◇
さて、翌朝。
俺は昨夜の決意の通り、同じ時間の電車の、いつもの場所に座っている。今日は昨日の混雑から戻って車内の人はまばらだ。
あと一駅。
先輩の駅が近づいてくる。なんかもうすでに心臓がヤバい。
どうしよう。どういう顔で乗ってたらいいんだ。待ってましたよ、みたいな? それとも昨日の遭遇なんてちっとも気にしてないです、みたいな顔で本読んでればいいのか?
向かいに誰もいないのをいいことに両手で顔を覆って百面相する。深呼吸してもドキドキが収まらない。
次の駅名を告げるアナウンスが流れ、電車が減速し始めた。
窓の外の景色が横に流れていって、反対側のホームの駅名標が読めるくらいゆっくりになる。
俺には乗ってくる人が見えない。ホームを背にして座っているからだ。
いるのかな、乗ってくるのかな。
跳ねる勢いでドコドコいう鼓動に自分でビビっていると、プシューと扉の音がする。
人が乗り込む足音が聞こえたとき、俺は自分が本を開くのを忘れたことにハッと気づいた。しまった。緊張しすぎて用意するの忘れた。膝の上に抱えたリュックから取り出すのはもう間に合わない。
俯いた視線の先に、トン、と茶色の革靴が現れて止まる。いつもと違って、つま先がこっちに向いてる。
そろっと顔を上げると、春川先輩が立っていた。
俺を見て、表情をふわっと和らげて、でも大きなリアクションをするでもなく、普通に笑った。
「おはよ」
「お、おはようございます」
「座ってい?」
「はい!」
先輩が自然に俺の右隣に座った。
肩から下ろした鞄を床に置くのを見て、俺の心臓はまたドコドコし始める。
と、隣に……座ったよ。昨日に引き続き、先輩が俺の横に。
文庫本を出し忘れた俺は両手でリュックをぎゅっと抱え、先輩が長い足を投げ出さずに常識的なスペースに収納するのを見守る。
「昨日、ごめんね」
「えっ? はい。え?」
出し抜けに言われて思わず頷いたが、すぐに首を捻った。
「突然話しかけちゃって、平気だった?」
「あ、はい。全然」
「よかった。うざがられたかもと思って心配だった」
唇の端だけ少し上げて、小さく笑った先輩が今日もキラキラしている。
見惚れてしまいそうになり、ハッとして慌てて首を横に振った。
「そんなことないです、あの、嬉しかったんで」
「え?」
「いや、あの、先輩がいつも本読んでるから、気になってたっていうか。話しかけてもらえて、わーいっていうかんじで……」
俺は何を言ってるんだ……?
ど緊張してるせいで頭の中の言葉がそのまま口から出てる。待って、わーいって何? また変な奴って思われる。やめろ、軽率に話すな、俺の中の俺……!
先輩が黙ってしまったので早くもヤバいと思い、リュックを握って鎮痛な顔でうつむく。今日こそは普通に会話したいと思っていたのに、忸怩たる思いです。
「……よかった」
右からぽろっと声がして、俺は顔を上げた。
そっと横を見ると、春川先輩はスマホを手でもて遊びながら正面の窓を見ていた。
綺麗に口角が上がる、先輩の横顔。
「俺もずっと話しかけたいなって、思ってたから」
「…………へぁ」
え、えーーーー??
そうだったのーーーー??
