放課後、死ぬ練習をする場所で

 三日目の屋上も、同じ夕焼けに染まっていた。
 僕は、もう迷わず17時43分に階段を上がっている。初日の戸惑いはもうなく、ドアを押し開けると、いつもの光景が広がっていた。オレンジ色の空、冷たい風、そして無言で立ち尽くす生徒たち。この三日間で、僕はこの異様な光景に慣れ始めていた。
 今日も七人が揃っていて、みんな昨日と同じ場所に立っている。決まった位置があるかのように、藤崎健太、白鳥美月、詩織、そして他の生徒たちがそれぞれの場所を占めていた。僕も自然と、屋上の隅のフェンスに寄りかかる場所に移動する。フェンスの冷たい金属が、制服越しに背中に触れる感触があった。
 詩織が中央に立って、全員を見渡した。彼女の黒髪が風に揺れていて、その動きが夕日に照らされて金色の筋を作っている。その表情は相変わらず平坦で、何を考えているのか読み取れないけれど、彼女がこの場を取り仕切っているのは明らかだった。
「じゃあ、始めよう」
 詩織の声が、静かに響いた。誰も返事をせず、ただ全員が彼女を見ている。
 一人目の男子生徒が語り始める。昨日と同じ死に方だった。
「高いところから飛び降りる。落ちてる間だけ、自由でいたい」
 彼の声には感情がなくて、まるで決まり文句を暗唱しているようだったけれど、その言葉の重さは変わらない。二人目の女子生徒も同じ。
「薬を飲む。眠るように消えたい」
 三人目も、四人目も、みんな昨日と同じ死に方を淡々と語っていく。変わらない日常、決まり切った儀式、でもその繰り返しの中に、奇妙な安心感があった。
 そして、白鳥美月の番が来た。
 彼女は今日も、短髪を風に揺らしながら立っていて、小柄な体が夕日に照らされて長い影を作っている。その影は彼女の体よりもずっと大きく見えた。影だけが彼女の本体で、彼女自身は影の付属物のように。その目は相変わらず笑っておらず、何かを探しているような、でも見つけられないような、そんな虚しさを湛えていて、彼女が口を開くたびに、僕は少しだけ緊張する。
「私は、今日は、凍死する」
 美月の声は小さかった。風の音に紛れてしまいそうなほど小さくて、僕は耳を澄まさなければ聞き取れなかった。
「雪山で、静かに眠るように」
 また違う死に方だった。昨日は首を吊ると言っていた、一昨日は薬を飲むと言っていた、三日間で三つの死に方。僕は彼女を見つめた。他の生徒たちは毎日同じ死に方を語っているのに、美月だけは毎日変わる。それがルール違反にならないのか、誰も指摘しない。ルールには「嘘をついてはいけない」とあったけれど、彼女の言葉は嘘には聞こえなかった。むしろ、どの死に方も本当のように聞こえた。彼女にとっては、全てが等しく本当なのかもしれない。
 藤崎の番が来た。彼は相変わらず屋上の端に立ったまま、海の方を見ている。遠くに見える水平線を、じっと見つめている。
「俺は、海に沈む」
 昨日と同じ、一昨日と同じ、淡々とした声。でも、その声には確信があった。彼は自分の終わり方を、もう決めている。
 詩織の番が来た。
「私は、海に沈む。深いところまで行って、静かに目を閉じる」
 これも昨日と同じ、藤崎と同じ死に方。でも、誰も何も言わない。二人が同じ死に方を語ることに、何か意味があるのだろうか。僕にはまだわからない。
 全員の視線が僕に向く。
 僕の番だった。
 今日も、僕は何も言えなかった。どう死にたいのか、まだわからない。語るべき言葉が見つからない。沈黙が流れる。風の音だけが聞こえる。遠くで鳥が鳴いた。誰かの服が風に揺れる音がした。でも、誰も何も言わず、ただ静かに待っているだけだった。
 詩織が口を開く。
「無理に話さなくていいよ」
 いつもと同じ言葉。でも、その声には優しさがあって、表面的な優しさかもしれないけれど、僕はそれに救われている。ここでは、語れなくても許される。生きてるふりをしなくていい。
 17時58分、アラームが鳴った。
