華代はがたん、という音に目を覚ました。まぶたをこすりながら窓の外を見る。汽車は帝都の駅舎に滑り込んでいた。慌てて荷物をまとめて、駅舎に降り立つ。あたりはすっかり暗い。政次は車を呼んで、ベンチに腰掛けた。すでに深夜近いからだろうか、周りには誰もいない。政次は、車庫に入っている汽車を眺めてつぶやいた。
「腹が減ったな」
「はい」
「そばでも食っていくか」
政次の提案に、華代はこくりと頷いた。政次は、華代を連れて屋台に入っていった。政次は、こういう店で食事をするのか。政次は天ぷらそばを、華代は山菜そばを注文する。政次はそばを、ずるずると音を立てて食べた。華代は政次をしげしげと眺める。
「そうやって食べるのですね」
「別に、そばを食うのに決まりなどないだろう。好きに食えばいい」
卓上には、七味の缶が置いてある。ちょうど、政次が伸ばした手に華代の手が触れた。華代は慌てて手を引く。政次は咳払いして、七味の缶を手にした。会計を終えて店を出ると、ちょうど水野の車が停まっていた。いつも、いいところで現れるものだ、と華代は思う。車に乗り込むと、水野がにこやかに尋ねてきた。
「西の宮はいかがでしたか」
「はい、楽しかったです」
華代は笑顔で答えた。政次はちらりとこちらを伺う。華代が彼を見返すと、ふいと顔をそらされた。無理やりついていった上に、迷惑をかけてしまった。あとで謝っておかなければ。屋敷に入った華代は、政次に声をかけた。
「あの、政次さま」
「どうした」
「今日は、ありがとうございました」
政次は早く寝ろ、と言って自分の部屋へ向かった。自室に入った華代は、朝顔を窓辺に置いた。まだ開いていないつぼみを、じっと見つめる。政近さまを亡き者にした犯人を、この子が知っているかもしれない。その夜は、慣れない場所に行って疲れたせいかすぐに眠りにつくことができた。
翌日、華代は朝早く起きて、畑へと向かった。クワを手にし、畑を耕す。農作業をしていると、余計なことを考えなくて済む。一心不乱にクワを動かしていたら、政次がいることに気づいた。華代はそちらに駆け寄って挨拶をする。
「早いんだな」
「昨日、早く寝たので」
華代は汗をぬぐう政次に、井戸水で冷やした手ぬぐいを手渡した。政次は手ぬぐいを受け取って、ぼそりと尋ねてくる。
「野菜は喋るのか」
「え?」
「植物は喋ると言っていただろう」
だから野菜とも会話できるのかと思った、と彼は続けた。華代は目を瞬いて、くすくすと笑う。政次はむっとした表情でこちらを見てきた。
「なにがおかしいんだ?」
「いえ……確かに、そうですね」
考えてみたら、野菜と話そうとしたことがなかった。食べるものだからだろうか。今度話してみますね、と言ったら政次が戸惑ったように目を瞬いた。髪をおろしているせいなのか、いつもより幼く見える。華代は手を伸ばして、彼の髪を払った。政次が身動ぎして、戸惑った表情を浮かべる。華代ははっ、と息を飲む。気安く触れてしまった。すみません、と言ったらいや、と返された。
「飯を食うか」
「はい」
華代が微笑むと、政次の表情も緩んだ。
西の宮から帰って、数日が経った。華代は、特に何の変哲もない日々を送っていた。だが、朝顔を見るたびに、政近の死に様を思い出す。花を見て嫌な気分になることなんて、ありえないと思っていたのに。華代はにんじんを手のひらで転がしていた。近くでじゃがいもの皮を剥いていた志保が不思議そうに尋ねてくる。
「どうしたんです、華代さま」
「野菜と話せるかどうか、試しているの」
志保は首をかしげて、華代さまは変わってらっしゃいますねえとつぶやいた。あれ以来、政次との会話が少しずつ増えていた。仕事から帰ってくると、必ず顔を出して華代の身体を気遣ってくれる。顔をほころばせると、志保がにやにやと笑みを浮かべた。
「政次さまと、うまく行ってらっしゃるようですね」
「政次さまは優しいから」
「どこがですか? 最初にお会いしたときは鬼かと思いました」
志保は鼻の頭にシワを寄せている。確かに、初対面のときは印象が悪かった。
「政次さまは、ナスに似ているかもしれないわ」
「なす?」
「トゲがあるけど、美味しいでしょう?」
やっぱり華代様は変わっていますね、と志保は返した。打ち水をするため玄関を出ると、頭上からぴいぴいと声が聞こえてきた。見上げると、燕の巣がある。それを見上げていると、何かあるのか、と政次が声をかけてきた。華代は頭上を指さすと、隣に並んで華代の視線を追う。燕の子供が真っ赤な口を開けて、ぴいぴいと鳴き声をあげている。政次は不思議そうにつぶやいた。
