一矢、その先へ。


2.
『今日、白石が見取り稽古するって』
 2日後に、渡辺先輩からラインが来た。今日は活動日ではなかったが、その方が都合は良かったのだろう。了承のラインをおくる。
 少し思い立って、渡辺先輩を介するのは失礼ではないかと感じ、弓道部グループラインのメンバーを眺めた。白石先輩のアカウントを探すと、白い犬のプロフィールだった。思わずタップして、追加しそうになる。少しまだ勇気が出ない。それにしても。
「サモエド……? 」
そう呟くと、隣の席の女の子が「何言ってんの?」とくすくす笑った。

 授業が終わり、体育館の更衣室で着替えてから、弓道場へと向かう。もう、気持ちは作っていた。あとは、白石先輩に倣うのみ。
 弓道場へと入ると、軽い的を射た音が響いた。
 すぐに白石先輩の射だと分かる。
 続けて、矢を番えると、打起し背中を大きく開いて引き分けて、美しいフォームを保ちながら、水みたいに自然に的に射る。軽快な音が響く。どちらもほぼ真ん中に射抜かれていた。
「あ、来たの? 」
 言ってくれればよかったのに、と独りごちた。そして白石先輩が、こちらを見て笑った。そして、弓を持ちながら、ひたひたとこちらに近づいてくる。
「渡辺からスランプだって聞いたけど」
「えっ、あぁ、そんなかんじです」
 また答えようがなくて、曖昧な返事をする。あなたが笑ったのを見てから、スランプですとは言えない。
「きっかけとか、覚えてない? 」
「……いいえ、特には……」
 俺は、捻り出すように答えて、先輩の目を見る。じっと見定めるような目。
「見取り稽古しようか」
「え、あっはい! 俺、先輩の矢取ってきます」
 頭から、指先からつま先まで見られているような気がした。いてもたってもいられず、先輩の放った矢を回収した。
「ごめんね、手間かけるつもりじゃなかったんだけど」
 助かっちゃった。と言って、先輩は笑った。
そして、俺に弓を持たせ、姿勢を矯正する。
「もっと腕はあげて、そう──、番える指は深く、背筋はもっとぴんとして、」
 二の腕に手を添え、背筋をなぞり、先輩の手がそっと押す。先輩の低くて甘い声は、俺の身体を見事に操った。いつも考える、的中するための思考のようなものは存在しなかった。 ただ、正しく弓を引いていた。
「力を抜いて、ギリギリまで張り詰めたところで、」
 離して。という声とともに、とん、背中を叩かれる。俺は、矢から手を離していた。的先からぱあん、と重い的中音。
「あ! 」
 俺は喜んで隣を見ると、白石先輩がまたあの目をしている。甘い、とろりとした目だ。
「──その目、なんですか、?」
 口に出すつもりはなかった。ただただ、口について出た。さっきまでの稽古が原因かもしれない。
「この目? 」
 甘い声がまた響く。頭が侵食されるような気分がした。
「県大会の決勝も、その目、してませんでしたか」
 そこまで言うと、白石先輩は、「ああ」と腑に落ちた顔をした。そして、俺の矢を番えていた、裸の薬指と小指を握った。
「綺麗って思ってた」
「綺麗? 」
「きみ」
「おれ、?」
 握られていた指先が、力が抜けるようにどんどん滑る。爪の先に引っかかってぬけた。
「三浦 晃《みうら あきら》くん。入部したときからずっと、きみは綺麗だね」
 言われた言葉にノイズがかかっているみたいに俺は処理落ちした。あなた、俺のフルネーム、知っていたのか。
「きみが入ってきたときのこと今でも覚えてる」
「入部? 」
 俺は、何も覚えていない。と返そうとする。白石先輩が、足袋のまま1歩距離を詰めた。そして、俺は半歩下がった。