 全員が無言で立ち上がり、一人ずつ屋上を去っていく。僕も階段を降りた。階段の途中で、白鳥美月が前を歩いていて、彼女は振り返らずに、ただ黙って一人で降りていった。その後ろ姿は小さくて、消えてしまいそうなほど頼りなかった。
 その後ろ姿を見ながら、僕は思った。彼女は本当に、まだ決められないのだろうか。それとも、決められないことが彼女の答えなのだろうか。
 四日目も、同じように屋上に通った。
 今日も七人が揃っている。同じ場所に、同じ顔ぶれ。もう僕は、この光景に慣れ始めていた。異様な光景なのに、不思議と落ち着く。ここでは、生きてるふりをしなくていい。ただ、自分の気持ちに正直でいられる。教室では感じられない安心感が、この屋上にはあった。
 白鳥美月の番が来た。
「私は、今日は、電車に飛び込む」
 また違う死に方だった。僕は彼女を見た。彼女の目には、昨日と同じ虚しさがあった。何かを探している目、でも何も見つけられない目。その目を見ていると、胸が苦しくなる。彼女は何を探しているのだろう。
 語り終わった後、詩織が屋上の端に移動した。僕も何となく、彼女の方に歩いていった。詩織は夕焼けを見つめていて、僕に気づくと小さく頷いた。彼女の横顔が、夕日に照らされて輪郭を浮かび上がらせている。
「蓮」
 詩織が僕の名前を呼んだ。初めてだった。今まで、彼女は僕を名前で呼んだことがなかった。その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「なに?」
「あなた、白鳥さんのこと気になってる?」
 詩織の声は静かだった。僕は少し驚いた。なぜわかったのだろう。僕は彼女のことを気にしていたつもりはなかったけれど、確かに視線が何度も美月に向いていたのかもしれない。
「うん。なんで彼女だけ、毎日違う死に方を語るんだ?」
 詩織は少し考えるような仕草を見せた。そして、小さく答えた。
「彼女は、まだ決めてないから」
「決めてない?」
「自分の終わり方を」
 詩織の言葉が、胸に引っかかった。自分の終わり方を決められない。それは、どういうことなのだろう。死に方を決めるということは、生き方を決めるということなのだろうか。
「それって、いけないことなの?」
 僕の問いに、詩織は首を横に振った。
「いけないわけじゃない。でも、いつかは決めなきゃいけない」
「いつまでに?」
「それは、わからない」
 詩織の声には、何かが含まれていた。でも、それが何なのか、僕にはわからなかった。
「君は、なんで毎日同じ死に方を語るの?」
 僕の質問に、詩織は僕を見た。その目には、悲しみか諦めか、判別できない何かがあった。
「それが私の終わり方だから」
 詩織の答えは、静かで確信に満ちていた。
「もう、決めてるの?」
「うん」
 詩織の声には迷いがなかった。彼女は自分の死に方を、もう決めている。それがどういう意味なのか、僕にはまだわからない。
「蓮は?」
 詩織の問いかけに、僕は正直に答えた。
「俺は、まだわからない」
 詩織の表情が、ふわりと柔らかくなった。
「焦らなくていいよ。いつか見つかる」
 その言葉に、僕は少し救われた。でも同時に、不安も感じた。「いつか」とは、いつなのだろう。そして、見つけられなかったらどうなるのだろう。
 五日目の屋上。
 今日も同じメンバーが揃っている。でも、何かが違う気がした。空気が少しだけ重く、誰もがいつもより静かな気がする。風も、いつもより冷たい気がした。
 それぞれが死に方を語っていく。変わらない日常。でも、今日は違った。何かが、変わろうとしている。そんな予感があった。
 僕の番が来た。
 今日は、語ろうと思った。もう五日も通っている。そろそろ、何か言わなければいけない気がした。みんなが僕を見ている。詩織も、藤崎も、白鳥美月も。その視線が、僕を包んでいる。
 僕は口を開いた。
「俺は」
 言葉が、ゆっくりと出てきた。何を言えばいいのか、まだわからない。でも、何か言わなければいけない気がした。
「眠ったまま、目が覚めなければいい」
