痛みさえ愛しい恋だった【7月新刊発売予定】


 海に来てどれくらい時間が経っただろう。一時間、いや二時間くらいか。確認しようとしたとき、左の肩にトンと羽子さんが頭を預けてきた。

「羽子さん? 疲れた?」
「うん……ちょっとだけ」
「痛むの?」
「それは、まだ大丈夫」

 そう、と返しながら彼女の言葉の意味を考える。まだ痛くなっていないから大丈夫、なのか。それともまだ我慢できるから大丈夫、なのか。
 その辺を推し測るのが僕は苦手だ。察せられたところで、僕にはどうすることもできないのだが。
 羽子さんの小さな頭が乗った左肩が、少し重い。でもなぜか心地良い。右の肩が少し寂しく感じるくらい。
 潮の香りの間に、羽子さんの髪から病院の匂いがする。波の音の間に、羽子さんの短い息遣いが聴こえる。

「痛みがわからないって本当なんだね」

 不意に羽子さんがそんなことを呟いた。

「さっきから虹の手に爪を立ててるのに、全然痛がらないんだもん」
「え? ああ……気づかなかった」

 左手を見ると、甲の皮膚にUの字のような痕がくっきりとついていた。
 なんとなく体重をかけられているような気はしていたが、わざとだったらしい。自分の爪の痕を撫でて羽子さんは少し気まずげな顔をする。

「ごめん。ちょっと強くやりすぎちゃったみたい。痛くない?」
「痛くないって、いま試してわかったんじゃ?」
「あ。そうだった。でも、やっぱりごめんね」

 痛くなくたって、傷はつくのにね。
 そんな彼女の言葉に、一瞬両手首が疼いた気がした。包帯の下についた無数の傷跡が熱を持ったかのように。
 気のせいだ。僕が自分でつけた切り傷も、司狼がつけた火傷も、いまはすべて静かに眠りについている。

 袖の上からそっと傷跡を撫で、息を吐く。
 これまでも僕が痛みを感じないかどうか試す人はいた。あの日、僕のことを殴った先輩たちも似たようなものだ。小さい頃は、もっと危険なことを試そうとする子どももいた。刃物を用いようとしたり、階段から突き落とそうとしたりと、そういう本当に危ないことをするのは好奇心旺盛で自制のきかない子どものほうが多いようだ。
 それらに比べると、羽子さんが僕に与えようとした痛みのなんと可愛らしいことか。この小さな爪痕が、ずっと残ればいいのにとすら思った。

「羽子さんは……日の出を見たら、どうするの?」
「どうって?」
「日の出を描くの?」
「さあ。どうかな。ここまでしてもらっておいて言うのも何だけど、それも私の描きたいものじゃないかもしれない。見てみないことにはね」
「じゃあ、描きたいものじゃなかったら?」
「そうだなぁ……このまま帰ると抜け出すのは難しくなるだろうし。虹と一緒にどこか遠くに逃げちゃおうか?」

 なぜ僕も一緒なんだ。
 という疑問が顔に出ていたのだろう。羽子さんは「冗談だよ」と吹きだした。

「ただでさえ虹には迷惑かけてるしね。駆け落ちなんてするより、帰ったらお礼をしないと」
「別にいいよ。協力するって決めたのは僕だし」
「いいから、いいから。遠慮しないで。お礼は何がいい? 私に出来ることは少ないけど、言ってみてよ。お金はまあまあ持ってるし、虹になら体を使ったお礼でもOKだよ」

 余命少ない病人とは思えない冗談だ。僕は自分の心臓が妙な動きをするのを感じながら首を横に振る。

「遠慮しておく」
「虹~? いまのは健全な男子高校生なら興奮して喜ぶところでしょ?」
「そんなこと言われても……」

 羽子さんは僕のことを健全な男子高校生だと思っているのか。
 内心驚きながら、考えてみる。もちろん体を使ったお礼についてではない。彼女にお礼をしてもらうなら、何がいいかということだ。
 だがやはり、考えても何一つ浮かばない。そういえば、僕には欲というものも欠落していたのだっけと今更思い出した。

