痛みさえ愛しい恋だった【7月新刊発売予定】

 死を待つ病棟へと向かうエレベーターに乗っても、僕はまだ迷っていた。
 いや、答えは決まっている。海に連れていく話は断る。彼女の体力的にも、常識的にも、母の立場を考えてもそれが正しい。それくらいは僕にもわかった。
 だが、わかっていても迷う。躊躇っている。元々断ることがほとんどないから、というわけではない。理由があれば、僕も断ることはある。
 ただ、今回の場合はどうしても考えてしまうのだ。それでいいのか、と。
 日の出を見たいと言ったときの、彼女の目の輝き。彼女の頼みを断れば、あの輝きを奪うことになる。僕がそれをしていいのだろうか。

 羽子さんからは死の匂いがする。それは司狼からも香っているが、彼女の匂いは司狼のそれよりもずっと強い。きっとその匂いは僕も放っているのだろうと思う。
 同じ匂いを持つ人間にしかわからない、吸引力のようなものがある。
 でも、羽子さんは僕や司狼とは少し――いや、かなりちがう。
 誰よりも濃い死の匂いがするのに、羽子さんは生きて(・・・)いる。
 僕や司狼、もしかしたら死の匂いなんてまるでしない普通の人を含めても、誰よりも彼女は生きているように僕には見えた。それは死に抗うとか、生に執着するとか、そういうものとはまた別で。もっと瞬間的で、だからこそ一層強く輝いているのかもしれない。

 エレベーターの扉が開く。迷いを狭い箱に捨てることが叶わないまま降りると、廊下は静まり返っていた。エレベーターも僕ひとりで静かだったはずだが、緩和ケア病棟の静けさはその温度がちがう気がした。
 ナースステーションをのぞいたが、ひと気がない。約束をして来たわけではないので、吉村さんがいれば彼女に面会可能かひとこと聞いてもらいたかったのだが。
 待つか出直すか考えていると、ふと近くの部屋の扉がわずかに開いているのが目に入った。あれは前回来たとき立ち入り禁止になっていた部屋だ。今日は立ち入り禁止の札もなく、コーンもテープもない。改装は終わったのだろうか。

 なんとなく――本当になんとなく、僕はその部屋のドアに手をかけた。
 そっと開き中を覗くと、やはりまだ改装中なのか部屋は眩しいくらいに真っ白だった。どこか寂しい薄暗さのある病棟の中では珍しい明るさだ。それに誘われるように中に入ると、先客がいることに気がついた。
 部屋の真ん中のベンチに、ひとり腰かけている背中をじっと見つめる。
 すぐに気がつかなかったのは、相手が白かったからだ。この真っ白な部屋に溶けこむような白さ。髪も、来ている服も白い。あれは白衣か。ということは、先客は医者だろうか。
 そういえば、羽子さんが「おじいちゃん先生」と言っていた。
 あれは担当医のことだろう。するとこの白髪の医師が、彼女の――。

「やあ。待っていたよ」
 いつの間にか、白髪頭の医者が振り返り僕を見ていた。
 いまのは彼の声なのか。不思議な響きだった。カラカラに乾いた老人のような、瑞々しく潤う少年のような、どちらとも言えるしどちらとも言えない声に聴こえた。

「待ってたって……僕をですか?」
「君は、綿谷虹くんだろう? 椿坂羽子さんの友だちの」

 友だち。羽子さんがそう言ったのだろうか。数度しか会ったことのない人間など、ほぼ他人だろうに。
 でもきっと彼女なら、一度でも会ったことのなる相手なら、全員友だちになるような気もした。

「私に聞きたいことがあるようだから、待っていたんだよ」

 そう言って、おじいちゃん先生は自分の隣りを軽く叩いた。ここに座れということだろう。
 羽子さんは意味がないと言いながらも、担当医に話していたらしい。それを少し意外に思いながら、僕は素直に彼の横に腰を下ろした。

 近くに行ってようやく、おじいちゃん先生の容貌がわかった。白い部屋に溶けこんでいた輪郭が、柔らかく浮かび上がる。その横顔に僕は内心驚いた。
 干からびたような土気色の肌。顔中に刻まれた深いシワは、これまで彼が味わってきた苦労や苦痛を想像させた。まるで長い戦争で疲れ果てた兵士のようだ。死線を幾度もくぐり抜け、精魂尽き果て、もう一歩も歩けなくなってしまった兵士。