驚きすぎて、俺達両思いだったんですね! っていう謎のコメントが口から出そうになったので全力で口をチャックした。
先輩も俺に話しかけたかった? 待ってどうしよう心臓跳ねすぎて喉から出そう。
春川先輩が固まってる俺に気づいて数回瞬きした。
「……ごめん。言い方キモかった。やり直す。ちょっと前から、いつか話してみたいなって思ってて。本の好み同じかなとか」
「あ、それは俺も思ってました」
先輩がほっとしたように口元を緩める。
「気軽に話していいから。別に先輩とか思わなくていいし。呼ぶの春川でいいし、タメ口でいいから」
「いえいえ、ちょっと、それはさすがにハードル高いのでこのままでお願いします…あの、むしろ俺もちょっと昨日から挙動が怪しくて、すみません」
「俺が急に話しかけたからだよね、ごめんね。普段本の話なんてしないから楽しかった。みずきって呼んでい?」
「あ、はい! 俺、庵野(あんの)瑞季といいます」
「うん。よろしく。みずき、苗字あ行なんだ」
「そうなんです、クラス変わるときは絶対相川とか浅井とかいろ!って願かけするほうで」
どういうほうだよ。
と、自分で思ったが、先輩は「『あ』だとそうなんだ」と普通に相槌してくれた。
「一番いやだから?」
「そ、そう、そんな感じです。たとえ仲のいい井上がいても俺が求めてるのはお前じゃないってかんじで」
「安藤は?」
「あんどう……お前じゃな……いや、安藤はいいです。安藤は俺の前にいてくれます。ナイスです先輩」
「ありがとう」
先輩が下を向いてウケている。
ナイスですってなんだよ。とセルフツッコミした。
話の方向性は謎だけど、でも空気が緩んで俺も緊張が解けてきたからよしとしよう。
「あの、俺昨日言ってた本持ってきてて」
「ほんと? ありがとう」
ようやくリュックを開けて、本を取り出せる。
「借りてもいいの?」
「はい、俺はしばらく読み返さないと思うので、ゆっくりで大丈夫です」
「今読んでるの終わったら読むね」
家から持ってきたライトノベルを先輩に渡すと、自然に本の話になった。
先輩も俺が読んでいた本はなんとなく覚えているらしく、最近どれが面白かったか、新刊がいつ出るか、という話をしていたら、思ったよりも話のネタに困らなかった。
「じゃ、また明日」
「はい、また」
先輩が昨日と同じようにそう言ってくれて、電車を降りる。
今日は俺もちょっとは余裕ができて、笑顔で挨拶できた。
「……また明日って、言ってくれた」
ほっとして、一人残った座席で顔が緩みそうになるのを必死で取り繕った。
昨日よりも上手く話せた気がする。
それに、先輩と本の話をするのはやっぱり楽しかった。自分が好きなものを人と共有できるのって、こんなに楽しかったっけ。春川先輩だからかな。明日も話ができると思うと、自分だけの秘密の楽しみができた気がしてわくわくする。
先輩の『また明日』という言葉に背中を押してもらい、俺は次の日も同じ時間の電車に乗った。
──そして俺と春川先輩は、その後なんと毎朝隣に座って喋るようになったのだ。
さて、翌朝。
俺は昨夜の決意の通り、同じ時間の電車の、いつもの場所に座っている。今日は昨日の混雑から戻って車内の人はまばらだ。
あと一駅。
先輩の駅が近づいてくる。なんかもうすでに心臓がヤバい。
どうしよう。どういう顔で乗ってたらいいんだ。待ってましたよ、みたいな? それとも昨日の遭遇なんてちっとも気にしてないです、みたいな顔で本読んでればいいのか?
向かいに誰もいないのをいいことに両手で顔を覆って百面相する。深呼吸してもドキドキが収まらない。
次の駅名を告げるアナウンスが流れ、電車が減速し始めた。
窓の外の景色が横に流れていって、反対側のホームの駅名標が読めるくらいゆっくりになる。
俺には乗ってくる人が見えない。ホームを背にして座っているからだ。
いるのかな、乗ってくるのかな。
跳ねる勢いでドコドコいう鼓動に自分でビビっていると、プシューと扉の音がする。
人が乗り込む足音が聞こえたとき、俺は自分が本を開くのを忘れたことにハッと気づいた。しまった。緊張しすぎて用意するの忘れた。膝の上に抱えたリュックから取り出すのはもう間に合わない。
俯いた視線の先に、トン、と茶色の革靴が現れて止まる。いつもと違って、つま先がこっちに向いてる。
そろっと顔を上げると、春川先輩が立っていた。
俺を見て、表情をふわっと和らげて、でも大きなリアクションをするでもなく、普通に笑った。
「おはよ」
「お、おはようございます」
「座ってい?」
「はい!」
先輩が自然に俺の右隣に座った。
肩から下ろした鞄を床に置くのを見て、俺の心臓はまたドコドコし始める。
と、隣に……座ったよ。昨日に引き続き、先輩が俺の横に。
文庫本を出し忘れた俺は両手でリュックをぎゅっと抱え、先輩が長い足を投げ出さずに常識的なスペースに収納するのを見守る。
「昨日、ごめんね」
「えっ? はい。え?」
出し抜けに言われて思わず頷いたが、すぐに首を捻った。
「突然話しかけちゃって、平気だった?」
「あ、はい。全然」
「よかった。うざがられたかもと思って心配だった」
唇の端だけ少し上げて、小さく笑った先輩が今日もキラキラしている。
見惚れてしまいそうになり、ハッとして慌てて首を横に振った。
「そんなことないです、あの、嬉しかったんで」
「え?」
「いや、あの、先輩がいつも本読んでるから、気になってたっていうか。話しかけてもらえて、わーいっていうかんじで……」
俺は何を言ってるんだ……?
