痛みさえ愛しい恋だった【7月新刊発売予定】


 駅に向かう途中、花屋の前で僕は思わず足を止めた。
 店頭の棚に小さな鉢植えのツツジが並んでいる。

「ツツジも売ってるんだな……」

 しゃがみこみ、目に眩しいピンクの花を見つめる。自然と頭に浮かぶのは、白黒のアザレアを描いた羽子さんの姿だ。彼女に花はツツジではなくアザレアだと教えると、がっかりしていた。このツツジを持っていけば、喜ぶだろうか。あんな風に拒絶されたくせに、また見舞いに行くのは迷惑だろうか。

「虹? 何してんだ、こんなとこで」

 買うべきか悩んでいると、素っ頓狂な声が聞こえた。
 横を向くと、花屋と同じビルから司狼があくびをしながら出てきたところだった。花の前でしゃがみこんでいる僕に、奇妙なものを見る目を向けてくる。まるでいま起きたばかりというような乱れ髪に、シワだらけの服装だ。そういう格好でも様になるのがこの男なのだが。

 何と返そうか考えていると、司狼の後ろから、黒いスーツ姿にサングラスをかけた男たちが数名ゾロゾロと出てきた。司狼と僕をちらりと見たが、そのまま路肩に停まっていた黒いベンツに乗り込んでいく。
 窓にスモークがかかったピカピカのベンツは、司狼を置いてゆっくりと走り去っていった。
 とても一般人とは思えない男たちは、昼間の街中で浮いていたが、僕には見慣れたものだった。司狼の周りには何年か前から、ああいった怪しげな大人がうろつくようになっていた。
 司狼は男たちの存在などなかったかのように、平然とした顔で僕を見下ろす。

「で? 何してんだよ虹」
「花を見てる」

 端的に答えると、あきれた顔をされる。

「んなこたぁ見りゃわかる。何で花なんか見てんだって聞いてんだよ」
「買おうかと思って」
「お前が? 花を? 何の為に?」

 そこまで不思議がられることだろうか。
 まあ確かに、花屋が駅前にあることを、今日はじめて認識したくらいだけれど。

「何の為……お見舞い?」
「何で疑問形なんだよ。見舞いって、誰か入院したのか。梓に何かあったのか?」
「いや、梓は元気。別に誰も入院してない」
「誰も入院してないなら、誰の見舞いに行くんだよ」

 最もなことを言われ、僕は首を傾げた。
 確かにそうだなのだが、どう説明したらいいかわからない。羽子という少女は僕にとってただ、花の名前を教えて、ハンカチを借りただけの相手。つまりほぼ、いや完全に他人だ。他人の見舞いに行くと言ったら、目の前の男はいらない好奇心を発動させて病院まで着いてくるかもしれない。

「まあ、別に誰でもいいけどよ。その花持ってくのか? 普通見舞いって花束じゃね?」
「なんか、ツツジが好きみたいだから」
「へぇ。お前が相手に気を遣って物を選ぶとか、明日は鉛玉でも降ってくるか?」

 何がおかしいのかケラケラ笑う司狼の顔は、少し疲れて見えた。
 僕は司狼が出てきたビルを見上げる。

「司狼は何してたの」
「俺? カジノ遊び」
「カジノ? 日本にカジノなんてあるの」
「虹はなーんにも知らねぇなあ。カジノなんてどこにでもあるぜ。全部違法だけどな!」

 僕の背中をバシバシ叩きながら司狼が笑う。徹夜でもしたのか、妙にテンションが高いなと思っていると、突然「何をしてる!」と怒声が響いた。
 振り返ると、泰虎が立っていた。僕の前にいる司狼を見て、ギリギリと音がしそうなほど眉を寄せていく。

「よぅ、愚弟。相変わらず真面目に生きてんのか」
「お前と比べれば大抵の人間は真面目だ。虹に何してる。不真面目さが移るだろ。さっさと離れろ」
「おーおー。実の兄をばい菌扱いか。お前はどうよ、虹? 俺に離れてほしいか?」

 長い腕に肩を組まれ、僕は少し考えてから首を振った。

「いや、別に」

 正直に答えた僕に、泰虎は顔を歪め、司狼は大笑いした。

「ははは! だとよ、弟! お前より俺のほうが虹とは合うからなぁ」
「ふざけたことを……」

 拳を震わせる弟を見て、司狼は鼻で笑った。

「真面目なだけのお前には、俺らのことは何一つわからねぇんだよ」

 そう言うと、司狼は僕の背をトンと押し、自分は背を向けた。

「おい、お前いまどこで何やってんだよ! また犯罪まがいのことしてるんじゃないだろうな? 母さんが心配してる! 人として真っ当に生きられないのかよ!」

 泰虎の叫びに、司狼はひらひらと手を振るだけで、振り向くことすらなく去っていった。
 そんな兄の姿に、泰虎は頭が痛いとばかりにため息をつく。目が合って、責められるかと思ったが、泰虎はもう司狼について触れることはなかった。

「それで? 虹はこんなとこで何をしてたんだ」

 兄弟で同じことを聞くんだなと思いながら「知り合いが入院してて」と答える。
 知り合い、の部分に泰虎は怪訝な顔をしたが、説明が面倒なので詳しくは言わなかった。

「まあ深くは聞かないけどな。見舞いの花なら、そのピンクのはダメだ」

 ツツジを指さし泰虎が言うので、僕は眉をひそめた。

「どうしてツツジがダメなの」
「その花、ツツジっていうのか。別にツツジがダメなんじゃない。鉢植えがダメなんだ」
「鉢植え?」
「鉢植えは根があるだろ。根付くは寝付く、つまり病気が長引くって連想されるから、見舞いにはタブーなんだ。あと仏花もダメだし、匂いのきつい花も避けたほうがいい。真っ赤な花、白い花、青とか紫もダメって聞くな」
「……泰虎は物知りだな」
「こんなの常識だぞ」

 常識とは縁遠い僕には理解できない。ダメなことだらけで、聞いているだけで買う気が薄れてきた。鉢植えだろうが仏花だろうが、花は花だ。花はきれいに咲いているというだけで、充分ではないかと思う。
 頭をかき、立ち上がる。そのまま歩き出すと泰虎はついてきた。

「買わないのか、花」
「やめた。会えるかわからないし」
「そうか。……珍しいな。お前が他人に何かをしようとするなんて」

 おかしなことを言うと思った。
 僕の場合、自分に何かをしようとすることのほうがきっともっと少ないのに。

「花か……。もしかして、女か?」
「性別はそう」
「やっぱりな。虹にもとうとう春が来たのか。何か安心したぞ」

 何やら勘ちがいをしているらしい泰虎が、僕の肩をバシバシ叩いた。
 痛くはないが強い。前につんのめりそうになりながら、勝手に安心されてもなと思う。
 というか、どんな心配をしていたのだろう。幼なじみにとって僕は、まだ小学生くらいの認識なのかもしれない。

「そういうんじゃないけど」
「照れなくていい。他人に興味を持つのはいいことだ。その子、大事にしろよ」

 親指を立て、爽やかに笑って泰虎は僕を追い越し去っていった。
 眩しい太陽のような男だと、その背を見送りため息をつく。エネルギーに満ち溢れた泰虎のそばにいると、なぜかずしりと疲労を感じる。人は太陽のそばでは生きられないからかもしれない。
 泰虎はとてもわかりやすく、《《生きている》》人間だ。半分死んでいるような僕とは、相容れない存在なのだろう。
 仕方ないけれど、少しそれを寂しく思った。