座敷牢の壁に、がり、という音が響いた。華代は、壁に刻まれた三本の線を眺める。
ここに閉じ込められてから、三日が経った。日めくりも時計もないため、判断しているのは日に二回運ばれてくる食事だけだ。飢えることはないし、日に一度は身体を清めることもできる。座ってばかりいると筋力が衰えてしまうので、とりあえず立ったり座ったりを繰り返す。植物の異能を使うからだろうか。暗いところにずっといると、華代は体調を崩してしまう。だから、政近さまは雨が降ると部屋中を花で埋め尽くしてくれた。優しい笑顔を思い出していると、靴音が響いた。華代は慌てて壁から離れる。すでに読み終えた新聞をめくっていると、政次が姿を現した。彼は部屋の入り口に置かれたお盆にちらっと視線を向ける。
「食べないのか」
「……食欲がなくて」
「人を食うのか?死体なら用意できる」
平坦な声を聞いて、華代は顔を熱くした。きっと睨みつけると、彼は無表情でこちらを見返してきた。
「以前捕縛した異能者に、そういう男がいた。今は、孤島の監獄に閉じ込められているはずだが」
異能者の中には、不当に扱われて精神を病むものも多い。この人は、華代を化け物のように扱っている。地下に植物などないのはわかっているはずだが、万が一がないように、刀に手をかけているのがわかった。政近によく似た顔と声だが、中身はまるで違う。冷酷で、人を人とも思わない。同じだわ……万津家の人々と。華代は、ぐっ、と拳を握りしめた。
「……人を食べたりしません。私は人間です!」
「なら、なぜ兄を殺した」
「私が政近さまを殺すわけがないでしょう」
「兄は国主だぞ。油断を誘えるような者が、おまえ以外にいるのか?」
その言い草に腹が立ったが、政次の疑問はもっともだった。その上犯人が異能者であるとなれば、まず華代以外いない。
「私はずっと、帝都にいました。志保に聞いてもらえばわかります」
「あの女中はおまえに肩入れしているようだ。うまいこと手なづけたようだな」
華代はその言葉に絶句した。まるで華代が政近を殺すために入り込んだとでも言いたげた。政次の視線は、積み上げられた新聞に向かっていた。
「なぜ新聞を読む? 外に出られないのに、世間のことを知って意味があるのか」
「政近さまの葬儀を行っていないのはなぜですか」
その問いに、政次の眉が動いた。彼がこちらに近づいてきたので、華代は身構える。政次は、壁にもたれて口を開いた。
「兄は国主だ。当然知ってるな」
「……はい」
華代は小さく頷いた。この国において、神とされる存在――。
「国主には権限はない。しかし、権威はある。命を狙うものも多い。知っていて近づいたんじゃないのか?」
「違います!」
思わず叫ぶと、冷静な表情の政次と視線が合った。これは尋問なのだ。証明しなければ。自分が政近を殺すわけがない、ということを――。
「私が産まれたのは、万津家です。ご存知、ですか?」
「ああ。旧家だな」
そうして華代は、政次との出会いを語りだした。
華代が産まれたのは、かつて大名家だった万津家だった。万津家の当主、喜平は異能者を出したことを恥じて、華代を使用人として扱った。華代には、花のように美しい妹、沙代がいた。彼女は、力を持つ華族との結婚が決まっていた。金を持っている華族と、没落寸前の大名家の婚姻は珍しくないことだった。豪華な着物を着た妹は、それを見せびらかすようにくるりと回ってみせた。
「これ、似合うかしら?」
「はい、沙代さま」
華代は擦り切れた着物を着て、部屋の隅に控えていた。結婚を控えた妹は、とても嬉しそうだった。いつもは癇癪持ちで、すぐに華代に当たり散らしてくるが、今は可愛らしいと思えた。妹は鏡越しにちらりと華代に視線を送ってくる。
「それで、私が結婚したら華代はどうするの?」
「どう、って」
「いつまでも家にいられたら困るじゃない。結婚するのは無理だろうし」
