放課後、死ぬ練習をする場所で

 翌日の教室は、いつもと同じ風景だった。
 窓から差し込む朝の光、ざわめく生徒たちの声、黒板に書かれた今日の予定。全てが変わらない日常。でも、僕にとっては、何もかもが違って見えた。藤崎健太の席が消えている。彼が座っていたはずの場所に、机も椅子もない。まるで最初から存在しなかったかのように。
 昨日、詩織から多くのことを聞いた。屋上が生と死の狭間にある場所だということ。消えた者が記憶から切り離されること。番人の役割。そして、僕が記憶を保持できる理由。頭でわかった。でも、頭でわかることと、目の前の現実を受け入れることは、全く別のことだった。
 ただ、一つだけ聞けなかったことがあった。番人には、いつか終わりが来るのだろうか。詩織は、いつまであの場所に立ち続けなければならないのだろうか。その問いが、ずっと頭の片隅に引っかかっていた。
 僕は自分の席に座って、藤崎がいたはずの場所を見つめた。確かにあそこに彼はいた。物静かで、いつも一人で本を読んでいた。虚ろな目をしていた。屋上のことを教えてくれた。毎日「海に沈む」と語っていた。その全てを、僕は覚えている。
 でも、他の誰も覚えていない。
 教室を見渡すと、誰もが普通に過ごしている。笑っている生徒、話している生徒、眠そうにあくびをしている生徒。みんな、何も知らない。藤崎健太という生徒がこのクラスにいたことを、誰も覚えていない。その事実が、重く胸にのしかかった。
 朝のホームルームが始まった。担任が出席を取る。五十音順に名前が呼ばれていく。「青木」「井上」「大野」。でも、「藤崎」という名前は呼ばれない。担任は何の違和感もなく、次の名前を呼ぶ。まるで最初から、このクラスに藤崎健太という生徒は存在しなかったかのように。
 僕は胸が苦しくなった。確かに彼はいた。このクラスに、この席に、この教室に。でも、今はいない。消えた。存在が消えた。記憶から消えた。
 授業が始まった。でも、僕は集中できなかった。昨日詩織から聞いた言葉が、ずっと頭の中を巡り続けていた。一人で全員の記憶を抱えて、誰にも話せないまま、ただ見届けるだけ。その孤独さが、頭から離れなかった。
 窓の外を見ると、校庭で体育の授業をしている生徒たちが見えた。みんな笑いながら走っている。普通の日常。でも、僕にはその日常が、遠い世界のことのように感じられた。
 一時間目が終わって、休み時間になった。クラスメイトたちが立ち上がって、それぞれの場所に移動する。友達と話す者、トイレに行く者、次の授業の準備をする者。でも、僕は席に座ったまま動けなかった。どこへ行けばいいのかわからない。誰と話せばいいのかわからない。
 隣の席の男子生徒が、友達と笑いながら話している。その笑顔を見ていると、胸が苦しくなった。彼らは何も知らない。藤崎のことも、白鳥美月のことも、消えた生徒たちのことも、何も知らない。ただ普通に、毎日を過ごしている。
 でも、それでいいのだろうか。知らないまま、忘れたまま、何もなかったかのように生きていく。それが、正しいことなのだろうか。
 二時間目の授業が始まった。数学だった。先生が黒板に数式を書いていく。でも、僕の目には何も入ってこなかった。頭の中では、ずっと同じことを考え続けていた。
 藤崎は、生きたい理由を見つけられなかった。白鳥美月も、見つけられなかった。消えた他の生徒たちも。彼らは、誰かと気持ちを共有することができなかった。詩織の言葉を思い出す。
「誰かと生きたい理由を共有すること」
 それが、戻るための条件。でも、それがどれだけ難しいことか。
 大樹も、できなかったのだろうか。俺に話しかけようとしていた。でも、俺は聞いてあげられなかった。もしあのとき聞いていたら、大樹は生きたい理由を見つけられていたのだろうか。
 チャイムが鳴って、休み時間になった。僕は席を立って、廊下に出た。窓から差し込む午前の光が、廊下の床を白く照らしている。
 昼休みになった。クラスメイトたちが弁当を広げたり、購買へ向かったり、それぞれの場所へ移動していく。僕は席に座ったまま、窓の外を眺めていた。
「桐谷君」
 声がして、振り返ると、神崎理沙が立っていた。彼女は少し心配そうな顔をして、僕を見つめている。
「一緒にお弁当食べない?」
