人の形をしたサンドバッグが歩いていたら、誰でも殴りたくなるのだろう。
殴られても声を上げないし、痛がりもしない。おまけに歩けるくせに逃げもしないのだ。僕は殴ろうとは思わないが、むしろ殴ってみたくなるほうが普通なのかもしれない。
腹を殴られ、軽く後ろに吹き飛ぶ。背後の机に背中を打ち付け、積まれたイスが落ちてきて頭に当たった。打ち付けたのも当たったのもわかるが、わかるだけで痛みはないので、僕は無感動にその事実を受け止めた。
どれだけの力で殴られようと痛みはないが、衝撃をゼロにはできない。むしろ力の加減が難しいので、訪れるだろう衝撃を推測し、踏ん張るというのは僕にとっては至難の業だ。そんな難しいことを当たり前にできる人たちを尊敬する。
「何見てんだよ、てめぇ」
僕を殴った男が、汚物を見るような目で見下ろしてくる。汗をかいているということは、この部屋の窓は閉まっているしクーラーもないので蒸し暑いのだろう。
「相変わらず何考えてんのかわかんねーツラしやがって」
「何も考えてねんじゃね? いくら殴られても痛くないんだから、ロボットみたいなもんだろ」
備品庫に僕を連れこんだ上級生の男たちが笑う。何がおかしいんだろうなと、三人を見上げながら首を傾げると、その反応が良くなかったのか今度は足を思い切り踏みつけられた。
やはり痛くないので、僕を踏みつける上級生の上靴を黙って見つめていると、今度は「気持ちわりぃ」と頬を平手打ちされ、一瞬くらりとした。くらりとしただけで、もちろん痛みはない。
僕は痛みを知らない。
比喩的な表現ではなく、生まれてこの方痛みというものを感じたことがなかった。
【無痛症】
正式名称、先天性無痛無汗症。
英語ではCongenital Insensitivity to Pain with Anhidrosis、略してCIPA。
運動麻痺を伴わない、全身の無痛を主症状とする疾患のことだ。症状には個人差があって、僕の場合は無痛で、ほとんど汗もかかない。例えば怪我をしても気づかないし、虫歯になっても痛みがないのでわからない。盲腸になっても気づかないまま、破裂して死ぬかもしれない。そういう厄介な体質なのだ。
僕が無痛症であることは、高校入学当初から学校中に知れ渡っていた。小・中と、僕に怪我をさせないよう学校側が同級生たちに周知してきた結果だ。ある程度僕自身が気をつけて生活できるようになったので、高校に進学してからは学校に特別な配慮は求めていない。だが同じ小・中学校からきている生徒は多いので、自然と噂で広まった形だ。
痛みを知っている人たちは、痛みがないという未知の感覚が理解できないと同時に、とても気になるのだろう。本当に痛みを感じないのか、と試してくる人間は後を絶たなかった。僕が抵抗しないからか、試す行為がエスカレートしていく人間も何人かいた。そのうちの三人が、目の前にいる上級生たちである。
入学してもうすぐ半年が経つが、僕への暴行を飽きずに続けているのはなぜだろう。まるでどうにかして痛めつけようとしているかのようで、それこそ僕には理解できない。
何をしたところでムダなのに。たとえ腕を引きちぎられたとしても、僕は痛みで声を上げることは絶対にないだろう。もしかしたら使える腕が一本なくなったな、くらいにしか思わないかもしれない。
僕には、その時自分がどんな感情を持つのかわからなかった。
「……あ? お前、なに腕触ってんだよ」
三人のうちのひとりが、僕を見ていぶかしげに眉を寄せる。
言われてはじめて、自分が右腕に触れていたことに気がついた。腕がなくなる想像をしていたからだろうが、そんなことは知らない上級生たちは顔を見合わせにたりと笑った。
「なんだよ。腕痛めたのか」
「ちゃんと痛ぇんじゃん。痛いなら痛いって言えよ。わかんねぇだろ」
「おら。どこが痛いんだ?」
