痛みさえ愛しい恋だった【7月新刊発売予定】


 財布を家に忘れたので届けてほしい。
 学校から帰宅してすぐ母親から電話があったとき、その財布はまさに僕の目の前、電話機の横に置かれていた。しっかり者に見られる母だが、こういった忘れ物やうっかりは多い。僕が母の職場に届け物をするのも、これで何度目になるだろう。
 財布を持って母の勤務する総合病院に赴くと、母は職員通用口で待っていた。

「ありがとう虹! 助かった~!」

 看護服を着た母、汐里はまだ勤務前だったようで、肩まである髪を降ろしていた。
 これから母は、明日の朝までこの病院で看護師として働くのだ。深夜でも休まずナースコールに対応し、化粧を崩し疲れ切った様子で帰宅するだろう。そして束の間の休息のあと、疲れを引きずったまままた病院に出勤し、看護服に袖を通す。
 僕たち家族を養うために、一家の大黒柱である母は病院で戦い続けている。

「これから梓を迎えに行くのよね? 夜はあの子のことお願いね」
「うん。……泣くかな」

 年の離れた妹の梓は四つになるが、いまだにたまに夜泣きをする。
 保育園で嫌なことがあったりすると、泣くことが多い。そういう時は母がいないとなかなか泣き止まないので、夜勤で母が不在のときは覚悟を決めて夜に臨まなければならない。
 寝ぼけて泣きわめく梓に殴られたり蹴られたりするのはいいのだ。こちらに痛みはないので好きにしてくれて構わない。
 ただ無痛症でも眠気は感じるし、睡眠不足にもなる。体はだるくなるし、疲れもしっかり蓄積されるので、明日の授業は睡眠学習になるのはほぼ決定事項だった。

「うーん。最近夜泣きは減ってるけど、どうかしら。悪いけど頼むわね、お兄ちゃん」
「わかってる。僕らのことはいいから、母さんもがんばって」

 息子の淡白な応援に「ありがと」と母は目元のシワを深め微笑む。
 僕の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜるようにして頭を撫でると、母は病院の中に戻っていった。

 乱れた髪を適当に撫でつけ、僕も回れ右をして歩き出す。日影になった小道を歩いていくと、わずかに花の香りがした。
 僕は味覚は鈍いが嗅覚は正常だ。むしろ欠如している感覚を補うかのように、嗅覚は人より鋭いかもしれない。嗅覚もない無痛症患者もいるそうなので、その点においては恵まれていると担当医が以前言っていた。

 母の勤務する鈴が丘記念病院は、予防医療からリハビリテーション、高度先端医療から緩和ケア、更に三次救急医療までと総合的な医療を展開する地域基幹病院だ。街の中心部にほど近い場所にある、広大な敷地に建つこの病院に、僕は昔から定期的に通っている。こうして母のおつかいで行くだけでなく、無痛病の患者として通院しているのだ。

 無痛症に治療方法はない。あるのは怪我をしたときの対処療法のみ。その怪我に本人が気づかず生活を続けてしまうことが多々あるので、定期的に全身の健康診断を受けなければならないのだ。実際、過去に骨折に気づかないまま日常生活を送っていたこともあった。小さい頃は脱臼が多かったらしい。
 だが怪我よりも病気が怖いと母は言う。
 たとえば僕は虫歯になっても歯は痛まないし、盲腸になっても痛みがわからないので普通に学校に行き授業を受けることができてしまう。破裂して生体機能を維持できなくなり、初めて異変に気づくだろう。手遅れになってからでないと気づけないのが恐ろしいのだと、母は耳にタコができるほど繰り返した。

 だが病気ならむしろ仕方ないのではと僕は思う。
 がんが体の中にできても、ほとんどの人間はなかなか気づけないと聞く。それと同じだ。ただ、自分には気づけない病気の数が、人よりかなり多いだけの話ではないだろうか。

 しかしそんな考えを、日々患者の死を目の当たりにしている母に聞かせようとは思わない。
 自分が普通の子どもよりも、多くの苦労をかけてきた自覚はある。だからせめて、言いつけは素直に聞き、妹の世話も出来る限り引き受け、母の負担を減らそうと僕なりに努力していた。どうも僕は感情の機微に疎いらしいので、役に立てているかは怪しいが。

 タイルで道が舗装され、患者が車椅子でも自由に出入りできるよう造られたここは、憩いの庭という名前で親しまれている。庭に置かれたベンチでは、外来患者同士だったり、入院患者と見舞客だったりが団欒している姿をよく見た。
 いつもならそんな人々の姿を横目に素通りするのだが、今日はちがった。

