痛みさえ愛しい恋だった【7月新刊発売予定】


 司狼の運転する車は、騒音をまき散らしながら海へと向かった。
 車内でも司狼は煙草を吸い続けていて、狭い空間には独特な甘い匂いが満ちていた。
 司狼はいちいち「煙草吸っていい?」などとは聞かない。吸いたいときに吸う。禁煙スペースだろうと関係なく吸う。羽子さんのような病人にはもちろん良い影響はないだろう。だが羽子さんが何も言わなかったので、僕も黙っていた。運転席の窓は、気づけば半分ほど開かれていた。

 以前も来た堤防に到着し車が停まると、嘘のように一瞬で静けさが訪れた。エンジンの爆音に慣れつつあった耳に、静寂が耳に痛いくらいだ。それは羽子さんも同じだったようで、微妙な顔で耳を押さえている。平然としているのは司狼だけだ。
 先に車を降り、後部座席のドアを開ける。横になっていた羽子さんに手を貸して、外へと連れ出した。
 ビュウと強く風が吹き、羽子さんの髪とワンピースの裾をたなびかせる。暗闇と潮の匂い、そして海鳴りが僕らを包んだ。

「しっかし、何で日の出? そりゃ今度連れてってやるとは言ったけどな。あくまで早起きできたらって話なわけで。いまからだとかなり待つぞ?」

 新しい煙草に火をつけながら、司狼が腕時計を確認して言った。
 僕は羽子さんと顔を見合わせ「知ってる」と答えた。
 日の出の時間は調べてある。現在午後十一時を回ったところ。日の出は午前4時半頃だ。

「だから司狼はもう帰っていいよ」
「てめ。海には来れたからもう用なしだって言いたいのか?」
「別にそうは言ってないけど」
「俺をアシ扱いするたぁいい度胸だ。決めた。絶対帰らねぇ。お前らが何するつもりか知らねぇけど、見届けてやる」

 僕を小突きながらも、司狼はどこか機嫌良さげにそう言って堤防の階段を上っていく。
 羽子さんが司狼にも聞こえる声で「帰っていいのに」と言ったけれど、司狼はどこ吹く風だ。煙を潮風に遊ばせ「早起きは苦手だが、徹夜は得意だ」と笑った。
 言い出したら聞かないことは、長い付き合いでわかっている。羽子さんは司狼を良く思っていないようだが、あきらめてもらうしかない。

 僕らも司狼のあとに続き、堤防の上に立つ。風と潮臭さが一層強まった。
 真っ暗な海はどこまでも広がり、夜空との境界が曖昧だ。波音と遠くに見える船の明かりだけが、ここに海があると教えてくれる。
 この暗い海の中にも生き物がいて、泳いで、息をしていると思うと不思議だった。見えないけれど確かにそこにいる彼らは、何を考え生きているのだろう。

「虹。落ちないでよ?」
 気づけば前のめりに海をのぞいていたようで、羽子さんが僕の腕を掴んで言った。
 僕の意思を確かめるような聞き方だった。自殺でもしそうに見えたのだろうか。

「……羽子さんのほうが、風に吹かれて落ちそうだよ。座ろうか」

 リュックを降ろし、堤防に座りこむ。中からブランケットを出し、隣りに敷いた。
 羽子さんが「優しいじゃん」と嬉しそうに言って遠慮なく座る。司狼は僕らとは少し距離を取り、後ろのほうで腰を下ろした。

 じめっとした夜だ。月は雲に隠れたままで、風は弱々しい。暑さはよくわからないが、肌にまとわりつくような空気はわかる。不快ではない。ただ、少しだけ息苦しく感じた。

「私、夜の海って初めてかも」

 ぽつりと、羽子さんの呟きが波の合間に落ちる。

「昼間と全然ちがうね」
「ちがう……そうかな?」
「ちがうじゃん。昼間の海にはどこまでも続く広さばかり感じるけど、夜の海にはどこまでも続く深さばかり感じる」

 聞いていた僕は似たようなものじゃないかと思ったが、海を見つめているとなんとなくわかるような気がしてくる。そして段々と、海と空を飲みこむ暗い闇が、目の前に迫ってくるように感じた。

「生と死」
「……え?」
「なんとなくのイメージ。私にとっては明るいときに見る海のほうが魅力的だな。虹はどう?」
「僕は……」

 答えられなかった。
 魅力的、というのがわからない。どちらよりかで言えば、恐らく僕は夜の海側なのだろう。それはなんとなくわかる。
 夜の海は嫌いではない。昼の海もまた。

「虹はその間で迷子になってる感じかもね」

 暗い海を見たまま口をつぐむ僕に、羽子さんはそんなことを言った。
 随分年下扱いされているように感じたが、それよりも迷子という言葉が妙にしっくり来て、音にはせず繰り返す。

 いま自分がいる場所すらわからず、ただ途方もなく広がる何もない空間で立ち尽くす、子どもの姿が頭に浮かぶ。これが僕か。
 前方が明るくなり、そこから誰かが歩いてくる。現れたのは羽子さんだ。白いワンピースを着て光り輝く彼女は、まるで天使のようだ。
 天使が微笑みながら、僕に手を差し出してくる。淡く発光するその手を、僕は黙って見つめた。
 この手を取るべきか否か。僕が取っていいものなのか、子どもの姿をした僕は迷っている。
 そうやってフリーズした僕の手を、羽子さんのほうから強引に取った。しっかりと握り締めてくる手が「ほら、行くよ」と言っている。
 羽子さんの姿をした天使を、とてもきれいだと思った。手を引かれるのも嫌じゃなかった。この人が手を繋いでくれるのなら、どこへでも行ける気さえした。

 けれど、彼女と明るい方向に進む前に、僕は振り返った。
 背後に広がっていたのはひたすら深く広がる闇で、そこにぽつんと立っていたのは――。

「……どうした、虹?」

 くわえ煙草の幼なじみが、僕を見ていた。
 いつの間にか消えていた波の音が戻ってきて、潮の香りに包まれる。僕が、僕らがいるのは何もない空間ではなく、夜の海の防波堤だった。

「虹?」

 隣りの羽子さんからもいぶかし気に呼ばれ、僕はふたりに「何でもない」と答える。
 結局僕はまだ、どこにも行けない迷子のままだった。