教えて、先輩

「理都先輩」

 教室の前扉の方から飛んで来た声音に顔を上げると、三年生の教室前だというのに、堂々とした佇まいで、青がひらりと手を振っていた。
「お、入江青だ。目立つなあ」
 俺よりも先に反応した猪村が、青の存在感に感嘆を漏らした。俺は「ごめん」呟いてから椅子から立ち上がると、急いで青の元へと歩み寄る。
 一年生が三年生の教室に来ること自体は、珍しいが悪いことではない。
 けれど、青の場合は別だ。
 あまりにも存在感があり過ぎる。

「青、どうしたの?」
「放課後練習ないから一緒に帰りましょ」

 軽いお誘いに、思わず「それだけ?」と喉元まで出かかった言葉を引っ張り戻す。俺はそれに「いいけど」と頷きながら、そろりと辺りを窺い見た。何人かの女子の視線が、未だに青に張り付いたまま離れていかない。
 それもそうだろう。
 青は学年問わず、人気がある。
 長身で男の俺から見ても、引け目なしにかっこいいし、バンドマンだし、明るい髪色も目立つ。

「理都先輩?」
「それだけなら、メッセージでも良かったのに……」

 女子からの視線を避けるように、俺は青の身体を、教室の扉から廊下へと押しやった。嫉妬しているわけではないけれど、何となく青に興味を持つ視線に、彼を晒したくなかった。
 しかし、そんな俺の胸の内など知らない青は二、三歩後ずさると、少しむっとしたように眉根を寄せて、
「なに、迷惑?」
と、不満を素直に漏らしてきた。
 俺は慌ててそれに首を横に振って、言い訳を急いで見繕う。
「迷惑とかじゃなくて、……ほら、わざわざ教室まで来てもらうの悪いじゃん?」
 尤もらしい言い訳を盾に、青を見上げるけれど、俺よりも随分高い位置から注がれる眼差しの温度は低いままで。
「あ、青……?」
 これは機嫌を損ねてしまっただろうか、そんな不安が胸を掠めると、
「ちょっと来て」
 有無を言わせない不機嫌な声音で、手首を乱暴に掴まれた。
 痛いと訴えても、振り返ってもくれない青と教室を後にし、三階のフロアから屋上へと続く階段を登っていく。教室や廊下から溢れてくる活気あるざわめきが遠去かり、無音とまではいかずとも、青の機微な変化が感じ取れくらいの静けさが屋上手前の踊り場に落ちていた。
 残念ながら、屋上は開放されておらず、俺たちは屋上への扉前で向かい合う形で、しばらく無言を貫いて、相手の出方を窺った。
 別に、意地を張っているわけではない。
 なんて言えばいいのか、分からないだけだ。
 しかし、先に沈黙を破いてくれたのは、青の方だった。

「先輩は、俺に会いたくねえの?」
「そ、そんなことないよ?」

 もっと強く責められる言葉を予想していた分、その拗ねた声音は予想外で、俺はいつの間にか下がっていた視線を戻して、青を見つめる。けれど青の視線は不機嫌なままだ。

「確かに、メッセージだけで済むけどさぁ」
「うん」
「いいじゃん」
「うん、そうだよね」

 青の言いたいことがはっきりと手に取るようにわかって、自分たちが恋人同士なのだと、改めて自覚させられる。

「俺は理都先輩みたいに大人じゃない」
「俺だって大人じゃないよ」

 その証拠に、俺は今うまく言葉を選べなくて、こうやって青を不機嫌にさせてしまっている。彼に興味を抱く視線から遠ざけたくて、相手が自分の放つ言葉をどう捉えるかなんて、考えずに放ってしまったのだから、大人なんかじゃない。
「ごめんね、俺も……」
 ——会いたかったよ。
 一番重要な言葉が喉の奥で今更引っかかる。はっきりと相手に言葉として伝えるには、まだ口にし慣れない言葉過ぎて、恥ずかしい。
 口の中でまごついている言葉を意識するだけで、体温がゆっくりと上昇してくるのがわかる。俺は唇を薄く開いたまま、舌だけでその言葉の形をなぞる。
「俺も?」
 青が逃すまいと、言葉の先を促してきた。
「え、と……」
「理都先輩、俺不安なんだけど」
 絶対不安なんかじゃないだろ! と突っ込みたくなるようなしっかりした声音だけれど、今は自分の方が分が悪い気がする。