 日当たりの良いベンチに、少女がひとり座ってスケッチブックに絵を描いていた。
 つい足を止めてしまったのは、彼女に見覚えがあったからだ。去年の夏、備品庫で僕を助けてくれた羽子という先輩だった。
 羽子さんは、鬼気迫る顔で一心不乱にスケッチブックに鉛筆を走らせている。
 薄ピンク色のパジャマに白のカーディガンを羽織っているところを見ると、鈴が丘の入院患者なのだろう。怪我をしているようではないので、恐らく病気か。折れてしまいそうなほっそりとした首筋や、パジャマの袖からのぞく骨ばった手首からも想像ができた。
 あれ以来彼女を校内で見かけなかったのは、入院していたからだろうか。

 風が吹けば倒れてしまいそうな体で、いったい何を必死に描いているのだろう。
 気になって、足音を消し近づいてみた。すぐ後ろまで来ても、彼女は僕の存在に気づく様子はない。
 ベンチの背面で咲く、白に朱色を一滴垂らしたような淡い色のバラがの匂いがした。その濃厚な甘い香りに紛れることなく、反発するように主張しているのは消毒液の匂い。母が仕事から帰宅すると必ずまとっている、僕にとっては嗅ぎなれた匂いだ。

 バラよりも消毒液の匂いのほうが落ち着くなと思いながら、羽子さんの手元をそっとのぞきこむ。
 スケッチブックに描かれていたのは、彼女の真剣な目線の先にあるピンク色の花をつける低木だった。濃い緑の肉厚の葉を覆い隠そうとするように、大輪の花をいくつも咲かせている。
 羽子さんの手はつねに動き、目の前の花を白い紙に写しとっていた。

 不思議だ。ただの黒い線の集合体なのに、彼女が描く花からいまにも甘い香りがしそうなほど、瑞々しく咲いて見える。触れれば柔らかな花びらの感触がするのではないか。本気でそう思うような魅力が羽子さんの絵にはあった。絵が苦手で、妹に何か描いてほしいとねだられて描いては、微妙な顔をされてしまう僕とは大違いだ。
 そのまま見ていると、描き続ける羽子さんが何かぶつぶつ呟いていることに気がつき、そっと耳を近づける。

「これってツツジだよね? ツツジってこんなに豪華な花だったかな……。それにツツジ色ってもっと濃いピンクだし……もしかして別の花? いや、でも時期的にはいまだよね……まあツツジにも濃いピンクのがあれば、オレンジっぽいのもあるし。……でもなあ」

 どうやら花の名前について考えていたらしい。
 こんなに素早く手を動かしながら器用なことだ。不器用で何につけ要領の悪い僕は、描きながら喋る彼女に感心した。

「……アザレア」

 何となく……本当に何となく、彼女に教えてやりたくなりぽつりと答えた。
 ごく小さな声だったのだが、相手はこちらが驚くほど勢いよりく振り返った。アーモンド型のくっきりと綺麗な二重の目が、僕をとらえて大きく見開かれる。その動きは花びらがゆっくりと開く様子とよく似ていた。目が離せない、神聖な美しさがあった。

「え……なに?」
「その花の名前。アザレアっていうんです」

 羽子さんの絵を指さして言うと、彼女はまだギクシャクとした動きで頷いた。

「あ、ああ。花の名前ね。そっか。やっぱりツツジじゃないんだ……」
「ツツジの仲間です。西洋ツツジと呼ばれることもあります。あとはサツキやシャクナゲもツツジ属だったかな」

 僕の曖昧な部分もある説明に、相手は何度か瞬いたあと微笑んだ。少し警戒の解けたような表情だった。
 もしかしてこれは、以前会ったことを忘れられているのだろうか。

「へえ、知らなかった。きみ、花にくわしいんだね」
「いえ。図鑑で見たことがあるだけで、特に詳しくは」
「充分詳しいって。そっかあ。これはツツジじゃなかったか」

 描き途中の絵をながめ、彼女はどこか残念そうに呟いた。
 ツツジを描きたかったのだろうか。だとしたら、アザレアであると説明したのは余計なお世話だったかもしれない。僕はほとんどの場合、相手の気持ちに寄り添った言動を取れず、傷つけたり怒らせたりするのだ。

