◇
「……き。……みずき?」
「っ、あ、はい!」
ぼんやりしていて、名前を呼ばれてハッとした。
いつもの朝の電車の中だ。
先輩が乗ってきて、話していたはずなのに集中できていなかった。しまった、何の話してたっけ。
「すみません、ぼんやりしてて」
「寝不足?」
「そうかもしれません。昨日の夜、ちょっと考え事してて寝つき悪かったので……」
せっかく先輩と話してたのに、気づいたらもう先輩が降りる駅のすぐ手前だ。
昨日から前田のことを引きずっていて、朝もまだモヤモヤしていたから。先輩と何の話をしたのかよく覚えてないなんて、今まで一回もなかったのに。
「あ、俺、そういえば本忘れました……」
今日先輩に貸そうと思っていた小説、スマホにメモして、昨日家に帰ったらリュックに入れようと思っていた。いつもなら寝る前にスケジュールアプリを開いて確認するのに、昨夜はそれも忘れていた。
「すみません。昨日言ってた本、家に忘れちゃいました。明日こそちゃんと持ってきます」
「それは全然いいけど……」
先輩がそう言って、不意に身体を俺の方に向けた。
リュックを抱えて俯く俺に、「みずき」と優しい声がかかる。
「何かあった?」
「え?」
「なんか、今日変だから」
顔を上げると、先輩のキャラメル色の目が真っ直ぐ俺を見つめている。
「どうした? 大丈夫?」
先輩にそう言われた瞬間、つかえたようになっていた胸の奥からじわっと感情が込み上げた。
心臓の辺りが痺れたような感覚があって、それで一瞬、息を止める。
それから自分でも不思議なほど唐突に、水道の蛇口を捻ったみたいに一気にほっとして、肩の力が抜けた。
「……あの」
自然と声が溢れたとき、車内のアナウンスが聞こえた。電車が減速して、ホームが見えてくる。
ハッとして、窓の外を見ると、もう先輩の降りる駅に着くところだった。
「みずき?」
「だ、大丈夫です。ちょっと考え事してただけなんで」
降りる間際に気を遣わせてしまうわけにはいかない。俺は慌てて笑みを取り繕って、首を横に振った。
先輩が俺の様子を気にしてくれたってだけですごく嬉しかった。多分もう大丈夫だ。明日には普通に戻れてる。
「また明日、本持ってきます」
締めの挨拶に入って軽く会釈する。
先輩はそんな俺をじっと見つめた後、電車が止まるのに合わせて座席を立って、床に置いた鞄を肩にかけた。
「放課後、会う?」
その言葉にパッと先輩を見上げた。
「え?」
瞬きすると、先輩が何か考えるような顔で俺を見下ろしていて、軽く首を傾げた。
「今日何か予定ある?」
「あ、な、ないです」
「なら会って話そ。俺も予定ないから」
開いたドアを見ながら早口で言った先輩は、すっと手を伸ばして俺の頭を軽く撫でた。
目を丸くする俺を見下ろして「また連絡する」と言って、扉が閉まる音に合わせて電車を降りていった。
電車が動き出し、束の間放心していた俺は我に返る。
またしても、頭を撫でられてしまった。
しかも、会うって?
放課後会おうって言われた? 俺がいつもと違ったから?