 医者という仕事はそれほどまでに過酷なのだろうか。見た目だけで言えば、羽子さんよりも彼のほうがよっぽど死に近い。風が吹いただけで、体の端からパラパラと崩れ灰になりそうなほど脆く見える。それなのに、前を見つめるその瞳だけは若者のような力強さを感じた。
 不思議な医者だと思った。母がよく、医者には変わり者が多いと言っているが、目の前を彼を見て確かにと納得できた。
 それと同時に妙なシンパシーを感じる。既視感にも似たそれを持て余しながら、僕は「もしもの話ですが」と前置きして彼に質問した。

「もし、彼女がどこかへ行きたいと言ったら、外出するのは可能なんでしょうか」
「……可能か不可能かで言うと、可能だろうね」

 なぜか、おじいちゃん先生は笑いながら言った。
 まるで昔を思い出すかのような懐かしさを滲ませて。

「可能なんですか」
「入院患者であっても、ひとりの人だ。医者に誰かの行動を本当に禁止する力はないよ」
「じゃあ、彼女は自由にどこにでも行けると?」
「とは言っても、立場的に許可は出せないからね。行きたいところがあるならこっそり頼むよ」

 つまり、責任は負わない。こっそり勝手にやるといい。そういうことだろうか。
 口調は柔らかいが、言っていることはなかなか冷たい。医者にも不良みたいな人がいるのだなと思いながらうなずいた。

「手を、貸してくれるかい」
 そう言っておじいちゃん先生が僕に手を向けるので、反射的に右手を差し出していた。
 干からびた手が僕の手を包む。枯れ枝のようだが、その手つきは優しい。そしてよく見ると、顔ほどシワのないことに気がついた。

「手当て、という言葉を知っているかな」
「傷の治療のことですか?」
「それとは別で、人が体が痛む部分に無意識に手をやることだよ。お腹が痛むと、自然とそこを押さえる。頭をぶつけて泣いている子がいたら、頭をそっと撫でる。そうすることで痛みが和らぐのを人は本能で知っているんだ」

 痛む場所に手を当てる本能、か。それを知らない僕は、人間という枠組みからすら外れている存在なのかもしれない。
 そんな僕の事情など、おじいちゃん先生は知らない。生まれてこの方、痛みを味わったことのない僕の手を、彼は労わるよう撫でた。

「椿坂羽子さんが痛みを訴えたら、君が手当てするんだよ。想像を絶する痛みと戦う彼女を、少しでもこの手で癒してあげてほしい」

 想像を絶する痛みというのがどういうものか、僕には欠片も想像がつかない。
 それでも彼は羽子さんの主治医で、彼の瞳が真剣だったから、逆らう理由はなく僕は黙って頷いた。だが、本当に手を当てるだけで痛みは和らぐのだろうか。

 廊下の向こうに人の気配が戻ってきたのを感じ、立ち上がる。
 おじいちゃん先生は僕を眩しそうに見上げた。

「行くのかい」
「はい。ええと……ありがとうございました」
「こちらこそ。彼女をよろしく」

 がんばれよ、という慈愛のこもった声を背に受け、僕は白い部屋をあとにした。
 出てきたところでちょうど戻ってきたらしい吉井さんと出くわす。

「虹くぅん? その部屋は立ち入り禁止って言わなかったかしらあ?」
「え。ああ……すみません」
「もう。君は人より気をつけなきゃいけないっていうのに、困った子なんだから」

 プリプリ怒る吉井さんには、部屋の中には不良医師がいたことは言わないでおこう。
 吉井さんはナースステーションに入りながら「羽子ちゃんいま寝てるよ」と教えてくれた。やはり今日は出直したほうがいいようだ。

 吉井さんに帰ることを告げエレベーターに向かう。ボタンを押したとき、右手がなんとなくいつもとちがうことに気がついた。微かにじんと痺れるような感覚がある。

「……手当て」

 頭の中で、妹の「痛いの痛いのとんでいけ」という声がした。