿先生も、かつては僕と同じだったんだ。生きることに疲れて、でも死ぬこともできなくて、ただ毎日をやり過ごしていた。
「そんなとき、屋上のことを知った。友達が教えてくれたの。『放課後の特定の時間だけ入れる屋上がある』って」
椿先生は小さく笑った。でも、その笑顔は悲しげだった。
「最初は信じなかった。でも、試しに行ってみた。そしたら、本当にドアが開いた」
彼女は机の上のノートに視線を落とした。指先が、その表紙をゆっくりと撫でた。言葉を探しているような間があった。
「屋上には、五人の生徒がいた。みんな、同じように死にたいと思ってた」
椿先生は顔を上げて、窓の外を見た。
「そこで、私は初めて自分の気持ちを語れた。『もし今日が最後なら、私はどう死ぬか』。その言葉を口にすることで、初めて自分の本当の気持ちに向き合えた」
椿先生は顔を上げた。その目に、静かな確信があった。
「でも、同時に気づいたの。私は本当は、死にたくないって」
しばらく沈黙が続いた。椿先生は視線を机に戻して、拳を握りしめた。その沈黙が、重かった。
「そんな日々が続いたある日、私は屋上で一人の女の子と出会った」
椿先生の声が、少しだけ変わった。硬さが和らいで、何か柔らかいものが混じり始めた。
「彼女の名前は、高橋陽菜。一年生だった」
椿先生は窓の方に顔を向けた。そのまま、遠い場所を見るような目で話し続けた。
「陽菜は、いつも明るかった。屋上では死に方を語るのに、それ以外の時間は笑ってた」
彼女は涙を浮かべた。でも、拭わなかった。
「私たち、仲良くなった。屋上の後、一緒に帰るようになった。陽菜と話すのが、楽しかった」
椿先生は息を吸った。その呼吸が、少し震えていた。
「ある日、陽菜が言ったの。『椿先輩と一緒にいると、生きててもいいかなって思う』って」
椿先生はそこで一度口を閉じた。目の縁が赤くなっていた。
「私も同じだった。陽菜と一緒にいると、生きたいって思えた。そして、私たちは気づいた。それが、私たちの生きたい理由だって」
白衣の袖が、彼女の手首にかかっていた。その手が小さく震えている。
「その日の屋上で、私たちは初めてルールを破った。『私、陽菜と一緒にいたい』って叫んだ。陽菜も『私も、椿先輩と一緒にいたい』って」
椿先生は涙を流した。声を殺して、でも確かに泣いていた。
「その瞬間、光に包まれた。気づいたら、私たちは校門の前に立ってた。戻れたんだって思った。一緒に生きたい理由を共有できたから」
彼女は涙を拭わないまま、続けた。
「でも、数週間後、陽菜が転校した。理由は聞けなかった。陽菜は『ごめんね』って言うだけだった」
椿先生は拳を握りしめた。その手の白さが、日差しの中でより際立って見えた。しばらく、何も言わなかった。窓の外から、遠くの部活の声が聞こえてきた。それがかえって、沈黙を重くした。
「それから、私はまた屋上に入れるようになった。ある日の放課後、時間外なのにドアが開いた。不思議に思って上がったら、そこに彼がいた」
彼女は顔を上げた。その目が、鋭くなった。
「神原聡先生。屋上システムを作った人」
その名前を聞いて、僕は息を呑んだ。神原聡。屋上システムの創始者。
「神原先生は言った。『君は番人になった。次に戻る者を見届ける役割だ』って」
椿先生は机の端を指先で押さえた。力が入っているのか、指先が白くなっていた。
「私は断ろうとした。でも、神原先生は続けた。『もし君が断れば、このシステムは暴走する。もっと多くの人が消える』って」
椿先生は力なく手を離した。
「だから、私は引き受けた。管理者として、屋上を見届ける役割を」
彼女は深く息を吐いた。疲れを吐き出すような、長い息だった。
「それから十年。私は、たくさんの生徒を見てきた。戻れた人もいた。でも、戻れなかった人の方が多かった」
椿先生は声を止めて、僕を見た。
「そして、今。七瀬さんの次の番人候補として、あなたが現れた」
「なんで、そんなシステムが必要なんですか」
僕の問いに、椿先生は机の引き出しを開けて、古い新聞記事を取り出した。黄ばんだ紙に、見出しが大きく書かれている。「高校生自殺 相次ぐ悲劇」。その文字を見て、僕は胸が苦しくなった。
「十五年前、この学校で生徒の自殺が相次いだ。月に一人、誰かが死んでいった。飛び降り、首吊り、薬物。方法は様々だった」
彼女は新聞記事を広げた。そこには、若い生徒たちの写真が載っていた。笑顔の写真。でも、彼らはもういない。
「学校は対策を取った。カウンセラーを増やして、教師の研修を行って、生徒の様子を細かくチェックするようにした」
椿先生は新聞記事を机に置いて、首を横に振った。
「でも、止められなかった。むしろ、増えていった」
彼女は窓の外を見た。その横顔が、光の中で疲れて見えた。
「そのとき、神原先生が『ある実験』を始めた。彼は心理学者でもあった」
椿先生は机の引き出しから、別のノートを取り出した。表紙に「研究記録」と書かれている。ページを開くと、そこには神原聡の手書きの文字が並んでいた。
「神原先生は、自殺した生徒たちの遺書を調べた。そして、ある共通点に気づいた。『死にたい』と書いている遺書には、必ず『でも』という言葉が含まれていた。『死にたい。でも、本当は』——そこから先が書かれていない遺書が、たくさんあった」
椿先生はノートをそっと閉じた。
「神原先生は考えた。彼らは本当は、死にたくなかったんじゃないか。生きたいという願望もあったんじゃないか。でも、それを誰にも言えなかった、と」
彼女の声が少し大きくなった。
「だから、神原先生は仮説を立てた。『死を語る場所』を作れば、彼らは自分の本当の気持ちに気づけるんじゃないか、と」
椿先生は研究記録を開いて、あるページを示した。そこには、屋上システムの設計図が描かれていた。
