痛みさえ愛しい恋だった


「誰だ⁉」

 ぎくりとした様子で三人が周囲を見回す。するとスチール製の収納棚の影から、女子生徒が姿を現した。
 長い髪の女子生徒は、スマホをこちらに向けながら近づいてくる。

「いまの話って本当?」
「何がだよ。つーか、勝手に撮ってんじゃねぇよ! 盗撮だぞ!」
「わたしが盗撮してるなら、あなたたちがしてるのは? 暴行? 傷害? それとも殺人未遂?」

 自分よりずっと体の大きい男子に凄まれても、その女子生徒は怯む様子がない。スマホをこちらに向けたまま、逆に三人を追い詰めていく。
 スマホで隠れて顔が見えないが、多分知らない生徒だ。なぜこんなところに女子生徒がひとりでいたんだろう。どうして僕を助けようとしているのだろう。

「さ、殺人なんてするわけねぇだろっ」
「こんなの、ちょっとふざけただけだっつーの」
「でも彼は怪我してるし、殴って当たり所が悪ければ死ぬでしょ。死んでから、殺すつもりはありませんでした、なんて言ったって遅いことくらいわからない?」
「うるせぇな! だから撮んなっつってんだろ!」

 三人の内のひとりが女子生徒に手を伸ばした瞬間、備品庫の扉が勢いよく開かれた。

「何してるんだ!」

 乱入者の怒声に、僕は誰よりはやく、上級生たちのお遊びの時間が終わったことを悟った。
 同時に、表に出てしまった火傷の痕を隠さなければと思ったのだが、目の前の彼らはまだ僕の腕を離そうとしない。
 困ったな、と僕は空き教室の入り口を窺った。

「あん? 何だ、てめぇ」

 僕の腕を掴んだまま、男が入り口を振り返る。

「おい。まずいぞ。あいつ、二年の甲斐だ」
「甲斐って、父親が警察のお偉いさんだっていう? げぇ。やべぇじゃん」

 三人が慌て出し、ようやく腕が解放された。
 脱がされかけた制服を直そうとしていると「綿谷(わたや)くん、大丈夫?」と、また別の女子の声が聞こえた。今度は相手が誰なのかすぐにわかった。僕に声をかけてくる女子は、そう多くない。
 乱入者の後ろから顔を出し、おどおどしながら近づいてきたその女子生徒は、僕を見て短い悲鳴を上げた。

「け、怪我して……!」
「いや、たぶん大丈夫」

 怪我をしていたとしても、僕自身にはわからない。腕の骨が折れていても、僕は平気でその折れた腕を使う。痛くないからだ。血が流れていたり、上手く動かないのを見てようやく、どこか怪我をしたのかと気づく。そういう体なのだ。

「どこかぶつけてない……?」
「平気だって、犬井(いぬい)さん。僕汚れてるだろうから、触らないほうがいいよ」

 同じクラスの女子、犬井芙美香(ふみか)とそんなやりとりをしていると、その隙に上級生たちが一斉にドアへと駆けだした。

「おい! 待てよ!」

 制止の声を振り切り、彼らは空き教室を飛び出しバタバタと走り去っていった。見事な逃げ足だった。幼なじみに、とろいだの鈍いだの言われる僕だとああはいかない。素直に感心してしまう。

「あいつら……!」
泰虎(やすとら)。いいよ別に。たいしたことされてないし」

 三人を追いかけようとした乱入者を止めると、切れ長の目に思い切り睨まれた。
 僕の幼なじみのひとり、甲斐(かい)泰虎。泰虎は昔から模範的な優等生だ。小中と生徒会長を務め、成績優秀で生徒からも教師からも一目置かれている。友だちが多く、女子からの告白が後を絶たない人気者。およそ欠点の見当たらない完璧な人、と噂されているのを聞いたことがある。理想の男子で、彼氏にしたい男ナンバーワンだと。
 だが幼なじみである僕は、泰虎がとても頑固で、潔癖で、そしてものすごく、時々辟易してしまうほど世話焼きであることを知っていた。

(こう)。お前がそんなだから、ああいう奴らがつけあがるんだぞ。どうせろくに抵抗もしなかったんだろ」
「うん」

 おざなりに返事をしながらシャツの裾をズボンにしまい、袖を直そうとしたところで腕をとられた。
 しまった、と思うが見られてしまってはもう遅い。やはり、僕は鈍いのだろう。

「なんだ、これ」

 泰虎が鋭い目をして僕のほどけかけた包帯に触れる。茶色く盛り上がった火傷の痕を、いじめや暴力を許さない正義の男の目がじっと見ている。

「いまの奴らにやられたのか?」
「えっ。そ、そうなの綿谷くん?」

 犬井さんがギョッとした顔をするので、すぐに「ちがうよ」と首を横に振る。

「じゃあ……あいつか」

 泰虎の目の色が変わる。
 反射で否定してしまったことを後悔した。この火傷を作った相手に思い至ったのだろう。それは僕のもうひとりの幼なじみなのだが、泰虎はその相手を心底嫌っているのだ。

