痛いの痛いのどこへゆく



 僕が迷いと決別してから二週間が経とうとしていた。
 街路樹の枝を揺らす風は乾き始め、病院の憩いの庭はすっかり秋色に変わった。寒さのわからない僕だが、街行く人の装いや、梓が垂らす鼻水を拭っていると、寒くなってきたのだなと感じる。
 そんな感度の低い体を持つ僕だが、羽子さんに出会ってからは“温かい”ということがどういうものなのかわかってきた。
 梓に絵本を読むときたまに出てくる『ぽかぽか』というオノマトペが、とてもしっくりくると知ったときは少々感動もした。
 だから、そう。いまの僕はその状態だ。ぽかぽかと、温かい。
 羽子さんから受け取る痛みは冷たかったり熱かったりするが、いまはもっと優しいものが僕を包んでいる。少し重くて、でもふわふわして、ぽかぽかだ。

 深い水の底からゆっくりと意識が浮上する。
 僕はいま、どこにいるのだったか。そうだ、また病院で羽子さんの痛みをとって、ソファーで眠った……というか、意識を失ったのだ。最近は意識を失うのも慣れたものだ。
 では、この幸せな重みは羽子さんだろうか。
 僕が羽子さんの病室で目覚めるときは、必ず毛布がかけられている。絵の具と羽子さんの匂いがする毛布が、僕はとても好きだ。毛布や布団が温かく気持ちがいいことを、ぬくぬくすると表現するらしい。ぽかぽか、に続き、ぬくぬく、もわかるようになった僕だ。
 ぬくぬく、を味わっていると、体から痛みが消えていることに気が付いた。
 戻ってしまったのだ。早く起きて、また羽子さんの痛みをとってあげないと。

「ん……羽子さん?」

 重たいまぶたを持ち上げた僕は、そこに広がっていた美しい光景に息を呑んだ。

 あまりの眩しさに、一瞬ここが病室であることを忘れた。キャンバスの向こうの窓から見えるのは曇り空。だが、目の前には僕を焼き尽くさんとする閃光が走っていた。
 歌が聴こえる。海と空の優しい歌が。
 それは病院を抜け出し見に行った、あの海だった。長い夜が明けた海。日の出を遮り僕らを失意の底に落としかけた厚い雲が切れた、一瞬を描いたものだ。
 あの日、僕らの前に降りた奇跡。厚い雲の隙間からいくつもの光が差し、雲の流れで柔らかく動いていた。光のカーテンが風に揺られているような、幻想的な光景だった。
 お疲れさま、と長い旅路の終わりを祝福するような。温かで美しい光。あの日羽子さんはそれを、天使の梯子と言っていた。
 こんなにも優しい絵なのに、目に痛いほど眩いのはなぜだろう。

「虹……」

 名前を呼ばれてはじめて、羽子さんが僕に覆いかぶさるように寄り添っていたことに気づいた。
 ぐったりとした様子の彼女に一瞬心臓が縮こまったが、呼吸は安定している。体調が悪化したわけではなさそうだと、胸を撫でおろす。

「さっきね、完成したよ」

 羽子さんが絵を指さそうとして、途中で力尽き腕をだらりと落とす。
 もう欠片ほども体力が残っていないようだ。それでも彼女は機嫌が良さそうに小さく笑った。

「虹のおかげ……」

 そう呟いた羽子さんは、満足げな顔をしていた。戦争から解放された兵士のような、世界を一周走りきったアスリートのような。疲労と幸福、それから安堵をない交ぜにした、満ち足りた顔。
 僕の胸に、痛みに似た衝動が押しよせる。嗚咽となって溢れかけたそれをぐっと堪え、ただ、彼女を抱きしめた。
 硬い骨の感触しかない。妹を抱くときより心許なくなる。こんな風になるまで、羽子さんは——。

「虹? 泣いてるの……?」

 僕は情けない声が漏れないよう、歯を食いしばりながら首を振る。
 答えられない僕を慰めるように、羽子さんが弱々しい力で抱きしめ返してくれる。

「本当に、ありがとう、虹」

 お礼なんて、言う必要はない。僕は何もしていないよ。

「虹がいなかったら、この絵は描けなかった。描きたいものすらわからないまま、私はきっと後悔ばかり味わいながら死んでた」

 そんなことはないよ。きっと羽子さんはひとりでも何かを見つけたはずだし、きっとそれを描いていたよ。

「全部、虹のおかげ」

 僕はただ、羽子さんの痛みを奪っていただけだ。僕こそ、羽子さんに大切なことを教えてもらったんだよ。

「虹がいてくれて、良かった。私ね……虹が……」

 優しい声に、やはり僕は首を振ることでしか答えられない。
 羽子さんの指先が僕の背を宥めるように叩く。そのリズムは深く深く、僕の欠陥だらけの体に沁みこんでいった。まるで、心に直接触れられたように感じた。

 羽子さんは長いまつ毛をゆっくりと降ろし、やがて穏やかな眠りに落ちていった。
 僕は身動きひとつしないよう、彼女の羽を休める止まり木に徹することにした。

「羽子さん、お疲れさま。よくがんばったね。あとは……ゆっくり休んで」

 羽子さんが眠っていてよかった。こんな情けない涙声を聴かれずに済んだ。
 物心ついてからはじめて流す涙の意味を、僕は図りかねていた。なぜこんなにも涙が溢れて止まらないのだろう。
 悲しいからだろうか。嬉しいからだろうか。どれも何かが違う気がする。
 羽子さんが起きたら聞いてみようか。素直に教えてくれるだろうか。きっとまず僕をからかって、可愛らしく笑うはずだ。
 
 微かな寝息とささやかな重みを感じながら、僕は涙をそのままに絵を眺めた。
 広いキャンバスに描かれた羽子さんの眩い生の証を、静かに眺め続けていた。