「神原先生は、屋上に『場』を作った。17時43分から17時58分。夕焼けが最も美しく見える時間帯で、一日の終わりを感じさせる時間帯。監視カメラを停止させ、鍵を開け、電波を遮断する。完全に隔離された空間を作った」
椿先生は研究記録を机に戻した。
「最初は、上手くいった。自殺者は減った。神原先生の実験は、成功したかに見えた」
椿先生の表情が暗くなった。
「でも、『場』には副作用があった」
彼女は言葉を切って、僕を見た。その目に、何か重いものがあった。
「語っても救われない者がいた。彼らは、記憶から消えていった。『現実』から排除されてしまった」
藤崎のこと、白鳥美月のこと、消えた人たちのことを思い出す。僕は何も言えなかった。
「神原先生は、最初それに気づかなかった。ある日、自分のクラスで生徒が一人消えた。でも、誰も覚えていなかった。神原先生だけが、その生徒のことを覚えていた。なぜなら、神原先生自身も『場』に関わっていたから」
椿先生は立ち上がって、窓の前に移動した。外を眺めながら、静かに続けた。
「それから、神原先生は調べ始めた。そして、恐ろしい真実に気づいた。『場』は、生と死を選別していた。誰かと生きたい理由を共有できた者は、現実に戻れる。誰とも共有できなかった者は、記憶から消える。それは、神原先生の意図を超えていた」
彼女は窓枠に手をついた。その指先が白くなるほど、力が入っていた。
「神原先生は止めようとした。『場』を閉じようとした。でも、もう止められなかった。『場』は、神原先生の手を離れて動き続けていた」
椿先生は窓から離れて、机に戻った。椅子には座らずに、机の端に両手をついて立ったまま話し続けた。
「神原先生は、責任を感じた。そして、ある日。屋上で消えた」
消えた。システムを作った人間が、そのシステムに飲み込まれた。
「神原先生は、最後の日記にこう書いていた」
椿先生はノートの最後のページを開いた。そこには、震えた文字で書かれた言葉があった。彼女はそれを読み上げずに、ただ僕に見せた。
『私は、多くの人を救おうとして、多くの人を消してしまった。この罪は、消すことができない。だから、私も消える。それが、私の選んだ終わり方だ』
椿先生は涙を流した。声を殺して、でも確かに泣いていた。ノートを持つ手が、細かく震えていた。しばらく、誰も何も言わなかった。
「神原先生が消えた後、誰も彼のことを覚えていなかった。記録も残っていなかった。ただ、『システム』だけが残った」
椿先生はノートを閉じて、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「私は、その後継者になった。でも、私にもシステムを止めることはできない。ただ、見届けることしかできない」
椿先生は、ずっとこの役割を担ってきたんだ。消えていく生徒たちを、ただ見届けるだけの役割を。十年間、一人で。
「先生」
僕は口を開いた。
「辛かったでしょ」
その言葉が、自然と口をついて出た。椿先生は少し驚いたような顔をして、それから小さく微笑んだ。
「うん。辛かった」
椿先生の声は静かだった。
「でも、これが私の役割だから。私が見届けなければ、消えた人たちのことを、誰も覚えていない」
「でも、なんで俺にこんなことを話すんですか」
「あなたの親友のこと、知ってるから」
その言葉に、僕は凍りついた。
「大樹くん、だったね」
大樹。その名前を聞いた瞬間、僕の心臓が激しく鼓動した。
「なんで」
「彼も、屋上に来ていたから」
「嘘だ」
僕は首を横に振った。でも、椿先生の目には、嘘がなかった。
「このシステムは、複数の学校に存在してる。全国で十二の学校にある。神原先生は、他の学校にもこのシステムを広めた。同じように自殺者が増えている学校に。大樹くんがいた中学校も、そのうちの一つだった」
椿先生は机の引き出しから、地図を取り出した。そこには、日本地図に赤い印がつけられていた。
「大樹くんのことは、別の管理者から聞いた。管理者同士は、定期的に情報を共有してる」
彼女はノートを開いた。そこには、たくさんの名前が書かれていた。その中に、大樹の名前があった。僕は目を離せなかった。
「大樹くんが最初に屋上に来たのは、中学二年生の秋だった。管理者の記録によれば、最初の日、大樹くんは何も語らなかった。ただ、夕焼けを眺めていただけ」
その光景が、僕の頭の中に浮かんだ。一人で屋上に立つ大樹。夕焼けを見つめる大樹。
「二日目、大樹くんは『薬を飲む』と語った。三日目は『海に沈む』。四日目は『首を吊る』。毎日、違う死に方を語っていた」
白鳥美月を思い出した。彼女も、毎日違う死に方を語っていた。
「管理者はこう記録している。『大樹は、まだ自分の死に方を決められていない。それは、まだ諦めたくないからだ』と」
椿先生は一度目を伏せた。ノートのページを、静かにめくった。
「でも、三週間が過ぎた頃。大樹くんは変わった。ある日から、同じ死に方を語るようになった。『屋上から飛び降りる』。それが、大樹くんの最後の死に方だった」
椿先生の声が、低くなった。
「同じ死に方を五日間語り続けた。その間、大樹の表情は日に日に虚ろになっていった。六日目、大樹は屋上に来なかった。管理者が調べたところ、大樹は前日の放課後、学校の屋上から飛び降りていた」
涙が溢れてきた。止められなかった。大樹が、ずっと苦しんでいた。一人で、屋上で、死と向き合っていた。
「管理者の記録には、さらにこう続いている」
椿先生の声が途切れた。ノートを持つ手が止まっていた。
「『大樹は、最後の週に何度も誰かに話しかけようとしていた。屋上の後、校門で友人を待っていた。でも、友人は忙しそうに去っていった。大樹は、その後ろ姿を見つめていた』」