「燕はなぜこの時期にだけ現れるんだ?」
「寒い場所から来るのだって、どこかで聞きました。子育てが終わったら、元の場所に帰るのだとか」
「そうか」
鳥も寒い場所は苦手だろうな、と政次がつぶやいた。彼が何か言いたげにしているので、どうかしたのかと尋ねる。
「遊園地に行かないか」
「ゆうえんち、ですか?」
政次は上司からチケットをもらった、と差し出してきた。華代は目を瞬いてそれを受け取る。印字された施設の名前には覚えがあった。新聞で読んだ、城趾遊園地だ。
「志保と行ってくるといい」
「政次さまは……」
「俺と行っても楽しくないだろう」
彼はそう言って、屋敷に入っていった。華代は彼を呼び止めようとして躊躇する。仕方ないか。政次と行ってみたかったが、そういう騒がしい場所は苦手だろうし、仕事も忙しいだろうから。政次からもらった、と言って遊園地のチケットを差し出すと、志保は目を剥いた。
「ええ? あの人、華代さまをお誘いにならなかったんですか?」
「ええ……志保と行けって」
「はー、まったくしょうがないですね」
その夜、志保は電話で行商人を呼んだ。行商人は広間に舶来物の化粧品や服を並べた。志保はこれがいいと、一着のワンピースを差し出してくる。
華代は胸元にリボンのついた、深緑色のワンピースを見て目を瞬いた。洋服なんて、初めて着る。一体どうやって着るのだろうと思っていたら、志保が手早く着替えを手伝ってくれた。ついでに、髪も巻いてくれる。志保は着飾った華代を見て「おきれいですよ」と言った。彼女は自分が着飾っているかのようにはしゃいでいる。
「志保も着てみたら?」
「私はいいですから」
さっそく政次に見せに行こうと、背中を押される。明日も早いだろうし、政次はもう寝ているのではないだろうか。しかし、予想に反して彼はまだ起きていた。面倒そうに顔を出した政次は、華代を見て固まっている。志保は華代の肩に手を置いたまま、にやにやと笑みを浮かべた。
「とてもかわいらしいでしょう?」
「……」
「女だけで遊園地なんていったら、おかしな男に軟派されてしまうかもしれませんねえ」
「……」
政次は深い溜息をついて、「わかった、俺が行く」と言った。志保は満足げに頷いている。華代は、どうして突然気が変わったのかと不思議に思って尋ねる。
「でも、お忙しいのでしょう?」
政次は無表情でなんとかする、と言った。志保は満足げな表情で頷いている。遊園地に行くのなんて、初めてだ。華代は心が浮き立つのを感じた。翌日曜日、華代は政次といっしょに、城址公園を訪れた。日曜日だけあって、人が大勢いる。政次ははぐれるといけないからと、手を差し出してくる。華代は彼の手を取った。青空には大きな円型のものが見えている。どうやら、少しずつ回転しているようだ。あれはなんだろう。じっと見ていたら、政次が尋ねてきた。
「乗りたいのか?」
「はい。あれはなんでしょう」
「観覧車だ」
どうやら一番人気らしく、人がたくさん並んでいる。それでもみんな嬉しそうだった。よほど楽しい乗り物なのだろう。順番が来たので、華代は政次といっしょに観覧車に乗りこんだ。窓の外を見下ろすと、長い列が見えた。
「政次さま、待っている人たちが見えます」
華代はそう声をかけたが、政次は窓の外を見ようとしない。なぜかひどく、顔色が悪い気がする。華代は彼を伺った。
「もしかして、高いところが苦手なのですか」
「違う」
政次は素早く否定したが、おそらく嘘だろうとわかった。この人にも怖いものがあるのだ、と意外に思う。
「それなら言ってくださればよかったのに」
「おまえが乗りたいと言ったから……」
政次はそこで言葉を切った。華代のために我慢してくれたのだ。そう思ったら胸がじんとする。
「ありがとうございます」
礼を言うと、彼は照れくさそうに目をそらした。
「その格好、似合っている」
「え?」
今、褒められたのだろうか。華代は赤くなって頬を抑えた。観覧車から降りた二人は、メリー・ゴー・ラウンドという乗り物に乗った。馬や馬車を模した乗り物に乗って、ぐるぐると回る。遊園地というものは、回る乗り物が多いのだろうかと華代は思った。馬や馬車に乗っている子供たちの笑顔が、きらきら輝いて見える。いいところだわ。
乗り物から降りると、カメラをぶらさげた係員に声をかけられた。サービスで撮影しているのだそうだ。政次の隣に並ぶと、「もっと寄って」と言われた。少しだけ近づくと、政次が肩を抱き寄せてくる。写真を撮るなんて、幼い時以来だろうか。ぱしゃり、と光った拍子につい目を閉じてしまった。帰宅すると、志保がにこやかに近づいてきた。
