痛みさえ愛しい恋だった【7月新刊発売予定】

 まるで小さな子どもが癇癪を起しているかのように、羽子さんはイヤだイヤだと泣き叫ぶ。
 あまりの痛みに、精神が逆行してしまったのかと思うほど、彼女は取り乱していた。僕は夜明けの海で味わったあの衝撃的な痛みを思い出し、そうなるのも当然のことだと腹の辺りに手をやった。

「眠っていいの、羽子。眠るべきなの。薬が効いてるうちに、少しでも休まないと——」
「寝たくないんだってば! 寝たら絵が描けないでしょぉ……っ」
「お姉ちゃん……」

 痛いと泣きながら、筆をたぐり寄せ握りしめる羽子さん。
 姉のその姿に、青子さんは目に涙を浮かべ、途方に暮れた顔で立ち尽くしている。

「描きたいの……描かせてよぉ……うー」

 僕はというと、子どもになってしまったような羽子さんを、ただじっと見つめていた。
 命がけでわがままを言う羽子さんの姿は、眩しかった。痛みに抗いながらキャンバスにすがりつく羽子さんは、熱く光り輝いていた。
 薬を追加すれば、痛みから解放される。彼女曰く、死にたくなるほどの痛みから。
 それなのに薬を拒否し、痛みを受け入れるのは、彼女が生きているからだ。いまを必死に、全力で生きているからだ。

 圧倒的な命の輝きを前に、僕の手は自然と伸びていた。

「羽子さん」

 声をかけると、彼女はハッとしたように僕を見上げ、僕が触れる前に強くしがみついてきた。

「こ、虹……虹……」
「うん。僕だよ」
「虹、助けて……私ね、描きたいの」
「うん」
「薬はイヤなの……描きたいの……助けて、虹」
「うん。わかってるよ」

 僕はそっと、彼女の骨の浮いた背に手を当てた。
 ゆっくりと、ボコボコとした背中を撫でる。

「大丈夫だよ、羽子さん。ちゃんと薬が効いてくるはずだから」
「薬はイヤぁ……」
「わかってる。眠くはならないよ。でも痛くなくなるよ」

 羽子さんの体がどんどん熱を帯びていく。
 いや、熱くなっているのは羽子さんではなく、僕の手のひらか。手のひらが、燃えるように熱い。いま僕は、彼女の命に触れようとしている。

「痛いの痛いの……」

 飛んで、こい。
 腕の中にいる羽子さんにさえ聴こえないくらいの声で囁く。何度も、丁寧に、繰り返し囁く。
 彼女を苦しめる痛みの全てよ、僕の体に——。

 どれくらいそうしていただろう。
 やがて羽子さんの震えが止まり、うめき声が止み、呼吸が落ち着くと、彼女はゆっくりと顔を上げた。

「羽子……?」

 羽子さんの母親の声に、彼女はぼんやりとした調子で「痛く、ない」と呟いた。

「痛くない。痛くない!」

 力強い叫びとともに、羽子さんが勢いよく立ち上がる。
 彼女はわきめもふらず、床に散らばった絵の具をかき集め、イーゼルを立て直し、キャンバスをセットした。
 パレットと筆を手に、しっかりとふたつの足で立つ姿は、先ほどの彼女からは想像もつかないほど安定して見える。

「ど、どうしたのお姉ちゃん」
「痛みが落ち着いたなら、少し休んだほうが……」
「痛くないうちに描かなきゃ! ちょっとでもいいから、描きすすめなきゃ!」

 消えかけたろうそくの火が、再び強く大きくなったような姿だった。
 だが溶けた蝋が戻ることはない。火が大きくなればなるほど、蝋は無情なスピードで失われていく。
 終わりは近い。わかっていても、わかっているからこそ、羽子さんは迷わない。
 僕にできるのは、羽子さんの火が小さくなって消えてしまわないよう、痛みという邪魔な風を僕の体で防ぐことだけだ。

 一心不乱に筆を動かす羽子さんに、もう声をかけられる人はいなかった。
 僕は母をうながし、そっと病室を出る。彼女に声はかけなかった。かける言葉は見つからなかったし、必要もないと思った。

「あんた……あんな風に、人と接することができるようになったのね」

 エレベーターの中で、母がぽつりと言った。
 僕は言葉を返せない。母もそれは期待していないようだった。

「何も言わないし、止めないわ。あんたの好きにやりなさい」

 なぜか少し嬉しそうに、それでいて寂しそうに言うと、母は先に帰っていった。
 祖母の家に預けている妹を迎えに行く前に、少し仮眠するらしい。僕は寄るところがあると言った。本当に、母は何も言わなかった。

 母の姿が見えなくなってから、僕はフラフラと歩き出した。
 意識は朦朧としていたが、足は勝手に動き、僕をどこかへと運んでいく。
 たどり着いたのは、花の香りがする明るい場所だった。見覚えがあると思ったら、羽子さんと出会ったあの憩いの庭だった。
 彼女の座っていたベンチに向かう途中で、僕の体は限界を迎え、地面に崩れ落ちる。

「……いた、い」

 乱れた呼吸の合間にうめく。

「痛い……」

 夜明けの海で味わった以上の痛みが、僕の全身を襲っていた。
 死んだほうがマシ、と彼女は言った。でも僕が死んだら、誰も彼女の痛みを肩代わりすることはできない。
 この痛みは、生だ。また彼女の元へ戻ってしまわないよう、しっかりと抱えて離さない。離したくない。

「痛い……ううー」

 瀕死の虫のように丸まって呻いていると、花の匂いが少し苦くて甘ったるい匂いに変わった気がした。
 じゃり、と砂を踏む音がして、誰かが傍に立った。必死に目だけ上に向けると、穴だらけのジーンズと、ゴツゴツした指輪だらけの手が見えた。

「何やってんだ、お前」

 あきれているのか、怒っているのか、笑っているのか、よくわからない調子の声。
 司狼がしゃがみこみ、僕の顔をのぞく。咥え煙草の幼なじみは、やはり表情の読めない顔をしていた。

「死ぬのか、虹?」
「……死、なない」

 やっとの思いで答えた僕に、幼なじみは皮肉気に笑って苦い煙を吹きかけた。