友人。それは、僕のことだ。
「『最後の日、大樹は友人に話しかけた。でも、友人は「明日でいい」と言った。大樹は、小さく頷いて去っていった。その夜、大樹は日記にこう書いた。「もう、明日はない」』」
椿先生はノートをゆっくりと閉じた。僕も、涙が止まらなかった。
「桐谷くん、聞いて」
椿先生は立ち上がって、僕の両肩を掴んだ。
「あなたは、今ここにいる。それが、大樹くんとの違い」
「でも!」
僕は叫んだ。
「俺が、ちゃんと聞いてあげていれば! 俺が、もっと早く気づいてあげられれば!」
涙が止まらなかった。大樹の顔が浮かんでくる。彼が「話がある」と言ったときの、寂しそうな顔。僕が「明日でいい」と答えたときの、諦めたような顔。
「違うの」
椿先生の声は優しかった。でも、揺るがなかった。
「大樹くんは、あなたに言おうとしていた。でも、言えなかった。それは大樹くん自身の選択。あなたが全ての責任を負う必要はない」
彼女は窓の外を見た。しばらく沈黙が流れた。
「あなたは、どうするの? 大樹くんと同じように、後悔したまま終わるの? それとも、自分の生きたい理由を見つけるの?」
その問いに、僕は答えられなかった。でも、心の中で、一つの答えが浮かんでいた。詩織。彼女と一緒にいたい。
「考えてみて。そして、自分で選んで」
椿先生は椅子に戻って座った。それが、この話の終わりを意味していた。
「ありがとうございました」
僕は立ち上がって、保健室を出た。廊下に出ると、普通の学校の風景が広がっていた。生徒たちが笑いながら歩いている。教室からは授業の声が聞こえてくる。でも、僕の心は、まだ大樹のことでいっぱいだった。
放課後前、僕は屋上の階段前で詩織を待っていた。授業が終わって、生徒たちが廊下を行き交う中、僕は階段の踊り場に座って、ただ待っていた。大樹のこと、椿先生の話、神原聡のこと、システムの起源。全てが頭の中を巡り続けている。
大樹は、屋上に来ていた。毎日、死に方を語っていた。でも、誰とも生きたい理由を共有できなかった。そして、彼は死んだ。それは「消失」じゃなかった。「実行」だった。大樹は、自分で選んだ死に方を、本当に実行した。
足音が聞こえた。振り返ると、詩織が階段を上がってきた。彼女は僕を見つけて、少し驚いたような顔をした。
「蓮? 話、聞いたよ」
「椿先生から?」
「うん」
詩織は階段を上がってきて、僕の隣に立った。二人でしばらく黙っていた。
「大樹くんのこと」
詩織が口を開いた。その声は優しかった。
「辛かったね」
僕は何も言えなかった。ただ、詩織の言葉が胸に染み込んでいく。
「蓮、私ね」
詩織は窓の外を見た。
「番人になって、たくさんの人を見てきた。みんな、誰かと一緒にいたかった。でも、それを言えなかった。大樹くんも、きっと同じだったと思う。でも、蓮は違う。あなたは、ちゃんと言葉にできる」
「俺、まだ答えが出ない。戻るか、番人になるか、まだわからない」
詩織は頷いた。
「焦らなくていいよ」
「でも、一つだけわかった。君と一緒にいると、少しだけ楽になる」
その言葉に、詩織は目を見開いた。
「それだけは、本当だ」
僕は詩織の手を握った。その手は、少し冷たかったけれど、確かに温かくなっていく。
「ありがとう」
詩織は小さく微笑んだ。その笑顔は、夕焼けよりも柔らかかった。
その日の17時43分、僕と詩織は屋上に上がった。ドアを開けると、夕焼けに染まった空が広がっていた。今日は、誰もいない。本当に、二人だけ。
僕たちは並んで、フェンスに寄りかかった。夕日が沈んでいく様子を、ただ黙って眺めていた。オレンジ色の空が、少しずつ赤く染まっていく。雲が流れて、風が吹いて。その全てが、美しかった。
その沈黙は、心地よかった。何も言わなくても、互いの気持ちが伝わってくるような。詩織が隣にいる。それだけで、心が落ち着く。
「なあ、詩織」
僕は口を開いた。詩織は僕を見た。
「ん?」
「もし、俺が番人はやめて普通に戻ったとして」
僕の声は少し震えていた。
「そっちの世界でも、君と一緒にいられるかな」
詩織は少し悲しそうに微笑んだ。でも、その目には確かな優しさがあった。
「わからない。でも、そう思ってくれてるなら、嬉しい」
その言葉が、胸に染み込んだ。
「俺は、君と一緒にいたい」
その言葉に、詩織は涙を浮かべた。でも、泣かなかった。ただ、小さく微笑んだ。
「私も。あなたと一緒にいたい」
17時58分、アラームが鳴った。詩織が静かに立ち上がった。僕も、その動きに合わせて腰を上げた。もう少しだけここにいたかったけれど、時間が来たのはわかっていた。
僕たちは屋上を降りた。階段を降りながら、僕は考えていた。大樹のこと、詩織のこと、そして自分のこと。答えは、まだ見つからない。でも、一つだけわかったことがある。僕の心には、小さな火が灯っていた。詩織と一緒にいたいという気持ち。それが、もしかしたら、僕の生きたい理由なのかもしれない。
校舎を出ると、普通の夕方の風景が広がっていた。生徒たちが部活を終えて帰っていく。誰もが笑いながら話している。みんな、誰かと一緒にいる。それが、生きるということなんだと思った。
「蓮」
詩織が立ち止まった。僕も立ち止まった。
「大丈夫?」
「ああ。大丈夫」
僕は詩織を見た。
「君がいてくれるから」
その言葉に、詩織は少し驚いたような顔をして、それから小さく微笑んだ。
「じゃあね」
詩織は小さく手を振って、歩き出した。その後ろ姿を見ながら、僕は立ち尽くしていた。詩織の笑顔が、胸に焼きついている。
