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「政次さま、夫婦になったのだから、華代さまをもう少し気にかけなさいませ」
いきなり志保にそう言われたのは、夜遅くに帰ってきたときだった。華代はどうしていると尋ねたら、もう寝ていると呆れたように返された。気にかけろと言われても、彼女と政次では生活の時間が違った。軍の仕事は不規則だし、華代にそれに合わせろというのは酷だろう。そもそも彼女は政近に好意を寄せている。政次のことなど眼中にない。もし何日も帰らなくても、おそらく気にしないだろう。黙り込んでいる政次を見て、志保ははあ、とため息を漏らした。
「政近さまとは大違いだわ」
似るはずもない。物心ついた頃から、兄とは離れて暮らしていた。――政近は神になる存在だから、と母には言い聞かされていた。
「政近は神様なの。私たちのような、穢れが触れてはならないのよ」
母がそう言うたびに政次は、思った。自分はともかく、母親が穢れとは一体どういうことなのだろう。当主の父は政近を国主にすることにしか興味がなく、母と政次を顧みることはなかった。母が亡くなったあとは、浮浪児のような生活をしていた。政次の環境が変わったのは、水野が現れてからだった。彼は政次を連れて、神野家に向かった。屋敷ではちょうど、元服の儀が行われていた。しかし父の方針で、遠巻きに見ることしか許されなかった。儀式は順調に行われていたが、突如異変が起きた。その場に野良犬が乱入したのだ。護衛のものは犬を斬り捨てようとしたが、政近がやめて、と叫んだ。政次はとっさに、政近の前に躍り出た。政次は野良犬を睨みつけ、低い声で告げた。
「帰れ」
野良犬は後ずさって、その場から去っていった。
「ありがとう」
政近は政次に微笑みかけた。その時は、それ以上の会話を交わすことはできなかった。すぐにつまみ出されたからだ。父に呼び出された政次は怯えていた。勝手な真似をしたことを、叱責されるのではないかと思ったのだ。しかし、父は思わぬことを告げた。
「今日から政近の護衛に入れ」
「……え」
「兄を守るために生きるのだ。嫌なら野垂れ死ね」
その日から、死に物狂いで剣技を身に着けた。しかし政近は、政次が護衛官になることを拒否した。弟に守ってもらうなんて、お兄ちゃん失格ですからね。そう言って笑っていた。代わりに都を守ってくれと、兄は言った。だから異能者を狩る部署に入った。あの時、無理にでも護衛におさまっていれば――。
政次はそこで、意識を戻した。すぐ目の前に、西の宮の御所が見えている。ここには帯刀したままでは入れない。政次は、刀を門兵に預けて朱塗りの門を抜けた。御所の中を行き来している人々は、時代遅れの狩衣姿だった。彼らは政次を見てひそひそと囁いている。
「東の田舎者か」
「あんな服着て、嫌だね」
御所の連中が、現在の首都を田舎呼ばわりしているのは知っている。以前は都だったという、特権意識に凝り固まっているのだ。謁見の間で待機していると、垂れ目の男が現れた。着流しを身に着け、色素の薄い髪をまとめている。西の宮の当主、京町松韻)だ。松韻は政次を見て、垂れ目がちな瞳をますます緩める。
「久しぶりやねえ、政次くん」
彼は周りに着飾った女をはべらせていた。彼女たちは松韻が何かを囁くと、くすくすと笑い声をあげる。華代を連れてこなかったのは、この男が無類の女好きだからだ。たしか、父親も所構わず女を作っていたとか。
しばらくすると、酒と食事が運ばれてきた。松韻は「飲みい」と酒を差し出してきたが、政次は手をつけなかった。つい50年ほど前まで国主の座をめぐって争っていた連中だ。信頼できる相手ではない。彼は酒を煽って、空の盃を眺めた。
「政近くんが死ぬなんてなあ。まだ25やろ?」
「死んだんじゃなく、殺されたんだ」
「しかも僕の街でな。嫌なるわ」
「本当にそう思っているのか」
「それ、どういう意味なん?」