沙代は嘲るような笑みを浮かべた。黙り込んでいたら、彼女がこちらにやってきた。腕組みをすると、着物の袖がひらひらと揺れる。
「お願いします、って言いなさいよ。この家で使ってくださいって」
「お願いします」
「声が小さいわ。もう一回」
華代はお願いします、と頭を下げた。ほつれた髪が額に触れ、水仕事で荒れたつま先が見える。気が済んだのか、沙代は意気揚々と部屋を出ていった。脱ぎ散らかされた着物を手に部屋を出ると、彼女は両親に着物を見せびらかしていた。娘の晴れ姿に、いつもは厳しい父親も相好を崩している。
「本当に可愛いな、沙代は」
「そうね。まるで花の精みたい」
そう言ったのは、継母の恵利だった。彼女は白魚のような手で沙代の髪を撫でる。そうして、ちらりと華代の方を見た。
「あら、いたの? 華代」
「はい、お継母さま」
「あなたの母親になったつもりはないわ」
継母は冷たい声で言って、沙代に笑みを向ける。華代は黙ってその場から立ち去った。
水場に向かい、沙代の着物を洗濯する。万津家には金がないため、使用人はただでこき使える華代しかいない。都が帝都になって以来、藩制が終わり、大名が消えた結果お取り潰しになる家が増えているそうだ。華代は、物干しざおに絡んでいる朝顔のつるに視線を向けた。そっとつるに触れると、喜んでいる気持ちが伝わってくる。庭の植物以外、華代を慰めてくれるものはない。
チャイムの音がしたので、玄関に向かう。
そこにいたのは、沙代の婚約者の井原英臣だった。彼はちらりと華代を見て、こう尋ねた。
「沙代さんはいる?」
「英臣さん!」
沙代が玄関にかけてきて、英臣に抱きついた。華代は赤くなってその場から去る。沙代の婚約者の井原英臣は端正な顔立ちの青年だったが、華代はなんとなく彼が苦手だった。顔を合わせるたびに、粘ついた視線を感じる気がするのだ。自意識過剰だとはわかっているのだが。
沙代が次の着物を試す間、英臣にお茶を用意した。彼は茶を一口飲んで、じっとこちらを見つめてきた。嫌な予感がして、立ち去ろうとしたら引き止められた。
「よく見たら君、沙代に似ているんだね」
「え……?」
「聞いたことがあるんだ。万津家には娘が二人いたけど、一人が突然消えたって」
華代ははっと息を飲んだ。父は華代を娘として扱っていない。だから、外部の人間はほとんどそのことを知らないのだ。どうしてそんなことを知っているの。警戒をあらわにした華代を見て、英臣がふ、と笑った。
「沙代から聞いたんだよ。君は嫁の行きてがないから、一生この家にいるんだって。よかったら妾としてうちに来ない?」
「……」
妹の結婚相手が、こんな人だったなんて。華代は表情をこわばらせ、部屋から出ようとした。英臣がその腕を掴んでくる。振りほどこうとしたが、力が強くて敵わない。
「離してください」
「もったいぶるなよ。この屋敷で朽ち果てるのとどっちがいいんだ?」
英臣が顔を近づけてくる。――いや。そのとき、床の間に飾ってあった盆栽の枝が伸びてきて、英臣の首を締め上げる。彼はぐえっと叫んで畳に突っ伏した。華代は呆然として、気絶した英臣を見下ろした。早く手当しないと。そう思って手を伸ばしたが、それを遮るように甲高い悲鳴が響いた。
着替えを終えた沙代が血相を変えてこちらに走ってくる。彼女は華代を突き飛ばして、英臣に寄り添った。
「英臣さまあ! しっかりして」
英臣はぐったりと気を失ったまま運ばれていった。華代は激しい叱責を受け、物置に閉じ込められ何日も食事を抜かれた。しばらくして、破談を申し入れる書状が届いた。蒼白になった父親にすがりついて、沙代はわあっと泣き崩れる。
「縁談がなくなったのは、華代のせいよ! この家に化物がいるなんて知られたから!」
「……ごめんなさい」
父親はおもむろに立ち上がって、華代を足蹴にした。鬼の形相で、畳に倒れた華代を見下ろす。
「なぜあんなことをした。沙代への妬みか?」