右腕をつかまれ、力任せに引き上げられる。
これをやられると肩を脱臼しやすい。仕方なく立つと、腕をつかまれたまま脇腹を蹴られた。痛くはないが、一瞬息が詰まる。息が詰まると、ちょっと苦しい。苦しいと痛いは似ているのだろうか。
「痛いんなら声くらいあげろよ」
「つーか、痛み感じないってやっぱ嘘だったんだ?」
「でもこいつ、殴っても顔色ひとつ変えなかったじゃん」
「ずっと我慢してたんじゃね? アホくさー」
笑いながら、今度は膝を蹴ってくる。やはり痛みはないが、一瞬膝から力が抜けた。僕が体勢を崩しても、上級生は腕を離そうとしなかった。
歩くサンドバッグから、ジムにぶらさがるサンドバッグになったような気分でいると「なんだこれ?」と腕をつかんでいた上級生が僕のシャツの袖をまくり上げた。
「包帯巻いてるぞ、こいつ」
「なんだ、俺らにやられる前から怪我してんのかよ」
「って、うわ! なんだこの腕!」
汚ぇ!と叫び、上級生は僕を突き飛ばして距離をとった。
ほどけかけた包帯の下から、いくつかの丸い火傷が顔をのぞかせている。
「うえっ。きもっち悪ぃ」
「つか、あれ根性焼きじゃね?」
「おいおい。まさか自分でやったのかよ」
「俺ら以外にもこいつに手ぇ出してるやついるんだろ? そいつじゃねえの?」
問いかけているわけではないようなので、僕は黙っている。
彼らは僕に何か答えを求めたことはない。「痛いか?」と聞かれはするが「痛くない」と言っても彼らは満足しないのだから、ただ返事をすればいいという話ではないのだろう。
上級生たちが満足する答えは、きっと自分には一生出せないことを僕は知っていた。
「だったら俺らがやってもよくない?」
ひとりが制服のズボンから煙草の箱を取り出しながら言った。他のふたりは顔を見合わせ「マジで?」と少し不安そうに呟く。
殴ったり蹴ったりは笑ってするのに、火傷を負わせることには抵抗があるらしい。
痛くないことに変わりはないのに、と僕の中で謎は深まるばかりだ。普通の人の感覚はよくわからない。
「すでに誰かがつけてんだから、俺らがあとから増やしたところで同じじゃん?」
「まあ……それもそうか。先にやった奴のせいにしちゃえばいいもんな」
「確かにこいつにとっちゃ、いくら増えたって同じだろ。まじで痛みがわかんねぇんならさ」
火傷が公になった時の対処を話し合うと、三人は新しい遊びを見つけた顔で僕を見た。
「お前のその火傷って、右だけ?」
「他にもやられてんじゃねーの? 背中とか、服で見えないとこ」
「とりあえず全部脱げよ」
「学校で全裸とかやべー。ついでに動画撮ろうぜ」
ゲラゲラ笑う三人の腕が一斉に伸びてくる。
火傷は別に構わないけれど、全裸はさすがに嫌だな。どうしようかと考えた時、突然「ねぇ」と涼やかな声が響いた。
「誰だ⁉」
ぎくりとした様子で三人が周囲を見回す。するとスチール製の収納棚の影から、女子生徒が姿を現した。
長い髪の女子生徒は、スマホをこちらに向けながら近づいてくる。
「いまの話って本当?」
「何がだよ。つーか、勝手に撮ってんじゃねぇよ! 盗撮だぞ!」
「わたしが盗撮してるなら、あなたたちがしてるのは? 暴行? 傷害? それとも殺人未遂?」
自分よりずっと体の大きい男子に凄まれても、その女子生徒は怯む様子がない。スマホをこちらに向けたまま、逆に三人を追い詰めていく。
スマホで隠れて顔が見えないが、多分知らない生徒だ。なぜこんなところに女子生徒がひとりでいたんだろう。どうして僕を助けようとしているのだろう。
「さ、殺人なんてするわけねぇだろっ」
「こんなの、ちょっとふざけただけだっつーの」
「でも彼は怪我してるし、殴って当たり所が悪ければ死ぬでしょ。死んでから、殺すつもりはありませんでした、なんて言ったって遅いことくらいわからない?」
