痛みさえ愛しい恋だった【7月新刊発売予定】


 検査を終えて、僕は大きな怪我も見つかることなく無事家に帰ることができた。
 母にはしこたま怒られた。妹の迎えも結局自分では行けなかったし、迷惑をかけた自覚はあったので、もうしませんと謝った。

 部屋着に着替え、何だか色々あった一日だったとひと息ついていると、スマホが鳴って外に呼び出された。

「虹。ひとっ走り、死にに行こうぜ」

 そうお決まりのセリフで迎えに来た、みっつ年上の幼なじみ。
 断る理由もないので、僕は無言で彼のバイクの後ろにまたがる。
 そんな僕に笑った幼なじみ、甲斐司狼(かいしろう)は、僕が誘いを断らないことをよく知っていた。

 改造されたバイクは、住宅地に爆音を響かせ急発進した。僕たちの頭は無防備に生温い風を受け、髪をあおられる。ヘルメットはお互いしていない。司狼のバイクのうしろに乗って流すようになってから、一度もそんなものを着けたことはなかった。司狼にヘルメットをするよう促されたことも、もちろんない。だから「死にに行こう」なのだ。
 実際にはまだ死んだことも、死にかけたこともないのだが、はた目にはたいそう恐ろしく映るらしい。知人にも、まるで知らない赤の他人にも「死にたいのか」とよく言われるが、果たして僕は、僕らは死にたいのだろうか。法定速度など振り切って、車の間を縫うように自在に運転する幼なじみのうしろで考えるのは、いつもそんなことだ。
 けたたましいクラクションをそこかしこで鳴らされても、スピードを落とす気も安全運転をする気もない司狼。その彼の、脱色を繰り返して痛んだ金髪を見つめながら、今日もたぶん死なないのだろうなと思った。

 やがてバイクは、潮の匂いに満ちた海岸でエンジンのうなりを止めた。
 太陽の名残をほんの一筋残した空は、ほとんど夜に飲みこまれている。海はすでに青さをなくし、僕らの立つ防波堤の下で黒い波が騒ぎ立てていた。
 バイクを背にした司狼が、隣りで煙草に火をつける。使い捨てのライターから出るちゃちな火が、彼の整った顔を淡く照らした。

 こうして見ると、やはり兄弟、似ているなと思う。
 司狼は泰虎の実の兄だ。ふたりとも整った顔立ちをしているが、受ける印象は一八〇度異なる。
 急流にものまれることなく、どこまでも浮かび続ける流木のような司狼。
 根をどっしり張り、どんな突風にも揺らがず凛と立つ大樹のような泰虎。
 模範的な優等生である泰虎の兄とは思えないほど、司狼は破天荒な男だ。暴力事件、事故は日常茶飯事。妊娠騒ぎは数えきれず。教師を病院送りにしたり、火を放ったりと、昔から話題に事欠かない男だった。

 泰虎は問題児すぎて勘当された兄を、心底嫌っている。
 甲斐は優秀な人材を輩出する家として有名らしい。警察、検察、政治家、法律家など、国の中核を担う分野の上層部にそれぞれ甲斐の一族が就いているという。
 そんなエリートの家に生まれ、素質は充分すぎるほどにあったにも関わらず、気質がまったくそぐわなかった司狼。世の為人の為に生きる道を自ら進んで外れた異端児の兄を、頭の固い弟は理解できなかったのだろう。そして司狼もまた、親の敷いた完璧なレールの上を、何の迷いもなく進む弟が理解できないようだ。

 血は繋がっていても、家族にはなれない。世の中にはそういうこともあるらしい。
 司狼はよく「家族なんてものは所詮、血の繋がった他人だ」と皮肉げに言う。

「司狼。またライター失くしたの」
「あ? 失くしてねえよ。いま使ってんじゃん」

 煙を吐き出し「変な奴だな」と司狼が笑う。先々週会った時は、女からの貢ぎ物だという銀色のライターを使っていたのだが、そのこと自体忘れているようだ。
 司狼はよく物を失くす。失くすのが特技なのだと本人は言っていたが、彼の弟いわく執着がないだけだという。それはなんとなく僕にもわかる気がした。

 司狼は物だけでなく、人にも執着しない。
 色の抜けきった髪に、穴だらけの耳、シャツの襟もとや袖口からのぞく墨色のタトゥーと、到底堅気には見えない風貌の司狼。その顔はおそろしく整っていて、子どもの頃からどこにいっても目立つ存在だった。それでいて気さくで人当たりが良く、普段は穏やかとくれば、彼に惹かれる人間は多かった。女も男も司狼の周りには常にいて、誰もが司狼の隣りという特等席を奪い合っていた。