「まだ高校のが届いてなくて、真っ青な中学のジャージで。覚えてる? 」
 確かに、そうだったかもしれない。
「体験入部で弓を引きに来たでしょう」
 そうだ、たしか部長の進藤先輩が矢を持たせてくれた。素引きしてたけど、「筋がいい」って言ってくれて。
「さらさらの黒い頭の、小鹿みたいな子が、弓を番えて」
「打起しから引分け、ぴんと張り詰めて。放った、その後」
 的の端に当たった。俺はど真ん中に的中させるのが、弓道だと思っていたから。自分はセンスがないと思っていた。
「三浦くんは震えなくて、ぴしゃんと立ってた」
 それが綺麗だった、と白石先輩は言った。いつの間にか壁際まで追い詰められていた。
「そんな昔のこと、どうして覚えてるんですか」
「ずっと三浦くんが、変わらないから」
 変わらない。背も、顔つきも、学年も、色んなものが変わったような気がする。
「落でいるとね、前の人のことよく知れるんだよ」
 白石先輩の指が背中に回ってくる。背筋に沿って、ゆっくりと這う。先程の稽古とは違う、俺の体の輪郭を確認する作業。
「矢を番えるときの眉を顰めた顔、矢を引くときの大きく開く背中、一瞬止まる呼吸」
 ひゅ、と俺が息を止める。
 落は、1番最後に弓を引く。ずっと俺はこの人に、たくさんの視線を浴びせられていたのだ。
「三浦くんは揺るがない」
 白石先輩は、また甘い目を細めて、俺の手を取る。そして、俺の手のひらに口付けた。
「きみのあり方が好き」
 息をこぼすみたいに、そういった。俺は、意味を理解すると、ぶわ、と顔に熱を持つのを感じる。
「俺と、あんまり話したことないのに」
「今から話せばいいんじゃない? 」
「そういう、」
 問題ですか、と言おうとしてやめた。この人、断られるなんて1ミリも感じてない。
「まずはライン交換からしませんか」
 そういうと、白石先輩は呆気にとられたような顔をした。そして、俺の手書きのプロフィール画像を見て、「なんかあほっぽい」といった。
 その日の帰り道、追加された「白石由貴」という名前のサモエドのアイコンを見て、俺は自然と鼻歌を歌った。
 そして、その日の夜風呂に入ったあとサモエドから『明日お昼一緒にたべよ』とラインがきた。今にも駆け出しそうな満面の笑みのアイコンが、どうにも可愛くて1人笑った。分かりました、と送ると、『弓道場前集合ね』と間髪入れずにメッセージがくる。
 白石先輩、意外とラインの返信早いのか。
 3日、なんなら1週間ぐらい放置しそうな奔放なイメージがあった。そのギャップもなんだかツボだった。


 次の日の四限後、俺が購買で買った袋を手に弓道場へ向かうと、白石先輩が戸の前で座って待っていた。膝の上には、紺色の弁当袋。
「すみません、待ちましたか? 」
「全然。三浦くん、購買派? 食堂のがよかった? 」
「いや、俺は空き時間に買いに行くので、そんなに関係ないです」
 そっか。と短く答えると、白石先輩は戸を開けた。白石先輩はスニーカー、俺はローファーを脱ぐと、弓道場の奥へと併設された和室へと向かった。
「いつもこの部屋で食べてるんですか? 」
「いや? 普通に教室」
「あ、そうなんですね」
 微妙に会話が上手く繋がらない。白石先輩とのこういう感じが、毎回俺を焦らせるのだった。先輩に気持ちよく喋ってもらうには、俺は変なこと言ったかとかそういうループに陥る。
「ただ一緒に食べたくて」
「え、?」
「三浦くんと話したかったから。部活だと、お互い集中しちゃって話せないでしょう」
 白石先輩が、こちらを見て穏やかに微笑んだ。この呼び出しに特に深い意図はないようだった。
「たしかに、そうですね」