「まだあいつと付き合ってるのか。もう関わるなって言っただろ」
「どうして?」
「決まってる。あいつと関わるとろくなことがないからだ」

 断言する泰虎に、僕はそっと目を伏せた。
 もうひとりの幼なじみを悪く言うときの泰虎は、少し苦手だ。僕がふたりとも好きだからだろうか。それとも、こういうときの泰虎が傷ついているように見えるからだろうか。

「僕はそうは思ってないけど」
「そんな火傷の痕つけられてか?」
「これは……別に痛くないし」

 ますます理解できないとばかりに頭を振る泰虎に、僕は困って目を反らす。
 この火傷をもうひとりの幼なじみがつけている理由を知ったら、泰虎はどんな顔をするだろう。
 僕と泰虎の間でおろおろしていた犬井さんが、おもむろにハンカチを差し出してきた。

「あの、これ。良かったら水で冷やして使って?」
「いいよ。痛くないから」
「でも……」
「犬井さん。僕にあまり構わないほうがいいよ。泰虎の幼なじみだからって、僕に親切にしても意味ないし」

 さっと犬井さんの頬が赤く染まる。ハンカチを持つ手はプルプルと震えていた。
 泰虎の深いため息が、空き教室に大きく響いた。

「虹。体の痛みがわからないと、心の痛みもわからないのか?」
「……どういう意味?」
「もういい。犬井、行こう」

 泰虎に背中を押され、犬井さんが顔を赤くしたまま歩き出す。
 廊下へと向かうふたりの背中を見つめながら、何かおかしなことを言っただろうかと考えた。
 心の痛みとはなんだろう。痛みそのものを知らない僕にとって、その言葉は抽象的を通り越し、雲をつかむようなものだった。
 教室を出る直前、泰虎が振り返り、僕を真っすぐに見つめて言った。

「あいつみたいに、死んだように生きるなよ、虹」

 友の忠告に僕は返事はできなかったが、泰虎ははじめからそんなもの期待していなかったようにさっさと犬井さんと去っていった。
 荒れた空き教室にひとり残された僕は、埃っぽさの中ため息をつく。髪をかき上げ後頭部に触れてみると、大きなこぶができていた。

「終わった?」

 そのとき、またあの涼やかな声が聞こえて、僕を助けてくれた女子生徒の存在を思い出した。
 どうやら泰虎が現れたときに、再び身を隠していたらしい。収納棚の影から出てきた彼女は「災難だったね」と大してそうは思っていないような口調で言った。

「どうして隠れたんですか?」
「ん? 何か、面倒なことになりそうだなと思って。あんまり親に心配かけられないんだよね」

 ようやく顔を見せた女子生徒は、とても綺麗な人だった。輝く木漏れ日のような、透き通った小川のような、自然な美しさを感じさせるちょっと特別な雰囲気がある。

「わたし、三年の椿坂羽子(つばさかわこ)。きみは?」
「二年の綿谷虹です。さっきはありがとうございました」
「お礼なんていいよ。本当は隠れてやり過ごそうと思ってたんだから。でもあの人たち、どんどんエスカレートしていきそうだったしね。そうだ、動画いる? いじめの証拠になるでしょ」
「いえ、大丈夫です。別に訴えたりとかしないので」

 僕が断ると、羽子という先輩は「そう?」とあっさり動画を消した。泰虎なら絶対に「何でだよ訴えろよ」と怒っているところだ。

「それで、さっきの話って本当なの?」

 僕が「さっき?」と首をかしげると、羽子さんは「痛みがわからないってやつ」と僕の火傷の跡だらけの腕を見て言った。
 僕のこの先天的な痛覚の欠如を珍しがる人は多い。奇異の目で見られるのも、本当なのか疑われるのも慣れている。本当だと答えると、なぜか睨まれた。睨まれる理由がわからない。何か失礼なことを言っただろうか。

「きみだったら良かったのに」
「……え?」

 どういう意味だろう。理解できずにいると、彼女は「何でもない。忘れて」とため息をついて僕に背を向けた。慣れたように備品の中から大きなイーゼルを引っ張り出すと、それを担いで振り返る。

「じゃ、もう行くね」

 僕の返事を待たず、羽子さんは颯爽と備品庫から出ていった。
 何だったのだろう。突然現れて、あっという間に去っていった。長い髪が、流れ星の尾のようだった。
 熱が出たときみたいに頭がぼぅっとして、僕はしばらくその場から動けなかった。
 埃っぽい部屋に、彼女のものだろう優しい香りだけが残っていた。