「違います。英臣さまが……」
「言い訳はいい。今すぐ荷物をまとめて出ていけ」
この人は、華代を憎んでいる。英臣のことがなくとも、きっと、追い出す口実を考えていたのだ。華代はのろのろと立ち上がった。途中、継母とすれ違ったが彼女は「お元気でね」と言っただけだった。
華代の味方など、この家にはいない。わかっていたはずだったのに。少ない荷物を風呂敷に包んで、屋敷を出る。華代は、闇夜に沈んでいる万津家を見上げた。この家で幸せだと思ったことは、数えるほどしかなかった。それでも小さな声でつぶやく。
「お世話になりました」
月は雲で隠れていた。街頭のかすかな明かりを頼りに、とぼとぼと歩いていく。今日、どこで眠ろう。お金はないし、知り合いのいない華代は行くあてもない。ぽつり、と落ちてきたものが頬を叩く。天を仰ぐと、雨が降ってきていた。華代は、大きな門のある家に入る。軒下で少し、雨宿りをさせてもらおう。前髪を濡らしたつゆを払い、身震いした。3月とはいえ寒いな……。その時、にゃあ、という声が聞こえてきた。視線を向けると、真っ白な猫がこちらを見上げていた。
「……あなた、ひとり?」
猫は返事をするように、にゃあと鳴いた。華代は身をかがめ、猫の頭を撫でた。猫は嬉しそうに華代に寄り添ってきた。抱えあげて、その身体を抱きしめる。あたたかい……。そんなふうに、ぬくもりに触れたのは久しぶりだった。泣くつもりなどなかったのに、涙がこぼれ落ちた。猫がぺろり、と華代の涙を舐め取る。優しい子。動物は、人間みたいな偏見を持たない。華代も、人間ではなく猫に生まれればよかった。そうしたら自由に生きることができたのかもしれない。
華代は門の柱にもたれて、うとうとと眠りについた。
――君、起きてください。
誰かが肩に触れた気がしたが、目を開けたくなかった。小さなため息が聞こえて、身体がふわりと浮き上がった。
次に気がついたときには、見知らぬ部屋にいた。真っ白な天井。広々とした室内に、洋風の寝台やランプが置かれている。床に敷かれているのは、複雑な織物の絨毯だ。ぽかんとしていると、がちゃり、と戸が開く。ひょいっと顔を出したのは、美しい顔立ちの青年だった。眼鏡をかけていて、書生風の格好をしている。彼は華代を見て、にこりと笑う。
「――おはようございます」
「お、おはようございます」
青年は部屋に入ってきて、寝台のかたわらに腰掛けた。私、どうしてこんなところにいるのだろう。疑問を抱く華代に、彼はすらすらと説明をする。
「門のところに倒れていたんです。僭越ながら、僕が運びました」
「すみません、ご迷惑を」
「いえいえ。あ、朝食を食べますか」
そんな迷惑をかけられない、と答えようとしたが、その前に腹がぐうっと鳴った。赤くなっていると、青年がくすりと笑う。彼は一旦部屋を出て、トレーに乗せた朝食を運んできた。白磁の皿に、スープが注がれ、果物とトーストが乗っている。茶器に入っているのはお茶ではなく、琥珀色の飲み物だ。たしか、紅茶って言うんだったかしら。お茶なのに、牛乳や砂糖を淹れて飲むらしい。万津家にいたときは、沙代が捨てた雑誌をこっそり読むのがひそかな楽しみだった。そこにこんな朝食が乗っていた。戸惑っている華代に、青年がどうかしたかと尋ねてくる。
「こういうものは、初めて食べます」
「そうですか。女中たちは、パンのほうが用意するのが楽みたいです。僕はごはんも好きですけど」
トーストはさくさくして香ばしくて、とても美味しかった。果物は果汁がしたたるほどみずみずしい。男の人なら、こういう洒落た食事よりもお腹がふくれる方がいいだろう。この人はきっと、ここに居候しているのだ、と華代は思った。書生を雇うぐらいだし、きっとお金持ちなのだろう。もしかしたら働き手を探しているかもしれない。華代は、思い切って尋ねてみた。
「あの!」
「はい」
「ここの、ご主人に会わせてもらえませんか」