「いかがでしたか? デートは」
「デート?」
きょとんとしている華代に対し、政次は咳払いして部屋に入っていった。志保は照れてるんですねえと笑っている。その夜、華代は寝台に腰掛けて、遊園地で撮影した写真を眺めていた。二人並んでいる様子はぎこちないが、出会いを考えると嘘のようだと思う。華代は読みかけの本に、そっと写真を挟んだ。
☆
花のように美しく産まれた万津沙代にとって、姉の華代は引き立て役だった。地味で暗くて、誰からも疎まれるようなおかしな力を持っている。血のつながった姉ではあるが、そう思わなくていいと母に言われて育ったのだ。――あの子は実の母親を殺した、恐ろしい化物なのよ。そんな化物を屋敷に置いているだけ、私たちは心優しいのだから。そうだ、万津家の人々は、一生結婚できないだろう華代に生きる意味を与えてやっていたのだ。それなのに――。
「これ、どういうことなの……」
沙代は、震えながら新聞を握りしめていた。沙代のわがままに耐えかねて使用人がやめてしまったので、部屋はすっかり荒れている。炊事場も回らず、思うように食事が採れないため、髪や肌も艶がなくなっていた。婚約破棄したせいで、花嫁道具は質屋に入れられてしまった。沙代は割れた爪を噛みしめる。お父様は一体、何をしているのかしら。沙代の美貌なら、新しい結婚相手を探すことなど造作もないはずなのに。腹の立つことばかりなのに、更に沙代を苛立たせるできごとがあった。新聞には、城址遊園地の記事が乗っていた。写真には華代と政次が映っている。記事には「微笑ましい恋人同士」と書かれていた。政次は華代のことを調べていたはず。なぜ一緒に遊園地になど行っているのだ。沙代は苛立ちを覚えながら、母親のいる庵へ向かった。襖を開ける前に、声をかけられる。
「足音が汚いわよ、沙代」
沙代は舌打ちした。母は異様に耳がよく、沙代の一挙手一投足に注意をする。上品ぶっているが、没落華族の家柄で実家からの支援は期待できない。父はあてにならないし、こんな家に産まれてしまった私は運が悪い――。襖を開けると、母が茶を立てていた。沙代は彼女に近づいていき、新聞を差し出す。
「お母さま、これを見て」
母はちらりと新聞を見て、「華代でしょう」と言った。使用人たちの噂話を立ち聞きしたのだろうか。なんだ、知っていたのかと拍子抜けする。母はその聴覚の鋭さで、あちこちから情報を拾うことができる。
「華代は神野政次と結婚したようね」
衝撃的な言葉に、沙代は唖然とした。
「な……どうして?」
「さあね。なんにせよ、あの娘が幸せになんてなれるはずがないわ」
母は呑気なことを言っているが、沙代は腸が煮えくり返っていた。あの女は事件を起こして、処刑されるはずだったのではないのか。庵から出て、そばに生えていた松の木を蹴りつける。松の木がみしみしと悲痛な音を立てた。後で母にお小言を言われるだろうが、構うものか。家から追い出してやったのに、華代が幸せに暮らしているだなんて、ありえない。沙代は美しい顔を歪めて、ぎりっと歯噛みした。
「人の結婚を壊しておいて……」
先に平穏を奪われたのはこちらなのだ。必ずあの女の幸せを壊してやる。怒りをたぎらせる沙代のそばを、しゅるしゅると動いていく蛇の影が見えた。
☆
なぜか悪寒がして、華代はぶるっと肩を震わせた。初夏と言っていいほどの陽気で、汗ばむほどだというのに。季節の変わり目は、風邪を引きやすいと言うし、気をつけなければ。窓辺に置いた朝顔に水をやっていると、部屋の戸を叩く音がした。戸を開けると、政次が立っていた。
「街で買ってきた」
彼はそう言って、菓子を差し出した。求肥であんを包んだ、特に変哲のない定番の菓子だ。華代は顔を明るくし、それを受け取った。
「ありがとうございます」
政次と華代は、並んで縁側で菓子を食べた。求肥は少し塩味があって、今の時期にぴったりだった。中に入っている小豆の自然な甘さが美味しい。どこの店で買ったのかと尋ねたら、よく前を通りかかる店だった。今度志保や他の使用人たちにも買っていこう。政次がじっとこちらを見ているので、不思議に思って首をかしげる。
「口についている」
「え? どこですか?」
華代は検討違いの場所をぬぐった。じれったくなったのか、政次が手を伸ばす。節くれだった指が、唇に触れる感触がした。とたんに顔が熱くなる。
「っ」
「熱でもあるのか?」
政次はそう言って額に触れてきた。近づいてきた顔にますます顔が赤くなった。
「お匙を呼ぶ」
