痛いの痛いのどこへゆく


 司狼と連絡が取れなくなった。
 あの日靴箱に無造作に放り入れられたものが頭をかすめた。もしかしたら司狼は、これまでとは比較にならない危険なことをしているのかもしれない。
 だからと言って、僕は司狼を止める気にはならなかった。そもそも僕が止めたところで司狼が素直に聞くわけがないのだが。

 司狼を頼れなくなった僕は、やり方を変えた。
 羽子さんの痛みをとったあと、無理をして病院を出るのをやめたのだ。代わりにそのまま、羽子さんの病室で休ませてもらうことにした。
 僕が痛みをとったあとは、羽子さんは一時の間元気になり、ずっと絵を描き続ける。その間僕は個室のソファーで横になる。ほとんど眠ってしまい、途中様子を見にきた吉村さんに呆れられる、というのを何度か繰り返した。

 羽子さんの症状が日に日に悪化していたのもあり、帰りがけにもう一度、痛みを取るようにもした。帰り道の途中で動けなくなっても、ひたすら耐えた。これは彼女の痛みだと思うと、いくらでも抱えられた。
 少しでも長く生きてもらいたい、という気持ちより、少しでも長く羽子さんに絵を描かせてあげたい、という気持ちが僕の中でずっと大きくなっていた。

 羽子さんは立っているのが不思議なほど痩せ細っていった。それなのに、死が近くなればなるほど、彼女の目は強く輝き、筆には迷いがなくなっていくように見えた。
 とても綺麗だった。本当に、綺麗だった。
 美しいものを目に焼き付けたいと思ったのははじめてのことで、僕はここに来てほんの少しだけ、羽子さんが絵を描く理由を理解できた気がした。

「虹……いつも、ありがとう」

 一度だけ、痛みに気を失っていた僕が目覚めると、羽子さんに抱きしめられていたことがあった。

「虹に会えて、良かった」
「……僕もだよ」
「うん。……ごめんね、虹」

 羽子さんはたぶん、僕がしていたことに気づいている。気づいていて、筆を置かずにいてくれる。
 無理をするなとか、来なくていいと彼女は言わなかった。ありがとうとごめんねを繰り返しながら、それでも僕が伸ばした手を掴んで離さない。
 僕はそれが、たまらなく嬉しかった。

***

 カレーの匂いがキッチンから漂ってくる。
 一緒に母の調子っぱずれた鼻歌が聞こえてきた。定時で仕事を上がれてご機嫌らしい。
 味覚にも無痛症の影響のある僕にとって、カレーはわりと味のわかる料理のひとつだ。大量に作り置きできるので、仕事で忙しい母もよくカレーを選ぶ。料理がまるでできない僕だが、カレーを温めるくらいはできる。妹の梓にもできるが。
 最近めっきり食欲が落ちたが、カレーの匂いを嗅いでいるとお腹が鳴った。
 生きているのがよくわかる音だったのが、なんだかおかしかった。

「ん~。うまくできないぃ」

 リビングのテーブルで折り紙を折っていた梓が、悔しそうに言った。
 僕はソファーにだらしなく身体を預けながら、妹の手元を見る。小さな手のひらには、大きな絆創膏が貼られていた。

「……梓。手、怪我したの?」
「うん。今日ね、園のおにわでね、ころんじゃったの」
「そうか。痛かったね」
「いたくなかったよ。アズ、おねぇちゃんだからえーんてしないし」

 口を尖らせてそう言った梓だが、若干気まずげなので、たぶん泣いたのだろう。
 泣くのは別に、悪いことでも恥ずかしいことでもないのになと思う。
 母が言うには、これも成長らしい。ここで「本当のことを言っていいよ」とは言ってはいけないようだ。

「怪我をしてるなら、無理に折り紙はしなくていいんじゃない? 絵本を読もうか?」
「いい。ぜったいおりがみするの」
「絶対か……。折り紙で何作るの?」
「つる」

 鶴とはまた、幼児には難易度が高いものを。僕でも作れるかどうかわからない。自慢じゃないが、僕が不得手なのは料理だけではないのだ。

「明日で転園しちゃう子がいるのよ。折り紙が上手で、梓にもよく教えてくれたり、折ってプレゼントしてくれてたんですって」

 僕らの会話を聞いていたらしい母が、お玉を持ったまま振り返って教えてくれた。
 なるほど、と納得する。梓には、手にケガをしていても、がんばって折り鶴を作らなければならない理由があったのだ。

「みうちゃんにあげるの。だからアズ、がんばるの」

 そう宣言した妹の横顔が、病室で絵を描く羽子さんのそれと重なった。
 僕はソファーから降り、梓の横に腰を下ろす。

「梓。手、見せてごらん」
「……ん」

 素直に小さな手が差し出される。
 僕は絆創膏の上から、梓の手のひらをそっと撫でた。

「痛いの痛いの——」
「とんでいけー!」

 僕の言葉の続きを、梓は反射で口にしたようだった。
 以前も似たようなことがあったことを思い出す。梓が「痛いの痛いの飛んでいけ」とおまじないを口にしたとき、僕は飛んで行った痛みは、結局どこに行き着くのだろうと考えた。
 たぶん、痛みはそのとき飛んでいっても、行き場がなくて元の場所に戻ってしまうのではないだろうか。
 だから僕は、痛みのよりどころになろう。飛んでいった痛みが行き着く場所に。どんな痛みも僕が受けとめよう。何度でも、何度でも。

(痛いの痛いの、飛んでこい)

「……あれ?」

 僕が手を離すと、梓は不思議そうに自分の手の平を見た。

「わあ! おてて、いたくないよ!」
「おまじない、効いたのかな」
「すごーい! コウくんまほうつかいみたい! おかさーん! コウくんがいたいのとんでけしたら、ほんとにいたくなくなった!」
「やったじゃん、梓。これでみうちゃんにプレゼントする鶴、折れるね」

 子どもの錯覚だと思ったのだろう。母は「よかったよかった」と言うと、また鼻歌を歌いながらお玉をかき混ぜていた。
 僕は自分の手のひらに移ったじんじんとした痛みを、テーブルの下で握りこむ。
 あとは梓が折り鶴を完成させるだけなのだが——。

「おててはもういたくないけど、やっぱりうまくできなーい!」

 戦いはこれからだな、と半泣きになりながら新しい折り紙を出す妹の姿に目を細める。
 手を出すと怒られそうなので、「兄ちゃんも一緒にやっていい?」と伺いを立ててから、僕も妹の隣りで鶴を折り始めるのだった。