普通にしてたつもりだったのに、俺ってそんなにわかりやすく落ち込んでたのかな。
放課後に会うなんて初めてだけど、いいんだろうか。予定ないって言ってたけど……
躊躇する気持ちが湧く一方で、素直に嬉しいと思う自分がいる。
放課後も先輩に会えるなら、すごく嬉しいかも。帰りの電車に乗る間だけでもいいから、一緒にいられるなら。
スマホが震えて、先輩からメッセージがきた。
『帰りの時間教えて 待ち合わせ場所決めよう』
画面を見つめて、小さく息を止める。
先輩が、本当に会おうとしてくれてる。いいのかな。放課後まで、俺に付き合わせちゃっても。
俺はしばらくそのメッセージを見つめて、それから思い切って返事を返した。
『わかりました 昼休みに連絡しますね』
送ってしまって、ドキドキしていたら、俺の返事はすぐに既読になる。
間を置かずに先輩からスタンプが返ってきた。
いつものブサ猫の、ふてぶてしい顔で『OK』と言っているスタンプ。
それを見たらなんだかほっとしてしまい、ようやく自然に笑えた。
「……き。……みずき?」
「っ、あ、はい!」
ぼんやりしていて、名前を呼ばれてハッとした。
いつもの朝の電車の中だ。
先輩が乗ってきて、話していたはずなのに集中できていなかった。しまった、何の話してたっけ。
「すみません、ぼんやりしてて」
「寝不足?」
「そうかもしれません。昨日の夜、ちょっと考え事してて寝つき悪かったので……」
せっかく先輩と話してたのに、気づいたらもう先輩が降りる駅のすぐ手前だ。
昨日から前田のことを引きずっていて、朝もまだモヤモヤしていたから。先輩と何の話をしたのかよく覚えてないなんて、今まで一回もなかったのに。
「あ、俺、そういえば本忘れました……」
今日先輩に貸そうと思っていた小説、スマホにメモして、昨日家に帰ったらリュックに入れようと思っていた。いつもなら寝る前にスケジュールアプリを開いて確認するのに、昨夜はそれも忘れていた。
「すみません。昨日言ってた本、家に忘れちゃいました。明日こそちゃんと持ってきます」
「それは全然いいけど……」
先輩がそう言って、不意に身体を俺の方に向けた。
リュックを抱えて俯く俺に、「みずき」と優しい声がかかる。
「何かあった?」
「え?」
「なんか、今日変だから」
顔を上げると、先輩のキャラメル色の目が真っ直ぐ俺を見つめている。
「どうした? 大丈夫?」
先輩にそう言われた瞬間、つかえたようになっていた胸の奥からじわっと感情が込み上げた。
心臓の辺りが痺れたような感覚があって、それで一瞬、息を止める。
それから自分でも不思議なほど唐突に、水道の蛇口を捻ったみたいに一気にほっとして、肩の力が抜けた。
「……あの」
自然と声が溢れたとき、車内のアナウンスが聞こえた。電車が減速して、ホームが見えてくる。
ハッとして、窓の外を見ると、もう先輩の降りる駅に着くところだった。
「みずき?」
「だ、大丈夫です。ちょっと考え事してただけなんで」
降りる間際に気を遣わせてしまうわけにはいかない。俺は慌てて笑みを取り繕って、首を横に振った。
先輩が俺の様子を気にしてくれたってだけですごく嬉しかった。多分もう大丈夫だ。明日には普通に戻れてる。
「また明日、本持ってきます」
締めの挨拶に入って軽く会釈する。
先輩はそんな俺をじっと見つめた後、電車が止まるのに合わせて座席を立って、床に置いた鞄を肩にかけた。
「放課後、会う?」
その言葉にパッと先輩を見上げた。
「え?」
瞬きすると、先輩が何か考えるような顔で俺を見下ろしていて、軽く首を傾げた。
「今日何か予定ある?」
「あ、な、ないです」
「なら会って話そ。俺も予定ないから」
開いたドアを見ながら早口で言った先輩は、すっと手を伸ばして俺の頭を軽く撫でた。
目を丸くする俺を見下ろして「また連絡する」と言って、扉が閉まる音に合わせて電車を降りていった。
電車が動き出し、束の間放心していた俺は我に返る。
またしても、頭を撫でられてしまった。
しかも、会うって?
放課後会おうって言われた? 俺がいつもと違ったから?
普通にしてたつもりだったのに、俺ってそんなにわかりやすく落ち込んでたのかな。
放課後に会うなんて初めてだけど、いいんだろうか。予定ないって言ってたけど……
躊躇する気持ちが湧く一方で、素直に嬉しいと思う自分がいる。
放課後も先輩に会えるなら、すごく嬉しいかも。帰りの電車に乗る間だけでもいいから、一緒にいられるなら。
スマホが震えて、先輩からメッセージがきた。
『帰りの時間教えて 待ち合わせ場所決めよう』
画面を見つめて、小さく息を止める。
先輩が、本当に会おうとしてくれてる。いいのかな。放課後まで、俺に付き合わせちゃっても。
俺はしばらくそのメッセージを見つめて、それから思い切って返事を返した。
『わかりました 昼休みに連絡しますね』
送ってしまって、ドキドキしていたら、俺の返事はすぐに既読になる。
間を置かずに先輩からスタンプが返ってきた。
いつものブサ猫の、ふてぶてしい顔で『OK』と言っているスタンプ。
それを見たらなんだかほっとしてしまい、ようやく自然に笑えた。
