痛いの痛いのどこへゆく


 目が覚めると、最近見慣れつつある部屋の天井が映った。
 柔らかすぎて体が沈むベッドには、司狼の煙草の匂いが染みついている。体を起こすと、部屋の主の姿は見当たらなかった。
 ベッドしかない殺風景な空間で目が覚めるのは、これで何度目になるだろうか。
 呼吸もままならない痛みはもう消えていた。ほっとすると同時に、いま頃は羽子さんに痛みが戻ってしまっていると考えると胸が苦しくなった。
 たぶんこれを、胸が痛い、と表現するのだろう。本当に痛いわけではないのに、確かに、痛い。

 カーテンのない窓から見える、街のネオンをぼんやり眺めていると、言い争うような声が聞こえてきた。
 ベッドを降り、そっとドアを開け廊下をのぞき見る。
 玄関で、司狼が黒いスーツの男たちと向かい合っていた。穏やかではない雰囲気で、双方いまにも相手を殺しそうな目つきをしている。
 司狼が顔を出している僕に気づき、「すっこんでろ!」と叫んだ。そのまま男たちを突き飛ばす勢いで追い出そうとする。

「甲斐。いつまでも許されると思うな。そろそろ立場はっきりさせねぇと、次の朝陽は拝めらんねぇぞ」

 ドスの利いた声で言うと、黒いスーツの男たちは司狼に何かを押しつけ去っていった。
 僕の見まちがいでなければ、それはたぶん、引き金を引いて人の命を奪う危険な代物だった。日本では普通所持できないもののはずだ。
 司狼はそれを面倒そうに靴箱の中に放りこみ、音を立てて戸を閉めた。雑な扱いに目を丸くしている僕を振り返り「何勝手に出てきてんだよ」と文句をつけてくる。

「出て来ちゃダメだって言われたっけ」
「言われてなくても出てくんな」
「難しいこと言う。……司狼、それどうしたの」

 左手から血がしたたり落ちているのを見つけ、思わず問いかけた。
 よく見れば、服は薄汚れ髪も乱れている。僕が意識を手放している間に、どこかに出かけていたようだ。

「どっかで引っかけたんだろ。たいした傷じゃねぇ」
「痛い?」
「別に……って、おい。やめろ」

 傷の程度を見ようとして手を伸ばした僕を、司狼は嫌そうに押しのけた。

「余計なことすんな。俺は死にかけの病人じゃねぇぞ」

 血走った目で僕を睨み、手負いの狼はバスルームへと消えていった。ひどく殺気立っている。
 怪しいものが封印された靴箱を振り返る。いったい外で何をしてきたのだろう。

「余計なこと、か」

 以前はよく、喧嘩三昧だった司狼の怪我の手当てをした。僕自身怪我をするのは日常茶飯事だったので、手当には慣れていたのもある。司狼は僕にされるがままだった。もっと丁寧にやれ、と文句は多かったが。
 拒まれたのはたぶん、初めてだ。

 シャワーの水音が聞こえ始め、そういえば喉が渇いていたことを思い出した。リビングに移動しようとした僕の目に、床に落ちた司狼の血が映る。
 鮮やかな赤い色を見たとき、司狼が僕とつかず離れずいた理由がわかった気がした。


***


「もしかして、羽子のことで何か無理をしてるんじゃないですか?」

 病院のエレベーターホールで鉢合わせた羽子さんのお母さんが、僕の顔を見て挨拶より先にそう言った。
 どうやら僕は、相当やつれているらしい。羽子さんのお母さんは僕にあまり良い感情を持っていなかったと思うのだが、本気で心配してくれた。毎日見舞いに来てくれてありがたいが、無理はしないでくれとも言われた。

「無理はしてません。来たくて来てるだけなんで」

 僕の言葉に、羽子さんのお母さんは痛そうな顔をして「ありがとう」と頭を下げ帰っていった。羽子さんのお母さんこそ、随分やつれたなと思う。
 実際、無理をしているのは僕ではなく羽子さんだ。病室に行き、ソファーに沈み、看護師の吉村さんに「もう休もう」と説得されながらも、筆を離さない彼女を見て改めてそう思った。

「あっ。虹くん。羽子ちゃん、虹くんが来たよ」
「虹……」
「虹くん、羽子ちゃんたら休みなく絵を描こうとするのよ。薬も拒むし、全然言うこと聞いてくれないの」

 聞き分けのない子どもを持った母親のような口ぶりの吉村さんを、羽子さんが睨む。
 だが睨み続ける気力も足りないようで、すぐに顔を歪めて目を閉じた。食いしばった歯の隙間から、うなり声が漏れて病室に広がっていく。

「羽子さん」
「もうやだ……痛い……っ」
「うん」
「痛いのやだ……もう、死にたい……!」

 力を失くした羽子さんの手から、筆がこぼれ落ちる。

(ああ、とうとう……)

 ここまで来てしまったか、と思った。
 もしかしたら、羽子さんの口からその言葉が出ることは最後までないのではないか。生にしがみつき、絵を描くことに執念を燃やす彼女なら、どんなに辛くともそれだけは言わないかもしれない、と考えていた。
 けれど違った。当たり前だ。どんなに強くとも、羽子さんはごく普通の女の人だ。耐えがたい苦しみから逃れたいと思うのが、普通の人間なのだ。
 胸に訪れたのは落胆ではなかった。たぶん、迷いと罪悪感だ。
 僕は筆をを拾い、痙攣する彼女の手の中に戻し、上から覆うように握った。

「……痛いね、羽子さん。痛いの痛いの、とんでいけー」

 彼女の背を撫で、心で念じる。飛んで来い、と。
 彼女から飛んでいった痛いのが、僕の中に飛んでくるのをイメージする。強く、はっきりと。

 やがて僕の体に苦痛の塊が落ちて来て、その衝撃に意識が飛びそうになる。だが「ごめんね」と呟いた声に引き戻された。
 羽子さんが目に涙を浮かべながら僕を見ていた。

「どうしてかな……。虹に背中を撫でてもらうとね、嘘みたいに痛みが消えるの」

 私の特効薬だね、と羽子さんは笑った。
 僕はその笑顔に、どうしてか胸がいっぱいになった。不思議な感覚だ。温かくて、少し苦しくて、悲しいに似てるのに、嬉しい。
 言葉が出ない僕を見て、羽子さんは一瞬目を見開いたあと、もっと嬉しそうに笑った。どうして彼女がそんな顔をするのか、僕にはわからなかった。

「もうすぐ完成する。そしたら虹に、一番に見せるからね」

 羽子さんは気合を入れ直したように危なげなく立ち上がると、キャンバスに向かった。ベッドは私の居場所ではない、とその背中が言っている。
 引き受けた痛みに意識を朦朧とさせていると、吉村さんに呼ばれた。

「虹くんがいると、羽子ちゃんはりきっちゃうみたいね。とりあえず、病室出ようか」
「……はい」

 不審に思われないよう廊下に向かって歩き出したが、一歩踏み出すたびに膝から崩れ落ちそうになる。今日は司狼には用事があると断られていたから、僕ひとりだ。倒れるわけにはいかない。
 本当に、こんな痛みを抱えて羽子さんはよく筆を持てたと思う。
 羽子さんは、僕が考えていたよりもずっと普通の女の人だった。
 でも、それがわかっても僕の中の羽子さんは輝いている。輝きは弱まるどころか、どんどん強くなっていた。
 あの細い体を燃やし尽くさんばかりに強く、激しく。