佐野は目薬が嫌い

 多すぎるまばたきに、最初は何かのアピールなのかと思った。

「ここ最近スマホの画面見過ぎでさ。目は疲れるわ首は痛いわ頭は重いわで、マジしんどい」
「何でそんなことに」
「今やってるアニメの原作、第1話が無料で公開されてたから読んでみたらめっちゃ面白くて。最新刊まで購入して読み倒してた」
「何巻まで出てんの」
「36巻」
「それはやっちまったな」

 文化部の部室がずらりと並ぶ、クラブ棟2階奥。
 授業の空き時間を潰すために立ち寄ったら、佐野がいた。
 こめかみを人差し指の第2関節でぐりぐり押しながら、目をしょぼつかせていたのだが、そういうことだったのか。

 こんな気怠そうな姿が見られるなんてありがたや。
 出版社よ、作者に渡す印税を100%にしてくれ。

「電子書籍はヤバいな。ポイント使いまくりの課金しまくりで際限がないわ。面白過ぎて情緒おかしくなるかと思った」

 右手の指で左肩を揉みつつ、首を前後左右に傾けている。

「あー、筋が伸びる」
「スマホだとどうしても頭が下を向きがちになるからな。白目も充血してるし、目薬差しとけよ」

 そう告げると、佐野は露骨に嫌そうな顔をした。

「目薬差したくない」
「は」
「俺の人生に目薬は必要ない」
「いやいや」

 何を言ってるんだ。日頃の生活の中で目が痒くなるとかモニターを見過ぎて目が疲れたりするとか、あるだろう。

「ぎゅっと目を閉じて異常な状態が過ぎ去るのをひたすら待つ」
「修行僧なの?」

 こいつのこういうアホなところ、嫌いじゃない。
 むしろ撫でまわしたいぐらい好き。

「耐えてる時間で漫画1冊読めるぞ」
「やめろ、その事実に気付かせるな」
「なんだ、時間ロスってんの、ちゃんとわかってんじゃん。目薬の何がそんなに嫌なの」

 少しの沈黙の後、佐野が口を開いた。

「……怖いんだよ」
「ん?」
「俺、目薬めっちゃ怖いんだよ! よく考えてみろよ、“目潰し”って言葉があるぐらい、眼球は人間の急所なんだぞ。瞼をわざわざこじ開けてむき出しにした状態で液体ぶっかけてびっくりさせるとか、目玉に対して悪いことをしてると思わんのか? かわいそうじゃないか。お前だって寝込みを襲われたくはないだろう」
「眼球にとっての瞼は俺にとっての布団なのか。説明が必要になるような例えをするな」

 加えて『液体ぶっかける』などというワードを俺に向かって言うのもやめろ。
 まぁそういう発想をする俺の方が経験なさすぎて余裕がないとも言えるが。
 仕方ない、相手は佐野なんだし。
 よし、ここは俺の出番だな。

「わかった、座ったままでいいから顔を上に向けろ。目薬差してやる」
「そろそろ3限始まるから行くわ」
「待て、2限が終わるまであと30分あるぞ」
「じゃあ生協行ってくる」
「漫画に課金しまくって財布ヤバいんじゃないのか」
「旅に出る、俺のことは探さないでくれ」
「次の授業、語学だが。必修単位落としていいなら好きにしろ」

 がっくりとうなだれる佐野。

「いいから諦めて差せよ。一瞬で終わるから」

 しつこさに観念したのか、佐野は嫌そうな顔をして鞄を探ると、俺に目薬を投げて寄越した。

「持ってんの? 何で」
「今朝親に持たされた」

 佐野のお父さんお母さん、ありがとう。息子さんを想うその気持ちに報いるため、精一杯頑張ります。

「20歳を過ぎても初めての経験が出来るって、人間常に挑戦だなぁ。えらいえらい」
「ああああああああああ」
「どうした、キーボードの『A』を押しっぱなしにしたような声を出して」
「いやだぁ、怖い」

 恐怖と緊張でガチガチになっている。これでは目薬で眼精疲労が和らぐどころか、筋肉痛を起こしそうだ。
 リラックスさせてやらなくては。

「コチョコチョ」
「わひゃ! 何すんだやめろ、くすぐんな」

 お、効いてる。

「コチョコチョコチョコチョ」
「ちょ、脇ダメだってば、わはははは」

 まだリラックス出来てないな。もうちょっとか。

「コチョコチョコチョコチョコチョコチョ」
「え、も、そこ、やめ、あ!」

 わ。
 しまった、やりすぎた。

 めちゃ息あがってるじゃん……顔も赤いし、ぐったりさせてしまった……。
 佐野の親御さん、ごめんなさい。俺はただ緊張を解いてやりたい一心でコチョコチョしてただけなんです、他意は一切ありません。そう、ないんです。ないハズ。ないんだけど、結果的には他意9割みたいなことになっている。

