第3話 月兎は古賀邸で目覚める
〇古賀邸・廊下・朝
朝の光が、古い屋敷の廊下を照らす。
紗衣、女中の後を歩いていく。
和装に割烹着を着た女中、巴。紗衣より少し背丈が高いくらい。
目じりには優しそうな皺が寄っていて、綺麗だが40代くらいの見た目。
※以下、巴(ともえ)
紗衣は昨夜のドレスではなく、巴から借りた地味な銘仙の和服を着ている。
紗衣(一晩ご厄介になってしまった。お返しできるものもないのにどうしよう……)
うつむき、肩を縮めて歩く紗衣。
ひと気のない屋敷。和洋折衷の作りだが、しんとしている。
紗衣(お部屋がたくさん閉まっているわ。噂通り古賀様は臥せってらっしゃるのかしら)
巴「ここだよ」
〇古賀邸・離れの書斎・朝
巴「……すまないねえ。当主が偏屈なもんで、客間も閉めてて」
巴、洋風の扉の前で足を止める。ノックして扉を開けながら、
巴「むさ苦しいところだけど、堪忍しておくれ」
黎「……偏屈で悪かったな、巴」
びくっと紗衣の肩が跳ねる。
書物の積まれたモダンな書斎。テーブルの前に長身の男が立っていた。
黒々とした長い髪を一つにゆるくまとめている。
着流しを着崩してて、整った冷たい美貌をした当主の古賀黎。
黎「どうせ客など来ないのだから閉めていた方が掃除が楽だろう」
巴「佐伯様は、よくいらっしゃるじゃありませんか」
黎「……彰人は客じゃない」
紗衣(この方が、古賀様! ……病で見るに耐えない顔だと聞いたのに、噂とはまるで違う。こんなにお綺麗な……)
紗衣、思わず見入ってしまう。
黎の視線が、紗衣に向いた。はっと目をそらす紗衣。
黎「――ご気分はいかがですか」
紗衣「……あ」
紗衣、どきりとして顔を上げる。
黎「当主の古賀黎です。あなたは夜会で倒れていまして」
紗衣「……っ、そ、それは、大変なご迷惑を」
しどろもどろに頭を下げる紗衣を、黎は柔らかく目を細めてじっと眺めている。
黎「家族も持たぬ身ですから、どうぞ気兼ねなく過ごしてください」
紗衣「いえいえ、そんなわけには!」
紗衣(……お優しい。でも、あの夜会にいたってことは……古賀様も狩りを?)
恐縮しつつ、紗衣ははっと我に返る。
紗衣「あ、あの……! そこで小さな男の子を見かけませんでしたか。おかっぱ頭で七つくらいの。私が蔵に隠したのです。あの子だけでも無事ならと……っ」
黎、わずかに目を見開く。
それから、くっと喉の奥で笑った。
黎「……ふ。真っ先に気にかけるのが、それですか」
紗衣「えっ」
黎「自分のことより見ず知らずの子供の心配を。──よほどのお人好しらしい」
紗衣、頬を赤らめてうつむく。
黎「……あの子供なら、案ずるには及びません。無事ですよ」
紗衣(よかった……。でも、なぜこの方が、あの子のことを)
黎「それより、紗衣さん」
黎の表情がすっと真剣になる。
黎「巴によれば──あなたの体には傷が多い。貧血もひどく、衰弱している、と」
紗衣、びくりと肩を震わせ、とっさに袖をかき合わせる。
紗衣「……っ、いえ。私は、もともと病弱で。そそっかしくて、よく転ぶものですから……」
黎「…………」
黎は黙ってじっと観察している。
紗衣(早く、帰らなきゃ。役目も果たせず、こんなに家を空けて。お義母さまに知れたら)
紗衣「あの、本当に、もう十分よくしていただきました。私、家に戻らなくては。家の者が心配して……」
黎「その心配は、無用です」
紗衣「え……?」
黎「今ごろ佐伯が、藤島家へ話を通しているはずです。──あなたを古賀家の女中見習いとして引き受けたい、と」
紗衣「っ、ここに?」
きょとんと目を丸くする紗衣を、黎は静かに見つめる。
紗衣「でも先日、私には佐伯家の方からお話が」