松韻は伺うような視線を送ってきた。政次と違って、兄は誰かの恨みを買うような性格はしていない。疑うべきは、国主の座を狙っている人間だろう。筆頭が、権威を取り戻したがっている西の宮だ。こちらの真意を悟ったのか、松韻が目を細めた。
「僕より、君の方が怪しいんちゃうの、政次くん」
「なんだと?」
「だってそうやん。同じ神野家に産まれたのに、放ったらかしにされとって。気の毒やなあ思っとったんやで」
君って野良犬みたいやねえ。顔を合わせるたびに、松韻はよくそう言っていた。いつも腹をすかせとるように見えるわ。誰にも愛されてへんから、そんな目をしとるんやろ? 周囲から見れば、自分は哀れなのだろうか。しかし政次は、兄の立場を羨ましいと思ったことはなかった。誰に対しても神のように優しく振る舞うなど、自分には無理だ。松韻は、そばに座っている女の髪に触れる。
「国主になればきれいな女も選び放題やで。異能者狩りなんてアホらしくてしとれんやろ」
「そんな話はどうでもいい。兄の死因について、何か知らないか」
取り付く島のない政次に、彼は肩をすくめた。
「たしか、花街で亡くなったんやろ? 政近くんも男やねえ」
花街にいた、というのがまずおかしい。政次はそう思っていた。兄が朝帰りしたなどという話を、志保はしなかった。政近は必ずまっすぐ家に帰ってきた。華代に会うために――。そう考えたらなぜかもやっとした。
「兄には妻がいた」
「あのなあ、妻がいたら遊んだらあかん思ってるのは君だけやで」
松韻は呆れた顔でこちらを見た。本当にそうなのだろうか? 政近は酒や女に酔って、油断したところを殺されたのか? 政次が知っている兄の顔など、一部でしかないのだろうか。政次は、松韻のかたわらの女をじっと見た。彼女は妖艶な笑みを向けてくる。松韻は政次の視線に気づいて、にやにやと笑った。
「この子気に入ったんか? よかったら部屋貸すけど」
「いや、妻がいる」
松韻は驚いた表情を浮かべた。
「君結婚したん!? どんな子?」
「コスモスのような女だ」
松韻はきょとんとしたあと笑い出した。いつまでも笑っているので、むっとして睨みつける。彼はごめんごめん、と言って涙の滲んだ目元をぬぐった。
「あーおかしい。君でも恋するんやね」
恋という言葉に、政次は驚いた。松韻はなにか勘違いしているようだった。華代と結婚したのは恋愛感情からではない。いうなれば、罪滅ぼしの側面が強かった。そういえば、外に彼女を待たせている。立ち上がった政次に、松韻が声をかけてくる。
「ちょっと、もう帰るんかい」
「邪魔をした」
「よかったらいい店紹介するで」
松韻はにやにや笑いながら声をかけてきたが、無視した。政次が馬車に乗り込むと、華代はほっとした表情を浮かべた。
「政次さま」
用事は済んだのかと問われて、政次は頷いた。酔っぱらいに何か聞いても仕方がないだろう。このまま駅に向かっても構わないが、華代は巾着につけた鈴をせわしなくいじっている。いつもの彼女らしくない、切迫した顔をしていた。
「どこか、行きたい場所はあるか」
「……政近さまが、亡くなったところに」
大丈夫なのだろうか、と政次は思った。しかし、華代の意思は固いようだった。
政次たちは、馬車に乗って花街にやってきた。昼間だけあって、人通りは少ない。石畳の上には、血のシミらしきものが残っていた。政次にとっては見慣れたものだが、華代はそれを見て表情をこわばらせている。大丈夫か、と声をかけようとしたら、老婆がからりと格子戸を開けた。打ち水をするつもりだったのか、たらい桶を持っている。彼女は政次と華代を見比べて、ぶっきらぼうに声をかけてくる。
「お店はまだですよ」
「先日、ここで人が殺されただろう」
政次の言葉に、老婆が眉をひそめた。政次が身分証を差し出すと、顔色が変わった。彼女はあたりを見回して、政次と華代を店の中に引き入れた。冷やしたお茶を差し出される。
「ありゃあ、ひどい事件でしたね」
「見ていたのか」
「そりゃ店の真ん前でしたから……雨が降ってたもんだから、水たまりが真っ赤に染まってて」