「まあ……考えておくよ」
「もう。虹ったら無欲だなあ。虹を見てると、自分がすごい強欲な人間に思えてきちゃう」

 僕の肩にぐりぐりと頭をこすりつける羽子さんに、僕は首を傾げた。

「それは、生きてるからじゃない?」
「……ん? どういう意味?」
「羽子さんが生きてるから、欲? も出てくるんでしょ。色々と」

 学校でひとりぼんやりしていると、クラスメイトたちの様々な会話が聞こえてくる。彼らは常に、驚くほど何かを欲していた。
 授業をサボりたい。お金が欲しい。人気のスイーツが食べたい。ムカつく教師を殴りたい。アルバイトがしたい。新しい服が欲しい。コンサートチケットの抽選で当たりたい。ゲームがしたい。彼氏が欲しい。ヤりたい。学校を爆破したい――と、彼らの欲求は尽きることなく毎日無限に溢れ出ている。
 一方の自分はどうだ。したいこと、欲しい物、やりたいことが何一つ思い浮かばない。それはなぜか。彼らとのちがいは何か。
 答えは明白だった。

「私が生きてるからって……それじゃあ虹が死んでるみたいじゃない」
「実際そうなんだと思う。半分死んでるようなものだから」

 死んでいるのに生きているように動いているから、僕は周りに馴染めないのだろう。他の人にとって、僕はとても気味の悪い存在なのだ。だから排除しようとする人間が後を絶たない。次から次へと現れる。そしてそれは、ある意味とても自然なことなのだ。

「虹はバカだなあ」

 その優しい声に隣りを見ると、羽子さんは僕を見上げ、あきれた顔をしていた。

「虹は生きてるよ」
「……どうしてそう思うの?」

 あまりにもきっぱり断言されたので、僕は納得いかない。
 僕自身でさえ、この十七年の人生で一度も生を確信したことがない。それなのになぜ、出逢ったばかりの羽子さんが当然かのように生きているなどと言えるのか。

「虹はさ、どうして私をここまで連れて来てくれたの?」
「それは、羽子さんが連れて行けって言うから」
「うん。確かにお願いしたのは私だけど、別に虹はそれに従う義務はなかったわけでしょ? 面倒だし、私にそこまでする義理もないし?」

 無茶なお願いをしている自覚はあったらしい。
 それを意外に思いながら、僕は「それは断る理由にもならないよ」と返す。だが彼女は首を横に振った。

「このことがバレたら、虹の家族にも迷惑がかかるかもしれないのに?」
「それは……」
「それでも、虹は私を海に連れてきてくれた。それってさ、知りたかったからなんじゃない?」

 羽子さんの夜空を閉じこめたような瞳に、僕が映っている。
 でも辺りは暗く、自分がどんな顔をしているのかまではわからない。彼女の目に、いま僕はどんな風に見えているのだろう。

「虹は、私のことが知りたかったんでしょ? 私がどうするのか、どうして生きるのか、知りたかった。ちがう?」
「……わからないよ」
「そう? でも虹、けっこう質問が多いんだよ。興味がなければわざわざ質問なんてしないでしょ。だから虹はたぶん、私のことが知りたいの。知りたいって気持ちも立派な欲じゃない?」

 知りたいという気持ちが欲?
 それなら、どうして自分が周りの人とはちがうのか、何がちがうのか。そんなことを考えるのも欲になるのだろうか。
 なぜ周りの人たちは、他の人の気持ちを当たり前のように知ることができるのか。痛みがわかれば、普通の人たちと同じになれるのだろうかと、知れるはずもないものを知りたいと思うのも、欲になるのだろうか。

「知りたい……」
「どうして虹は私のことが知りたいの?」