「この間は変なところを見せて、八つ当たりしちゃってごめんなさい」
鈴が丘記念病院にある羽子さんの部屋を訪れると、彼女は僕を見て開口一番こう言った。
今日も羽子さんは窓辺に立ち、絵を描いていた。しっかり頭を下げる様子から見るに、この前のときほど体調は悪くないようだ。
「変なところ?」
「びっくりしたでしょ? あんな風に、痛いからってイライラして」
「……驚きはしましたけど。痛がるのって、変なことなんですか?」
痛がることは、普通の人にとってはごく普通のことだと思っていたのだが、違ったのだろうか。
僕の問いかけに羽子さんは目を丸くしたあと、筆の柄をあごに当てて考える仕草をした。
「そう言われると、別に変なことじゃないかも」
「僕もそう思います」
僕が頷くと、羽子さんは破顔した。
「ふふ。きみ、変わってるね」
「そうみたいですね。よく言われます」
「あはは! 本当に変わってる!」
彼女はひとしきり笑ったあと、持っていた道具をサイドテーブルに置き、すとんとベッドに腰を下ろした。まるで力を使い切り、立っていられなくなったかのような動きだったので、見ていた僕はどきりとする。
「あの……大丈夫ですか?」
「うん? ああ、平気平気。ちょっと疲れただけだから」
「僕、帰ったほうがいいんじゃ」
僕が帰る素振りを見せると、羽子さんは慌て出す。
「ええっ? 待って待って、帰らないで! せっかく来たんだから、少し私の話に付き合ってよ。家族以外で面会に来る人ってそういないし、退屈してるんだ。体調もそこまで悪くないし」
「この前よりはマシ、ですか?」
僕の言葉に羽子さんは苦笑いすると、ベッドに上がり、クッションを背もたれにして横になる。
口調は軽いが顔色は悪く、体も随分重そうだった。
緩和ケア病棟にいるということは、おそらく彼女は癌で、余命の短い患者なのだろう。ここはそういう患者たちが苦しい治療の最後に訪れる場所だ。天国へと旅立つまでの残り少ない人生から、できる限り苦痛を取り除き、心穏やかに過ごすためにここはある。
羽子さんはやせ細り、いかにも病人といった風体だが、不思議と悲壮感がない。陰鬱さで言えば僕の方がずっと上じゃないだろうか。
「そこのイス持ってきて座って。そう。じゃあ、自己紹介からしましょうか」
言われた通り僕が丸椅子に腰かけると、羽子さんはそんなことを言い出した。
「なんかお見合いみたいだけど。お見合いっていうか、合コン? 君は合コンしたことある?」
「ないですね」
「そうだろうね。合コンでそんなつまらなそうな顔してたら、すぐ対象外になっちゃうよ。何しに来たんだよ、帰れ帰れーって」
「……別に、つまらなくはないです。元々こういう顔で」
僕の言い訳に、羽子さんはあきれたような顔をする。
「あのねぇ。元々どういう顔かは関係ないの。これから仲良くしようってときに、きみは笑顔のひとつも見せられないの?」
「はあ……すみません。あまり意識して笑ったことがないんで」
「じゃあ、これから意識して。あと敬語は禁止ね」
人差し指を突きつけられ、僕はこくりとうなずいた。
元から人に逆らうことはほぼない僕だが、彼女の言葉はさらに有無を言わせない響きがあった。
「まず私からね。改めて、椿坂羽子です。現在無職。好きなものはキャラメルフラペチーノ。趣味は絵を描くこと。八月二十七日生まれのおとめ座で、血液型はB型。家族は両親と妹がひとり。長女だけど、こう見えて甘やかされて育ってきたの」
こう見えて、というかわりとそうにしか見えないと思ったが、口には出さない。母の汐里も長女なのだが、羽子さんと少し似ているかもしれない。
母もなかなか強引な人で、強引に僕を生かし、強引に僕にケガを許さなかった。そういう母の強引さに、僕は守られてきたのだが。
「嫌いなものは痛いこと。それで、余命は三ヶ月」
はっきりと、僕を見据えて羽子さんは告げた。僕の反応をひとつも見逃さない、というように。
そんな視線にも彼女の余命にも、僕は動揺することはなかった。ただ、思ったよりも長いなと思うだけで。
「僕も、自己紹介しなきゃダメですか」
「……敬語になってる」
「あ」
思わず口に手を当てた僕に、羽子さんは悪戯っぽく笑う。
「もちろんしてもらうよ。私はきみのこと、何も知らないんだもん。たしか、コウくんだっけ? 高校の後輩だってことと、あとは植物博士ってことくらいしか情報がないんだから、きっちり自己紹介してね」