家に帰って、僕は自分の部屋に入った。机の上には、中学時代の日記が置かれたままだった。ページを開く。大樹と過ごした日々が、そこには記録されている。一緒に笑った日、一緒に遊んだ日、一緒に悩んだ日。全部。でも、最後のページには、何も書かれていない。破られたページの跡がある。僕が破った、大樹が死んだ日の記述。
僕はその破れたページを見つめた。大樹は、屋上に来ていた。毎日、死に方を語っていた。そして、最後の週、何度も僕に声をかけようとしていた。でも、俺は気づかなかった。「明日でいい」と言った。大樹はその夜、「もう、明日はない」と書いた。
涙が出てきた。でも、今度は少し違う涙だった。大樹のことを悲しむ涙だけじゃない。大樹がどれだけ苦しんでいたかを、今やっとわかった。その重さを受け取る涙だった。
僕は新しいページを開いて、ペンを取った。そして、書き始めた。
「大樹、俺はやっとわかった。お前も、今の俺と同じ場所にいたんだな。毎日、死に方を語りながら、本当は誰かと一緒にいたかった。でも、それを言えなかった。俺に言おうとしていた。何度も。でも、俺は気づかなかった」
涙が溢れてきて、止まらなかった。でも、僕は書き続けた。
「ごめん。俺は、お前の声を聞けなかった。『明日でいい』って言った。でも、お前には明日がなかった。その事実は、ずっと俺の中に残る。消えない。でも、詩織が言ってくれた。お前の選択は、お前自身のものだったって。俺が全部の責任を負わなくていいって。その言葉が、少しだけ楽にしてくれた」
文字が滲んでいく。涙でページが濡れる。
「お前が見つけられなかったもの。俺は今、それを探してる。詩織という人と一緒にいたいと思う。それが、俺の生きたい理由になるのかもしれない。お前が最後まで見つけられなかった答えを、俺は見つけようとしてる」
僕はペンを置いた。窓の外を見ると、夜空に星が輝いている。
「俺は前を向く。それが、お前への答えだ」
ベッドに横になって、目を閉じた。でも、眠れなかった。大樹のことが、頭の中を巡り続ける。でも、今夜の苦しさは少し違う。悔やむだけじゃなくて、受け取った、という感覚があった。大樹が見つけられなかったものを、俺が探す。それだけは、決まった気がした。
その夜、月が出ていた。満月に近い、大きな月。その月を見ていると、不思議と心が落ち着いてきた。大樹も、この月を見ていたのだろうか。屋上で、一人で。
翌朝、目が覚めた。窓から朝日が差し込んでいて、部屋全体が明るく照らされている。ベッドから起き上がって、窓を開けた。冷たい朝の空気が入ってきて、肺を満たす。深く息を吸って、吐いた。
机の上の日記を見た。昨夜書いた、大樹への言葉。その文字を見つめながら、僕は思った。今日から、俺は前を向こう。大樹のためにも、詩織のためにも、そして自分のためにも。
制服に着替えて、家を出た。学校へ向かう道を歩く。校門をくぐると、生徒たちが笑いながら歩いている。その中に、詩織の姿が見えた。彼女は一人で歩いていて、少し寂しそうな顔をしていた。
「詩織」
僕は声をかけた。詩織は振り返って、少し驚いたような顔をした。
「蓮、おはよう」
「おはよう」
僕は詩織の隣に並んだ。二人で、校舎へ向かって歩いた。
「今日は、早いね」
「ああ。なんか、目が覚めちゃって」
詩織は小さく微笑んだ。その笑顔が、朝日に照らされて輝いていた。
「蓮、昨日の話。大丈夫?」
僕は少し考えてから、頷いた。
「ああ。まだ、全部整理できてないけど。でも、前を向こうと思う」
その言葉に、詩織は、ほっとしたような笑顔を見せた。
「よかった」
二人で並んで、校舎に入った。廊下を歩きながら、僕は思った。明日、また詩織に会える。その事実が、静かに僕を満たしていた。大樹が見つけられなかったもの。俺は今、それを見つけようとしている。そう、心の中で呟いた。
僕は、教室で一人で弁当を広げていた。神崎理沙が「一緒に食べよう」と誘ってくれたけれど、今日も断った。考えることが多すぎて、誰かと話す気分になれなかった。窓の外を見ると、校庭で部活動をしている生徒たちが見えて、その笑い声が遠くから聞こえてくる。普通の昼休み、普通の日常。でも、僕にはもう、その日常が遠い世界のことのように感じられた。
詩織のことを考える。彼女は番人だ。消えた者の記憶を保持する存在。そして、僕は次の番人候補。その事実が、重く胸にのしかかっていた。戻るか、番人になるか。どちらを選べばいいのか、まだわからない。でも、一つだけわかったことがある。僕は、詩織と一緒にいたい。彼女と離れたくない。
弁当を食べ終えて、席に座ったまま窓の外を眺めていると、教室のドアが開いた。担任の先生が入ってきて、僕の席の方を見た。
「桐谷、ちょっと」
担任の声が響いて、クラスメイトたちの視線が一斉に僕に向く。僕は立ち上がって、担任の元へ向かった。
「保健室に来てほしいって、遠野先生から連絡があった」
担任の言葉に、僕は少し驚いた。保健室? 遠野先生? 保健室の先生の名前は知っていたけれど、話したことはほとんどない。
「わかりました」
僕は教室を出て、廊下を歩いた。保健室は校舎の一階、階段を降りてすぐの場所にある。廊下は静かで、遠くから聞こえる授業の声だけが響いている。階段を降りながら、僕は考えた。なぜ保健室に呼ばれたんだろう。体調が悪いわけでもない。怪我をしたわけでもない。
保健室のドアの前に立って、ノックした。
「どうぞ」
中から女性の声が聞こえた。優しげで、でも少し威厳を含んだ声だった。僕はドアを開けて、中に入った。
保健室の中は、いつもと同じように清潔で、薬品の匂いが漂っていた。ベッドが三つ並んでいて、窓からは柔らかい日差しが差し込んでいる。棚には包帯や消毒液が整然と並べられていて、壁には健康に関するポスターが貼られている。その奥に机があって、そこに彼女が座っていた。
遠野椿。保健室の先生。