 お互いに手を合わせ、「いただきます」と声を出す。俺は、焼きそばパンの包装を解いて、ひとくち口に入れる。可もなく不可もない、いつもの味がする。
 白石先輩の長い指が、白い犬のモチーフの弁当包をといて、かけてあったゴムをとった。鮭に、肉じゃが、唐揚げ、ほうれん草のおひたし、卵焼き。白石先輩はお手製愛情たっぷり弁当だった。なんだか焼きそばパンとたまごパンの俺の昼食が質素に覚えてくる。
「美味しそう」
 思わず声に出すと、白石先輩はこちらをキョトンとした顔で見る。
「三浦くんって、いつも買い食い? 」
「うちの母は夜勤が多いので、自分で作ればいいんですけど、面倒で」
「お母さんお忙しいんだ。俺は甘えちゃってるんだよなあ」
 でも、たまには手料理恋しくなるでしょ、と白石先輩は箸で唐揚げを掴むと、俺の口の前に差し出した。そして、とびっきりの甘い声で。
「はい。あーん」
 俺は、思考をぐるぐると回転させる。
 これは、受けない方が後輩として失礼か?それともこれは高度なギャグ、ツッコミが必要か? それはそうとして美味しそう───。
 困り果てた俺に、くすりと笑って、俺の顎に手を添えた。
「ほら、はやく」
 その声につられて俺は口を開ける。弁当に入った柔らかな皮を噛み切ると、じゅわ、と肉汁が溢れてくる。鶏肉が柔らかくて美味い。
「おいしい」
 俺が心の底から声を出すと、白石先輩が、ふふ、と笑った。そして、「ほんとに幸せそうな顔」と俺の口の端についたパンくずをとった。
「きみが幸せだと俺も幸せ」
 そう言って目を細める。俺はなんて言ったら、いいのか分からなくて、うう、とかそんな曖昧なことを言った。
「答えになってないね」
 白石先輩は卵焼きを食べながら、にんまりした。そのくせ「でも答えはとくに求めてないかも」と言うのだった。
 そうして、食事を取っていると、白石先輩は堰を切ったように「気になってたんだけどさあ」と声を出した。俺は、焼きそばパンを食べ終わり、たまごパンを頬張っていた。
「なんですか? 」
「三浦くんのあのラインのアイコン、自分で描いたの? 」
 いきなりなんの話?と思わなくもなかったが、話題は俺のラインのプロフィール画像へと移ったらしい。
「あれは、友達に書いてもらいました」
「はあ?」
 白石先輩は、どうやら不服そうな顔をする。そんなおかしなことだったか。
「恋人がいるのに? 」
「えっ、恋人!? 」
 俺、恋人いましたか?と白石先輩に尋ねると、さらに不機嫌そうに顔をしかめた。
「あほっぽいし、俺とおそろいにしよう」
「なんか、それだとすごい親しいみたいじゃないですか? 」
 ふう、と白石先輩がため息をつく。
「うちのサモエドにしよう」
 全ての質問をスルーした挙句、出た結論がそれだった。だいぶスルーされたが、もはや会話ができているだけでよかった。
「白石先輩のアイコンって、飼ってるわんちゃんだったんですね」
「そう、しろくま」
 しろくま!? 名前がやばい、白石先輩安直すぎる、とは言えなかった。
「俺がしろくまちゃん、にするってことですか? 」
「くんかな」
「しろくまくん……?」
 白石先輩は、ちょっと悩んでから否定する。飼い犬の性別に厳しかった。
「ふたりで対になるやつにしよ」
「中学とかでやってたカップルアイコンみたいな、感じになりません?」
「そうだよ」
 白石先輩は何も動じずにそういった。さすがに何も読めない。
「うちのしろくま画像で左右反転したら、ハートになるやつあるかな」
「白石先輩もなかなかあほっぽいですよね」
 するりと言ってはいけない言葉が口から落ちた。先輩になんて言葉をと口を抑えた。しかし、白石先輩は目を見開いてこちらを見て、へにゃりと笑った。