「うるせぇな! だから撮んなっつってんだろ!」
三人の内のひとりが女子生徒に手を伸ばした瞬間、備品庫の扉が勢いよく開かれた。
「何してるんだ!」
乱入者の怒声に、僕は誰よりはやく、上級生たちのお遊びの時間が終わったことを悟った。
同時に、表に出てしまった火傷の痕を隠さなければと思ったのだが、目の前の彼らはまだ僕の腕を離そうとしない。
困ったな、と僕は空き教室の入り口を窺った。
「あん? 何だ、てめぇ」
僕の腕を掴んだまま、男が入り口を振り返る。
「おい。まずいぞ。あいつ、二年の甲斐だ」
「甲斐って、父親が警察のお偉いさんだっていう? げぇ。やべぇじゃん」
三人が慌て出し、ようやく腕が解放された。
脱がされかけた制服を直そうとしていると「綿谷くん、大丈夫?」と、また別の女子の声が聞こえた。今度は相手が誰なのかすぐにわかった。僕に声をかけてくる女子は、そう多くない。
乱入者の後ろから顔を出し、おどおどしながら近づいてきたその女子生徒は、僕を見て短い悲鳴を上げた。
「け、怪我して……!」
「いや、たぶん大丈夫」
怪我をしていたとしても、僕自身にはわからない。腕の骨が折れていても、僕は平気でその折れた腕を使う。痛くないからだ。血が流れていたり、上手く動かないのを見てようやく、どこか怪我をしたのかと気づく。そういう体なのだ。
「どこかぶつけてない……?」
「平気だって、犬井さん。僕汚れてるだろうから、触らないほうがいいよ」
同じクラスの女子、犬井芙美香とそんなやりとりをしていると、その隙に上級生たちが一斉にドアへと駆けだした。
「おい! 待てよ!」
制止の声を振り切り、彼らは空き教室を飛び出しバタバタと走り去っていった。見事な逃げ足だった。幼なじみに、とろいだの鈍いだの言われる僕だとああはいかない。素直に感心してしまう。
「あいつら……!」
「泰虎。いいよ別に。たいしたことされてないし」
三人を追いかけようとした乱入者を止めると、切れ長の目に思い切り睨まれた。
僕の幼なじみのひとり、甲斐泰虎。泰虎は昔から模範的な優等生だ。小中と生徒会長を務め、成績優秀で生徒からも教師からも一目置かれている。友だちが多く、女子からの告白が後を絶たない人気者。およそ欠点の見当たらない完璧な人、と噂されているのを聞いたことがある。理想の男子で、彼氏にしたい男ナンバーワンだと。
だが幼なじみである僕は、泰虎がとても頑固で、潔癖で、そしてものすごく、時々辟易してしまうほど世話焼きであることを知っていた。
「虹。お前がそんなだから、ああいう奴らがつけあがるんだぞ。どうせろくに抵抗もしなかったんだろ」
「うん」
おざなりに返事をしながらシャツの裾をズボンにしまい、袖を直そうとしたところで腕をとられた。
しまった、と思うが見られてしまってはもう遅い。やはり、僕は鈍いのだろう。
「なんだ、これ」
泰虎が鋭い目をして僕のほどけかけた包帯に触れる。茶色く盛り上がった火傷の痕を、いじめや暴力を許さない正義の男の目がじっと見ている。
「いまの奴らにやられたのか?」
「えっ。そ、そうなの綿谷くん?」
犬井さんがギョッとした顔をするので、すぐに「ちがうよ」と首を横に振る。
「じゃあ……あいつか」
泰虎の目の色が変わる。
反射で否定してしまったことを後悔した。この火傷を作った相手に思い至ったのだろう。それは僕のもうひとりの幼なじみなのだが、泰虎はその相手を心底嫌っているのだ。
「まだあいつと付き合ってるのか。もう関わるなって言っただろ」
「どうして?」
「決まってる。あいつと関わるとろくなことがないからだ」
断言する泰虎に、僕はそっと目を伏せた。
もうひとりの幼なじみを悪く言うときの泰虎は、少し苦手だ。僕がふたりとも好きだからだろうか。それとも、こういうときの泰虎が傷ついているように見えるからだろうか。