二十代後半に見える女性で、落ち着いた雰囲気を持っていた。髪は肩まで伸びていて、少しウェーブがかかっている。白衣を着ていて、その下には紺色のブラウスが見える。でも一番印象的だったのは、その目だった。鋭く、まるで僕の心の中を見透かすような目。同時に、どこか疲れたような、何かを諦めたような影もある。
「桐谷くん、座って」
椿先生はベッドの横の椅子を指差した。僕は言われた通りに座った。椿先生は僕の前に立って、しばらく黙って僕を見つめていた。その沈黙が、妙に長く感じられた。
「桐谷くん、あなた最近よく屋上の階段にいるわね」
静かな声だった。でも、その言葉が持つ意味の重さが、すぐに伝わってきた。
「はい」
僕は正直に答えた。嘘をついても意味がない気がした。
「そこで、何を考えてるの?」
「色々、です」
椿先生は小さく微笑んだ。でも、その笑顔には温かさがなかった。椅子を引いて机の前に座り直すと、引き出しを開けて古いノートを取り出した。表紙が色褪せていて、角が少し擦り切れている。
「あなた、屋上でのこと全部覚えてるでしょ」
その瞬間、僕は息を呑んだ。
「なんで、それを」
「私が管理者だから」
その言葉が、部屋に響いた。管理者。屋上システムの、管理者。椿先生はノートを机に置いて、その表紙を指先でなぞった。
「屋上システムは、十年前から存在してる。正確には、十五年前に作られて、十年前に現在の形になった」
一度言葉を切って、僕の顔を確認してから続けた。
「私も、かつて屋上にいた。生徒として」
その言葉に、僕は目を見開いた。
「それは、いつですか」
「十年前。私が高校二年生のときだった」
椿先生は窓の外を見た。その目には、遠い記憶を辿るような色があった。
「当時の私は、死にたいと思ってた。理由は、今思えば、些細なことだった。友達との関係が上手くいかなくて、勉強も思うようにいかなくて、家にも居場所がなかった」
椿先生は手を組んだ。その手が、微かに震えている。
「毎日、消えたいって思ってた。でも、死ぬ勇気もなかった。ただ、生きることに疲れてた」
僕は黙って聞いていた。椿先生も、かつては僕と同じだったんだ。生きることに疲れて、でも死ぬこともできなくて、ただ毎日をやり過ごしていた。
「そんなとき、屋上のことを知った。友達が教えてくれたの。『放課後の特定の時間だけ入れる屋上がある』って」
椿先生は小さく笑った。でも、その笑顔は悲しげだった。
「最初は信じなかった。でも、試しに行ってみた。そしたら、本当にドアが開いた」
彼女は机の上のノートに視線を落とした。指先が、その表紙をゆっくりと撫でた。言葉を探しているような間があった。
「屋上には、五人の生徒がいた。みんな、同じように死にたいと思ってた」
椿先生は顔を上げて、窓の外を見た。
「そこで、私は初めて自分の気持ちを語れた。『もし今日が最後なら、私はどう死ぬか』。その言葉を口にすることで、初めて自分の本当の気持ちに向き合えた」
椿先生は顔を上げた。その目に、静かな確信があった。
「でも、同時に気づいたの。私は本当は、死にたくないって」
しばらく沈黙が続いた。椿先生は視線を机に戻して、拳を握りしめた。その沈黙が、重かった。
「そんな日々が続いたある日、私は屋上で一人の女の子と出会った」
椿先生の声が、少しだけ変わった。硬さが和らいで、何か柔らかいものが混じり始めた。
「彼女の名前は、高橋陽菜。一年生だった」
椿先生は窓の方に顔を向けた。そのまま、遠い場所を見るような目で話し続けた。
「陽菜は、いつも明るかった。屋上では死に方を語るのに、それ以外の時間は笑ってた」
彼女は涙を浮かべた。でも、拭わなかった。
「私たち、仲良くなった。屋上の後、一緒に帰るようになった。陽菜と話すのが、楽しかった」
椿先生は息を吸った。その呼吸が、少し震えていた。
「ある日、陽菜が言ったの。『椿先輩と一緒にいると、生きててもいいかなって思う』って」
椿先生はそこで一度口を閉じた。目の縁が赤くなっていた。
「私も同じだった。陽菜と一緒にいると、生きたいって思えた。そして、私たちは気づいた。それが、私たちの生きたい理由だって」
白衣の袖が、彼女の手首にかかっていた。その手が小さく震えている。
「その日の屋上で、私たちは初めてルールを破った。『私、陽菜と一緒にいたい』って叫んだ。陽菜も『私も、椿先輩と一緒にいたい』って」
椿先生は涙を流した。声を殺して、でも確かに泣いていた。
「その瞬間、光に包まれた。気づいたら、私たちは校門の前に立ってた。戻れたんだって思った。一緒に生きたい理由を共有できたから」
彼女は涙を拭わないまま、続けた。
「でも、数週間後、陽菜が転校した。理由は聞けなかった。陽菜は『ごめんね』って言うだけだった」
椿先生は拳を握りしめた。その手の白さが、日差しの中でより際立って見えた。しばらく、何も言わなかった。窓の外から、遠くの部活の声が聞こえてきた。それがかえって、沈黙を重くした。
「それから、私はまた屋上に入れるようになった。ある日の放課後、時間外なのにドアが開いた。不思議に思って上がったら、そこに彼がいた」
彼女は顔を上げた。その目が、鋭くなった。
「神原聡先生。屋上システムを作った人」
その名前を聞いて、僕は息を呑んだ。神原聡。屋上システムの創始者。
「神原先生は言った。『君は番人になった。次に戻る者を見届ける役割だ』って」
椿先生は机の端を指先で押さえた。力が入っているのか、指先が白くなっていた。
「私は断ろうとした。でも、神原先生は続けた。『もし君が断れば、このシステムは暴走する。もっと多くの人が消える』って」
椿先生は力なく手を離した。
「だから、私は引き受けた。管理者として、屋上を見届ける役割を」
彼女は深く息を吐いた。疲れを吐き出すような、長い息だった。