脅かすような話し方に華代が震えだしたので、そこで遮る。
「犯人を見なかったか」
「いえ、悲鳴が聞こえて外に出たんですよ。あんな日だし、外を歩いてる人なんていないでしょう」
確かに、人通りが多ければ政近は殺されなかったかもしれない。青ざめていた華代は、取り出した鈴を老婆に見せた。
「これに、見覚えはないですか」
「ああ、満願神社の鈴ですよ。ここから歩いてちょっとのところにあります」
華代は、最後に二階を見たいと言い出した。老婆は怪訝な表情を浮かべたが、政次は言うとおりにするよう促す。狭い階段を登っていくと、部屋がいくつかあった。華代は、端の部屋を見たいと言う。ちょうど、事件現場の真上の部屋だ。二階にある部屋の屏風には、桜が描いてあった。窓辺には朝顔の鉢が置かれている。華代はそっと朝顔の葉に触れた。その瞬間、華代がその場に崩れ落ちた。政次は、華代の身体を支えた。白い額には脂汗が滲んでいる。
「大丈夫か」
「……はい」
老婆は布団を敷いて、水を持ってきた。心配そうな顔をしていたので、平気だと伝えて退出させる。華代は水を飲み干し、政次をじっと見た。
「政近さまが、殺されるところを見ました」
政次は息を飲んだ。一体どういうことかと尋ねる。
「あの子が教えてくれました」
白く細い指先が、窓辺の朝顔を指さす。どうやら、華代は植物に触れることによって、記憶を読めるようだ。これも異能の一種なのだろう。日差しの差し込まない室内はひんやりしていたが、政次は喉の渇きを感じていた。自身がごくり、と唾を飲む音がひびく。
「……誰なんだ?」
「わかりません」
傘をさしていたので、わからないと華代は言った。
「ただ、傘に何か模様が……」
「模様?」
「雨のせいで、よく見えませんでした」
華代はそう言ったきり、ぐったりと目を閉じた。政近が殺されるところを見たのだ。無理もない。華代を休ませ、政次だけで神社へ行くことにした。地図を頼りに、狭い路地を進んでいく。石段を登っていき、境内へと向かった。賽銭箱の前では狛犬が向かい合っていた。神社の社務所では、華代が持っていたのと同じ鈴が売っている。政次は、境内で箒を手にしている老人に声をかける。
「先月の12日、俺と似た男が来なかったか」
「はい?」
老人はまじまじと政次を見て、首をかしげた。
「さあ……お兄さんみたいに男前なら、覚えてそうなもんやけど」
政次はおべっかを相手にせず、この神社にはどういういわれがあるのかと尋ねた。老人はニコニコ笑いながら説明する。
「清姫さんの伝説です」
「清姫?」
「はい。地獄に行っても、旦那様を恋い慕った一途な乙女ですわ」
清姫は街一番の美人と名高かかった。しかし、若くして亡くなってしまう。亭主は西の宮の有力者だったが、嘆き悲しんで隠居してしまう。そんなある日、隠居の庵に鈴の音が聞こえるようになる。清姫が呼んでいるのだと思った彼は、庵の近くにあった湖で入水自殺する。命日が近くなると、必ず近辺で鈴の音が聞こえるのだとか。その関係で、縁結び神社とされているそうだ。老人はいかにも悲恋だと言いたげに語ったが、政次は思わず眉をひそめた。
「……気味の悪い話だな」
「お兄さんは恋をしたことがないんでっか」
恋という単語は、政次の人生には関わりのないものだった。世間の感性は政次とは違うのか、鈴は縁結びに効果があると言われているらしい。おそらく、華代に渡したかったのだろう。政近はここで鈴を買って、花街を歩いている最中に殺された。政次は整備された神社の石畳に、今はない兄の面影を追った。
神社をあとにした政次は、華代が待つ店に向かった。彼女は窓辺にぼんやりと座って、外を眺めている。細い腕には、朝顔の鉢を抱えていた。華代、と声をかけると、こちらを振り向く。
「大丈夫か」
「はい」
「帰ろう」
華代は朝顔を抱えたままで、ふらふらと立ち上がる。政次は、彼女の細い肩を抱き寄せた。その瞳は、遠くを見ていた。彼女の心はここにはない。政次が神社で見た幻影のように、政近の影を追っている。そう思うと、なぜか胸がきしんだ。
