痛いの痛いのどこへゆく


『羽子ちゃんの衰弱が激しいの。担当の先生も、明日何があってもおかしくない状態だって。本当ならベッドから起きることさえ難しいはずよ。最後は穏やかに過ごしてほしいのに……見てられないわ』

 僕を病室から出すと、吉村さんは苦しげに言って、また羽子さんの病室に戻っていった。
 恐らく、休むよう彼女を説得するつもりなのだろう。羽子さんはきっと拒むだろうが。だって、痛みがなくなった彼女は無敵だ。一瞬だって迷うことはない気がする。
 けれど、吉村さんが教えてくれた現状に、僕の心には迷いが生まれてしまった。
 本当にいいのだろうか。このまま彼女の痛みを肩代わりし続けるのは、正しいことなのだろうか。

 痛みだけでなく、病気も肩代わりできれば問題はなかった。だが実際は、痛みが消えているだけで病気は音もなく進行し続けている。むしろ僕が痛みをとることで、彼女の寿命を縮めているのだろう。
 羽子さんの望みを叶えるために、僕は彼女の痛みを引き受けてきた。けれどこのままでは結局、彼女の望みは叶わないかもしれない。
 正解がわからない。彼女のごくわずかしかない余命を考えると、間違った選択をするわけにはいかないのだ。そう考えると、あまりの重大さに手が震え始めた。
 怖かった。僕は生まれてはじめて、恐怖というものを本当の意味で理解した。その恐怖が、僕を食い尽くそうとする痛みから辛うじて意識を繋ぎとめていた。

 ふらふらと覚束ない足取りでエレベーターへと向かう途中、なぜか視線が吸い寄せられたのはある扉だった。工事中だった例の部屋だ。いまは立ち入り禁止の札も、フロアサインも消え、扉はきちんと閉じられている。
 救いを求めるように、僕の手はドアノブへと伸びた。施錠されているかもしれない、という考えは浮かばなかった。
 まるで僕を待っていたかのように、扉はスムーズに開き、真っ白な空間へと招き入れてくれた。

「……やあ。また会えたね」

 真っ白な部屋の真ん中に置かれたベンチには、あのときと同じ、くたびれた白衣の医者がいた。
 長い前髪の隙間からこちらを見つめる灰がかった目。その優しさにほっとしながら、僕はおじいちゃん先生に歩み寄り、彼の隣りに腰かける。

「脱走は上手くいったかい?」
「結果は知ってますよね。……あれは、上手くいったと言えるんでしょうか」
「少なくとも、失敗ではなかったんじゃないかな。君たちの目的は果たされたんだろう?」

 確かに目的は果たされた。彼女の最後に描きたいものが見つかったのだから。
 だが、それを含めて失敗だったのではないか。僕はそう思い始めてしまっている。

「先生。僕は、どうするのが正解なんでしょうか」
「正解?」
「手当を……先生に教えてもらった手当をすると、羽子さんの痛みが楽になるみたいで。でも痛みがなくなると、羽子さんは無理をするから」

 自分の手の平をじっと見下ろす。まだ微かに震えていた手を、ぎゅっと握りこんだ。

「羽子さんが……死にたいって言ったんです」
「……そうか」
「このまま彼女の背中を押し続けていいのか、それとも止めるべきなのか。わからなくなったんです。少し前までは僕も、迷ったりしなかったのに……」

 僕の言い訳じみた告白に、おじいちゃん先生はすぐには答えなかった。
 彼は以前もそうしていたように、天井付近の窓から差し込む、眩い光を浴びながら遠くを見ていた。日当たりがいいのか、この光が部屋全体をより一層白く輝かせている。あまりに眩しく、天井近くの壁に時計か何かがかけられているが、光にのまれはっきりと見えないほどだ。

「怖くなった?」
「え?」
「椿坂羽子さんの死期がいよいよ迫ってきたのを感じて、怖くなったんだろう?」
「……そうです」

 羽子さんは死ぬ。それは初めからからわかっていたことだ。なのになぜ、僕はいまになってこんなにも怖ろしく感じているのだろう。

「怖くて当然だよ。大切な人の死は、誰にとっても恐怖だ」
「大切……」
「ましてや、自分の行動が彼女を死に追いやることになるかもしれないというなら、それはもう自分が彼女を殺すように思えてしまっても仕方ないよ」