 それが、僕の死に方だった。大樹が死んだとき、僕は何も気づけなかった。彼が苦しんでいたことも、助けを求めていたことも、全部気づけなかった。だから、もう誰かの声に応答しなくていい場所に行きたかった。眠ったまま、静かに目が覚めなければいい。それが、僕の終わり方だと思った。
 でも、詩織の表情が変わった。
 彼女は初めて、驚いたような顔をして、眉をひそめて僕を見つめている。その目には、心配か何かがあった。
「それは、死に方じゃないかもしれない」
 詩織の声には、確信があった。
「え?」
 僕の問い返しに、詩織はそれ以上何も言わなかった。彼女は視線を逸らして、空を見上げた。
「ううん、何でもない」
 彼女の首が小さく横に振られて、視線が逸れた。でも、その表情には何かがあった。僕の言葉が、彼女の中で何かを引き起こしたような気がした。
 17時58分、アラームが鳴った。全員が屋上を去る。僕は階段を降りながら、詩織の言葉を考えていた。「死に方じゃないかもしれない」。それは、どういう意味なのだろう。消えることは、死ぬことじゃないのだろうか。それとも、別の意味があるのだろうか。
 六日目の朝、教室に入ったとき、何かが違う気がした。
 でも、何が違うのかわからない。いつもと同じ教室、いつもと同じ生徒たち。でも、何かが欠けている気がする。空気が少しだけ軽い気がする。誰かがいなくなったような。
 授業が始まった。僕は窓際の席に座って、外を眺めていた。校庭では、相変わらずサッカー部が練習している。変わらない日常。でも、胸の奥に違和感があった。何かが、変わっている。何かが、欠けている。
 昼休み、神崎理沙が話しかけてきた。
「桐谷君、最近どう?」
「別に。普通」
 僕の返事に、理沙は少し心配そうな顔をした。彼女の眉が少しだけ下がっていて、口元が微かに曲がっている。
「なんか、疲れてない? 顔色悪いよ」
「そう?」
「うん。ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ」
 嘘だった。最近、あまり眠れていない。屋上のことを考えると、眠れなくなる。あの場所で起きていることが何なのか、詩織の言葉の意味が何なのか、考えれば考えるほどわからなくなる。そして、夜中に目が覚めると、もう眠れない。
「無理しないでね」
 理沙の心配そうな声に、僕は頷いた。でも、無理しているつもりはなかった。ただ、屋上に通っているだけだった。
 放課後、17時43分。
 僕は屋上に上がった。ドアを開けると、人数が減っていた。
 六人しかいない。昨日まで七人いたはずなのに、今日は六人だった。僕は生徒たちの顔を見渡した。藤崎がいる、白鳥美月もいる、詩織もいる。でも、一人いない。昨日までいた男子生徒が、高いところから飛び降りると言っていた生徒が、「落ちてる間だけ、自由でいたい」と語っていた生徒がいない。
「あれ?」
 僕の声に、みんなが一斉に視線を向ける。
「昨日までいた人は?」
 僕の問いに、誰も答えなかった。みんな、僕を不思議そうな顔で見ている。何を言っているのかわからない、というような顔。首を傾げている生徒もいる。
「男子生徒が一人、いなくなってる」
 僕がもう一度口にしても、誰も反応しない。誰も頷かない、誰も同意しない。
 詩織が口を開いた。
「最初から、このメンバーだよ」
 彼女の声は静かで、嘘をついているようには見えなかった。本気でそう思っているようだった。彼女の目には、嘘をついている人間特有の動揺がなかった。
「でも、昨日まで」
「蓮」
 詩織が僕の名前を呼んだ。その目は、何かを訴えかけているようだった。「今は言わないで」とでも言いたげな目だった。
「今日は、始めよう」
 彼女はそれだけ言って、中央に立った。
 僕は混乱していた。確かに昨日まで、その男子生徒はいた。毎日「高いところから飛び降りる」と語っていた。その声も、その顔も、鮮明に覚えている。でも、誰も覚えていない。最初からいなかったかのように。記憶が書き換えられている。そんな恐怖が、背筋を這い上がってきた。