「政次さま、夫婦になったのだから、華代さまをもう少し気にかけなさいませ」
いきなり志保にそう言われたのは、夜遅くに帰ってきたときだった。華代はどうしていると尋ねたら、もう寝ていると呆れたように返された。気にかけろと言われても、彼女と政次では生活の時間が違った。軍の仕事は不規則だし、華代にそれに合わせろというのは酷だろう。そもそも彼女は政近に好意を寄せている。政次のことなど眼中にない。もし何日も帰らなくても、おそらく気にしないだろう。黙り込んでいる政次を見て、志保ははあ、とため息を漏らした。
「政近さまとは大違いだわ」
似るはずもない。物心ついた頃から、兄とは離れて暮らしていた。――政近は神になる存在だから、と母には言い聞かされていた。
「政近は神様なの。私たちのような、穢れが触れてはならないのよ」
母がそう言うたびに政次は、思った。自分はともかく、母親が穢れとは一体どういうことなのだろう。当主の父は政近を国主にすることにしか興味がなく、母と政次を顧みることはなかった。母が亡くなったあとは、浮浪児のような生活をしていた。政次の環境が変わったのは、水野が現れてからだった。彼は政次を連れて、神野家に向かった。屋敷ではちょうど、元服の儀が行われていた。しかし父の方針で、遠巻きに見ることしか許されなかった。儀式は順調に行われていたが、突如異変が起きた。その場に野良犬が乱入したのだ。護衛のものは犬を斬り捨てようとしたが、政近がやめて、と叫んだ。政次はとっさに、政近の前に躍り出た。政次は野良犬を睨みつけ、低い声で告げた。
「帰れ」
野良犬は後ずさって、その場から去っていった。
「ありがとう」
政近は政次に微笑みかけた。その時は、それ以上の会話を交わすことはできなかった。すぐにつまみ出されたからだ。父に呼び出された政次は怯えていた。勝手な真似をしたことを、叱責されるのではないかと思ったのだ。しかし、父は思わぬことを告げた。
「今日から政近の護衛に入れ」
「……え」
「兄を守るために生きるのだ。嫌なら野垂れ死ね」
その日から、死に物狂いで剣技を身に着けた。しかし政近は、政次が護衛官になることを拒否した。弟に守ってもらうなんて、お兄ちゃん失格ですからね。そう言って笑っていた。代わりに都を守ってくれと、兄は言った。だから異能者を狩る部署に入った。あの時、無理にでも護衛におさまっていれば――。
政次はそこで、意識を戻した。すぐ目の前に、西の宮の御所が見えている。ここには帯刀したままでは入れない。政次は、刀を門兵に預けて朱塗りの門を抜けた。御所の中を行き来している人々は、時代遅れの狩衣姿だった。彼らは政次を見てひそひそと囁いている。
「東の田舎者か」
「あんな服着て、嫌だね」
御所の連中が、現在の首都を田舎呼ばわりしているのは知っている。以前は都だったという、特権意識に凝り固まっているのだ。謁見の間で待機していると、垂れ目の男が現れた。着流しを身に着け、色素の薄い髪をまとめている。西の宮の当主、京町松韻)だ。松韻は政次を見て、垂れ目がちな瞳をますます緩める。
「久しぶりやねえ、政次くん」
彼は周りに着飾った女をはべらせていた。彼女たちは松韻が何かを囁くと、くすくすと笑い声をあげる。華代を連れてこなかったのは、この男が無類の女好きだからだ。たしか、父親も所構わず女を作っていたとか。
しばらくすると、酒と食事が運ばれてきた。松韻は「飲みい」と酒を差し出してきたが、政次は手をつけなかった。つい50年ほど前まで国主の座をめぐって争っていた連中だ。信頼できる相手ではない。彼は酒を煽って、空の盃を眺めた。
「政近くんが死ぬなんてなあ。まだ25やろ?」
「死んだんじゃなく、殺されたんだ」
「しかも僕の街でな。嫌なるわ」
「本当にそう思っているのか」
「それ、どういう意味なん?」