「それから十年。私は、たくさんの生徒を見てきた。戻れた人もいた。でも、戻れなかった人の方が多かった」
椿先生は声を止めて、僕を見た。
「そして、今。七瀬さんの次の番人候補として、あなたが現れた」
「なんで、そんなシステムが必要なんですか」
僕の問いに、椿先生は机の引き出しを開けて、古い新聞記事を取り出した。黄ばんだ紙に、見出しが大きく書かれている。「高校生自殺 相次ぐ悲劇」。その文字を見て、僕は胸が苦しくなった。
「十五年前、この学校で生徒の自殺が相次いだ。月に一人、誰かが死んでいった。飛び降り、首吊り、薬物。方法は様々だった」
彼女は新聞記事を広げた。そこには、若い生徒たちの写真が載っていた。笑顔の写真。でも、彼らはもういない。
「学校は対策を取った。カウンセラーを増やして、教師の研修を行って、生徒の様子を細かくチェックするようにした」
椿先生は新聞記事を机に置いて、首を横に振った。
「でも、止められなかった。むしろ、増えていった」
彼女は窓の外を見た。その横顔が、光の中で疲れて見えた。
「そのとき、神原先生が『ある実験』を始めた。彼は心理学者でもあった」
椿先生は机の引き出しから、別のノートを取り出した。表紙に「研究記録」と書かれている。ページを開くと、そこには神原聡の手書きの文字が並んでいた。
「神原先生は、自殺した生徒たちの遺書を調べた。そして、ある共通点に気づいた。『死にたい』と書いている遺書には、必ず『でも』という言葉が含まれていた。『死にたい。でも、本当は』——そこから先が書かれていない遺書が、たくさんあった」
椿先生はノートをそっと閉じた。
「神原先生は考えた。彼らは本当は、死にたくなかったんじゃないか。生きたいという願望もあったんじゃないか。でも、それを誰にも言えなかった、と」
彼女の声が少し大きくなった。
「だから、神原先生は仮説を立てた。『死を語る場所』を作れば、彼らは自分の本当の気持ちに気づけるんじゃないか、と」
椿先生は研究記録を開いて、あるページを示した。そこには、屋上システムの設計図が描かれていた。
「神原先生は、屋上に『場』を作った。17時43分から17時58分。夕焼けが最も美しく見える時間帯で、一日の終わりを感じさせる時間帯。監視カメラを停止させ、鍵を開け、電波を遮断する。完全に隔離された空間を作った」
椿先生は研究記録を机に戻した。
「最初は、上手くいった。自殺者は減った。神原先生の実験は、成功したかに見えた」
椿先生の表情が暗くなった。
「でも、『場』には副作用があった」
彼女は言葉を切って、僕を見た。その目に、何か重いものがあった。
「語っても救われない者がいた。彼らは、記憶から消えていった。『現実』から排除されてしまった」
藤崎のこと、白鳥美月のこと、消えた人たちのことを思い出す。僕は何も言えなかった。
「神原先生は、最初それに気づかなかった。ある日、自分のクラスで生徒が一人消えた。でも、誰も覚えていなかった。神原先生だけが、その生徒のことを覚えていた。なぜなら、神原先生自身も『場』に関わっていたから」
椿先生は立ち上がって、窓の前に移動した。外を眺めながら、静かに続けた。
「それから、神原先生は調べ始めた。そして、恐ろしい真実に気づいた。『場』は、生と死を選別していた。誰かと生きたい理由を共有できた者は、現実に戻れる。誰とも共有できなかった者は、記憶から消える。それは、神原先生の意図を超えていた」
彼女は窓枠に手をついた。その指先が白くなるほど、力が入っていた。
「神原先生は止めようとした。『場』を閉じようとした。でも、もう止められなかった。『場』は、神原先生の手を離れて動き続けていた」
椿先生は窓から離れて、机に戻った。椅子には座らずに、机の端に両手をついて立ったまま話し続けた。
「神原先生は、責任を感じた。そして、ある日。屋上で消えた」
消えた。システムを作った人間が、そのシステムに飲み込まれた。
「神原先生は、最後の日記にこう書いていた」
椿先生はノートの最後のページを開いた。そこには、震えた文字で書かれた言葉があった。彼女はそれを読み上げずに、ただ僕に見せた。
『私は、多くの人を救おうとして、多くの人を消してしまった。この罪は、消すことができない。だから、私も消える。それが、私の選んだ終わり方だ』
椿先生は涙を流した。声を殺して、でも確かに泣いていた。ノートを持つ手が、細かく震えていた。しばらく、誰も何も言わなかった。
「神原先生が消えた後、誰も彼のことを覚えていなかった。記録も残っていなかった。ただ、『システム』だけが残った」
椿先生はノートを閉じて、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「私は、その後継者になった。でも、私にもシステムを止めることはできない。ただ、見届けることしかできない」
椿先生は、ずっとこの役割を担ってきたんだ。消えていく生徒たちを、ただ見届けるだけの役割を。十年間、一人で。
「先生」
僕は口を開いた。
「辛かったでしょ」
その言葉が、自然と口をついて出た。椿先生は少し驚いたような顔をして、それから小さく微笑んだ。
「うん。辛かった」
椿先生の声は静かだった。
「でも、これが私の役割だから。私が見届けなければ、消えた人たちのことを、誰も覚えていない」
「でも、なんで俺にこんなことを話すんですか」
「あなたの親友のこと、知ってるから」
その言葉に、僕は凍りついた。
「大樹くん、だったね」
大樹。その名前を聞いた瞬間、僕の心臓が激しく鼓動した。
「なんで」
「彼も、屋上に来ていたから」
「嘘だ」
僕は首を横に振った。でも、椿先生の目には、嘘がなかった。