「僕はそうは思ってないけど」
「そんな火傷の痕つけられてか?」
「これは……別に痛くないし」
ますます理解できないとばかりに頭を振る泰虎に、僕は困って目を反らす。
この火傷をもうひとりの幼なじみがつけている理由を知ったら、泰虎はどんな顔をするだろう。
僕と泰虎の間でおろおろしていた犬井さんが、おもむろにハンカチを差し出してきた。
「あの、これ。良かったら水で冷やして使って?」
「いいよ。痛くないから」
「でも……」
「犬井さん。僕にあまり構わないほうがいいよ。泰虎の幼なじみだからって、僕に親切にしても意味ないし」
さっと犬井さんの頬が赤く染まる。ハンカチを持つ手はプルプルと震えていた。
泰虎の深いため息が、空き教室に大きく響いた。
「虹。体の痛みがわからないと、心の痛みもわからないのか?」
「……どういう意味?」
「もういい。犬井、行こう」
泰虎に背中を押され、犬井さんが顔を赤くしたまま歩き出す。
廊下へと向かうふたりの背中を見つめながら、何かおかしなことを言っただろうかと考えた。
心の痛みとはなんだろう。痛みそのものを知らない僕にとって、その言葉は抽象的を通り越し、雲をつかむようなものだった。
教室を出る直前、泰虎が振り返り、僕を真っすぐに見つめて言った。
「あいつみたいに、死んだように生きるなよ、虹」
友の忠告に僕は返事はできなかったが、泰虎ははじめからそんなもの期待していなかったようにさっさと犬井さんと去っていった。
荒れた空き教室にひとり残された僕は、埃っぽさの中ため息をつく。髪をかき上げ後頭部に触れてみると、大きなこぶができていた。
「終わった?」
そのとき、またあの涼やかな声が聞こえて、僕を助けてくれた女子生徒の存在を思い出した。
どうやら泰虎が現れたときに、再び身を隠していたらしい。収納棚の影から出てきた彼女は「災難だったね」と大してそうは思っていないような口調で言った。
「どうして隠れたんですか?」
「ん? 何か、面倒なことになりそうだなと思って。あんまり親に心配かけられないんだよね」
ようやく顔を見せた女子生徒は、とても綺麗な人だった。輝く木漏れ日のような、透き通った小川のような、自然な美しさを感じさせるちょっと特別な雰囲気がある。
「わたし、三年の椿坂羽子。きみは?」
「二年の綿谷虹です。さっきはありがとうございました」
「お礼なんていいよ。本当は隠れてやり過ごそうと思ってたんだから。でもあの人たち、どんどんエスカレートしていきそうだったしね。そうだ、動画いる? いじめの証拠になるでしょ」
「いえ、大丈夫です。別に訴えたりとかしないので」
僕が断ると、羽子という先輩は「そう?」とあっさり動画を消した。泰虎なら絶対に「何でだよ訴えろよ」と怒っているところだ。
「それで、さっきの話って本当なの?」
僕が「さっき?」と首をかしげると、羽子さんは「痛みがわからないってやつ」と僕の火傷の跡だらけの腕を見て言った。
僕のこの先天的な痛覚の欠如を珍しがる人は多い。奇異の目で見られるのも、本当なのか疑われるのも慣れている。本当だと答えると、なぜか睨まれた。睨まれる理由がわからない。何か失礼なことを言っただろうか。
「きみだったら良かったのに」
「……え?」
どういう意味だろう。理解できずにいると、彼女は「何でもない。忘れて」とため息をついて僕に背を向けた。慣れたように備品の中から大きなイーゼルを引っ張り出すと、それを担いで振り返る。
「じゃ、もう行くね」
僕の返事を待たず、羽子さんは颯爽と備品庫から出ていった。
何だったのだろう。突然現れて、あっという間に去っていった。長い髪が、流れ星の尾のようだった。
熱が出たときみたいに頭がぼぅっとして、僕はしばらくその場から動けなかった。
埃っぽい部屋に、彼女のものだろう優しい香りだけが残っていた。