黎「紗衣さん。──あの違法な夜会は、行儀見習い先が決まった良家の子女が行く場ではありません。失礼ですが、こちらの調査から考えるに、藤島家はあなたを佐伯家に出すおつもりが無く、わざと傷物にしようとしたのではないかと」
紗衣「……っ」
図星を突かれ、紗衣は言葉に詰まる。
紗衣(確かに私を貰いたい、という話が佐伯家から来たばかりで。華乃は酷く怒っていたわ……私を……傷物にして義妹にその話を譲ろうとしたの? ……私の意志じゃないのに……)
じわっとこみあげそうな涙をこらえる紗衣。
黎「偏屈でむさ苦しい所ですが、格だけは佐伯より上です」
黎、ふっと口の端を上げる。
黎「……それともご不満ですか。佐伯の方が、よかった?」
紗衣「い、いえ……! 滅相もございません」
紗衣、慌てて首を振る。
紗衣(良家への行儀見習いだなんて、私に繋がるはずもない話だったのよね。華乃を差し置いて……)
紗衣、深々と頭を下げる。
紗衣「……ありがとうございます。私、精一杯お務めいたします。ご恩は必ず」
黎「……いや。そういうことでは無いのですよ」
黎、軽く息をつき、髪をかき上げる。
黎「……まあいい。それは、追々お話しします」
紗衣を見る瞳が、またやわらかくゆるみ、怜悧な顔に悪戯めいた表情が浮かぶ。
黎「──あの子供にも、すぐに会えますよ」
紗衣「……?」
不思議そうに首をかしげる紗衣。その無自覚な様子を、黎はおもしろそうに眺めている。
巴がじろりと非難の目でにらむ。
巴「……人が悪うございますよ、黎様」
黎「ふふん」
紗衣、きょとんと振り返る。
黎「紗衣さんは働くより、まずよく食べて養生を。その体は見過ごせる状態ではありません」
紗衣「い、いえ。すっかり元気ですから……!」
紗衣、慌てて言って手をふる。その手を、黎がふいに掴んだ。
紗衣「……えっ」
ぐらり、と紗衣の体が傾ぐ。
──とすん。黎の腕の中にすっぽりと収まってしまう紗衣。
黎「……ほら。ごらんなさい」
紗衣を抱きとめた黎が、そっと囁く。
黎「こんなにも細い。──どこが元気だと?」
そして、ぎゅう、と。確かめるように黎は紗衣を抱きしめた。
紗衣「……ひゃあ、え、あ、あの……っ!?」
かああ、と。紗衣の白い頬が、見る間に耳まで真っ赤に染まっていく。
巴「──慎みを!」
ぴしゃり、と巴のきつい声が飛んだ。
巴「嫁入り前のお嬢様なんですよっ」
黎ぱっと手を離す。何事もなかったような澄まし顔をして長い脚を組んで椅子に座る。
巴「紗衣さん、さあさ、出ましょうねぇ! この部屋は狐くさくてかないません」
黎「そういうお前も管狐だろうに」
黎がおかしそうに言う。
巴「おだまり、すけべ妖狐」
混乱して目を白黒させる紗衣を、巴が背を押し、部屋の外へ連れ出していく。
〇古賀邸・廊下
巴「……あの妖狐はね、呪われているんですよ。だから、ちょいと箍が外れていてね。あとできぃつく叱っておきますからねえ。まったく、もう」
興奮して飛び出た巴の尻尾が、ふさりと揺れる。
紗衣「……呪い、……」
廊下に出てもなお、紗衣の頬は熱いまま。胸がとくとくと早鐘を打っている。
紗衣(びっくりしたわ。胸がおかしい。あの方に抱きしめられて。──呪いって。あんなにお綺麗なのに、いったい何の……)
〇古賀邸・離れの書斎・朝
書斎にひとり残された黎は、足を組んだまま、口元を手で覆っている。
ほんのりと頬を紅潮させ、きらめく瞳で、閉じたドアの方を見つめていた。
黎(…………はぁ。やはり。抱きしめただけで、これほど妖力が満ちてくるとは。──月兎。なんという澄んだ霊力なんだ)
黎は自分の手のひらを、うっとりと見下ろす。
黎(紗衣さん……。──もっと。もっと欲しい)
その金の瞳が危うく光った。