 おじいちゃん先生の声はからからに乾いて聞こえるのに、なぜか僕の中に水のようにじんわりと染みこんでいく。
 不思議な感覚だった。僕は彼の言葉に慰められ、癒されているのを感じた。心の痛みが引いていくかのように。

「正しいか、正しくないか。それは多分誰にもわからない」
「先生にも、わからないんですか」
「わからないね。だってそれは、人によって変わるだろうからね。君が正しいと思っても、彼女にとっては正しくないかもしれない。彼女の家族にとっては? 友人にとっては? 担当看護師にとってはどうだろう?」
「わからない……ですね」

 自分の心の声だってよく聞き取れないのに、他人の考えや立場や、ましてや正解なんて気が遠くなる。
 おじいちゃん先生は「だろう?」と苦笑し、呼吸ともため息ともつかない息を吐き出した。

「ただ、間違いなくはっきりしているのは、君が手当てを止めると、彼女はもう絵が描けないということだ」

 ずしりと重く響いた言葉。僕はひとつ頷くのに随分と時間がかかった。

「そして絵が描けても描けなくても、彼女は近々息を引き取る。それを踏まえて、君はどうしたい?」
「……あぁ」

 耐え切れず、僕は両手で顔を覆った。
 わかりきっていたことだ。なのに僕は、海から病院へと戻り、羽子さんのお母さんに責められたとき、まだ本当の意味でわかっていなかった。
 いや、知る覚悟がなかったのだ。
 鈍くいれば、それは事実として通り過ぎていくだけで済む。僕はそれに動揺するどころか、何も感じることのないまま、また生きている実感の持てない日々を歩いていくだけ。
 色のない、味のない、痛みのない人生を。羽子さんのいない世界を一生。
 それはとても——。

「綿谷虹くん」
「……はい」
「君は、生きるとは、どういうことだと思う?」

 僕を慰めるように、労わるように、励ますように背中に置かれた手。
 それはぽかぽかと、陽だまりのように温かかった。

「……喜び」

 自然と、口からそんな言葉がこぼれていた。

「生きるとは、喜びあること……だと、思います」

 そうだ。羽子さんが教えてくれたのだ。
 僕をからかう声。いたずらっぽい笑顔。僕を振り回す無邪気な提案。飾らない嘘のない本音。僕を頼る細い腕。筆を離さない力強い手。命を燃やして輝く瞳。
 はじめて、僕の深いところに触れてきた、椿坂羽子という人。
 僕に喜びを教えてくれた、喜びそのものになってくれた、特別な人。

 だから僕は、最後に彼女に喜びを返したい。

「ありがとうございました」

 僕はたぶん、部屋に入ってきたときよりもすっきりとした顔をしていたのだろう。
 おじいちゃん先生は「答えが出たようで良かったよ」と、慈愛のこもった声で言った。

「最後まで、椿坂羽子さんをよろしく頼むよ」

 医者に頼まれるのもおかしな話だなと思いながら「先生もよろしくお願いします」と返す。
 その途端、おじいちゃん先生は咳きこんだ。苦しそうな咳はなかなか収まらず、彼は白衣からハンカチを取り出し口に当てると僕に手を振った。

「移るといけない。もう行きなさい」
「風邪でも引いてるんですか」
「まあ、そんなものだよ。さあ、行って。……がんばれよ」

 咳きこみながら励まされ、僕は少し気になりながらもベンチから立ち上がる。
 白い部屋を出るとき、おじいちゃん先生を振り返った。
 彼は僕に背中を向けたまま、まだ咳きこんでいた。小さく丸まった背は細く、咳をするたび崩れていってしまうように見える。きっと緩和ケア医には、僕には想像もつかない苦労と苦悩があるのだろう。

 疲れ切った兵士のような医者の背中に、僕は深く頭を下げ、白い部屋をあとにした。