「いえ、大丈夫です」
立ち上がろうとした政次を、華代は引き止めた。
「何かあったらすぐ言え。一応、俺達は夫婦だ」
「はい」
彼は口下手だが、歩み寄ろうとしてくれている。その心が嬉しかった。華代も政次のことをもっと知りたいと思った。
★
「おまえは結婚しているのか」
政次が尋ねると、近松がきょとんとした。
「いえ、私は独身です」
「そうか」
近松は幽霊でも見るかのような眼差しを向けてくる。
「隊長が私語を話すなんて……」
明日は雨でしょうか、と彼は頭上を見た。つられて見上げた空は晴れ渡っている。
政次は、物心がついたころから一人で生きてきたので、他人と会話をするのは苦手だった。話を振られれば答えるが、率直に物を言うので、大抵の相手は怒り出す。激昂した男に掴みかかられたこともあるが、政次に敵うものはまずいない。異能者をねじ伏せるため、鍛錬を重ねてきたのだ。
特に趣味もなく、どうせ帰っても一人なので、仕事が終わったあとも見回りをするのが常だった。しかし、今は終業後はすぐに家に帰りたいと思うようになった。車に乗り込むと、水野がお疲れ様です、と声をかけてきた。そういえば、水野は既婚者だった。
「おまえは妻とどういう会話をするんだ」
「え?」
水野はきょとんとして、ふふっと笑った。
「何がおかしい」
「政次さま、変わられましたね」
近松にも似たようなことを言われた。自分の何が変わったというのだろう。水野はなんでもいいんですよ、と言った。
「なんでもいい?」
「ええ。夫婦はお互いを想っていることが大事なんです」
つまり、具体的に何をすればいいのだ。抽象的すぎてよくわからない。相手をよく知ることですよ、と水野は続けた。華代のことなら、すでに調べて知っている。だがわからないことが多いのだ。こんなことは初めてだった。帰宅すると、庭に華代がいた。
彼女は慈愛に満ちた表情で庭を眺めている。植物を操る力があるので、自然のものは好きなのだろう。比較的地味な色合いの着物を身に着けているが、彼女の好みなのかどうかはわからない。よく家仕事をしているので、汚れてもいいものを選んでいるのかもしれない。西の宮の女は、厚化粧をして着飾っていた。華代にはほとんど化粧けがない。それでも彼女は輝いて見えた。異能者としての生命力ゆえだろうか。政次が近づいていくと、華代が笑いかけてきた。
「おかえりなさい、政次さま」
「ああ」
華代は政次から刀を受け取った。この刀は、政次にとって命のようなものだった。それを預けてもいいと思える相手は、華代だけだ。彼女の横顔を見つめながら尋ねる。
「おまえは、よく庭にいるんだな」
「はい。この庭が好きなんです」
「そうか。あまり食えるものはなさそうだが」
華代は目を瞬いて、そうですね、とおかしそうに笑った。生きるために必要だったので、政次は野草に詳しい。河原に生えている雑草を摘んで食べたこともある。異能捜査部に入ってからは、忙しさにかまけて、飯を抜くこともあった。きっちり三食とっているおかげか、この家に来てから体調がいい。
「政次さまは、好きな季節はいつですか?」
「季節に好きも嫌いもない」
「私は春が好きです。色々な花が咲くので」
彼女が好きな季節は終わりに近づき、もうすぐ初夏にさしかかる。夏は嫌いなのかと尋ねると、華代は苦笑した。
「梅雨がないと、お米ができないでしょう? 必要なのはわかるけど、苦手なんです。雨が降ると、いつも体調が悪くなって」
「そうか」
日が当たらないと、異能者としての力が使えなくなるそうだ。土蔵に閉じ込めたときも、体調が悪かったのかもしれない。政次は、燃え盛る蔵の中で華代を見つけたときのことを思い出した。まるで彼女を守るように、その細い身体を木の枝が覆っていた。あれは一体なんだったのだろう。その件について尋ねると、華代が困惑したように首をかしげた。意識して力をつかった覚えはないようだ。
「自分でもよくわからないことが多くて」
「刀を抜いてみろ」
突然そう言われた華代は、困惑した表情を浮かべた。そっと柄に手をかけて、引き抜こうとする。しかし、鞘はびくともしなかった。彼女はしびれた手をひらひらと動かす。
「硬いですね」
「その刀は異能者には抜けない。おまえにかけた手錠と、同じ材料で作られている」
そうなんですか、と華代はつぶやいた。
「この刀でのみ、異能者を殺せる。これは異能捜査部にしか与えられていない」
「私が暴走しても、政次さまが止めてくれるのですね」