 それぞれが死に方を語り始めた。僕は上の空で聞いていた。頭の中では、消えた男子生徒のことを考えていた。彼はどこへ行ったのだろう、なぜ誰も覚えていないのだろう、そしてなぜ僕だけが覚えているのだろう。答えの出ない問いが、頭の中を巡り続けた。
 17時58分、アラームが鳴った。全員が屋上を去る。僕も階段を降りた。詩織が後ろから歩いてきて、僕の隣に並んだ。
「蓮」
 詩織の声が、小さく響いた。
「今日のこと、気になってる?」
「当たり前だろ。一人消えたんだ」
 僕の返事に、詩織は少し考えてから、口を開いた。
「後で、話そう。今日じゃなくて、明日」
「なんで明日なんだ」
「今日は、まだ早い」
 詩織の声には、何かがあった。でも、それが何なのか、僕にはわからなかった。
 その夜、僕は眠れなかった。
 ベッドに横になっても、目が冴えている。消えた男子生徒のことが頭から離れない。彼は本当に、最初からいなかったのだろうか。僕の記憶違いなのだろうか。でも、確かに覚えている。彼の顔、彼の声、彼が語った死に方。全部、鮮明に覚えている。記憶の中で、彼は確かに存在している。
 翌日、教室に入った瞬間、気づいた。
 クラスメイトが、何かを話していた。
「あれ? この席、前から空いてたっけ?」
 一人が指差した席を見て、僕は凍りついた。
 その席は、昨日まで誰かが座っていた席だった。確かに誰かがいた。でも、誰だったか思い出せない。顔も、名前も、全部ぼやけている。でも、確かに誰かがいた。その確信だけはあった。
「ずっと空いてたよね」
 別のクラスメイトの答えに、最初の生徒が首を傾げた。
「そうだっけ?」
「うん。この席、誰も座ってない」
 僕は自分の席に座った。頭が混乱していた。確かに、あの席には誰かが座っていた。でも、誰だったか思い出せない。記憶がぼやけている。霧がかかっているように、思い出そうとすればするほど、記憶が遠ざかっていく。
 昼休み、僕は一人で廊下を歩いていた。そして、ふと気づいた。藤崎健太がいない。
 彼はいつも昼休みに、教室の隅で本を読んでいた。一人で、静かに、誰とも話さずに、ただ本を読んでいた。でも、今日はいない。僕は教室に戻って、彼の席を探したけれど、見つからなかった。藤崎の席がない。
 僕は焦った。彼の席はどこだったか。確か、窓際の、いや、廊下側の、いや、どこだったか。思い出せない。記憶がぼやけている。
 僕は神崎理沙に聞いた。
「藤崎健太って、知ってる?」
 理沙の眉が上がって、首が少し傾いた。
「誰それ? クラスにそんな人いた?」
「藤崎健太。俺に屋……」
 僕はそこで言葉を飲み込んだ。屋上のことは、言えない。誰も信じないだろう。
「知らないなあ。桐谷君の友達?」
「いや、何でもない」
 僕は席に戻った。
 藤崎健太。彼は確かにいた。クラスメイトで、物静かで、いつも一人でいて、屋上のことを教えてくれて、毎日「海に沈む」と語っていて、虚ろな目をしていた。でも、誰も覚えていない。僕だけが覚えている。その事実が、恐怖として僕の胸を締め付けた。
 放課後、僕は詩織を探した。廊下で彼女を見つけて、声をかけた。
「詩織」
 彼女が振り返った。その表情は、いつもと同じだった。平坦で、何を考えているのかわからない。
「話がある」
 僕の言葉に、詩織は少し考えてから、頷いた。
「わかった」
 二人で、誰もいない音楽室に入った。放課後の音楽室は静かで、窓から夕日が差し込んでいた。
 僕は詩織の前に立って、真剣な顔で聞いた。
「教えてくれ。あの人たちはどこへ行ったんだ?」
 詩織は僕を見つめた。その目には、悲しみか諦めか、読み取れない何かがあった。彼女は長い間、何も言わずに、ただ窓の外を見ていた。
「やっぱり、覚えてるのね。消えた人たちのことを」
 詩織の声が、小さく響いた。
「当たり前だろ。何が起きてるんだ? 藤崎も、他の生徒も、みんな消えた。誰も覚えていない。俺だけが覚えてる」