ど緊張してるせいで頭の中の言葉がそのまま口から出てる。待って、わーいって何? また変な奴って思われる。やめろ、軽率に話すな、俺の中の俺……!
先輩が黙ってしまったので早くもヤバいと思い、リュックを握って鎮痛な顔でうつむく。今日こそは普通に会話したいと思っていたのに、忸怩たる思いです。
「……よかった」
右からぽろっと声がして、俺は顔を上げた。
そっと横を見ると、春川先輩はスマホを手でもて遊びながら正面の窓を見ていた。
綺麗に口角が上がる、先輩の横顔。
「俺もずっと話しかけたいなって、思ってたから」
「…………へぁ」
え、えーーーー??
そうだったのーーーー??
驚きすぎて、俺達両思いだったんですね! っていう謎のコメントが口から出そうになったので全力で口をチャックした。
先輩も俺に話しかけたかった? 待ってどうしよう心臓跳ねすぎて喉から出そう。
春川先輩が固まってる俺に気づいて数回瞬きした。
「……ごめん。言い方キモかった。やり直す。ちょっと前から、いつか話してみたいなって思ってて。本の好み同じかなとか」
「あ、それは俺も思ってました」
先輩がほっとしたように口元を緩める。
「気軽に話していいから。別に先輩とか思わなくていいし。呼ぶの春川でいいし、タメ口でいいから」
「いえいえ、ちょっと、それはさすがにハードル高いのでこのままでお願いします…あの、むしろ俺もちょっと昨日から挙動が怪しくて、すみません」
「俺が急に話しかけたからだよね、ごめんね。普段本の話なんてしないから楽しかった。みずきって呼んでい?」
「あ、はい! 俺、庵野(あんの)瑞季といいます」
「うん。よろしく。みずき、苗字あ行なんだ」
「そうなんです、クラス変わるときは絶対相川とか浅井とかいろ!って願かけするほうで」
どういうほうだよ。
と、自分で思ったが、先輩は「『あ』だとそうなんだ」と普通に相槌してくれた。
「一番いやだから?」
「そ、そう、そんな感じです。たとえ仲のいい井上がいても俺が求めてるのはお前じゃないってかんじで」
「安藤は?」
「あんどう……お前じゃな……いや、安藤はいいです。安藤は俺の前にいてくれます。ナイスです先輩」
「ありがとう」
先輩が下を向いてウケている。
ナイスですってなんだよ。とセルフツッコミした。
話の方向性は謎だけど、でも空気が緩んで俺も緊張が解けてきたからよしとしよう。
「あの、俺昨日言ってた本持ってきてて」
「ほんと? ありがとう」
ようやくリュックを開けて、本を取り出せる。
「借りてもいいの?」
「はい、俺はしばらく読み返さないと思うので、ゆっくりで大丈夫です」
「今読んでるの終わったら読むね」
家から持ってきたライトノベルを先輩に渡すと、自然に本の話になった。
先輩も俺が読んでいた本はなんとなく覚えているらしく、最近どれが面白かったか、新刊がいつ出るか、という話をしていたら、思ったよりも話のネタに困らなかった。
「じゃ、また明日」
「はい、また」
先輩が昨日と同じようにそう言ってくれて、電車を降りる。
今日は俺もちょっとは余裕ができて、笑顔で挨拶できた。
「……また明日って、言ってくれた」
ほっとして、一人残った座席で顔が緩みそうになるのを必死で取り繕った。
昨日よりも上手く話せた気がする。
それに、先輩と本の話をするのはやっぱり楽しかった。自分が好きなものを人と共有できるのって、こんなに楽しかったっけ。春川先輩だからかな。明日も話ができると思うと、自分だけの秘密の楽しみができた気がしてわくわくする。
先輩の『また明日』という言葉に背中を押してもらい、俺は次の日も同じ時間の電車に乗った。
──そして俺と春川先輩は、その後なんと毎朝隣に座って喋るようになったのだ。