 理沙の声は優しかった。でも、僕はその優しさに応えられる気がしなかった。
「ごめん。今日は一人で食べたい」
 僕の返事に、理沙は少し寂しそうな表情を見せた。でも、彼女は何も言わずに頷いた。
「そう。じゃあ、また後でね」
 理沙は去っていった。その後ろ姿を見ながら、僕は罪悪感を覚えた。彼女は僕のことを心配してくれている。でも、僕は彼女に何も話せない。屋上のことも、消えた人たちのことも、全部。
 彼女が心配してくれている。それは、確かなことだ。でも、心配してくれているからといって、全てを話せるわけじゃない。理沙は何も悪くない。ただ、この重さを共有できる人間が、今の僕には一人しかいなかった。
 僕は席を立って、教室を出た。廊下を歩いて、階段を上がる。屋上への階段。今は時間外だから、ドアは開かない。でも、ここに立っているだけで、少し落ち着く。
 階段の踊り場に座って、膝を抱えた。薄暗い空間で、一人で座っている。誰も来ない。誰も見つけない。ここでなら、一人で考えられる。
 藤崎健太。彼は僕に屋上のことを教えてくれた。あの日、放課後の教室で、彼は唐突に声をかけてきた。
「なあ、お前、屋上行ってみたら?」
 その言葉がなければ、僕は屋上に行くことはなかった。詩織に会うこともなかった。
 藤崎は、俺に何かを伝えようとしていたのかもしれない。「お前、屋上行ってみたら?」という言葉の裏に、「俺は一人じゃない」という確認があったのかもしれない。でも、今となっては確かめられない。
 藤崎は消えた。詩織の言葉によれば、彼は生きたい理由を誰とも共有できなかったから。それだけが理由で、彼は世界から切り離された。それが、どれだけ理不尽なことか。どれだけ悲しいことか。
 足音が聞こえた。誰かが階段を上がってくる。僕は顔を上げた。
「桐谷君?」
 理沙だった。彼女は驚いたような顔をして、僕を見つめている。
「こんなところで何してるの?」
 理沙の声には、心配が混ざっていた。僕は立ち上がった。
「別に。ちょっと一人になりたくて」
 僕の返事に、理沙は少し考えるような仕草を見せてから、僕の隣に座った。
「私も、ここに座っていい?」
 理沙の声は優しかった。僕は頷いた。
 二人で、しばらく黙っていた。理沙は何も聞かなかった。ただ、隣に座っているだけだった。その沈黙が、少しだけ心地よかった。
「桐谷君、最近ずっと元気ないよね」
 理沙が口を開いた。その声は静かだった。
「何かあった?」
 僕は首を横に振った。
「何もない」
 嘘だった。でも、本当のことは言えなかった。
「そう」
 理沙は僕を見た。
「もし、何か困ったことがあったら、言ってね。私でよければ、話聞くから」
 その言葉が、胸に染み込んだ。理沙は本当に、僕のことを心配してくれている。でも、僕は彼女に何も話せない。
「ありがとう」
 僕はそれだけ言った。理沙は小さく微笑んだ。そして、それ以上は何も言わずに、ただ隣にいてくれた。その時間が、少しだけ温かかった。
 昼休みが終わって、午後の授業が始まった。でも、僕は相変わらず集中できなかった。頭の中では、詩織のことばかり考えていた。
 五時間目、六時間目。授業が終わって、放課後のチャイムが鳴る。僕は鞄を持って教室を出た。昨日、詩織と「また話したいことがあれば音楽室で」と約束していた。廊下を歩きながら、窓から差し込む夕日が床を照らしている。オレンジ色の光が、廊下全体を温かく染めていた。
 音楽室のドアを開けると、誰もいなかった。窓から夕日が差し込んでいて、部屋全体がオレンジ色に染まっている。ピアノが窓際に置かれていて、その黒い塗装が光を反射している。僕は窓際に座って、外を眺めた。
 しばらくして、ドアが開いて、詩織が入ってきた。
「待たせた?」
「ううん」
 詩織は僕の隣に座った。二人で、しばらく黙っていた。その沈黙は不快じゃなかった。ただ、二人でいる時間が流れていく。
 詩織は窓の外を見ていた。夕日が沈みかけていて、空がオレンジ色に染まっている。その横顔は、いつもより少しだけ柔らかかった。昨日、あれだけのことを話してくれた。それが、詩織の中で何かを変えたのかもしれない。
「詩織」
 僕は口を開いた。
「番人になって、一番辛かったのはいつ?」
 詩織はしばらく黙った。夕焼けを見つめたまま、何かを考えているようだった。