 詩織は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。彼女の声は、いつもより少しだけ震えていた。
「生の世界に完全に戻れた人と、戻れなかった人がいる」
「生の世界に戻る?」
 僕の問い返しに、詩織は窓の外を見た。夕日が彼女の顔を照らしていて、その横顔が浮かび上がっている。
「屋上は、生と死の狭間にある場所。そこに来た生徒たちは、完全には生の世界に戻れていない状態にいる。でも、ある条件を満たせば、完全に戻れる」
 詩織の声は静かだったけれど、その言葉には重みがあった。
「屋上に来る人はみんな、一度は本気で死にたいと思った人。でも、まだ生きている。その矛盾を抱えた人だけが、あの場所に入れる」
 僕は息を呑んだ。詩織の言葉が、ゆっくりと胸に染み込んでいく。死にたいと思ったけれど、まだ生きている。その矛盾は、僕自身のことだった。
「でも、あそこに来るだけじゃ足りない。あそこは、ただの場所じゃない」
 詩織が続けた。
「生と死の狭間。現実と非現実の境界線。そこで、自分の終わり方を語ることで、生への執着を確認する」
「じゃあ、消えた人たちは?」
「ルールを破った人は、生の世界に戻れない」
 詩織の答えに、僕は反論した。
「でも、誰もルールを破ってない」
 実行してもいない、泣いてもいない、慰めてもいない、嘘もついていない。みんな、ルールを守っていた。
 詩織の首が横に振られて、彼女の黒髪が揺れて、夕日を反射した。
「ううん、違うの」
 彼女の声が震えた。初めて、感情が乗った声だった。
「もう一つのルールがある」
「もう一つのルール?」
「それは、『誰かと生きたい理由を共有すること』」
 詩織の言葉が、僕の胸に突き刺さった。
「生きたい理由?」
 僕の問い返しに、詩織は頷いた。
「そう。それができなかった人は、記憶から消える」
 詩織の言葉が、重く響いた。音楽室の静寂の中で、その言葉だけが響いていた。
「記憶から消えるって、どういうことだ」
「存在が消える。最初からいなかったことになる。生の世界から、完全に切り離される」
 詩織の目には、悲しみがあった。彼女は何度も、この光景を見てきたのだろう。消えていく生徒たちを、ただ見届けることしかできなかったのだろう。
「でも、蓮だけは覚えてる。なぜなら」
 詩織はそこで言葉を切って、僕を見つめる。その目には、何かがあった。
「なぜなら?」
「今は、まだ言えない」
 詩織は視線を逸らして、窓の外を見て、小さく息を吐いた。
 僕は混乱していた。生きたい理由を共有する。それができなければ、記憶から消える。存在が消える。その言葉の意味が、重くのしかかってきた。
「じゃあ、藤崎は」
「彼も、もうすぐ消える」
 詩織の声には、諦めがあった。彼女はもう、藤崎を救えないと知っているようだった。
「まだ消えてないのか?」
「消えかけてる。もう、ほとんど透明」
「止められないのか?」
「止められない。本人が、生きたい理由を見つけられなければ」
 僕は拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込んだ。藤崎は、僕に屋上のことを教えてくれた。彼がいなければ、僕は屋上に来ることはなかった。その彼が、消えようとしている。
「俺に、何かできることは」
「ない」
 詩織の声が、きっぱりと響いた。
「これは、本人が決めること。誰も代わりにはできない」
 僕は何も言えなくなって、ただ窓の外を見ていた。夕日が沈みかけていて、空がオレンジから紫へと変わり始めていた。
 その日の屋上、17時43分。
 残っているのは、五人だった。蓮、詩織、藤崎、白鳥美月、そしてもう一人の女子生徒。昨日までいた生徒が、また一人消えていた。薬を飲むと言っていた女子生徒が、いなかった。
 でも、誰も何も言わない。最初から五人だったかのように。当然のように、それぞれが自分の場所に立っている。