仕方なく、僕は羽子さんの自己紹介を習い、プロフィールと家族構成を話した。
ただ、僕は自分の星座など知らないし、好きなものも嫌いなものも特にない。必然的に短くなってしまい、羽子さんには不満そうな顔をされる。
「もうちょっとなんかあるでしょ? 好きとまでいかなくても、よく食べるものとか」
「特には。まあ、辛いものよりは、甘いもののほうがまだマシかな。多少は味がわかるし」
「……味? もしかして、辛味はわからないってこと?」
「辛味というか、甘味以外はほとんど。無痛症患者には多いみたいです……だ」
つい敬語になってしまい、なんとか修正しようとあがいた僕に、羽子さんは吹きだした。
「ですだ、だって! おっかしい。……そっかあ。君、無痛症なんだもんね。痛みがないってどんな感じ?」
これまで数えきれないほど受けてきた質問だが、僕はいまだにその答えを見つけられずにいる。
もとからそうであったことを、どんな感じがするのか聞かれても、言語化するのは難しかった。
「逆に僕も、痛いってどんな感じなのか知りたいよ」
「あー……ごめん。この間もだけど、軽率な質問だったね。怒った?」
「いえ、別に。よく聞かれるし。そもそも怒るっていうのもよくわからなくて」
「ええ? 腹が立ったりしないの? 相手を殴りたくなるとか、全然?」
「殴られることはよくあるけど、殴りたいと思ったことはないかな……」
羽子さんは思い切り変な顔をして「虹って、やっぱりちょっと変わってるね」と言った。
軽率だったと言ったそばからこれなので、悪気はまったくないのだろう。それに僕自身、自分が普通とはどうもちがうことは理解している。
変、恐い、気持ち悪い、かわいそう。どれも自分を形容する言葉であり、それについて特に思うところはなかった。
「意識して笑ったことがないっていうのも、そういうこと? 笑えないの?」
笑えない、というのは微妙に違う気がする。笑うべきときがわからない、と言うほうが近いかもしれない。
「でも自然と笑ってることはあるよ。妹を見てると、時々」
「ああ、それはアレだね。愛だね」
「愛……?」
「妹が可愛いから、見ていると自然に笑うんでしょ? おかしくて笑うとか、気を遣って笑うのとは、また少し別だよね」
そういうものなのだろうか。笑うと言っても、多少口角が上がっているくらいなのだが、それでも愛と呼べるのだろうか。
僕はきちんと、家族を愛せているのだろうか。
「じゃあ、悲しくて泣いたりは? 後悔で叫びたくなったりは?」
「ないかな」
「本を読んでわくわくしたり、暑くてイライラしたりは?」
「ない。暑さや寒さもわからないし」
「え! じゃあ熱中症になったり、凍死したりしないの?」
「いや。人より熱中症になって死にやすいし、風邪引いたり凍傷になりやすい」
暑さや寒さがわからない、そして自分の体の不調に疎い無痛症患者は、とても脆い生き物なのだ。死と隣り合わせ、とまでは言わないが、わりと近所ではあると思う。
羽子さんはしばらく、ぽかんとした顔で黙っていたが、やがて感心したように「なるほどね」とうなずいた。
「要するに、虹はとっても不便な体をしてるんだ」
「不便……。そうかもしれない。怪我もしやすいし、病気になっても気づかないし」
僕自身はあまり不便さは感じていないが、母は誰よりそれを感じているだろう。
「ふうん。痛みがわからないって無敵じゃんって思ったけど、そう単純なものじゃないんだね」
どこか残念そうに呟き、羽子さんはクッションに深く沈んだ。
そういえば、この間会ったとき、彼女は「いいなあ」と言っていた。無痛症がうらやましかったようだが、実情を聞いて考えが変わったのだろうか。
「羽子さんは……いま痛いの?」
「痛くないよ」
青白い顔が即答した。
疑いが顔に出たのだろうか、羽子さんが「ほんとだって」と笑う。
「いまはそんなに痛くないの。薬が効いてるから」
「薬が切れたら、この間みたいになる?」
「薬は常時効いてるの。連続して使っている薬じゃ抑えきれない痛みが、突発的に来るんだよね。そうなると、死んだほうがマシってくらい痛い」
死んだほうがマシ、という例えも僕にはぴんとこなかったが、とにかくひどくつらいものなのだろう。