華代はどこか悲しそうな表情でつぶやいた。政次は、刀について話したことを後悔した。もしそんな時が来たら、自分は刀を抜けるのだろうか。一瞬そんな考えが脳裏をよぎる。
「おまえは、大丈夫だろう」
華代は頷いて、再び庭に視線を向けた。
「腹が減ったな」
「はい」
「そばでも食っていくか」
政次の提案に、華代はこくりと頷いた。政次は、華代を連れて屋台に入っていった。政次は、こういう店で食事をするのか。政次は天ぷらそばを、華代は山菜そばを注文する。政次はそばを、ずるずると音を立てて食べた。華代は政次をしげしげと眺める。
「そうやって食べるのですね」
「別に、そばを食うのに決まりなどないだろう。好きに食えばいい」
卓上には、七味の缶が置いてある。ちょうど、政次が伸ばした手に華代の手が触れた。華代は慌てて手を引く。政次は咳払いして、七味の缶を手にした。会計を終えて店を出ると、ちょうど水野の車が停まっていた。いつも、いいところで現れるものだ、と華代は思う。車に乗り込むと、水野がにこやかに尋ねてきた。
「西の宮はいかがでしたか」
「はい、楽しかったです」
華代は笑顔で答えた。政次はちらりとこちらを伺う。華代が彼を見返すと、ふいと顔をそらされた。無理やりついていった上に、迷惑をかけてしまった。あとで謝っておかなければ。屋敷に入った華代は、政次に声をかけた。
「あの、政次さま」
「どうした」
「今日は、ありがとうございました」
政次は早く寝ろ、と言って自分の部屋へ向かった。自室に入った華代は、朝顔を窓辺に置いた。まだ開いていないつぼみを、じっと見つめる。政近さまを亡き者にした犯人を、この子が知っているかもしれない。その夜は、慣れない場所に行って疲れたせいかすぐに眠りにつくことができた。
翌日、華代は朝早く起きて、畑へと向かった。クワを手にし、畑を耕す。農作業をしていると、余計なことを考えなくて済む。一心不乱にクワを動かしていたら、政次がいることに気づいた。華代はそちらに駆け寄って挨拶をする。
「早いんだな」
「昨日、早く寝たので」
華代は汗をぬぐう政次に、井戸水で冷やした手ぬぐいを手渡した。政次は手ぬぐいを受け取って、ぼそりと尋ねてくる。
「野菜は喋るのか」
「え?」
「植物は喋ると言っていただろう」
だから野菜とも会話できるのかと思った、と彼は続けた。華代は目を瞬いて、くすくすと笑う。政次はむっとした表情でこちらを見てきた。
「なにがおかしいんだ?」
「いえ……確かに、そうですね」
考えてみたら、野菜と話そうとしたことがなかった。食べるものだからだろうか。今度話してみますね、と言ったら政次が戸惑ったように目を瞬いた。髪をおろしているせいなのか、いつもより幼く見える。華代は手を伸ばして、彼の髪を払った。政次が身動ぎして、戸惑った表情を浮かべる。華代ははっ、と息を飲む。気安く触れてしまった。すみません、と言ったらいや、と返された。
「飯を食うか」
「はい」
華代が微笑むと、政次の表情も緩んだ。
西の宮から帰って、数日が経った。華代は、特に何の変哲もない日々を送っていた。だが、朝顔を見るたびに、政近の死に様を思い出す。花を見て嫌な気分になることなんて、ありえないと思っていたのに。華代はにんじんを手のひらで転がしていた。近くでじゃがいもの皮を剥いていた志保が不思議そうに尋ねてくる。
「どうしたんです、華代さま」
「野菜と話せるかどうか、試しているの」
志保は首をかしげて、華代さまは変わってらっしゃいますねえとつぶやいた。あれ以来、政次との会話が少しずつ増えていた。仕事から帰ってくると、必ず顔を出して華代の身体を気遣ってくれる。顔をほころばせると、志保がにやにやと笑みを浮かべた。
「政次さまと、うまく行ってらっしゃるようですね」
「政次さまは優しいから」
「どこがですか? 最初にお会いしたときは鬼かと思いました」
志保は鼻の頭にシワを寄せている。確かに、初対面のときは印象が悪かった。
「政次さまは、ナスに似ているかもしれないわ」
「なす?」
「トゲがあるけど、美味しいでしょう?」
やっぱり華代様は変わっていますね、と志保は返した。打ち水をするため玄関を出ると、頭上からぴいぴいと声が聞こえてきた。見上げると、燕の巣がある。それを見上げていると、何かあるのか、と政次が声をかけてきた。華代は頭上を指さすと、隣に並んで華代の視線を追う。燕の子供が真っ赤な口を開けて、ぴいぴいと鳴き声をあげている。政次は不思議そうにつぶやいた。
「燕はなぜこの時期にだけ現れるんだ?」
「寒い場所から来るのだって、どこかで聞きました。子育てが終わったら、元の場所に帰るのだとか」
