痛いの痛いのどこへゆく

「女性……? そんな。それはおかしいです。だって僕は、実際会ってるんですよ。羽子さんのことをよく知ってる、白髪頭で覇気のない感じの、年がいってるのか若いのかよくわからない感じの先生に」
「会ってるってどこで? 名前は聞かなかったの? この病院の医師なら、スタッフカードを首からぶら下げてるけど見なかった?」

 自分のスタッフカードを見せながら言う吉村さんに、僕はあのとき会った医師の姿を頭に思い浮かべる。
 確かに首からぶら下げていたかもしれない。だがカード自体はポケットに入れていて、写真も名前も見えなかったのではなかったか。

 僕はナースステーションのそばにある、あの部屋を振り返った。
 工事が終わったらしく、立ち入り禁止の札もフロアサインも取り払われたその部屋のドアノブに手をかける。

「……そんな。どういうことなんだ?」

 扉を開けると、そこには何もなかった。
 以前入ったときは、とにかく真っ白に輝く部屋だった。いまも壁も床もすべて白一色なのだが、天井などの境目がわからなくなるほどの白さではなくなっている。天井、壁、床、窓、扉。きちんと見分けられる普通の白い部屋だ。
 天井付近にある横長の窓からは光が差しこんでいるが、あの全身を包むような輝きではない。確かに同じ部屋のはずなのに、何もかもがちがって見える。

「この部屋、やっと工事が終わったのよ」
「吉村さん……。ここにベンチがありましたよね?」
「ベンチ?」
「はい。真ん中にぽつんと」
「ベンチなんてなかったと思うけど? 工事の邪魔になるから、ここにあったものは全部別の科の倉庫に移したし」
「そんなはずは……。確かに、ここにベンチがあったんです。羽子さんを病院から連れ出す前と、あとは吉村さんが彼女の衰弱が激しいと教えてくれた日にも、僕はここでベンチに座ったお医者さんと会ったんですよ」

 僕の混乱が移ったかのように、吉村さんにもわけがわからないという顔をした。

「ちょっと待って虹くん。この部屋に入ったの? 羽子ちゃんが亡くなる前に?」
「はい」
「それはおかしいわよ。だってここ、工事の人が入っている間は、ずっと施錠してたはずだもの」
「え……でも」
「それに工事が終わったのは昨日よ? それまではずっと立ち入り禁止の札があったでしょう?」

 吉村さんの言葉に、呆然とする。どう受け止めて処理すればいいのかわからなかった。
 改めて、工事の終わった部屋を見回す。やはり、あの不思議な医者と会ったときとは、まるで別の空間のように映った。

「そういえば……あの窓と窓の間に時計か何かが飾られてたと……」
「時計もカーテンも、とにかく工事の邪魔になるようなものは全部取っ払ってたはずだよ。いまも何もないじゃない」
 
確かに壁には何もない。何もないが——だったら、僕があのとき見ていたものは、すべて幻だったというのだろうか。
 僕に手当てを教えてくれた医師は、僕の妄想だった? じゃあ、羽子さんの痛みをとっていた僕の力は?

「あっ。飾るといえば。実はね、ここに羽子ちゃんの絵を飾らせてもらいたいって話になって」
「……え?」

 自分の手を見下ろしていた僕は、驚いて吉村さんを見た。

「羽子ちゃんが描いてた、あの最後の絵よ」
「あの絵を、ここに……?」
「本当に素敵な絵だったからね。あの絵を見たら、緩和ケアの患者さんたちの心も癒されるんじゃないかと思って、ご家族にお願いしてみたら許していただけたの。条件付きでね」
「条件って?」

 僕が首を傾げると、吉村さんは「ちょっと待ってて」と部屋を出ていった。少しして戻ってきた吉村さんが抱えていたのは、羽子さんが最後に描いていたキャンバスだ。

「条件は、虹くんの承諾を得ること」
「……僕の? どうして僕なんです?」

 吉村さんは隠していたプレゼントを差し出す子どものような顔をして、キャンバスをひっくり返した。そこに書いてある文字に、目が釘付けになる。

『虹へ』

 最後の力を振りしぼって書いたような、震えて歪んだ短い二文字。いつ書いたんだろう。完成してから書いたんだろうか。それとももっと前だろうか。羽子さんはずっとこの絵を、僕を想って描いてくれていたのだろうか。あんなに痛みを堪えながら、あんなに涙に濡れながら。
 命を燃やして描いていた、あの横顔を思い出した瞬間、視界がにじんだ。

「どうかな。この部屋に飾ること、許してもらえる?」

 吉村さんの問いかけに、黙ってうなずいて返す。声は出せなかった。

「ありがとう! この部屋の内装も整ったら知らせるから、見に来てね」

 虹くんはいつでも大歓迎だから。そう言ってくれた吉村さんにお礼をしようとして、でもやっぱり声は出せなくて、俯きながらうなずいたとき、廊下から彼女を呼ぶ声がした。

「いけない呼ばれてる! じゃあ虹くん、またね! お母さんによろしく!」

 キャンバスを持って慌ただしく吉村さんが出ていくと、部屋が静寂に包まれる。僕の洟をすする音だけが情けなく響いた。
 僕ひとりきりになっても部屋に変化はなく、あのすべてが塗りつぶされるような白さは訪れなかった。ベンチがあった場所に立ち、天井付近の窓を見上げてみる。光は入っているが、やはりあのときほど眩しくはない。あの眩しさは一体何だったのか。

 結局、僕に手当てを教えてくれたあの不思議な医師は、一体何者だったのだろう。随分とくたびれて見えた。何だか嫌な感じの咳をしていた。彼自身が患者であるかのように。
 白いハンカチを握りしめていた。そのハンカチには、何か刺繍がしてなかったか。
 それは、赤い花のような——。

「……まさか」

 ハンカチを握る骨ばった手。白衣からのぞく手首には、そう、何かが巻かれていた。傷跡を隠す、包帯のような何かが。
 僕はしばらく、その場から動くことができなかった。