「すみません」
「え? 何で謝るの? 教えてもらえて良かったよ。ツツジじゃないなら意味ないし」

 さらりと言った彼女に、僕はパチパチと瞬きした。

「意味、ないんですか」
「うん。アザレアだっけ? それに思い出はないからね」

 軽く肩をすくめると、彼女はおもむろにアザレアを描いたページを破りとった。
 どうするのだろうと見ていると、彼女もじっと僕を見返してくる。

「何か……きみ、会ったことある?」

 やっぱり忘れられていたか。
 なぜか、自分だけが彼女を覚えていたことを残念に思う自分がいる。この奇妙な感覚は何だろう。寂しいような、苦しいような、とにかく落ち着かない気持ち。
 そのとき憩いの庭に強い風が吹いた。

「きゃっ」

 いたずらな風は、彼女の手から絵を抜き取り舞い上がらせる。
 やがて風が止むと、白黒のアザレアは緑の葉が生い茂る木に引っかかっていた。

「あらら。どうしよう。あの高さじゃ届かないよね」
「……取ってきましょうか」
「いや、そこまですることは……って、ちょっと君」

 僕は彼女の返事を聞く前に、木の根元へ向かった。
 根の近くから二股に別れた木は、枝もしっかりしていて登りやすそうだ。体の力加減が人より難しいので、あまり運動は得意なほうではないのだが、木登りくらいは出来る気がする。

 そう考えてはじめて、木登り初体験であることに気がついた。子どもの頃から、怪我を負いそうな危険なことはさせてもらえなかった。高い遊具に上ることや、刃物を扱う工作等もだ。いまだに料理もまともにさせてもらえない。
 許可されているのは、母の作った料理をレンジで温めることくらいだ。それは幼児である妹にだってできる。

「ねぇ、無理して取りに行くことないって。危ないよ」
「無理とか、特にしてないです」

 そう答え、僕は太く安定していそうな枝に手をかけ登りはじめた。見栄を張っているわけでも、意地を張っているわけでもない。取った方がいいな。そう思ったから登ることにした。
 登り始めてすぐ、気のせいか、ひんやりとして乾いた樹皮の感触に気分が高揚するように感じた。ふと目線を下に向けると、彼女がハラハラした様子でこちらを見上げていた。下で待っているだけの彼女のほうが、恐がっているように見える。

 高い枝まで来ても、僕は恐怖を感じなかった。ノーへルメットでバイクに乗っても感じないのだから、自分の中にそういう感情ははじめから備わっていないのかもしれない。
 痛みと恐怖は直結しているのだろうか。
 本当に自分は心も体も欠陥だらけだなと思いながら、揺れる枝の上を這い上がる。その先にある絵に手を伸ばしたとき「こら!」と突然風船が破裂したような声が響いた。

「う、わっ」
「危ない!」

 驚いた拍子に体勢が崩れる。
 枝が大きくしなり、ひっかかっていた絵がひらりと宙に舞った。それをつい追いかけるように手を伸ばすと同時に、みしりと嫌な音が響く。直後バキリと枝が折れ、僕は枝もろとも地面に落下した。

 肩を打ちつけ無様に転がる。それなりに衝撃はあったが、やはり痛みはない。
 白い雲が泳ぐ空を見上げながらただ、かっこ悪いなと思った。

「虹くん! 大丈夫!?」

 青空を遮るように顔を出したのは、白い看護服を着た女性だった。
 母の後輩看護師の吉村さんだ。いまは部署がちがうらしいが、以前はよく吉村さんのドジっぷりを母に聞かされていた。忘れ物が多い母とどっこいどっこいだと思っていたのは秘密だ。

「吉村さん……お久しぶりです」
「お久しぶりです、じゃないよ! 何やってるの! 木登りなんて危険なことしちゃダメでしょ! ああ、ほら! 血が出てる!」

 吉村さんに左手を指され、はじめて出血していることに気がついた。折れた枝がかすったのか、地面にぶつけたせいか。

「あのねえ。いくら痛みがわからないからって、大怪我をしたら死ぬこともあるんだよ? 無痛症でも身体の作りは一緒なの! わかってる?」

 丸い頬をさらにぷくりと膨らませ、吉村さんが怒っている。
 黒目がちな吉村さんがそうしていると、ハムスターに見えてきた。ハムスターが怒っても、多分誰も怖いとは思わないだろう。母が、吉村はどうしようもないドジなんだけど、小動物っぽくて憎めない、と言っていたのが少しわかる気がした。
 僕が落ちたのも吉村さんが突然大声を出したせいなのだが、本人にはまったくその自覚はないようなので、僕も黙っておく。