「そうか」
鳥も寒い場所は苦手だろうな、と政次がつぶやいた。彼が何か言いたげにしているので、どうかしたのかと尋ねる。
「遊園地に行かないか」
「ゆうえんち、ですか?」
政次は上司からチケットをもらった、と差し出してきた。華代は目を瞬いてそれを受け取る。印字された施設の名前には覚えがあった。新聞で読んだ、城趾遊園地だ。
「志保と行ってくるといい」
「政次さまは……」
「俺と行っても楽しくないだろう」
彼はそう言って、屋敷に入っていった。華代は彼を呼び止めようとして躊躇する。仕方ないか。政次と行ってみたかったが、そういう騒がしい場所は苦手だろうし、仕事も忙しいだろうから。政次からもらった、と言って遊園地のチケットを差し出すと、志保は目を剥いた。
「ええ? あの人、華代さまをお誘いにならなかったんですか?」
「ええ……志保と行けって」
「はー、まったくしょうがないですね」
その夜、志保は電話で行商人を呼んだ。行商人は広間に舶来物の化粧品や服を並べた。志保はこれがいいと、一着のワンピースを差し出してくる。
華代は胸元にリボンのついた、深緑色のワンピースを見て目を瞬いた。洋服なんて、初めて着る。一体どうやって着るのだろうと思っていたら、志保が手早く着替えを手伝ってくれた。ついでに、髪も巻いてくれる。志保は着飾った華代を見て「おきれいですよ」と言った。彼女は自分が着飾っているかのようにはしゃいでいる。
「志保も着てみたら?」
「私はいいですから」
さっそく政次に見せに行こうと、背中を押される。明日も早いだろうし、政次はもう寝ているのではないだろうか。しかし、予想に反して彼はまだ起きていた。面倒そうに顔を出した政次は、華代を見て固まっている。志保は華代の肩に手を置いたまま、にやにやと笑みを浮かべた。
「とてもかわいらしいでしょう?」
「……」
「女だけで遊園地なんていったら、おかしな男に軟派されてしまうかもしれませんねえ」
「……」
政次は深い溜息をついて、「わかった、俺が行く」と言った。志保は満足げに頷いている。華代は、どうして突然気が変わったのかと不思議に思って尋ねる。
「でも、お忙しいのでしょう?」
政次は無表情でなんとかする、と言った。志保は満足げな表情で頷いている。遊園地に行くのなんて、初めてだ。華代は心が浮き立つのを感じた。翌日曜日、華代は政次といっしょに、城址公園を訪れた。日曜日だけあって、人が大勢いる。政次ははぐれるといけないからと、手を差し出してくる。華代は彼の手を取った。青空には大きな円型のものが見えている。どうやら、少しずつ回転しているようだ。あれはなんだろう。じっと見ていたら、政次が尋ねてきた。
「乗りたいのか?」
「はい。あれはなんでしょう」
「観覧車だ」
どうやら一番人気らしく、人がたくさん並んでいる。それでもみんな嬉しそうだった。よほど楽しい乗り物なのだろう。順番が来たので、華代は政次といっしょに観覧車に乗りこんだ。窓の外を見下ろすと、長い列が見えた。
「政次さま、待っている人たちが見えます」
華代はそう声をかけたが、政次は窓の外を見ようとしない。なぜかひどく、顔色が悪い気がする。華代は彼を伺った。
「もしかして、高いところが苦手なのですか」
「違う」
政次は素早く否定したが、おそらく嘘だろうとわかった。この人にも怖いものがあるのだ、と意外に思う。
「それなら言ってくださればよかったのに」
「おまえが乗りたいと言ったから……」
政次はそこで言葉を切った。華代のために我慢してくれたのだ。そう思ったら胸がじんとする。
「ありがとうございます」
礼を言うと、彼は照れくさそうに目をそらした。
「その格好、似合っている」
「え?」
今、褒められたのだろうか。華代は赤くなって頬を抑えた。観覧車から降りた二人は、メリー・ゴー・ラウンドという乗り物に乗った。馬や馬車を模した乗り物に乗って、ぐるぐると回る。遊園地というものは、回る乗り物が多いのだろうかと華代は思った。馬や馬車に乗っている子供たちの笑顔が、きらきら輝いて見える。いいところだわ。
乗り物から降りると、カメラをぶらさげた係員に声をかけられた。サービスで撮影しているのだそうだ。政次の隣に並ぶと、「もっと寄って」と言われた。少しだけ近づくと、政次が肩を抱き寄せてくる。写真を撮るなんて、幼い時以来だろうか。ぱしゃり、と光った拍子につい目を閉じてしまった。帰宅すると、志保がにこやかに近づいてきた。
「いかがでしたか? デートは」
「デート?」