 僕は藤崎を見た。
 彼は相変わらず屋上の端に立っていた。でも、何かが違う。彼の輪郭がぼやけている気がする。透けているような。僕は目を凝らした。確かに、透けている。彼の向こう側の景色が、薄く見える。フェンスの向こうの街並みが、彼の体を通して見えている。
 それぞれが死に方を語り始めた。藤崎の番が来た。彼は海の方を見たまま、淡々と語った。
「俺は、海に沈む」
 その声は、昨日よりも小さかった。遠くから聞こえてくるような。風に消されそうなほど小さくて、僕は耳を澄まさなければ聞き取れなかった。
 詩織の番が来た。
「私は、海に沈む」
 二人とも、同じ死に方。でも、誰も指摘しない。その意味が、少しずつわかり始めていた。二人は、同じ場所に向かおうとしているのかもしれない。
 白鳥美月の番が来た。
 彼女は今日も、短く言った。でも、その声には昨日とは違う何かがあった。
「私は、今日は、崖から海に飛び込む」
 また違う死に方だった。でも、海という共通点があった。僕は彼女を見た。彼女の目には、いつもと同じ虚しさがあったけれど、今日は少し違う気がした。何かを諦めたような、そんな目。もう探すのをやめた、というような目。
 僕の番が来た。
 僕は昨日と同じことを言った。
「眠ったまま、目が覚めなければいい」
 詩織が僕を見た。でも、今日は何も言わずに、ただ悲しそうな目で僕を見ていた。
 17時58分が来る前に、白鳥美月が口を開いた。
 彼女は全員を見渡してから、ゆっくりと話し始めた。その声は、いつもより少しだけ大きかった。
「私ね、毎日違う死に方を語ってたでしょ」
 みんなが彼女を見る。屋上に、静寂が広がった。風すら止んだような気がした。
「それはね、まだ諦めたくなかったから」
 美月の目には、涙が浮かんでいた。でも、流れてはいない。ルールを守っている。彼女は必死に、涙を堪えている。
「どの死に方も、本当は選びたくなかった。でも、もう時間がない」
 彼女は詩織を見た。詩織は何も言わずに、ただ美月を見つめている。
「私ね、誰かと生きたい理由を共有したかった。でも、できなかった」
 美月の声が震えた。
「詩織ちゃんは優しかったけど、それだけだった。優しいだけじゃ、足りなかった」
 詩織の表情が、少しだけ歪んだ。でも、彼女は何も言わなかった。
「蓮くんも、私のことを気にかけてくれた。でも、それも足りなかった」
 美月が僕を見た。僕は何も言えなかった。
「私には、生の世界に完全に戻る理由がない。生きたい理由を、誰とも共有できなかった」
 彼女は空を見上げた。夕焼けが、彼女の顔を照らしている。その顔には、諦めと安堵が混ざっていた。
「私は、誰にも見つからない場所で消える。それが私の選んだ終わり方」
 17時58分、アラームが鳴った。
 美月が立ち上がった。他の生徒たちも立ち上がる。でも、美月だけは違った。彼女は屋上の出口に向かって、ゆっくりと歩き出した。
「じゃあね、みんな」
 美月が振り返って、小さく手を振った。その笑顔は、初めて本物のように見えた。悲しいけれど、穏やかな笑顔だった。
「ありがとう。短い間だったけど」
 僕は追いかけようとした。でも、詩織が僕の腕を掴んだ。彼女の手は冷たくて、でも強かった。
「ダメ」
 詩織の声が響いた。
「でも」
「もう、彼女は戻れない」
 詩織の声には、悲しみがあった。でも、確信もあった。彼女は知っているのだ、美月がもう生の世界に戻れないことを。
 美月は階段を降りていった。その後ろ姿が、だんだんと小さくなっていく。そして、階段の途中で彼女の姿が消えた。最初からいなかったかのように。音もなく、光もなく、ただ静かに世界から消えていった。
 僕は呆然と立ち尽くしていた。美月が消えた場所を、ただ見つめていた。
 翌日の教室。
 白鳥美月の席がなかった。クラスの名簿を見ても、彼女の名前はなかった。クラスメイトに聞いても、誰も覚えていなかった。
「白鳥美月って、誰?」
「そんな人、クラスにいた?」