「ちょっと。虹くん聞いてる?」
「はあ。すみません」
「もー! 相変わらず覇気がないなあ。頭は打った? 目眩がするとか、気分が悪いとかある?」
「いえ、特に。頭も打ってません。打ったのは肩かな」

 肩を動かしてみたが、違和感はない。僕は元々鈍いので、違和感があっても気づかないかもしれないが。

「ちょっと見せて。……異常はなさそうだけど、あんな所から落ちたんだから検査してみないとわからないね。すぐストレッチャー持ってくるから、虹くん絶対に動かないでよ?」
「大丈夫ですよ」
「君の大丈夫ほど信用できないものはない! 何かあったら先輩が悲しむでしょ! いいからおとなしくそこにいて!」

 ビシリを指を突きつけられ、起き上がりかけていた僕は地面へと逆戻りする。
 逆らっても、吉村さんにかける迷惑が増えるだけだろう。

「はあ……」
「羽子ちゃん、悪いんだけど虹くんが動かないよう見張っててくれる? すぐ戻るから!」

 言うや否や、吉村さんは返事も聞かずに憩いの庭を飛び出していった。
 仕方なく、地面に転がったまま空を見上げる。木登りをして落ちたことはすぐに母に伝わるだろう。怒られるだろうな。
 妹の迎えをどうしようかとぼんやり考えていると、横からぼそりと声がした。

「大丈夫?」

 大きな目が、僕を見下ろしていた。
 大丈夫か聞いてきたくせに、羽子さんは大して心配そうではない。未知の生物を観察するような目で僕を見ている。

「大丈夫です」
「でも、血が出てる」
「痛くないんで」

 僕が答えると、羽子さんはぐっと眉を寄せた。なぜか僕より羽子さんが痛そうな表情をしている。妹が転んで痛みに耐えているときと同じ顔だった。

「思い出した。きみ、前に会ったよね。備品庫で」
「はい。あのときはありがとうございました」

 思い出してもらえたことにほっとする。何となく、胸のあたりが柔らかいものに包まれた感じがした。どうしてそう感じたのかわからず、少し戸惑う。

「……痛みがわからないって、無痛症っていうんだね」
「はい」
「本当に、痛みを感じたことがないの?」
「はい」
「ちっとも?」
「はい。ちっとも」

 何か気になることがあるのだろうか。
 羽子さんは爪を噛み、何だかイライラしているようにも見える。

「それって、どんな痛みでも? 交通事故で骨折したり、病気で内臓がボロボロになっても、痛くないの?」
「交通事故に遭っても病気になっても、僕は死ぬそのときまで痛みがわからないと思います」

 僕の答えに納得がいかなかったのか、羽子さんはくしゃりと顔を歪めた。それはいまにも泣き出しそうな表情にも見えた。
 羽子さんは白いハンカチを取り出すと、僕に差し出した。血を拭けということだろうか。
 けれど真っ白なハンカチを汚すのは躊躇われて受け取れずにいると、彼女は強引に僕が怪我をした部分にハンカチを押し当ててきた。

「いいなぁ……」
「え」
「痛くないって、いいなぁ」

 それは過去に何度も言われてきたことだった。
 痛くないって最高じゃん。便利じゃん。羨ましい。無痛症になってみたい。そんなふうに僕のこの厄介な体を羨ましがる人は少なくない。
 けれどそのどれよりも、彼女の「いいなあ」は切実に響いた。僕の鈍い心をも震わせるほどに。

「虹くん、お待たせ!」

 どう返そうか迷っていると、吉村さんが他の看護師を連れてストレッチャーを運びながら戻ってきた。母ではなく顔なじみの看護師で、きみは何をやってるの、と言いたげな呆れと怒りを半分ずつ混ぜたような目を向けられる。
 僕にできるのは「お手数かけます」と頭を下げることだけだ。

「ありがとう羽子ちゃん。あなたもそろそろ病棟に戻らないと。ひとりで戻れる?」
「私は大丈夫。早く行ってあげてください」

 吉村さんを安心させるように、羽子さんは笑った。
 彼女に見送られ、僕を乗せたストレッチャーがガラガラと音を立てながら憩いの庭を後にする。
 運ばれる僕の目に最後、落ちたアザレアの絵を拾う羽子さんの姿が映った。