きょとんとしている華代に対し、政次は咳払いして部屋に入っていった。志保は照れてるんですねえと笑っている。その夜、華代は寝台に腰掛けて、遊園地で撮影した写真を眺めていた。二人並んでいる様子はぎこちないが、出会いを考えると嘘のようだと思う。華代は読みかけの本に、そっと写真を挟んだ。
☆
花のように美しく産まれた万津沙代にとって、姉の華代は引き立て役だった。地味で暗くて、誰からも疎まれるようなおかしな力を持っている。血のつながった姉ではあるが、そう思わなくていいと母に言われて育ったのだ。――あの子は実の母親を殺した、恐ろしい化物なのよ。そんな化物を屋敷に置いているだけ、私たちは心優しいのだから。そうだ、万津家の人々は、一生結婚できないだろう華代に生きる意味を与えてやっていたのだ。それなのに――。
「これ、どういうことなの……」
沙代は、震えながら新聞を握りしめていた。沙代のわがままに耐えかねて使用人がやめてしまったので、部屋はすっかり荒れている。炊事場も回らず、思うように食事が採れないため、髪や肌も艶がなくなっていた。婚約破棄したせいで、花嫁道具は質屋に入れられてしまった。沙代は割れた爪を噛みしめる。お父様は一体、何をしているのかしら。沙代の美貌なら、新しい結婚相手を探すことなど造作もないはずなのに。腹の立つことばかりなのに、更に沙代を苛立たせるできごとがあった。新聞には、城址遊園地の記事が乗っていた。写真には華代と政次が映っている。記事には「微笑ましい恋人同士」と書かれていた。政次は華代のことを調べていたはず。なぜ一緒に遊園地になど行っているのだ。沙代は苛立ちを覚えながら、母親のいる庵へ向かった。襖を開ける前に、声をかけられる。
「足音が汚いわよ、沙代」
沙代は舌打ちした。母は異様に耳がよく、沙代の一挙手一投足に注意をする。上品ぶっているが、没落華族の家柄で実家からの支援は期待できない。父はあてにならないし、こんな家に産まれてしまった私は運が悪い――。襖を開けると、母が茶を立てていた。沙代は彼女に近づいていき、新聞を差し出す。
「お母さま、これを見て」
母はちらりと新聞を見て、「華代でしょう」と言った。使用人たちの噂話を立ち聞きしたのだろうか。なんだ、知っていたのかと拍子抜けする。母はその聴覚の鋭さで、あちこちから情報を拾うことができる。
「華代は神野政次と結婚したようね」
衝撃的な言葉に、沙代は唖然とした。
「な……どうして?」
「さあね。なんにせよ、あの娘が幸せになんてなれるはずがないわ」
母は呑気なことを言っているが、沙代は腸が煮えくり返っていた。あの女は事件を起こして、処刑されるはずだったのではないのか。庵から出て、そばに生えていた松の木を蹴りつける。松の木がみしみしと悲痛な音を立てた。後で母にお小言を言われるだろうが、構うものか。家から追い出してやったのに、華代が幸せに暮らしているだなんて、ありえない。沙代は美しい顔を歪めて、ぎりっと歯噛みした。
「人の結婚を壊しておいて……」
先に平穏を奪われたのはこちらなのだ。必ずあの女の幸せを壊してやる。怒りをたぎらせる沙代のそばを、しゅるしゅると動いていく蛇の影が見えた。
☆
なぜか悪寒がして、華代はぶるっと肩を震わせた。初夏と言っていいほどの陽気で、汗ばむほどだというのに。季節の変わり目は、風邪を引きやすいと言うし、気をつけなければ。窓辺に置いた朝顔に水をやっていると、部屋の戸を叩く音がした。戸を開けると、政次が立っていた。
「街で買ってきた」
彼はそう言って、菓子を差し出した。求肥であんを包んだ、特に変哲のない定番の菓子だ。華代は顔を明るくし、それを受け取った。
「ありがとうございます」
政次と華代は、並んで縁側で菓子を食べた。求肥は少し塩味があって、今の時期にぴったりだった。中に入っている小豆の自然な甘さが美味しい。どこの店で買ったのかと尋ねたら、よく前を通りかかる店だった。今度志保や他の使用人たちにも買っていこう。政次がじっとこちらを見ているので、不思議に思って首をかしげる。
「口についている」
「え? どこですか?」
華代は検討違いの場所をぬぐった。じれったくなったのか、政次が手を伸ばす。節くれだった指が、唇に触れる感触がした。とたんに顔が熱くなる。
「っ」
「熱でもあるのか?」
政次はそう言って額に触れてきた。近づいてきた顔にますます顔が赤くなった。
「お匙を呼ぶ」
「いえ、大丈夫です」
立ち上がろうとした政次を、華代は引き止めた。
「何かあったらすぐ言え。一応、俺達は夫婦だ」
「はい」
