痛みさえ愛しい恋だった【7月新刊発売予定】

「ふふ。虹、あったかい」
「僕が?」
「うん。自分じゃわからないかもしれないけど、虹はちゃんとあったかいよ」

 お前は生きている、と言いたいのだろうか。
 歌うように彼女は続けた。

「息もしてる。静かな呼吸だけど、色が見える」
「色……?」
「心臓もしっかり動いてる。優しい音色だね」

 人の温もりもわからない僕にも、体温はあるらしい。息をして、鼓動もある。彼女はそれをいちいち教えようとしてくれる。自覚しろ、というように。

「自分のことは見えないものなんだよね。虹だけじゃなく、皆そう」
「じゃあ……羽子さんも?」
「当たり前だよ。だからこうして、もうすぐ死ぬって言うのに、何かを探してこんなところにまで来てるんだから」

 やんなっちゃうよね、とため息混じりで羽子さんは呟く。
 平気そうに見せているが、華奢な身体はまだ震えていた。僕は彼女を抱きつぶさないよう、慎重に腕に力をこめる。皮膚の下はすぐ骨なのではと思うような二の腕をそっとさすると、羽子さんは一瞬体を固くしたあと、ゆるりと弛緩した。
 欠陥だらけな僕の体も、少しは役に立っているだろうかと考えていると、突然頭にばさりと重たいものがかけられた。

「見てらんねぇな」
「司狼……?」

 かけられたのは固めの感触の毛布だった。
 顔を上げると、司狼があきれ顔で僕らを見下ろしていた。

「車に一枚だけ積んであった。使え。俺は車で寝てくる」
「わかった。ありがとう」
「日の出の前に起こせよ。起きてすっかり朝でした、なんてことになったら海に蹴り落とすからな」

 偉そうに言うと、司狼はさっさと防波堤を降りていった。

 起こせと言っていたが、あの幼なじみは寝起きが非常に悪い。どれくらい悪いかというと、起こしに来た友人をボコボコに殴りつけ、病院送りにするくらい悪い。
 しかもその友人は、司狼に頼まれていたから起こしに行ったのに、鼻や肋骨の骨を折る重傷を負わされたのだ。痛みを知らない僕でも、さすがにその友人には同情した。

 骨を折られるのと海に蹴り落とされるのでは、どちらがマシなのだろう。僕は泳ぎは得意ではないので、溺れる可能性がある。それなら骨をいくつか折られるほうがマシか。あとで母にひどく怒られるのは間違いないが。

「羽子さん、どう? 寒くない?」
 司狼がくれた毛布で、僕ごと羽子さんをすっぽり包む。

「うん。素直にお礼は言いたくないけど、あったかいよ」
「お礼を言わなくても、司狼は気にしないと思うよ」

 きっと今日あったことも、明日には忘れている。
 執着がないから忘れるのか、忘れるから執着がないのかは不明だが、司狼はそういう奴だ。

「……あの人と、本当に仲が良いんだね」

 羽子さんは困ったように言うと、ため息をついた。

「心配だなあ」
「心配って、何が」
「忘れないでね、虹。あなたは生きてるんだから」

 その呟きは、彼女を抱きしめている僕ではなく、もっと遠くにいる誰かに語りかけているかのようだった。
 どこか寂しげなその声に、僕の胸がきゅうと奇妙な音を立てて収縮したのを感じ、眉を寄せる。少しだけ息苦しいようなこの現象の名前を、僕は知らなかった。
 それからしばらく他愛のない話をした。
 僕らはお互いのことをほとんど知らなかったので、話題は探さなくてもいくらでもあった。主に家族のことと、どんな人生を歩んできたのか。お互い父親がいないことと、妹がいるという共通点があった。妹を言い表す際には「生意気」と「真っすぐ」でかなり違ったが。
 羽子さんは高三の途中で病気が発覚し、入院したそうだ。卒業式も出られなかったという。だからあれから彼女を見かけることがなかったのだ。美大を受験したが、試験の途中で体調が悪化し、最後まで受けられなかったと、悔しそうに話した。