 みんな、そう言った。誰も覚えていない、誰も知らない。最初からいなかったかのように。
 でも、僕は覚えている。短髪で小柄な体をした彼女の、笑っていない目。毎日違う死に方を語っていた彼女が「また明日」と言って階段を降りていった姿。最後に「ありがとう」と言って消えていった彼女の笑顔。全部、鮮明に覚えている。僕だけが。
 昼休み、僕は一人で屋上の階段前に立っていた。時間外だから、ドアは開かない。でも、ここに立っているだけで、少し落ち着く。消えた人たちのことを思い出せる。
「なぜ俺だけが覚えているんだ」
 僕の呟きは、誰にも届かない。
 藤崎のことも覚えている、消えた男子生徒のことも覚えている、白鳥美月のことも覚えている。でも、他の誰も覚えていない。なぜだ。なぜ僕だけが。
 その日の放課後、17時43分。
 屋上には、三人しかいなかった。蓮、詩織、藤崎。たった三人。初日は八人いた。それがどんどん減っていって、今は三人だけ。広い屋上に三人だけ。その空虚さが、胸に突き刺さった。
 藤崎は、もうほとんど透明だった。彼の姿が薄く、輪郭がぼやけている。そこにいないかのように、風景に溶け込んでいるかのように。僕は彼の名前を呼んだ。
「藤崎」
 でも、彼は反応しなかった。聞こえていないかのように。ただ、海の方を見ていた。
「藤崎、大丈夫か?」
 もう一度呼びかけた。でも、彼は海の方を見たまま、動かなかった。その姿は、もう半分しか見えなかった。
「誰?」
 藤崎の呟きは、風のように儚かった。
 僕は凍りついた。
「俺だよ。桐谷蓮」
「知らない」
 藤崎の声は遠かった。別の世界から聞こえてくるような。生と死の狭間から聞こえてくるような。
「お前が俺に屋上のことを教えてくれたんだろ」
「屋上?」
 藤崎は僕の方を向いた。でも、その目は僕を見ていなかった。焦点が合っていない。僕が見えていないかのように。その目は虚ろで、何も映していなかった。
「誰もいない、ここには、誰もいない」
 藤崎の呟きに、詩織が僕の隣に来た。彼女の手が、僕の肩に触れた。
「もう、彼には何も見えてない」
 詩織の声が、小さく響いた。
「どういうことだ」
「彼は、もう消えかけてる。現実との繋がりが、ほとんどない」
 僕は唇を噛んだ。
「止められないのか」
「止められない」
 詩織の首が横に振られた。
「これは、彼自身の選択」
 それぞれが死に方を語る時間になった。でも、今日は藤崎が語らなかった。ただ、海の方を見つめているだけだった。その姿は、もうほとんど見えなかった。
 詩織が語った。
「私は、海に沈む」
 僕も語った。
「眠ったまま、目が覚めなければいい」
 17時58分、アラームが鳴った。
 詩織と僕は立ち上がった。でも、藤崎は動かなかった。ただ、そこに立っているだけだった。その姿は、もう風景と区別がつかないほど薄かった。
 僕たちは階段を降りた。振り返ると、藤崎はまだ屋上にいた。その姿は、もうほとんど見えなかった。夕焼けの中に溶けていくように。そして、音もなく彼は消えた。夕焼けの中に溶けるように、藤崎健太の存在が世界から消えていった。
 僕は階段の途中で立ち止まった。詩織も立ち止まる。二人で、何も言わずに立っていた。藤崎が消えた場所を、ただ見つめていた。
 藤崎は消えた。彼は屋上のことを教えてくれた。彼がいなければ、僕はここに来なかった。その彼が消えた。その事実が、重く胸にのしかかった。
 詩織が口を開いた。
「もうすぐ、あなたも選ばなきゃいけなくなる」
 僕は詩織を見た。彼女の目には、何かがあった。心配か、それとも。
「何を?」
「生の世界に完全に戻って普通の生活を選ぶか、戻った上で次に来る人たちを見届ける役割を担うか」
 詩織の言葉が、重く響いた。階段の壁に反響して、何度も繰り返されるような気がした。
 翌日の教室。
 藤崎健太の席はなかった。誰も彼のことを覚えていなかった。神崎理沙に聞いても、「そんな人いた?」と言われた。クラスメイト全員に聞いても、誰も覚えていなかった。