彼は口下手だが、歩み寄ろうとしてくれている。その心が嬉しかった。華代も政次のことをもっと知りたいと思った。
★
「おまえは結婚しているのか」
政次が尋ねると、近松がきょとんとした。
「いえ、私は独身です」
「そうか」
近松は幽霊でも見るかのような眼差しを向けてくる。
「隊長が私語を話すなんて……」
明日は雨でしょうか、と彼は頭上を見た。つられて見上げた空は晴れ渡っている。
政次は、物心がついたころから一人で生きてきたので、他人と会話をするのは苦手だった。話を振られれば答えるが、率直に物を言うので、大抵の相手は怒り出す。激昂した男に掴みかかられたこともあるが、政次に敵うものはまずいない。異能者をねじ伏せるため、鍛錬を重ねてきたのだ。
特に趣味もなく、どうせ帰っても一人なので、仕事が終わったあとも見回りをするのが常だった。しかし、今は終業後はすぐに家に帰りたいと思うようになった。車に乗り込むと、水野がお疲れ様です、と声をかけてきた。そういえば、水野は既婚者だった。
「おまえは妻とどういう会話をするんだ」
「え?」
水野はきょとんとして、ふふっと笑った。
「何がおかしい」
「政次さま、変わられましたね」
近松にも似たようなことを言われた。自分の何が変わったというのだろう。水野はなんでもいいんですよ、と言った。
「なんでもいい?」
「ええ。夫婦はお互いを想っていることが大事なんです」
つまり、具体的に何をすればいいのだ。抽象的すぎてよくわからない。相手をよく知ることですよ、と水野は続けた。華代のことなら、すでに調べて知っている。だがわからないことが多いのだ。こんなことは初めてだった。帰宅すると、庭に華代がいた。
彼女は慈愛に満ちた表情で庭を眺めている。植物を操る力があるので、自然のものは好きなのだろう。比較的地味な色合いの着物を身に着けているが、彼女の好みなのかどうかはわからない。よく家仕事をしているので、汚れてもいいものを選んでいるのかもしれない。西の宮の女は、厚化粧をして着飾っていた。華代にはほとんど化粧けがない。それでも彼女は輝いて見えた。異能者としての生命力ゆえだろうか。政次が近づいていくと、華代が笑いかけてきた。
「おかえりなさい、政次さま」
「ああ」
華代は政次から刀を受け取った。この刀は、政次にとって命のようなものだった。それを預けてもいいと思える相手は、華代だけだ。彼女の横顔を見つめながら尋ねる。
「おまえは、よく庭にいるんだな」
「はい。この庭が好きなんです」
「そうか。あまり食えるものはなさそうだが」
華代は目を瞬いて、そうですね、とおかしそうに笑った。生きるために必要だったので、政次は野草に詳しい。河原に生えている雑草を摘んで食べたこともある。異能捜査部に入ってからは、忙しさにかまけて、飯を抜くこともあった。きっちり三食とっているおかげか、この家に来てから体調がいい。
「政次さまは、好きな季節はいつですか?」
「季節に好きも嫌いもない」
「私は春が好きです。色々な花が咲くので」
彼女が好きな季節は終わりに近づき、もうすぐ初夏にさしかかる。夏は嫌いなのかと尋ねると、華代は苦笑した。
「梅雨がないと、お米ができないでしょう? 必要なのはわかるけど、苦手なんです。雨が降ると、いつも体調が悪くなって」
「そうか」
日が当たらないと、異能者としての力が使えなくなるそうだ。土蔵に閉じ込めたときも、体調が悪かったのかもしれない。政次は、燃え盛る蔵の中で華代を見つけたときのことを思い出した。まるで彼女を守るように、その細い身体を木の枝が覆っていた。あれは一体なんだったのだろう。その件について尋ねると、華代が困惑したように首をかしげた。意識して力をつかった覚えはないようだ。
「自分でもよくわからないことが多くて」
「刀を抜いてみろ」
突然そう言われた華代は、困惑した表情を浮かべた。そっと柄に手をかけて、引き抜こうとする。しかし、鞘はびくともしなかった。彼女はしびれた手をひらひらと動かす。
「硬いですね」
「その刀は異能者には抜けない。おまえにかけた手錠と、同じ材料で作られている」
そうなんですか、と華代はつぶやいた。
「この刀でのみ、異能者を殺せる。これは異能捜査部にしか与えられていない」
「私が暴走しても、政次さまが止めてくれるのですね」
華代はどこか悲しそうな表情でつぶやいた。政次は、刀について話したことを後悔した。もしそんな時が来たら、自分は刀を抜けるのだろうか。一瞬そんな考えが脳裏をよぎる。
「おまえは、大丈夫だろう」
華代は頷いて、再び庭に視線を向けた。