(第4話に続く)
〇古賀邸・廊下・朝
朝の光が、古い屋敷の廊下を照らす。
紗衣、女中の後を歩いていく。
和装に割烹着を着た女中、巴。紗衣より少し背丈が高いくらい。
目じりには優しそうな皺が寄っていて、綺麗だが40代くらいの見た目。
※以下、巴(ともえ)
紗衣は昨夜のドレスではなく、巴から借りた地味な銘仙の和服を着ている。
紗衣(一晩ご厄介になってしまった。お返しできるものもないのにどうしよう……)
うつむき、肩を縮めて歩く紗衣。
ひと気のない屋敷。和洋折衷の作りだが、しんとしている。
紗衣(お部屋がたくさん閉まっているわ。噂通り古賀様は臥せってらっしゃるのかしら)
巴「ここだよ」
〇古賀邸・離れの書斎・朝
巴「……すまないねえ。当主が偏屈なもんで、客間も閉めてて」
巴、洋風の扉の前で足を止める。ノックして扉を開けながら、
巴「むさ苦しいところだけど、堪忍しておくれ」
黎「……偏屈で悪かったな、巴」
びくっと紗衣の肩が跳ねる。
書物の積まれたモダンな書斎。テーブルの前に長身の男が立っていた。
黒々とした長い髪を一つにゆるくまとめている。
着流しを着崩してて、整った冷たい美貌をした当主の古賀黎。
黎「どうせ客など来ないのだから閉めていた方が掃除が楽だろう」
巴「佐伯様は、よくいらっしゃるじゃありませんか」
黎「……彰人は客じゃない」
紗衣(この方が、古賀様! ……病で見るに耐えない顔だと聞いたのに、噂とはまるで違う。こんなにお綺麗な……)
紗衣、思わず見入ってしまう。
黎の視線が、紗衣に向いた。はっと目をそらす紗衣。
黎「――ご気分はいかがですか」
紗衣「……あ」
紗衣、どきりとして顔を上げる。
黎「当主の古賀黎です。あなたは夜会で倒れていまして」
紗衣「……っ、そ、それは、大変なご迷惑を」
しどろもどろに頭を下げる紗衣を、黎は柔らかく目を細めてじっと眺めている。
黎「家族も持たぬ身ですから、どうぞ気兼ねなく過ごしてください」
紗衣「いえいえ、そんなわけには!」
紗衣(……お優しい。でも、あの夜会にいたってことは……古賀様も狩りを?)
恐縮しつつ、紗衣ははっと我に返る。
紗衣「あ、あの……! そこで小さな男の子を見かけませんでしたか。おかっぱ頭で七つくらいの。私が蔵に隠したのです。あの子だけでも無事ならと……っ」
黎、わずかに目を見開く。
それから、くっと喉の奥で笑った。
黎「……ふ。真っ先に気にかけるのが、それですか」
紗衣「えっ」
黎「自分のことより見ず知らずの子供の心配を。──よほどのお人好しらしい」
紗衣、頬を赤らめてうつむく。
黎「……あの子供なら、案ずるには及びません。無事ですよ」
紗衣(よかった……。でも、なぜこの方が、あの子のことを)
黎「それより、紗衣さん」
黎の表情がすっと真剣になる。
黎「巴によれば──あなたの体には傷が多い。貧血もひどく、衰弱している、と」
紗衣、びくりと肩を震わせ、とっさに袖をかき合わせる。
紗衣「……っ、いえ。私は、もともと病弱で。そそっかしくて、よく転ぶものですから……」
黎「…………」
黎は黙ってじっと観察している。
紗衣(早く、帰らなきゃ。役目も果たせず、こんなに家を空けて。お義母さまに知れたら)
紗衣「あの、本当に、もう十分よくしていただきました。私、家に戻らなくては。家の者が心配して……」
黎「その心配は、無用です」
紗衣「え……?」
黎「今ごろ佐伯が、藤島家へ話を通しているはずです。──あなたを古賀家の女中見習いとして引き受けたい、と」
紗衣「っ、ここに?」
きょとんと目を丸くする紗衣を、黎は静かに見つめる。
紗衣「でも先日、私には佐伯家の方からお話が」