 でも、僕は覚えている。藤崎健太。物静かで、いつも一人でいて、虚ろな目をしていて、屋上のことを教えてくれて、毎日「海に沈む」と語っていて、最後に「誰もいない」と言って消えていった彼のことを。全部覚えている。僕だけが。
 放課後、僕は詩織を待っていた。誰もいない音楽室で、窓際に座って外を眺めていた。夕日が差し込んでいて、部屋全体がオレンジ色に染まっている。
 ドアが開いて、詩織が入ってきた。
「待たせた?」
「ううん」
 僕の返事に、詩織は僕の隣に座った。二人で、しばらく黙っていた。
「蓮、話したいことがある」
 詩織の声が、静寂を破った。
「何?」
「あなたが、なぜ記憶を保持できるのか」
 僕は息を呑んだ。それは、僕がずっと疑問に思っていたことだった。
「教えてくれるのか」
「うん」
 詩織は頷いて、窓の外を見て、ゆっくりと話し始めた。
「あなたは、次の番人候補だから」
「番人?」
 僕の問い返しに、詩織は窓の外を見たまま、続けた。
「屋上には、番人がいる。消えた者の記憶を保持して、次に生の世界に戻る者を見届ける役割」
「それが、君?」
 詩織は頷いた。
「私は、一年前に屋上にいた。そして、生きたい理由を共有して、生の世界に完全に戻れた。でも、番人になった」
 詩織の声は静かだったけれど、その言葉には重みがあった。
「番人は、消えた者の記憶を保持する。それが役割。蓮が記憶を保持できるのは、その資質があるから」
「でも、俺はまだ戻ってない」
「そう。だから、あなたは選ばなきゃいけない」
 詩織が僕を見た。その目には、何かがあった。
 僕は混乱していた。どちらを選べばいいのか。その選択の重さが、胸を押しつぶしそうだった。
「もし、俺が番人になったら?」
「あなたは生の世界に戻って、普通の生活を続けながら、番人として屋上を見届ける。消えた者の記憶を保持しながら、次に来る生徒を導く」
「君みたいに?」
「うん」
 詩織の表情が、ふわりと柔らかくなった。でも、その笑顔は悲しかった。
「でも、俺は」
 僕は言葉を詰まらせた。何を言えばいいのかわからなかった。
 詩織が口を開いた。
「焦らなくていいよ。まだ時間はある」
 でも、その声に何かが引っかかった。時間はもうあまりない。それは、僕にもわかった。
 その日の屋上、17時43分。
 残っているのは、二人だけだった。僕と詩織。たった二人。広い屋上に、二人だけ。その空虚さが、恐怖として僕を包んだ。
 詩織の声が響いた。
「もう、私たちだけになっちゃったね」
 僕は頷いた。言葉が出なかった。
「これから、どうなるんだ」
「わからない」
 詩織の答えは、正直だった。
「でも」
 彼女は僕を見た。その目には、温かいものがあった。初めて見る、本当の感情だった。
「あなたがいてくれて、よかった」
 その言葉が、胸に染み込んだ。温かくて、でも切なかった。
 僕は詩織を見た。夕焼けに照らされた彼女の横顔。長い黒髪が風に揺れている。その姿が、美しかった。
「俺も」
 僕の声は、自然と優しくなっていた。
「君がいてくれて、よかった」
 詩織の表情が、ふわりと柔らかくなった。初めて見る、本当の笑顔だった。その笑顔は、夕焼けよりも温かかった。
 僕たちは並んで、夕焼けを眺めた。二人だけの屋上で、ただ黙って夕日を見ていた。
 17時58分、アラームが鳴った。
 二人で階段を降りる。校舎を出ると、普通の夕方の風景が広がっていた。生徒たちが部活を終えて帰っていく。誰もが笑いながら話している。
 普通の日常。
 でも、僕たちは知っている。この世界から、何人もの生徒が消えたことを。藤崎健太、白鳥美月、その他の生徒たち。誰も覚えていないけれど、僕たちは覚えている。それが、僕たちの役割なのかもしれない。
 帰り道、僕は思った。もうすぐ、僕も選ばなければいけない。でも、まだ答えは出ていない。ただ一つだけ、わかっていることがある。詩織と一緒にいると、少しだけ楽になる。それだけは、確かだった。