「常に、かな」
 詩織の声は低く、ゆっくりと出てきた。まるで、ずっと自分の中に仕舞い込んでいたものを、やっと取り出すように。
「誰も気づかない。誰も探さない。世界が、何事もなかったように動き続ける。その中で、私だけが覚えている。その孤独が、一番つらかった。特に最初に消えた子のとき、それを初めて実感した」
 詩織の手が、膝の上で静かに重なった。
「一年生の男の子だった。毎日、同じことを語ってた。『誰かに必要とされたい』って。その言葉が、毎日、毎日、同じトーンで繰り返された。ルールがあるから、何も言えなかった。ただ見てるだけで」
 僕は詩織の横顔を見た。その目が、遠くを見ているような、でも何も見ていないような、そんな表情をしていた。
「翌日、彼の席が消えてた。クラスメイトは誰も気づかなかった。私だけが、彼の顔を覚えてた。名前を覚えてた。最後に語った言葉を覚えてた。教室がいつも通りに動いていて、誰も何も知らなくて。それが、どれだけ重いか、その日初めてわかった」
 言葉が途切れた。詩織は小さく息を吸って、視線を窓の外に向けた。夕日が部屋に差し込んで、二人の影が長く伸びていた。
「二人目は女の子だった。彼女は毎日、同じことを語ってた。『家族のそばで、静かに消えたい』って。家族が大好きで、でも家族に心配をかけたくなくて、だから誰にも言えなかったんだと思う。屋上を出るとき、いつも少しだけ笑っていた。その笑顔が、ずっと気になってた」
 詩織の声が少し低くなった。
「彼女が消えた翌日、廊下で一人の女性が担任の先生に話しかけているのを見た。何かを探しているような目をしていた。でも、先生は不思議そうな顔をしていた。二人が何を話しているのか、私には聞こえなかった。ただ、その女性の背中が、ずっと頭から離れない」
 詩織はそこで言葉を切った。しばらく、その女性の背中を思い出しているような顔をしていた。
「その人が誰なのか、何を探していたのか、私にはわからなかった。ただ、何かを失った人の背中だと思った。それだけはわかった」
 僕は何も言えなかった。詩織の語り口が、淡々としているほど、かえって重く響いた。
「三人目は、屋上に来て最初の日から、何も語らなかった。ただ、毎日夕焼けを見ていた。四日目、初めて口を開いた。『誰かと一緒に夕焼けを見たかった。ただ、それだけだった』って。次の日、彼の席は消えていた。その言葉が、今でもたまに頭に浮かぶ。誰かと一緒に夕焼けを見たかった、ただそれだけ。それが叶わなかったから、消えた」
 詩織の声が細くなった。
「四人目の子は、二年生の男の子だった。毎日、『誰も俺のことを必要としていない』って語ってた。でも、目が優しくて、屋上を出た後に誰かに話しかけるとき、いつも丁寧だった。その優しさと、語っている言葉のギャップが、ずっと気になってた」
 詩織は膝の上で指を組んで、少し力を込めた。
「彼が消えた翌日、彼の部活の後輩らしき子が廊下で泣いてるのを見た。声をかけたら、『なんか急に……寂しくなって』って言ってた。何が寂しいのか、その子自身もわからないみたいだった。でも、確かに何かを失った顔をしていた」
 詩織は一度目を伏せた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「誰かに必要とされていた。その気持ちは、消えた後も、どこかに残るのかもしれない。言葉にはならなくても、形にはならなくても。そのことが、今でも胸に引っかかってる」
 夕焼けが少し色を深めて、部屋全体がより赤みを帯びた。その色が、詩織の横顔を照らした。
「五人目の子は、三年生の女の子だった。進路のことで悩んでいて、毎日違う死に方を語ってた。でも、最後の日だけ、初めて同じ死に方を繰り返した。『お母さんに謝りながら消えたい』。それが、彼女が最後に語ったことだった」
 詩織の声は途切れがちだった。
「彼女が消えた翌日、一人の女性が学校に来た。担任と話していたけれど、先生は首を傾げていた。その女性は何を話したかったのか、私にはわからなかった。ただ、帰り際に見せた横顔が、ずっと頭から離れない。何かを探していたような、何かを失ったような顔だった」
 詩織はそこで言葉を止めた。しばらく沈黙が続いた。