 だが彼はそういうものに一切興味が持てないようで、来るもの拒まず、去る者追わずのスタンスを崩さない。今日彼のいちばん近くにいた人間が明日急にいなくなっても、きっと司狼は気づきもしないだろう。
 司狼のそういう執着のなさは、いつしか家族さえも他人にした。
 僕もおそらく、彼にとっては他人のうちのひとりなのだろうと思っている。いまのところ名前は忘れられていないので、こうして一緒にいるだけだ。そしてそれは、僕が他の人間とは少々ちがう生き物だから、司狼に覚えられているに過ぎないことを知っていた。
 つまり僕もまた、彼の特別では決してなかった。

「虹。灰皿」

 黄昏の中に小さな火が揺れるのを見て、僕はパーカーの袖をまくり右腕を差し出した。

「左は?」
「この前やったよ」

 言いながらも、左の袖もまくって見せる。
 その手首には治りきらない丸い火傷がひとつ残っていた。他にも治りきった痕が四つ。右には六つある。黒く焦げた丸と、白く浮き出た丸が混在する手首は、お世辞にもきれいとは言い難い。でもそれを気にする人間は、いまこの防波堤には立っていなかった。

「じゃあ、今日は右な」

 僕の右手をとり「痛かったら言えよ」などとつまらないことを言う司狼に「痛かったらね」と返すと笑われた。お互いに、そんなことはありえないと思っているから言える冗談だ。

「いくぞ」
「どうぞ」

 チリチリと燃える煙草の火が、僕の右手首に向かってゆっくりと降りてくる。
 潮風に吹かれて点滅するようにその明るさを変えていた火は、やがてジッと僕の皮膚を焼き、煙を立てて消えていった。その間、僕らはずっと無言だった。
 寄せては返す波の音の中、これまで幾度となく繰り返してきた儀式めいたこの行為を今日も終えた。

「はい、おしまい」

 司狼はピンと吸い殻をはじいて海に捨てた。僕の皮膚を焼いた火は、海の水に完全に消えていった。残ったのは腕にできた新しい丸い火傷と、微かな硫黄臭さだけ。それもすぐに潮の匂いに押し流されていった。
 司狼は火傷の増えた、僕のなまっちろい腕をじっと見下ろす。

「痛いか?」
「いや……全然」
「こら、掻くなよ。傷がひどくなるだろ」

 煙草の火を押し付けた張本人が、真面目な顔でそんなことを言う。
 ふざけた男だと思いながら、まくった袖を元に戻し手首を隠す。潮風が火傷に当たると、なんとなくくすぐったいような気がしたのだ。沁みる、というやつなのかと一瞬考えた。僕は痛みを知らないので、気のせいだろうが。

 小さい頃は怪我や骨折や流血が日常茶飯事だったという僕が、こうして十七になるまで五体満足で生きてきたのは、ひとえに医療の心得があった母の献身のおかげだ。
 それなのに、親不孝者の息子はそれなりに大きくなったいまも、こうして自分の体に傷をこしらえている。母が知ったら泣くだろう。いや、それより殴られるのが先か。
 僕自身はちっとも痛くないので心配する必要はないと思うのだが、そういうことではないのだと、以前母に怒られた。
 体を大事にしてほしいと母は言う。何度も言う。怪我をするな、周りに注意しろ、自分の体にはもっと注意しろ。そういうことは言われればわかるし、一応気をつけてもいる。でも僕には体を大事にするということが、もっと根本的な部分で理解できずにいた。

「虹。その火傷が治るまで、手首切んじゃねぇぞ。火傷の治りが悪くなるからな」

 二本目の煙草を取り出して、口にくわえる司狼。
 それはまるで出来の悪い子どもに言い聞かせるような口調だった。

「わかった」
「いい子だ。ちゃあんと言いつけ守れたら、またバイクに乗せてやるよ」

 煙草に火をつけ、みるみるうちに暗くなっていく空に煙を吐き出す司狼の姿は、まるで映画のワンシーンのように様になっていた。
 見た目も中身も人並み外れている司狼は、よく他人に憧れを向けられているが、それ以上に恐れられてもいた。
 司狼は感情の起伏があまりない。誰かと話しているとき、バイクに乗っているとき、司狼はいつも笑っているが、人を殴るときも彼は笑っている。怒りという感情がないようで、問題を起こすときは大抵「やられたからやり返した」というのが理由だ。
 そういうを理解できず、畏怖する者は多い。家族でさえも司狼を受け入れられなかったのだから、他人には相当困難なのかもしれない。