いま羽子さんはあっけらかんとしているが、この前ここで会ったとき彼女は、死んだほうがマシと思っていた。死んだほうがマシな痛みが何度も訪れると、寿命を待たずに死んでしまいたくなったりはしないのだろうか。
そんなことを僕が考えているとは知らない羽子さんは、沈黙は僕の理解が追い付いていないのだろうと思ったのか、腕を組んで首をひねった。
「うーん。どう言ったらうまく伝わるかなあ。あのね、どれくらい痛いかっていうと、私が筆を持てなくなるくらい」
「筆? ああ、絵の」
「そう。大事なのは、私が、筆を、持てなくなるってこと。このわたしから絵を描く気力を奪うくらいの痛みなわけ。ほんと、うんざりするよ」
うんざり、というより忌々しそうに言う羽子さんは、いまにも壊れてしまいそうな体をしながらも戦士のように見えた。爛々とした目で生を欲し、病気に抗う戦士だ。圧倒的不利な戦況でも諦めない、不屈の精神を持った戦士。
「そんなに絵が描きたいの?」
「ちがう。絵が描きたいんじゃない。描きたい絵があるの」
ちがいがよくわからない。絵が描きたいことと描きたい絵があることに、何かちがいがあるのだろうか。
まだ描きかけらしい、黄色のチューリップをちらりと見る。
「……描きたい絵って、花の絵?」
「わからない」
「わからない?」
「最後に描きたい絵があるんだけど、それが何かつかめてないの」
苛立ったように、絵の具で汚れた親指の爪を噛む羽子さん。彼女の印象からは少し幼い仕草に思えた。
僕の視線に気づき、羽子さんは恥ずかしそうに口元から爪を離す。
「ツツジは、おばあちゃんの家に咲いててね。おばあちゃんとの思い出がある花なの。でも、これじゃないって描いてて思った」
なるほど、それでアザレアをツツジだと思って描いていたのかと納得する。
「友だちと行ったチューリップ畑も描いてみた。修学旅行で行った沖縄の風景とか、好きな映画のワンシーンとか、本当に色々描いてみたけど、どれも違うの。最後に見たいのは、描きたいのはこれじゃないって」
疲れたようにため息をつき、羽子さんは僕を見上げた。
「だから虹に聞いたの。虹は死ぬ前に何を見たいか、考えたりした?」
「うん。考えたけど、特になかった」
「ない? うそでしょ。死ぬ前に食べたいものとか、死ぬ前に会いたいひととか、そういうのと同じ。人生の最期に見たいのは、どんな景色?」
あの日された突拍子もない問いについて、一応僕は僕なりに考えてみた。
例えば明日死ぬと言われたら、自分はどうするだろう?
食べたいものは特に思いつかない。元々食にはあまり興味がないので仕方ない。
会いたい人というのもやはり思いつかなかった。家族は毎日会っているし、自分がいなくなっても母も妹もそれほど変わりなく過ごせるだろうから心配もない。司狼には会いたいというよりも、明日死ぬらしいことは伝えておくべきかなと思う。
見たい景色、もしくは行きたい場所もかなり時間をかけて考えたが、ひとつも思い浮かばなかった。そもそも、半分死んでいるような人間に聞くのが間違っている気がする。
「本当に、思いつかなかったんだ」
「ないって、ひとつもないの?」
「そんなに思い入れのある場所っていうのがない」
「まだ行ったことがない場所とか、見たことのない景色でも?」
「ぴんとこないな。でも、ひとつだけ敢えて挙げるなら――」
脳裏に真っ暗な海が浮かんだ。
煙草の香りにさざなみの音、そして司狼の言葉がよみがえる。
「日の出かな」
僕の答えに、羽子さんは「あるんじゃん」という顔をした。
「日の出って、初日の出?」
「いや、普通のでいいんじゃないかな」
「いいんじゃないかなって、他人事みたいに言うんだね」
「実際、知り合いが言ってたことだから。日の出の眩しさはパワーがちがうって。生き返ったような気持ちになるって」
羽子さんは意外そうに目を見開いた。ベッドの上でわずかに前のめりになる。
「生き返ったような……」
「それで、ああ、自分は生きてたんだなって思うんだってさ。今度見せてやるって言ってたから、まあ死ぬ前に見ておいてもいいのかなと」
つまり、実際に見たいのは僕ではなく司狼だ。僕は何に対しても執着の薄い司狼がそこまで言うのは、珍しいなと思っているくらいなのだが。
「私も見たい!」
「えっ」
「日の出、見てみたい! 連れてって!」
本当に病人なのか疑わしくなるほど元気よく言った羽子さんに、さすがの僕も固まってしまった。
連れていく? 海へ?