松韻は伺うような視線を送ってきた。政次と違って、兄は誰かの恨みを買うような性格はしていない。疑うべきは、国主の座を狙っている人間だろう。筆頭が、権威を取り戻したがっている西の宮だ。こちらの真意を悟ったのか、松韻が目を細めた。
「僕より、君の方が怪しいんちゃうの、政次くん」
「なんだと?」
「だってそうやん。同じ神野家に産まれたのに、放ったらかしにされとって。気の毒やなあ思っとったんやで」
君って野良犬みたいやねえ。顔を合わせるたびに、松韻はよくそう言っていた。いつも腹をすかせとるように見えるわ。誰にも愛されてへんから、そんな目をしとるんやろ? 周囲から見れば、自分は哀れなのだろうか。しかし政次は、兄の立場を羨ましいと思ったことはなかった。誰に対しても神のように優しく振る舞うなど、自分には無理だ。松韻は、そばに座っている女の髪に触れる。
「国主になればきれいな女も選び放題やで。異能者狩りなんてアホらしくてしとれんやろ」
「そんな話はどうでもいい。兄の死因について、何か知らないか」
取り付く島のない政次に、彼は肩をすくめた。
「たしか、花街で亡くなったんやろ? 政近くんも男やねえ」
花街にいた、というのがまずおかしい。政次はそう思っていた。兄が朝帰りしたなどという話を、志保はしなかった。政近は必ずまっすぐ家に帰ってきた。華代に会うために――。そう考えたらなぜかもやっとした。
「兄には妻がいた」
「あのなあ、妻がいたら遊んだらあかん思ってるのは君だけやで」
松韻は呆れた顔でこちらを見た。本当にそうなのだろうか? 政近は酒や女に酔って、油断したところを殺されたのか? 政次が知っている兄の顔など、一部でしかないのだろうか。政次は、松韻のかたわらの女をじっと見た。彼女は妖艶な笑みを向けてくる。松韻は政次の視線に気づいて、にやにやと笑った。
「この子気に入ったんか? よかったら部屋貸すけど」
「いや、妻がいる」
松韻は驚いた表情を浮かべた。
「君結婚したん!? どんな子?」
「コスモスのような女だ」
松韻はきょとんとしたあと笑い出した。いつまでも笑っているので、むっとして睨みつける。彼はごめんごめん、と言って涙の滲んだ目元をぬぐった。
「あーおかしい。君でも恋するんやね」
恋という言葉に、政次は驚いた。松韻はなにか勘違いしているようだった。華代と結婚したのは恋愛感情からではない。いうなれば、罪滅ぼしの側面が強かった。そういえば、外に彼女を待たせている。立ち上がった政次に、松韻が声をかけてくる。
「ちょっと、もう帰るんかい」
「邪魔をした」
「よかったらいい店紹介するで」
松韻はにやにや笑いながら声をかけてきたが、無視した。政次が馬車に乗り込むと、華代はほっとした表情を浮かべた。
「政次さま」
用事は済んだのかと問われて、政次は頷いた。酔っぱらいに何か聞いても仕方がないだろう。このまま駅に向かっても構わないが、華代は巾着につけた鈴をせわしなくいじっている。いつもの彼女らしくない、切迫した顔をしていた。
「どこか、行きたい場所はあるか」
「……政近さまが、亡くなったところに」
大丈夫なのだろうか、と政次は思った。しかし、華代の意思は固いようだった。
政次たちは、馬車に乗って花街にやってきた。昼間だけあって、人通りは少ない。石畳の上には、血のシミらしきものが残っていた。政次にとっては見慣れたものだが、華代はそれを見て表情をこわばらせている。大丈夫か、と声をかけようとしたら、老婆がからりと格子戸を開けた。打ち水をするつもりだったのか、たらい桶を持っている。彼女は政次と華代を見比べて、ぶっきらぼうに声をかけてくる。
「お店はまだですよ」
「先日、ここで人が殺されただろう」
政次の言葉に、老婆が眉をひそめた。政次が身分証を差し出すと、顔色が変わった。彼女はあたりを見回して、政次と華代を店の中に引き入れた。冷やしたお茶を差し出される。
「ありゃあ、ひどい事件でしたね」
「見ていたのか」
「そりゃ店の真ん前でしたから……雨が降ってたもんだから、水たまりが真っ赤に染まってて」
脅かすような話し方に華代が震えだしたので、そこで遮る。