「このシステムは、複数の学校に存在してる。全国で十二の学校にある。神原先生は、他の学校にもこのシステムを広めた。同じように自殺者が増えている学校に。大樹くんがいた中学校も、そのうちの一つだった」
椿先生は机の引き出しから、地図を取り出した。そこには、日本地図に赤い印がつけられていた。
「大樹くんのことは、別の管理者から聞いた。管理者同士は、定期的に情報を共有してる」
彼女はノートを開いた。そこには、たくさんの名前が書かれていた。その中に、大樹の名前があった。僕は目を離せなかった。
「大樹くんが最初に屋上に来たのは、中学二年生の秋だった。管理者の記録によれば、最初の日、大樹くんは何も語らなかった。ただ、夕焼けを眺めていただけ」
その光景が、僕の頭の中に浮かんだ。一人で屋上に立つ大樹。夕焼けを見つめる大樹。
「二日目、大樹くんは『薬を飲む』と語った。三日目は『海に沈む』。四日目は『首を吊る』。毎日、違う死に方を語っていた」
白鳥美月を思い出した。彼女も、毎日違う死に方を語っていた。
「管理者はこう記録している。『大樹は、まだ自分の死に方を決められていない。それは、まだ諦めたくないからだ』と」
椿先生は一度目を伏せた。ノートのページを、静かにめくった。
「でも、三週間が過ぎた頃。大樹くんは変わった。ある日から、同じ死に方を語るようになった。『屋上から飛び降りる』。それが、大樹くんの最後の死に方だった」
椿先生の声が、低くなった。
「同じ死に方を五日間語り続けた。その間、大樹の表情は日に日に虚ろになっていった。六日目、大樹は屋上に来なかった。管理者が調べたところ、大樹は前日の放課後、学校の屋上から飛び降りていた」
涙が溢れてきた。止められなかった。大樹が、ずっと苦しんでいた。一人で、屋上で、死と向き合っていた。
「管理者の記録には、さらにこう続いている」
椿先生の声が途切れた。ノートを持つ手が止まっていた。
「『大樹は、最後の週に何度も誰かに話しかけようとしていた。屋上の後、校門で友人を待っていた。でも、友人は忙しそうに去っていった。大樹は、その後ろ姿を見つめていた』」
友人。それは、僕のことだ。
「『最後の日、大樹は友人に話しかけた。でも、友人は「明日でいい」と言った。大樹は、小さく頷いて去っていった。その夜、大樹は日記にこう書いた。「もう、明日はない」』」
椿先生はノートをゆっくりと閉じた。僕も、涙が止まらなかった。
「桐谷くん、聞いて」
椿先生は立ち上がって、僕の両肩を掴んだ。
「あなたは、今ここにいる。それが、大樹くんとの違い」
「でも!」
僕は叫んだ。
「俺が、ちゃんと聞いてあげていれば! 俺が、もっと早く気づいてあげられれば!」
涙が止まらなかった。大樹の顔が浮かんでくる。彼が「話がある」と言ったときの、寂しそうな顔。僕が「明日でいい」と答えたときの、諦めたような顔。
「違うの」
椿先生の声は優しかった。でも、揺るがなかった。
「大樹くんは、あなたに言おうとしていた。でも、言えなかった。それは大樹くん自身の選択。あなたが全ての責任を負う必要はない」
彼女は窓の外を見た。しばらく沈黙が流れた。
「あなたは、どうするの? 大樹くんと同じように、後悔したまま終わるの? それとも、自分の生きたい理由を見つけるの?」
その問いに、僕は答えられなかった。でも、心の中で、一つの答えが浮かんでいた。詩織。彼女と一緒にいたい。
「考えてみて。そして、自分で選んで」
椿先生は椅子に戻って座った。それが、この話の終わりを意味していた。
「ありがとうございました」
僕は立ち上がって、保健室を出た。廊下に出ると、普通の学校の風景が広がっていた。生徒たちが笑いながら歩いている。教室からは授業の声が聞こえてくる。でも、僕の心は、まだ大樹のことでいっぱいだった。
放課後前、僕は屋上の階段前で詩織を待っていた。授業が終わって、生徒たちが廊下を行き交う中、僕は階段の踊り場に座って、ただ待っていた。大樹のこと、椿先生の話、神原聡のこと、システムの起源。全てが頭の中を巡り続けている。
大樹は、屋上に来ていた。毎日、死に方を語っていた。でも、誰とも生きたい理由を共有できなかった。そして、彼は死んだ。それは「消失」じゃなかった。「実行」だった。大樹は、自分で選んだ死に方を、本当に実行した。
足音が聞こえた。振り返ると、詩織が階段を上がってきた。彼女は僕を見つけて、少し驚いたような顔をした。
「蓮? 話、聞いたよ」
「椿先生から?」
「うん」
詩織は階段を上がってきて、僕の隣に立った。二人でしばらく黙っていた。
「大樹くんのこと」
詩織が口を開いた。その声は優しかった。
「辛かったね」
僕は何も言えなかった。ただ、詩織の言葉が胸に染み込んでいく。
「蓮、私ね」
詩織は窓の外を見た。
「番人になって、たくさんの人を見てきた。みんな、誰かと一緒にいたかった。でも、それを言えなかった。大樹くんも、きっと同じだったと思う。でも、蓮は違う。あなたは、ちゃんと言葉にできる」
「俺、まだ答えが出ない。戻るか、番人になるか、まだわからない」
詩織は頷いた。
「焦らなくていいよ」
「でも、一つだけわかった。君と一緒にいると、少しだけ楽になる」
その言葉に、詩織は目を見開いた。
「それだけは、本当だ」
僕は詩織の手を握った。その手は、少し冷たかったけれど、確かに温かくなっていく。
「ありがとう」
詩織は小さく微笑んだ。その笑顔は、夕焼けよりも柔らかかった。
その日の17時43分、僕と詩織は屋上に上がった。ドアを開けると、夕焼けに染まった空が広がっていた。今日は、誰もいない。本当に、二人だけ。
僕たちは並んで、フェンスに寄りかかった。夕日が沈んでいく様子を、ただ黙って眺めていた。オレンジ色の空が、少しずつ赤く染まっていく。雲が流れて、風が吹いて。その全てが、美しかった。