「三浦くん、意外と言葉強い」
「なんで嬉しそうなんですか? 」
「いや。後輩は、みんな遠慮しちゃうでしょ。そうやって言ってくれた方が実は嬉しいかも」
 そういうものなのか、と俺は先輩を見つめる。
「実直──それもそうだけど、うん。素直だね」
 白石先輩は一人で納得して、嬉しそうに弁当を食べている。俺は、異文化交流みたいなこの交流が居心地の良いものになることを願った。

 放課後、今日は部活の練習日だった。軽いストレッチを行ってからゴム引きを行い、藁打ちを行った。昨日、目を閉じて練習した白石先輩との見取り稽古を思い浮かべる。
『もっと腕はあげて、そう──、番える指は深く、背筋はもっとぴんとして、』
 自然と背筋がしゃんとのび、深く呼吸をする。
『力を抜いて、ギリギリまで張り詰めたところで、』
「『離して』」
 自分の声と頭の中の白石先輩の声が一致する。藁に刺さる鈍い音で、はっとして、真ん中に的中したことを認識する。一昨日まで払ってばかりいたのにこれは相当な進歩だ。俺は、自分の手に目を向ける。
「三浦」
「進藤先輩」
 振り返ると、部長の進藤先輩がそこに立っていた。
「調子だいぶ良くなったのか」
 不器用ながらもそう聞いてくる。
「今は、調子が良かったみたいです」
 はっきりスランプから抜けたとも言いきれない。だが。
「今の射は良かったな」
 落ち着く低音が耳に落ちてくる。俺もそう思っていたところです、という想いを込めて頷いた。自分の気付かぬうちに微笑んでいたみたいで、頭をはたかれた。
「それにしても腕がすごいことになってるな」
 すぐに自分の手の内側にできた痣のことを言っていることに気づいた。
「今日は払っていないので最近ですね」
「調子がいいからと言って、無理はするなよ」
 進藤先輩はそう言って、弓道場へと弓を引きに行った。自分もあと数射引いたら、中へ入ろうと思った。
 弓道場に入ると、2〜3年の生徒が代わる代わる自主練習に勤しんでいた。1年生はこの時期は矢の回収や的張り、ランニングや筋トレ、ゴム引きなどの基礎体力作りが主になる。的前にたつ中に、白石先輩の姿を見つけ、自然と胸が高なった。相変わらず、体の1部みたいに自然に弓を引く。
 綺麗だな、と思った。思わず見つめていると、4射引き終わった先輩と目が合った。体がぎくり、として、すぐに空いていた的前へと移動した。見ていたことに気づかれたと思ったら、一気に恥ずかしくなった。
 白石先輩の射は好きだ。水みたいに軽やかで、自然で、美しくて。打起すときの無理な体の動きみたいなのは白石先輩に存在しない。ただ、それが普通みたいに緩く、自然に打起し、引き分ける。当ててやるというぎらつきを感じない、その動作が俺は好きだった。
 そう考えながら、矢を番える。すると、一気に思考がクリアになる。的前に立つ時の頭の中の静けさが好きだ。狙いを定めて、身体が開いていく瞬間、無心になる。俺は4射引いて、2射的中した。特に最後のものは、真ん中に当たって、自身の復調の兆しにじわじわと喜びが湧いてくる。すぐに横にはけると、そこには白石先輩がいた。白石先輩が軽く微笑んで軽く手を挙げる。
「最後の射、よかったね」
「ありがとうございます」
「もう払ったりしてない? 」
 白石先輩は俺の左手の内側を掴んだ。そこには治りかけの赤い痣がいくつも作られている。
「いたそう」
「治りかけなんで色だけですよ」
「無理せずにね。今、わりといいよ」
 俺の痣になった部分を軽く親指でなぞると、白石先輩はまた的前へと立ってしまう。
 ──わりといい。
 先輩に言われると、それは特別な言葉になる。