余命三ヶ月の、弱り切った末期がん患者を?
基本僕は、人に頼まれれば断ることはない。断る理由がないことがほとんどだし、抗うよりも流されるほうが面倒が少ない場合が多いからだ。
でも、今回はちがう。まず無理だろう、と冷静な頭がすぐに答えをはじき出した。
だが言い出したらきかなそうな彼女だ。僕が無理だと言ったところで納得してくれるだろうか。難しいだろうな。出会って間もないのに、そう確信する自分がいる。
「言われてみたら、私日の出って見たことなかったかも! 虹は見たことあるの?」
「いや、ないよ」
「じゃあ虹も初めて? 楽しみ~!」
ダメだ。これはもう完全に行く気でいる。
しかし実際問題、どうやって連れて行けるというのか。まさか正面から「海に行っていいですか」と病院にうかがいを立て、許可をもらえるとは思えない。早朝の海辺などまだ寒く、浜風が病人の体に差し障るのは間違いないのだ。
そうなるとこっそり抜け出すしかない。看護師や警備の目をかいくぐり、いかにも体力のなさそうな羽子さんを連れ、真夜中に海へ。想像するだけで気が遠くなるほど、ハードルが高い。
「あの。一応担当医に確認したほうが……」
「おじいちゃん先生に? あの人に言ったって意味ないよ」
「意味ないって、それ――」
「お願い、虹」
身を乗り出した羽子さんに手を握られ、どくりと大きく鼓動が鳴った。まるで胸の奥で心臓がジャンプしたような、いままで感じたことのない衝撃に戸惑う。
羽子さんの手は、無痛症の僕には温度はわからないが、少しかさつき骨ばっている。折れてしまいそうな手なのに、ぎゅうぎゅうと強く握りしめてくる。
こちらを見つめる目はやはり爛々と輝いていて、僕はその強さにのまれるように気づけば首を縦に振っていた。
そうするしかなかった。話しているだけでどんどん顔色の悪くなっていく羽子さんに、無理だとは言えなかった。言ったら最後、彼女が目の前で死んでしまうような気がしたのだ。
結局、とりあえずまたくるとだけ約束し、僕は羽子さんの病室をあとにした。
「絶対来てよ? 来なかったら、死んで祟ってやるからね」
ベッドの上から羽子さんがシャレにならないことを言っていたが、声には不安が滲んでいるようにも聞こえた。
次はそう日を置かず来たほうがいいだろうか。だがそう頻繁に来ては彼女の体には負担になる。
それに、つい海に連れていくことを了承してしまったが、可能なのかどうか。
「あれ、虹くん。もう帰るの? 羽子ちゃんと話せた?」
エレベーターに向かっていると、別の病室から吉村さんが出てきた。
「はい。かなり疲れているようだったんで、今日はこれで。また来ます」
「ほんと? 新しいお友だちができて、羽子ちゃんも喜んでるね」
羽子さんが喜んでいる?
果たしてそうだろうか、と僕は内心首をかしげた。たしかに羽子は退屈しているようではあったけど、僕が彼女を楽しませられるとはとても思えない。よくて暇つぶし程度にしかなれないだろうが、それでも彼女は喜ぶだろうか。
そのままナースステーションを通り過ぎようとしたとき、立ち入り禁止の札がかけられた扉が目につき、立ち止まる。
「吉村さん。あの部屋って?」
「うん? ああ。前は面談室っていう部屋だったんだけど、いまは改装中なの。工具や機材があって危ないから、立ち入り禁止ね」
面談室は家族室とはちがうのだろうか。
死が近づいている患者には、きっと細かな配慮が必要なのだろう。そうなるとますます、彼女を連れ出す役に僕はふさわしくないなと思う。
ハンカチをまた返しそびれたことに、帰りのエレベーターの中で気が付いた。
このまま持っていてもいいだろうか。そんな風に考える自分が不思議だった。