 でも僕にとって司狼は、憧れの対象でも恐怖の対象でもなかった。ただ、司狼の隣りは誰のそばよりも落ち着ける。それは恐らく、僕と司狼が少し似ているからそう感じるのだろう。
 この風変わりな幼なじみは、笑いながら友人を半殺しにすることもあるし、趣味かのように体のあちこちにピアスの穴を開けたりする。他者の痛みにも自分の痛みにも頓着しない。そういうところが、痛みというものを知らない自分と似ていると思うのだ。

 僕が自分の体に血が通っていることを確認したくて、手首を切ることを繰り返していた頃。一度両手首をいっぺんに切って、出血が止まらなくなり救急車に乗ったことがあった。家族や教師は悲しんだり怒ったりしていた。泰虎も命を粗末にするなと僕の胸倉を掴んで泣きながら怒っていた。
 そんな中、司狼だけが「バカな奴だなあ」と、心底おかしそうに言ったのだ。先に聞き手の手首を切ったら、左を切るとき力が入らないだろう、と。確かにその通りなのだが、僕は別に死にたかったわけではない。それを言うと「なおさらバカな奴」と笑われた。

 それからだ。司狼が僕の手首の傷を上書きするように、煙草の火を押し付けるようになったのは。それについて思うところは特にないが、やると司狼が満足そうな顔をするので好きにさせている。僕も火傷が治っていく様子を見ると、なぜか心が落ち着いた。

「今度は朝に連れてきてやるよ」

 暗い海を向きながら、司狼が言う。

「朝に海? 司狼、朝弱いのに」
「だからなかなか見れねぇんだよ。なんで俺はこんなに朝に弱ぇんだろなあ」

 それは司狼が不規則でだらしない生活を送っているからだ。本人もそれをわかっているからへらへらしている。
 度重なる問題行動で、マンションと十年は生活に困らない資金を渡され家を追い出された司狼は、大学に籍を置きながらも何を学ぶでもなく気ままに暮らしている。遊び、酒を飲み、女を連れこみ、自堕落な生活を送りながら、悠然と彼らしく。たまにマンションに怪しげな男たちが出入りしているようだが、司狼自身に変化は見られなかった。
 環境に適応しない男。どこにいても、司狼は司狼にしかなれない。悩んだり、迷ったり、道をまちがえることもない。それは僕も同じだった。
 まちがいがあるとするならば、それは生まれてきたこと自体だろう。

「……そんなに朝の海が好きなんだ」
「つーか、日の出な。すげえぞぉ。海の上をピカーッと閃光が走ってな、眩しいのなんの。一瞬全身焼き尽くされるかと思うくらいだ」
「へえ。夕日と似たようなものなんじゃないの?」
「ばーか。全然ちげぇわ。朝日は東からのぼって、夕日は西に沈むんだぞ。パワーがちがうだろ」

 地球の自転については小学校で履修済みだが、太陽のパワーというのがわからない。光の強さのことだろうか。それとも熱のことを言っているのだろうか。独特な感性を持つ男なので、たまに理解しにくい表現をする。
 もしかしたら、あえて僕が悩むような言い方をしているのかもしれない。年上の幼なじみは、そうやって僕をからかうことを楽しんでいる節がある。

「そんで、生き返ったような気になるんだわ」
「生き返る」
「そう。で、ああ、俺って生きてたんだなーって思うわけ」

 それを聞いて、改めて似ているなと思った。
 自分が生きているのか、よくわからなくなるときがある。生きるということ自体がわからないからだ。わからないまま生きているからだ。
 本当は死んでいるんじゃないだろうか。そう思うのはよくあることで、そういうときに僕は自分の手首を切って血が流れる様子を見ていた。
 いまは司狼がくれた煙草の痕の治っていく様子を見るのを、手首を切る代わりにしている。

「だから虹。今度連れてきてやるよ。朝日を見に。お前も見てみたいだろ?」
「……うん」
「あれを見て、お前は何を思うんだろうなあ」

 どこか楽しげに呟き、司狼が煙を吐く。潮風に巻かれ、煙は一瞬で飛ばされていった。微かに甘い司狼の煙草の匂いも、すぐに潮の香りに飲みこまれる。
 果たして、朝にめっぽう弱い幼なじみと日の出を見るときは本当に来るだろうか。

 そっと目を閉じると、波の音が大きく聴こえる。
 まぶたの裏に一瞬、閃光が走った気がした。