黎「紗衣さん。──あの違法な夜会は、行儀見習い先が決まった良家の子女が行く場ではありません。失礼ですが、こちらの調査から考えるに、藤島家はあなたを佐伯家に出すおつもりが無く、わざと傷物にしようとしたのではないかと」
紗衣「……っ」
図星を突かれ、紗衣は言葉に詰まる。
紗衣(確かに私を貰いたい、という話が佐伯家から来たばかりで。華乃は酷く怒っていたわ……私を……傷物にして義妹にその話を譲ろうとしたの? ……私の意志じゃないのに……)
じわっとこみあげそうな涙をこらえる紗衣。
黎「偏屈でむさ苦しい所ですが、格だけは佐伯より上です」
黎、ふっと口の端を上げる。
黎「……それともご不満ですか。佐伯の方が、よかった?」
紗衣「い、いえ……! 滅相もございません」
紗衣、慌てて首を振る。
紗衣(良家への行儀見習いだなんて、私に繋がるはずもない話だったのよね。華乃を差し置いて……)
紗衣、深々と頭を下げる。
紗衣「……ありがとうございます。私、精一杯お務めいたします。ご恩は必ず」
黎「……いや。そういうことでは無いのですよ」
黎、軽く息をつき、髪をかき上げる。
黎「……まあいい。それは、追々お話しします」
紗衣を見る瞳が、またやわらかくゆるみ、怜悧な顔に悪戯めいた表情が浮かぶ。
黎「──あの子供にも、すぐに会えますよ」
紗衣「……?」
不思議そうに首をかしげる紗衣。その無自覚な様子を、黎はおもしろそうに眺めている。
巴がじろりと非難の目でにらむ。
巴「……人が悪うございますよ、黎様」
黎「ふふん」
紗衣、きょとんと振り返る。
黎「紗衣さんは働くより、まずよく食べて養生を。その体は見過ごせる状態ではありません」
紗衣「い、いえ。すっかり元気ですから……!」
紗衣、慌てて言って手をふる。その手を、黎がふいに掴んだ。
紗衣「……えっ」
ぐらり、と紗衣の体が傾ぐ。
──とすん。黎の腕の中にすっぽりと収まってしまう紗衣。
黎「……ほら。ごらんなさい」
紗衣を抱きとめた黎が、そっと囁く。
黎「こんなにも細い。──どこが元気だと?」
そして、ぎゅう、と。確かめるように黎は紗衣を抱きしめた。
紗衣「……ひゃあ、え、あ、あの……っ!?」
かああ、と。紗衣の白い頬が、見る間に耳まで真っ赤に染まっていく。
巴「──慎みを!」
ぴしゃり、と巴のきつい声が飛んだ。
巴「嫁入り前のお嬢様なんですよっ」
黎ぱっと手を離す。何事もなかったような澄まし顔をして長い脚を組んで椅子に座る。
巴「紗衣さん、さあさ、出ましょうねぇ! この部屋は狐くさくてかないません」
黎「そういうお前も管狐だろうに」
黎がおかしそうに言う。
巴「おだまり、すけべ妖狐」
混乱して目を白黒させる紗衣を、巴が背を押し、部屋の外へ連れ出していく。
〇古賀邸・廊下
巴「……あの妖狐はね、呪われているんですよ。だから、ちょいと箍が外れていてね。あとできぃつく叱っておきますからねえ。まったく、もう」
興奮して飛び出た巴の尻尾が、ふさりと揺れる。
紗衣「……呪い、……」
廊下に出てもなお、紗衣の頬は熱いまま。胸がとくとくと早鐘を打っている。
紗衣(びっくりしたわ。胸がおかしい。あの方に抱きしめられて。──呪いって。あんなにお綺麗なのに、いったい何の……)
〇古賀邸・離れの書斎・朝
書斎にひとり残された黎は、足を組んだまま、口元を手で覆っている。
ほんのりと頬を紅潮させ、きらめく瞳で、閉じたドアの方を見つめていた。
黎(…………はぁ。やはり。抱きしめただけで、これほど妖力が満ちてくるとは。──月兎。なんという澄んだ霊力なんだ)
黎は自分の手のひらを、うっとりと見下ろす。
黎(紗衣さん……。──もっと。もっと欲しい)
その金の瞳が危うく光った。
(第4話に続く)