「友だちとは疎遠になっちゃった。相手が冷たいんじゃなく、私がそうさせたの。私も送るはずだった理想のキャンパスライフを満喫している友だちを見て、平然としてられるほど人間できてなくってさ。どうして私だけ……って、考えたってどうにもならないことばかり考えて、どんどん自分が腐っていくのを感じるのに疲れたの」

 ひとりになったほうが平穏に過ごせて、病気や時間という現実と向き合うことができた。
 波のリズムに合わせるように羽子さんはそう語る。

「余計なものを全部取り払って行ったら、私に残ったのはすごくシンプルなものだった」
「何が、残ったの?」
「描きたいっていう欲求」

 その欲求を口にしたときの羽子さんの声は、力強く、エネルギーに満ちていた。
 熱というのはもしかしたら、こういう音をしているものを言うのかもしれない。

「それっぽっちしか残らなかったのは笑えたけど、でも嬉しかったよ。ぶっつり途切れたはずの道が、急に目の前に現れたみたいで、なんだか爽快だった」
「そうか……。それで羽子さんはこうして、無茶をして海まで日の出を見に来たんだね」
「そういうこと。無茶だろうが、歩くよね。立ち止まってても、きれいな景色は見えないんだからさ……」

 僕はもう少しだけ彼女を抱く腕に力をこめて願った。
 どうかこれから見る日の出が、彼女の描きたいものであることを。最期に描くべきものであることを。

 やがて羽子さんは、僕にもたれながら静かな寝息をたて始めた。
 安らかな寝顔にほっとする。どうやら眠れるくらいには体調は安定しているらしい。痛みがひどいときは眠ることさえできないと聞いていたから、しばらくは大丈夫だろう。
 彼女が眠りやすいよう引き寄せ、しっかりと毛布で包む。

 骨の浮いた体は固く、消毒液の匂いがしみついた髪は乾いていた。それでも、羽子さんは生きている。全力で彼女の人生を歩んでいる。
 眩しくて……とても、うらやましい。
 誰かをうらやましく思うのは、初めてのことだった。僕とはまったくちがう人たちのことをうらやましいと思ったところで、自分にはそうなれないとわかっていたからだろうか。
 でも、いまだって僕は羽子さんのようにはなれないとわかっている。それでも彼女がうらやましい。手を伸ばして、触れたくなるほどに。

 羽子さんの寝息を波間に聞きながら、僕は夜明けを待った。
 それはとても、静かな時間だった。いや、音はうるさいくらいだ。堤防に打ちつける波の音、潮の匂いを運ぶ風の音。暗い海をゆく船の汽笛に、夜空に羽ばたく鳥の声。それらの騒がしさの向こうに、静けさがある。
 僕が僕と向き合うために用意されたような時間だと思った。
 いつしか僕は広い海の真ん中に浮かんでいて、騒がしい静けさの中をたゆたっていた。これまでの自分を振り返り、これからの自分を考えた。
 寄せては返す波に身を任せる僕を、司狼と羽子さんがじっと見つめていた。

 永遠に続くように思えた時間にも終わりを迎える。段々と空が白けはじめ、鳥の声が増えてきた。ようやく朝が来る。
 僕は海の真ん中から堤防の上に戻ってくると、死んだように眠り続ける羽子さんの肩を揺すった。

「羽子さん。そろそろだよ」
「う……ん」

 司狼も起こしたほうがいいだろうか。
 だが後ろを振り返ると、ちょうど階段を司狼がのぼってきたので少し驚いた。

「司狼、自分で起きたんだ」
「起きてねぇ。つーか寝てねぇし」

 寝不足のせいか、司狼は苛立ちを滲ませ煙草に火をつける。
 深く息を吸い、肺に煙を満たしながら遠くの海を見た。

「あー……こりゃダメだな」