羽子さんの葬儀の後日。
母に頼まれたものを病院に届けるついでに、僕は緩和ケア病棟を訪れた。
ナースステーションにいた吉村さんに菓子折りを差し入れると、涙を流す勢いで喜ばれた。
「吉村さんには色々ご迷惑おかけしました」
「……って、言うようにお母さんに言われたのかな?」
悪戯っぽく聞かれ、僕は素直にうなずく。
吉村さんには僕が常識を知らないことはバレているので、隠す意味もない。
「でも、吉村さんへの感謝もこめているので。それは僕の本当の気持ちです」
羽子さんの病室で眠りこける僕を見て、きっと何度もあきれただろう。
けれど吉村さんは無理に僕を起こすことはしなかった。それどころか面会時間が過ぎても追い出したりせず、大目にみてくれたりもした。
羽子さんとふたりの時間をたっぷりと過ごせたのは、吉村さんのおかげでもある。だから葬儀が終わったら、お礼を言いに行こうと思っていたのだ。
「そっかぁ。虹くんたら、すっかり大人になっちゃって……」
親戚のおばさんのような口ぶりで言うと、吉村さんはスンと鼻を鳴らした。
目元を拭う吉村さんだが、笑顔は崩れない。
吉村さんこそ、すっかり立派な看護師になったと思う。新人の頃、母さんに怒られて泣いていた彼女を思い出し、感慨深い気持ちになった。
「私は緩和ケアの看護師として、患者さんにとって最適な行動をとっただけ。羽子ちゃんには、虹くんの存在が何よりの薬だと思ったの」
「僕が……?」
「私こそお礼を言わせて。羽子ちゃんを最後まで応援してくれて、本当にありがとうね、虹くん」
最後のほうは声が震えていた。
僕はそっと足元に目を落とし、頷く。無性に羽子さんに会いたくなった。
羽子さん。あなたはとても大切に思われていたよ。
しんみりした空気に風が吹いた。
エレベーターホールからぺたぺたと足音を立てて誰かが歩いてくる。
「……あ! 押尾先生!」
吉村さんがハッとしたように相手を呼ぶ。
現れたのは、白衣を着た老人だった。白い薄い髪に、口元を覆うヒゲ。小柄で背中がわずかに曲がった彼は、吉村さんに向かってひょいと片手を上げる。
「もう、どこ行ってたんですか? 神原先生が探してましたよ!」
「あ、そお? 何だろうねぇ」
「一昨日来た患者さんの治療で確認したいことがあるそうです」
「ふんふん。それじゃ、あとで行ってみようかねぇ」
のんびり言うと、押尾と呼ばれた医者はペタペタと病室のほうへと歩いていく。
談話スペースにいた入院患者が、押尾医師に気づき「あらぁ、おじいちゃん先生。こんにちは」とにこやかに声をかけた。
「……え?」
僕は、押尾医師の小さな背中を食い入るように見つめる。
黙りこんだ僕に気づかず、吉村さんは「押尾先生にも困ったものだわ」とため息をついた。
「ほーんとマイペースなんだから。隙あらばどこか散歩に出かけちゃうし。まあ老人は散歩が好きだからしょうがないんだろうけど……散歩から徘徊に変わっても気づかなそうで嫌だわ」
「吉村さん」
「あっ! いまのナシ! 聞かなかったことにして!」
「吉村さん。あの先生は?」
あれは一体誰だ? あれがおじいちゃん先生?
混乱する僕に、吉村さんはきょとんとした顔で首を傾げた。
「あれ? 会ったことなかったっけ? 緩和ケア医の押尾先生よ」
「押尾……」
「羽子ちゃんの担当医だった方。彼女もおじいちゃん先生って呼んでたの、聞いたことあるでしょ?」
ある。あるのだが……どういうことだ。あれは僕の知っているおじいちゃん先生じゃない。
「本当にあの人が羽子さんの担当医だったんですか?」
「そうだけど……」
「もうひとり、白髪頭の先生がいますよね? あの押尾先生より、たぶん少し若い感じの」
吉村さんはいぶかしげに眉をよせ「誰のこと?」と言った。
「緩和ケアには確かにもうひとり医師がいるけど、白髪頭じゃないわ。四十代のちょっと恰幅のいい女性の先生よ」