「なんだよぉ……くすぐられんの弱ぇんだよ」

 あぁ、佐野の涙目を網膜スクリーンに焼き付けなくては。
 自宅で反芻すれば大ヒット間違いない。全俺が泣く。

「すまんすまん。変に身体が固まってたから力を抜いてやろうと思って。いい感じに脱力出来ただろ」
「それは確かに」

 準備も整ったところで差すぞ。目薬をな。

「じゃあ上向いて」
「ん」

 おいおいおい、さっきまで泣いてたと思ったら今度は怯え顔か。
 やめろ、俺を変に刺激するな。俺はただお前に目薬を差したいだけなんだ。いたずらしたい訳じゃない。

「いいか、触るぞ」

 向かい合うようなポジションで、右手で佐野の左目の瞼をそっと開ける。
 ばっちり目が合った。

「うぉい!!」

 何でだよ、怖がってるなら普通黒目は逸らすだろ。

「ケンカ相手からは視線を外すなと言われている」
「ヒーラーに対して臨戦態勢を取るな。目薬の先が近付いてくるのが嫌なら、白目むいとけ」
「えー、それはちょっと恥ずかしい」
「お前の恥ずかしがるポイント、そこなの?」

 くすぐられて顔を赤らめた上に目を潤ませて息もたえだえになっている状況を見られる方が、余程恥ずかしいと思うのだが。
 これではいつまで経っても佐野の目を癒してやることが出来ない。かくなる上はあの方法で行くか。

「佐野、軽く目を瞑ってみろ」
「こう?」

 柔らかく閉じられた瞼の上に、目薬を数滴垂らす。

「うわ、何か降って来た! 何したんだよ」

 ビクつく佐野に向かって説明する。

「そのまま数回パチパチまばたきしてみろ。瞼に落とした目薬が自然に入って馴染むから」
「ティッシュ寄越せ」
「目から溢れた時のために必要だもんな」
「今すぐ拭き取る」
「やめろやめろ。せっかくここまで来たんだぞ。はじめての目薬成功まで後ちょっとなのに。頑張れ」
「そんな励ましじゃ頑張れない。泣く」

 それはダメだ、涙と一緒に目薬が流れてしまう。

「佐野よ、どうやったらおめめパチパチ出来るんだ」

「チューしてくれたらする」

 ……んん?

「すまん、よく聞き取れなかった。ワンモアタイム、プリーズ」
「I want you to kiss me.」

 おいおい何か物凄くサラッと恰好いい風になってるけどコイツ何を言ってるんだ相手俺だぞわかってるのかいやこっちとしては願ったり叶ったり案件な訳で断る理由などゼロむしろそっちからだなんてえちょっと待ってこれ両想いと思っていいの一体どういうつもりいや本気ならそれに応えないと失礼だしむしろ願ったり叶ったりってこの言葉使うの2回目だなていうか英語でチューしてって言えるぐらいならこの後の語学出席しなくても良いじゃんこのまま俺とデートしてくんないかな

 ヤバ。
 句読点忘れるぐらい脳内大混乱だわ。

「いや、お前マジで言ってんのか、それ……えと、あの、俺」

 佐野の唇。
 全然かさついてない。うるつやリップってこういうヤツを言うのか?
 ここに俺の唇が近付いちゃっていいってこと?
 いやいや、冗談だろ?
 でも佐野はふざけてこういうことを言うヤツじゃない。

 本気? 正気? 心意気?

 あぁ、動揺し過ぎて無駄に韻を踏んでしまった。
 何だこの状況。
 処理速度が全く追い付かない。

 脳内で俺が「あーうー」と慌てふためくこと数十秒。
 佐野は「もう限界!」と叫ぶと、何のためらいもなくまばたきを数回し「疲れ目に染みるなぁ」と目元をティッシュで拭った。

「ずっと上向いて目薬こぼれないように溜め続けるの、無理だったわ。首痛ぇ。いやぁ惜しかった」

 今度は俺が目をしばたたく番だった。

「え? 何で……あんなに怖がってたのに」
「俺、スイミングやってた幼稚園の頃から目薬使ってるよ。目薬検定準1級」
「何それ」
「秒速で入れられる」
「違う違う、目薬検定準1級のことは聞いてない。今までのやりとりは何だったんだ」

 佐野は茫然としている俺に、顔を近付けて言う。

 「20歳を過ぎて初めての経験をさせてやろうと思ったのに、顔真っ赤にしてテンパるんだもんな。でも残念。今日はもう時間切れだわ。ほら」

 時計の針は2限が終わる時刻を指している。
 目薬を入れた鞄を手に玄関に向かうと、佐野は部室の扉を開けた。

 「おろおろしてるのも可愛かったぞ。じゃあな」

 パタン。

 扉が閉まり、部屋に残されたのは俺ひとり。
 え、何これ。俺、どういう状況で放置されたの?
 ていうか、今日はもう時間切れって何だ。
 また別の日にチャンスがあるって思っちゃってもいいのか?
 え、えええ?

 マジかよ。

 一気に体温が上がる。
 おい、次っていつなんだよ。
 鞄を抱えて急いで靴を履くと、俺は佐野を追いかけるために走った。

 待ってろよ、今度は絶対騙されないからな。