「三人目からは、数えるのをやめた。でも、全員の顔を覚えている。全員の名前を覚えている。全員の最後の言葉を覚えている。それが、番人の役割だから」
 僕は詩織の横顔を見た。夕日がその輪郭を照らしていて、目の縁がわずかに赤くなっていた。
「番人になってから、眠れない夜が何度もあった。目を閉じると、消えた子たちの顔が浮かんでくる。全員の顔が。それが、ずっと続いてる。一年間、ずっと」
 詩織は深く息を吸った。
「でも、一人だけ、戻れた子がいた」
 詩織の声が、少し変わった。
「綾という子だった。私と同じクラスで、仲良くなった。二人で屋上に通って、二人で語って、二人でいるうちに、私は初めてルールを破った。彼女と一緒にいたくて、彼女に戻ってほしくて、気づいたらそう叫んでた」
 詩織は目を閉じた。その表情が、わずかに和らいだ。
「綾は戻れた。今も同じクラスで、笑ってる。それだけが、私の支えだった。綾が戻れたから、番人になった意味があると思えた。でも」
 詩織の声が揺れた。
「他の子たちは戻れなかった。私には、綾しか救えなかった。それが、ずっと胸に引っかかってる」
 僕は少し間を置いてから、口を開いた。
「俺も、大樹に何もできなかった。彼が何度も話しかけてきてたのに、全部断った。最後の日、『明日でいい』って言った。それが、本当に最後になった」
「蓮は、大切な人を失った経験がある。その人のことを今でも覚えている。それが、あなたが誰かの痛みを自分のものとして感じられる理由だと思う」
「でも、俺は結局、何もできなかった」
「できることと、できないことがある」
 詩織の声は、静かだった。
「その人の選択は、その人自身のものだった。あなたが気づいてあげられなかったことは、確かに事実だけど。でも、あなたが全部の責任を負わなくていい」
 その言葉が、胸に刺さった。ずっと、自分を責め続けてきた。でも、詩織の言葉は、その責め方を少しだけ和らげた。
「覚えていることは、弱さじゃない。あの子たちが確かにいたことを、誰かが覚えていることは、意味があると思う」
「また、話してくれ。消えた子たちのことも、綾さんのことも、番人として見てきた全てのことも」
 詩織は静かに微笑んだ。嬉しさと、安堵と、ほんの少しの悲しさが混ざったような笑顔だった。
「うん。こんなに話したの、番人になってから初めて。学校に一人だけ話せる先生がいたけど、その先生には見届けることしかできなかった。でも、蓮は違う。あなたも覚えてる。だから、話せる」
 その言葉が、胸に重く落ちてきた。一年間、詩織は一人でこれを抱えてきた。消えた者たちの記憶を全部抱えて、誰にも言えないまま、ただ見届け続けてきた。
「詩織」
 僕は口を開いた。
「番人は、いつまで番人でいなきゃいけないの?」
 詩織はしばらく黙った。その問いを、どう答えるか迷っているようだった。
「次の番人が現れるまで。それが、番人の期限」
 詩織の声は、静かだった。
「もし次の番人が現れなければ、番人自身が消える。消えた者たちと同じように、記憶から消えて、誰も覚えていなくなる。それがいつなのか、正確にはわからない。でも、時間が経つほど、自分の輪郭が薄くなっていく気がする。最近、自分の手が少し透けて見えることがある」
 その言葉が、胸に重く落ちた。詩織が消える。その可能性が、初めてはっきりとした形を持った。
「だから、あなたが記憶を保持できることは、私にとって……」
 詩織は言葉を切った。その先を、言えなかったようだった。
「わかった」
 僕は静かに言った。詩織は小さく頷いた。
 その夜、僕は眠れなかった。
 机の引き出しを開けて、古い日記を取り出した。中学時代の日記。親友・大樹と過ごした日々が、そこには記録されている。
 ページをめくる。一年生の春。
「今日、クラス替えがあった。知ってる人が誰もいなくて不安だったけど、隣の席の大樹って奴が話しかけてきた。『よろしくな』って。ちょっと変わった奴だけど、面白そう」
 僕は小さく笑った。大樹は、本当に変わった奴だった。
 夏の記述。
「大樹と一緒に夏祭りに行った。金魚すくいで、大樹が十匹も取ってた。すごい。でも、全部逃がしてた。『金魚も自由がいいだろ』って。変な奴」
 秋の記述。
「文化祭の準備で、大樹と一緒に舞台装置を作った。大樹の作ったお化け屋敷の仕掛けが面白すぎて、みんな笑ってた。でも、本番では大成功。大樹、天才かも」