「犯人を見なかったか」
「いえ、悲鳴が聞こえて外に出たんですよ。あんな日だし、外を歩いてる人なんていないでしょう」
確かに、人通りが多ければ政近は殺されなかったかもしれない。青ざめていた華代は、取り出した鈴を老婆に見せた。
「これに、見覚えはないですか」
「ああ、満願神社の鈴ですよ。ここから歩いてちょっとのところにあります」
華代は、最後に二階を見たいと言い出した。老婆は怪訝な表情を浮かべたが、政次は言うとおりにするよう促す。狭い階段を登っていくと、部屋がいくつかあった。華代は、端の部屋を見たいと言う。ちょうど、事件現場の真上の部屋だ。二階にある部屋の屏風には、桜が描いてあった。窓辺には朝顔の鉢が置かれている。華代はそっと朝顔の葉に触れた。その瞬間、華代がその場に崩れ落ちた。政次は、華代の身体を支えた。白い額には脂汗が滲んでいる。
「大丈夫か」
「……はい」
老婆は布団を敷いて、水を持ってきた。心配そうな顔をしていたので、平気だと伝えて退出させる。華代は水を飲み干し、政次をじっと見た。
「政近さまが、殺されるところを見ました」
政次は息を飲んだ。一体どういうことかと尋ねる。
「あの子が教えてくれました」
白く細い指先が、窓辺の朝顔を指さす。どうやら、華代は植物に触れることによって、記憶を読めるようだ。これも異能の一種なのだろう。日差しの差し込まない室内はひんやりしていたが、政次は喉の渇きを感じていた。自身がごくり、と唾を飲む音がひびく。
「……誰なんだ?」
「わかりません」
傘をさしていたので、わからないと華代は言った。
「ただ、傘に何か模様が……」
「模様?」
「雨のせいで、よく見えませんでした」
華代はそう言ったきり、ぐったりと目を閉じた。政近が殺されるところを見たのだ。無理もない。華代を休ませ、政次だけで神社へ行くことにした。地図を頼りに、狭い路地を進んでいく。石段を登っていき、境内へと向かった。賽銭箱の前では狛犬が向かい合っていた。神社の社務所では、華代が持っていたのと同じ鈴が売っている。政次は、境内で箒を手にしている老人に声をかける。
「先月の12日、俺と似た男が来なかったか」
「はい?」
老人はまじまじと政次を見て、首をかしげた。
「さあ……お兄さんみたいに男前なら、覚えてそうなもんやけど」
政次はおべっかを相手にせず、この神社にはどういういわれがあるのかと尋ねた。老人はニコニコ笑いながら説明する。
「清姫さんの伝説です」
「清姫?」
「はい。地獄に行っても、旦那様を恋い慕った一途な乙女ですわ」
清姫は街一番の美人と名高かかった。しかし、若くして亡くなってしまう。亭主は西の宮の有力者だったが、嘆き悲しんで隠居してしまう。そんなある日、隠居の庵に鈴の音が聞こえるようになる。清姫が呼んでいるのだと思った彼は、庵の近くにあった湖で入水自殺する。命日が近くなると、必ず近辺で鈴の音が聞こえるのだとか。その関係で、縁結び神社とされているそうだ。老人はいかにも悲恋だと言いたげに語ったが、政次は思わず眉をひそめた。
「……気味の悪い話だな」
「お兄さんは恋をしたことがないんでっか」
恋という単語は、政次の人生には関わりのないものだった。世間の感性は政次とは違うのか、鈴は縁結びに効果があると言われているらしい。おそらく、華代に渡したかったのだろう。政近はここで鈴を買って、花街を歩いている最中に殺された。政次は整備された神社の石畳に、今はない兄の面影を追った。
神社をあとにした政次は、華代が待つ店に向かった。彼女は窓辺にぼんやりと座って、外を眺めている。細い腕には、朝顔の鉢を抱えていた。華代、と声をかけると、こちらを振り向く。
「大丈夫か」
「はい」
「帰ろう」
華代は朝顔を抱えたままで、ふらふらと立ち上がる。政次は、彼女の細い肩を抱き寄せた。その瞳は、遠くを見ていた。彼女の心はここにはない。政次が神社で見た幻影のように、政近の影を追っている。そう思うと、なぜか胸がきしんだ。
