痛みさえ愛しい恋だった【7月新刊発売予定】

「どうした、虹」

 司狼が煙草を投げ捨て、そばに来る。
 僕は「痛いんだと思う」としか言えない。

「羽子さん。薬は? 持ってきてるよね?」
「ううーっ」

 僕の問いに答えられないくらいの苦痛らしい。
 羽子さんの顔にはあぶら汗が浮かび、目からは涙がこぼれていた。

「救急車呼ぶか? それとも連れてったほうが早いか。こっから近い病院、どこだっけか」

 淡々と言いながら、司狼がスマホを操作し始める。
 僕は何をしたらいいのだろうか。わからない。痛いとは何だ。痛いとき、普通の人はどうするのが——。

『椿坂羽子さんが痛みを訴えたら、君が手当てするんだよ』

 頭に、おじいちゃん先生の声がよみがえった。
 自分の手の平を見下ろす。そうだ、手当だ。人は痛いとき、痛いところに手を当てる。

「羽子さん。どこが痛い?」

 尋ねても答えはなかった。
 返ってくるのはうめき声ばかり。もう彼女には僕の声も聞こえていないのかもしれない。痛みは、聴覚や視覚も奪うほどの威力があるのか。
 仕方なく、僕はいちばん撫でやすい背中に手を当てた。
 骨の浮いた頼りない背中を、ゆっくりと時間をかけて上下に撫でる。これでいいのだろうかと、不安に思いながら手を動かす。

 誰か教えてくれ。どうしたらいい。痛いときは、どうやってやるのが一番いい——。

『痛いの痛いの、とんでいけー!』

 妹の声が頭の中でよみがえった。
 そうだ、おまじないだ。痛いときにする、痛くなくなるおまじない。
 羽子さんの骨の凹凸を感じながら、しっかりと背中を撫でて呟く。

「痛いの痛いの、飛んで——」

 彼女から手を離した途端、僕は固まってしまった。
 この手をどこにやればいいのかわからない。妹は短い腕をピンと伸ばして、痛みを天井に向けて放っていた。僕も暗い夜空に向けて放てばいいのだろうか。
 そうやって放った痛みは、一体どこへ行くのだろう。まったく見知らぬ赤の他人の体にでも飛んでいくのだろうか。
 もしそうだとしたら——―。

「痛いの痛いの……飛んで、こい」
 手のひらは、僕の胸へと向けた。
 僕のところに来ればいい。痛みを知らない僕の元へ。
 僕は知りたい。ずっと知りたかった。痛みとはどういうものなのかを。
 羽子さんが感じている痛みを知りたい。彼女が何と戦っているのかを知れば、同時に“生”とは何かも知ることができるような気がした。少なくとも、もっと近くに行くことはできるはずだ。

「痛いの痛いの、飛んでこい」

 これでは誰に対するおまじないなのかわからないが、僕は止めなかった。
 羽子さんの背を撫で、おまじないを繰り返す。そして何度目かのおまじないを口にしたとき、それは訪れた。

「痛いの痛いの、飛ん——っ⁉」

 それは衝撃、と表現するしかなかった。
 突然、体の中を鈍器で殴られたような衝撃に襲われた。昔、司狼の知り合いにバッドで殴られたことがあるのだが、そのときの感覚に似ている。物凄い勢いで床に倒れ、頭がぐらんぐらんと回り、立てなくなったあの感覚。
 似ているが、あのときの比ではない。何度も何度も体の内側が殴られている。それは脈動にも近い。ズグンズグンと鈍い音が響くようだった。

「……あ、れ? 私、どうして」

 すぐそばで、羽子さんの声がした。
 直前まで意味のある言葉を発せなくなっていた彼女が、呆然と自分の体を見下ろしている。

「痛くない……?」
 羽子さんがそう呟いたとき、視界が突然明るくなった。
 彼女がハッと顔を上げる。白い横顔が眩しく輝くのを見て、僕も止まない衝撃に耐えながらその視線を追った。

 それは、日の出ではなかった。
 太陽はとっくに昇り、水平線から完全に離れたあとだった。だがその昇った太陽が、僕らの前に軌跡を降ろしていた。
 厚い雲の隙間から、いくつもの光の梯子が海に降りている。
 昇っておいで、と僕らに語りかけるような、温かで優しく、美しい光だ。

「天使の梯子……」

 きれい、と羽子さんが呟く。
 長いまつ毛が震えている。彼女はキラキラと輝く瞳を、限界まで見開いていた。
 目の前の光景をその瞳に焼き付けようとするように。

 日の出を見ることは叶わなかったが、彼女の望んでいた光景を見つけることはできたみたいだ。
 食い入るように空と海を繋ぐ梯子を見つめる彼女の姿に安堵し、僕はゆっくりと崩れ落ちた。

「ぐぅ、うぅ……っ」

 口からよだれと一緒にうめき声がこぼれる。
 自然と体が胎児のように縮まった。体の中心を両手で強く掴む。見えない衝撃を押さえようとするかのように。

 何なのだ、これは。
 僕の体はいま、どうなっているのか。
 僕は、死ぬのだろうか。

「虹⁉」

 司狼の声がした。

「どうした、虹! 何があった!」
「え……な、何? 虹、どうしたの!?」

 司狼の声が、珍しく焦っている。
 僕の異変に気付いたらしい羽子さんの声は、戸惑っているようだった。
 視界が霞み、ふたりの顔がよく見えない。僕の肩をつかむ大きな手は司狼のものだろうか。

「おい、虹! 何とか言え!」

 司狼。僕の体が変なんだ。内側から壊れていきそうなんだ。
 そう言いたかったが、口から洩れるのはやはりうめき声ばかりで、ちっとも意味のある言葉にできそうにない。つい先ほどまでの、羽子さんのように—―。

 ああ……そうか。
 薄れゆく意識の中で、僕は初めて理解した。
 これが、痛みなのだと。