 冬の記述。
「大樹と初詣に行った。お互いに『今年もよろしく』って言い合った。大樹は『来年も一緒にいような』って言った。当たり前だろ、って答えた」
 ページを閉じて、僕はしばらく日記を見つめた。一年生の頃は、あんなに普通に笑っていた。
 二年生の秋ごろから、記述が変わっていく。
 九月の記述。
「大樹が最近、昼休みに一人でいることが多い。声かけようとしたけど、タイミングが掴めなかった。明日にしよう」
 十月の記述。
「大樹と久しぶりに話した。でも、なんか上の空な感じで、うまく話が続かなかった。前みたいに笑わなくなった気がする。何かあったのかな」
 十一月の記述。
「大樹が『冬休み、どこか行く?』って聞いてきた。一緒に行こうかと思ったけど、俺も部活で忙しくて、『どうかな』って濁してしまった。大樹は『そうか』とだけ言って、それ以上は何も言わなかった。なんか悪かったかな」
 読み返すたびに、胸が痛くなる。大樹は、ずっと何かを求めていた。でも、俺は毎回、ちゃんと受け取らなかった。
 大樹が死ぬ少し前の記述。
「また大樹が『話がある』って言ってきた。でも、俺は部活があるって断った。大樹、本当に何か言いたそうだった。でも、俺は忙しくて」
 その直前の記述。文字が大きく乱れている。
「大樹がまた話しかけてきた。『蓮、俺さ』って。でも、俺は『ごめん、今日も忙しい。明日でいい?』って言った。大樹は長い間黙ってから、『明日でいい』って言った。その顔が、すごく寂しそうだった。明日、ちゃんと話を聞こう」
 そして、翌日。
 ページが破れている。僕が破いたんだ。大樹が死んだ日の記述を、僕は破った。読めなかった。あの日、何があったかを書いた文字を、自分の手で破り取った。でも、覚えている。その日、大樹は屋上から飛び降りた。
 僕は日記を閉じた。涙が溢れてきて、止まらなかった。俺は、誰の生きたい理由にもなれなかった。大樹の言葉を聞いてあげられなかった。もし、あのとき話を聞いていたら。大樹は死ななかったのだろうか。
 でも、もう聞けない。大樹はもういない。
 僕はベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋めて、声を殺して泣いた。大樹、ごめん。俺は、お前の言葉を聞いてあげられなかった。お前が苦しんでたのに、気づいてあげられなかった。
 しばらくして、詩織の言葉を思い出した。
「覚えていることは、弱さじゃない」
 僕は起き上がって、机に向かった。新しいページを開いて、ペンを取った。そして、書き始めた。
「大樹、俺は今、詩織という人から話を聞いた。お前が一人で抱えていたかもしれないことを、他の誰かも抱えていたと知った。お前は、俺に話しかけた。何度も。でも、俺は毎回『明日でいい』って言った。最後の日も、そう言った。それが、本当に最後になった」
 涙が溢れてきて、止まらなかった。でも、僕は書き続けた。
「ごめん。俺は、お前の言葉を聞いてあげられなかった。お前が苦しんでたのに、気づいてあげられなかった。それは、ずっと変わらない事実だ。でも、詩織が言ってくれた。お前の選択は、お前自身のものだったって。俺が全部の責任を負わなくていいって。その言葉が、少しだけ、本当に少しだけ、楽にしてくれた」
 文字が滲んでいく。涙でページが濡れる。
「お前のことは、忘れない。金魚を全部逃がした夏の日も、一緒に作ったお化け屋敷も、初詣で『来年も一緒にいような』って言ったことも。全部、覚えてる。それが弱さじゃないって、今は少しだけ思えてる」
 僕はペンを置いた。そして、窓の外を見た。夜空には、星が輝いている。その星の一つが、もしかしたら大樹なのかもしれない。そんなことを思いながら、僕は小さく微笑んだ。
「俺は今、生きたい理由を見つけようとしてる。詩織という人と出会って、初めて誰かと一緒にいたいと思った。これが、お前が見つけられなかったものなのかもしれない。だから、俺は前を向く。お前の分まで、ちゃんと生きる。そう、決めた」
 翌日の放課後、17時43分。
 僕は屋上に上がった。ドアを開けると、詩織が先に来ていた。フェンスに寄りかかって、夕焼けを見ている。昨日と同じ場所に、昨日と同じように立っている。でも、何かが違う気がした。昨日より少しだけ、肩の力が抜けているような。