「ねえ、言ってくんないの?」

 求められて、距離を一歩詰められる。伸びてきた青のしっかりとした腕が、俺の腰に周り離れることを許してくれない。
「理都先輩」
 頭の奥がじわじわと熱を持ち、心臓が少しだけ早くなる。
 人を好きになって、もっと自然に好きとか会いたいとか、一緒にいたいって言葉にできるかと思っていたけれど、そうじゃないみたいだ。好きだから、伝えたいし伝えていいって分かるのに、それでも好きだから恥ずかしくて、求められることがくすぐったくて……。
 でも、言葉にしないと一つも伝わらなくて。

「俺も、会いたいよ。いつも……」
「……いい子、言えたじゃん」

 先ほどまで年下らしい表情で俺を追い詰めてきたと思えば、機嫌よく大人みたいな満足気な顔で抱き寄せてくる。俺は大人しく青の腕の中にすっぽりと収まりながら、なんだか弄ばれているような気がして、少しだけ悔しくなった。
 髪に青の頬が押し当てられているのが、何となく分かる。背後に回る両手がしっかりと腰を支えて、離さないという強い意志を示していた。
 触れ合っている場所から、ゆっくりと体温が繋がりあって、同じ温度になっていく。

「理都先輩って、あったかいね」
「青の方があったかいよ」

 繋がれたその温度を確認し合うように、俺は青の背中に両腕を回した。

「理都先輩、ちょっとこっち向いて」

 顔を上げるようにと、少し身体が離れて、何の疑いもなく顔を上げると、彼の双眸が意地悪い色を宿しながら、俺を覗き込んでいるのが見えた。
 あ、と僅かな危険信号を感じながらも、覆い被さってくる彼から逃げることなどできなくて、気づけば唇が重なり合っていた。
 少し開いた唇を覆うように、青の薄くて柔らかな唇が優しく触れる。自然と瞼が下がっていき、俺が目を閉じると、青が唇を擦り合わせながらゆっくりと角度を変えた。
「理都、ちょっと唇開いて」
 息の触れ合う距離で言われて、俺は今にも喉元から飛び出してきそうな心臓を抑え込み、彼の願いに従った。
 青はその僅かな唇の間から、先を尖らせた舌をゆっくりと差し込んできて、歯列を撫で「そこを通せ」とせがんでくる。
 俺は断り方も分からず、されるがままに咥内へと彼を招き入れると、自らもそれを舌先で迎え入れる。

「ん、……っ」
「鼻で息して」

 息を止めていると、背中を摩りながら唇を吸われ、少しだけ呼吸を開放する。心臓が胸の奥で暴れ回っているみたいで、鼓膜の内側にまで、その音が響いていた。
 再び角度を変えながら、深く口付けられると、今度は遠慮なく生温かい青の舌が侵入してくる。唾液で湿っている舌を絡め取られると、思わず息が止まった。
「ん、ぅ……」
 指先までぴりぴりと淡い電流が流れるみたいに、痺れている。気持ち良いとかそういうことは分からないけれど——俺は、青のジャケットの背中を軽く握った。

 今は離れたくない。

 青の手が、俺を落ち着かせるように、背中をゆっくりと撫でてくれる。
 舌を十分に弄ばれ、青はこうやって俺を愛撫するんだと思い知らされた後、唇が静かに離れていく。

「息止めなくて良いって、言ってるじゃん」
「なんか……なんとなく、クセっていうか」
「まあ、そういうのも可愛いけど」

 なにそれ、バカにしてる?
 その意味も込めて睨みつけると、青は余裕の笑みを浮かべていた。自信に満ち溢れている、ちょっとだけ憎たらしくて、少し子どもっぽい可愛い顔だと思う。
 俺は勝てないなぁと心の中でぼやきながら、青の胸に頬を押し当てた。

「理都先輩、可愛い。俺一生勝てない」

 それは俺の台詞じゃない? と思いつつも、腕の力を強くして、抱き締めてくれるから、俺はなにも言わずに、青の腕の中に収まって、彼が注いでくれる愛を享受した。