その沈黙は、心地よかった。何も言わなくても、互いの気持ちが伝わってくるような。詩織が隣にいる。それだけで、心が落ち着く。
「なあ、詩織」
僕は口を開いた。詩織は僕を見た。
「ん?」
「もし、俺が番人はやめて普通に戻ったとして」
僕の声は少し震えていた。
「そっちの世界でも、君と一緒にいられるかな」
詩織は少し悲しそうに微笑んだ。でも、その目には確かな優しさがあった。
「わからない。でも、そう思ってくれてるなら、嬉しい」
その言葉が、胸に染み込んだ。
「俺は、君と一緒にいたい」
その言葉に、詩織は涙を浮かべた。でも、泣かなかった。ただ、小さく微笑んだ。
「私も。あなたと一緒にいたい」
17時58分、アラームが鳴った。詩織が静かに立ち上がった。僕も、その動きに合わせて腰を上げた。もう少しだけここにいたかったけれど、時間が来たのはわかっていた。
僕たちは屋上を降りた。階段を降りながら、僕は考えていた。大樹のこと、詩織のこと、そして自分のこと。答えは、まだ見つからない。でも、一つだけわかったことがある。僕の心には、小さな火が灯っていた。詩織と一緒にいたいという気持ち。それが、もしかしたら、僕の生きたい理由なのかもしれない。
校舎を出ると、普通の夕方の風景が広がっていた。生徒たちが部活を終えて帰っていく。誰もが笑いながら話している。みんな、誰かと一緒にいる。それが、生きるということなんだと思った。
「蓮」
詩織が立ち止まった。僕も立ち止まった。
「大丈夫?」
「ああ。大丈夫」
僕は詩織を見た。
「君がいてくれるから」
その言葉に、詩織は少し驚いたような顔をして、それから小さく微笑んだ。
「じゃあね」
詩織は小さく手を振って、歩き出した。その後ろ姿を見ながら、僕は立ち尽くしていた。詩織の笑顔が、胸に焼きついている。
家に帰って、僕は自分の部屋に入った。机の上には、中学時代の日記が置かれたままだった。ページを開く。大樹と過ごした日々が、そこには記録されている。一緒に笑った日、一緒に遊んだ日、一緒に悩んだ日。全部。でも、最後のページには、何も書かれていない。破られたページの跡がある。僕が破った、大樹が死んだ日の記述。
僕はその破れたページを見つめた。大樹は、屋上に来ていた。毎日、死に方を語っていた。そして、最後の週、何度も僕に声をかけようとしていた。でも、俺は気づかなかった。「明日でいい」と言った。大樹はその夜、「もう、明日はない」と書いた。
涙が出てきた。でも、今度は少し違う涙だった。大樹のことを悲しむ涙だけじゃない。大樹がどれだけ苦しんでいたかを、今やっとわかった。その重さを受け取る涙だった。
僕は新しいページを開いて、ペンを取った。そして、書き始めた。
「大樹、俺はやっとわかった。お前も、今の俺と同じ場所にいたんだな。毎日、死に方を語りながら、本当は誰かと一緒にいたかった。でも、それを言えなかった。俺に言おうとしていた。何度も。でも、俺は気づかなかった」
涙が溢れてきて、止まらなかった。でも、僕は書き続けた。
「ごめん。俺は、お前の声を聞けなかった。『明日でいい』って言った。でも、お前には明日がなかった。その事実は、ずっと俺の中に残る。消えない。でも、詩織が言ってくれた。お前の選択は、お前自身のものだったって。俺が全部の責任を負わなくていいって。その言葉が、少しだけ楽にしてくれた」
文字が滲んでいく。涙でページが濡れる。
「お前が見つけられなかったもの。俺は今、それを探してる。詩織という人と一緒にいたいと思う。それが、俺の生きたい理由になるのかもしれない。お前が最後まで見つけられなかった答えを、俺は見つけようとしてる」
僕はペンを置いた。窓の外を見ると、夜空に星が輝いている。
「俺は前を向く。それが、お前への答えだ」
ベッドに横になって、目を閉じた。でも、眠れなかった。大樹のことが、頭の中を巡り続ける。でも、今夜の苦しさは少し違う。悔やむだけじゃなくて、受け取った、という感覚があった。大樹が見つけられなかったものを、俺が探す。それだけは、決まった気がした。
その夜、月が出ていた。満月に近い、大きな月。その月を見ていると、不思議と心が落ち着いてきた。大樹も、この月を見ていたのだろうか。屋上で、一人で。
翌朝、目が覚めた。窓から朝日が差し込んでいて、部屋全体が明るく照らされている。ベッドから起き上がって、窓を開けた。冷たい朝の空気が入ってきて、肺を満たす。深く息を吸って、吐いた。
机の上の日記を見た。昨夜書いた、大樹への言葉。その文字を見つめながら、僕は思った。今日から、俺は前を向こう。大樹のためにも、詩織のためにも、そして自分のためにも。
制服に着替えて、家を出た。学校へ向かう道を歩く。校門をくぐると、生徒たちが笑いながら歩いている。その中に、詩織の姿が見えた。彼女は一人で歩いていて、少し寂しそうな顔をしていた。
「詩織」
僕は声をかけた。詩織は振り返って、少し驚いたような顔をした。
「蓮、おはよう」
「おはよう」
僕は詩織の隣に並んだ。二人で、校舎へ向かって歩いた。
「今日は、早いね」
「ああ。なんか、目が覚めちゃって」
詩織は小さく微笑んだ。その笑顔が、朝日に照らされて輝いていた。
「蓮、昨日の話。大丈夫?」
僕は少し考えてから、頷いた。
「ああ。まだ、全部整理できてないけど。でも、前を向こうと思う」
その言葉に、詩織は、ほっとしたような笑顔を見せた。
「よかった」
二人で並んで、校舎に入った。廊下を歩きながら、僕は思った。明日、また詩織に会える。その事実が、静かに僕を満たしていた。大樹が見つけられなかったもの。俺は今、それを見つけようとしている。そう、心の中で呟いた。