 僕は詩織の隣に立って、同じ方向を見た。オレンジ色の空が広がっていて、遠くに見える街並みがシルエットになっている。風が吹いて、詩織の髪が揺れた。
「昨日話してくれたこと、ありがとう」
 詩織は少し驚いたような顔をして、それから小さく頷いた。
「蓮が、ちゃんと聞いてくれたから」
「また、話してほしい。今日も」
「いいの?」
「ああ。俺に話してくれ。それが、今の俺にできることだから」
 詩織は少し間を置いてから、夕焼けを見ながら話し始めた。
「六人目の子がいた。一年生の女の子で、毎日、同じことを語ってた。『忘れたふりをして生きていくのが、もう限界』って」
 詩織の声は静かだった。
「彼女は、何かを隠して生きていた。誰にも言えないことを抱えたまま、ずっと笑っていた。屋上でも笑っていた。でも、その笑顔は、他の子たちと違う種類の笑顔だった。何かを我慢するときの笑顔だった」
 詩織は夕焼けに目を向けたまま、続けた。
「彼女が消えた翌日、私は廊下で立ち尽くしていた。彼女がいつも歩いていた場所を見ながら、何も言えなかった。誰も気づいていない。誰も探していない。ただ、私だけが、彼女がそこを歩いていたことを覚えていた」
 風が吹いて、夕焼けが少し揺れて見えた。実際には揺れていないのに、何かが揺らいでいる気がした。
「でも、あなたと出会って。あなたも覚えている。それだけで、少しだけ違った。消えた子たちのことを覚えているのが、私だけじゃなくなった。それが、どれだけ救いだったか」
 僕は詩織を見た。その目には、確かに何かがあった。涙ではない。でも、涙よりも深いものが、そこにあった。
「俺も。大樹のことを、ずっと一人で抱えてた。でも、詩織に話したら、少しだけ軽くなった。一人じゃないって、思えた」
 詩織は静かに頷いた。
「それが、共有するってことなんだと思う。重さを半分にするんじゃなくて、一人じゃないって知ること」
 17時58分、アラームが鳴った。
 でも、二人はすぐには動かなかった。もう少しだけ、この場所に留まりたかった。風が吹いて、夕焼けがさらに深い色に変わっていく。
 僕たちは屋上を降りた。廊下はもう薄暗くなっていて、夕日が窓から差し込んでいる。二人で並んで歩きながら、僕は考えていた。戻るか、番人になるか。まだ答えは出ていない。
 でも、一つだけ決めたことがある。答えが出るまで、詩織の話を聞き続けよう。消えた子たちのことも、綾さんのことも、番人として見てきた全てのことも。それだけは、俺にできることだから。
 校舎を出ると、普通の夕方の風景が広がっていた。生徒たちが部活を終えて帰っていく。誰もが笑いながら話している。
「じゃあね、蓮」
 詩織が小さく手を振った。
「また明日」
 彼女は歩き出した。その後ろ姿を見ながら、僕は立ち尽くしていた。詩織の話が、頭の中を巡り続ける。消えていった子たちの顔。届かなかった言葉。それでも前を向いている詩織の横顔。
 その夜、月が出ていた。満月に近い、大きな月。その月を見ていると、不思議と心が落ち着いてきた。大樹も、この月を見ていたのだろうか。屋上で、一人で。
 答えは、まだ出ない。でも、もう少しだけ、考える時間をもらおう。詩織の話を聞きながら、自分の中の何かが変わっていくのを、待ってみよう。
 ふと、思った。もし俺が番人になったら、どうなるんだろう。詩織と同じように、消えた人たちの記憶を抱えながら、次に来る誰かを見届ける。それは、どんな感覚なんだろう。詩織は一年間、それをやり続けた。孤独で、辛くて、でも前を向いていた。
 俺には、それができるだろうか。
 わからない。でも、一つだけわかることがある。詩織が一人で抱えてきたものを、俺は今、少しだけ一緒に抱えている。消えた子たちの話を聞くたびに、その重さが自分の中に積み重なっていく。それが苦しいかといえば、苦しい。でも、詩織が「あなたに話せてよかった」と言ったとき、その苦しさは意味を持った気がした。
 大樹も、誰かに話せていたら。誰かが一緒に抱えてくれていたら。
 その問いに、答えは出ない。でも、その問いを持ち続けることが、今の俺にできることなのかもしれない。
 その変化が、答えを連れてきてくれる気がした。