緊張した面持ちの華代を見て、青年はきょとんとしている。大事なご主人に、得体のしれない人間を会わせたりしないか。断られたら、行く宛がない。彼は視線を上向けたあと、にっこり笑った。
「ああ……はい、いいですよ」
「ありがとうございます! えっと」
「僕は政近です」
「私は華代です」
万津の名前は出さないようにしよう、と華代は思った。少し待つように言って、政近は部屋を出ていった。しばらくすると、女中がやってきた。小柄な可愛らしい少女で、にこにこ笑っている。
「はじめまして、志保と申します」
「華代と申します」
「華代さま。ひとまず着替えましょうか」
様付けで呼ばれたのは初めてで、華代は驚いた。
「着替えならあります」
取り出した着物を見て、志保は顔をしかめている。
「これは、女中の着物では? しかもとても擦り切れていますが」
「ごめんなさい」
「責めているわけでは……」
志保は、風呂に入って着替えるよう促した。華代は浴槽にたまったお湯に身体を沈め、ふうと息を吐いた。温かい風呂に入るのは久しぶりだ。いつも仕事を終えたあと、冷めた湯に入っていた。薪代がもったいないからと、温め直すことはゆるされなかった。つい長湯してしまい、急いで浴室を出る。志保はてきぱきと、華代の身支度を整えた。衣桁にかけられていたのは、仕立ての良い着物だった。志保はきらきらと瞳を輝かせる。
「わあ、とてもお似合いです」
「あ、あの?」
この着物、高いのではないか? 女中としての面接を受けるだけで、こんなにめかしこむ必要があるのだろうか。というか、これは誰の着物なのだろう。戸惑いつつも、志保に続いて歩いていく。それにしても、広いお屋敷だ、と華代は思う。全て洋風なのかと思いきやそうでもなく、長い廊下の欄間には、細かい細工が施されていた。昨今の情勢で、こういった屋敷は維持が大変になってきているという。万津家も、沙代の結婚がなくなってかなり苦しいはずだ。内装に気を取られていると、当主の部屋にたどり着いていた。
「旦那様、華代さまをお連れしました」
志保の言葉に、そこにいた男性が振り向いた。それが政近だったので、華代はぎょっとする。
「母の着物なのですが、よく似合っていますね」
政近はそう言って笑みを浮かべた。先程の書生すがたから打って変わって、質のいい上衣を羽織っている。彼は「どうも、当主です」と笑顔で言った。志保は脂汗をかく華代を見て、不思議そうな表情を浮かべている。
「も、申し訳ありません。まさか、この屋敷のご主人だとは……」
「そんなに威厳ないですかね?」
「いえ! あの、もっと厳しい方かと」
政近はくすり、と笑った。
「よく弟に言われますよ。兄さんは甘い。あんみつ並だってね」
「あんみつ……」
弟さんがいらっしゃるのか、と華代は思った。他にご家族はいるのだろうか。なんにせよ、これだけの屋敷に住んでいるのだから、ただものではないだろう。基本的に家の中にいる華代は、自分の父親よりも上の存在は見たことがない。一体この人は、何者なのだろう。最近、都で幅をきかせているという大商人だろうか。いや、そんなことはいい。華代は、思い切りよく頭を下げた。
「ここで働かせてください!」
「うーん、だめです」
「えっ」
即答された華代は青ざめた。やはり、門で爆睡するような人間は雇えないということか。それとも、得体がしれないからか。はっきり断っておきながら、政近は気の毒そうな表情を見せる。
「実はあんまりお金がないんです」
「そ、そうは見せませんが」
「この屋敷、解体予定なんですよね、維持にお金がかかるので」
華代はその言葉に驚いた。こんな素晴らしい屋敷を解体してしまうのか。もっとも、その家の財政は、外からではわからない。世の中そんなにうまくはできていないか。うなだれている華代を見て、政近が目を細めた。
「ああ、あなたにいてもらえる方法、一つあります」
「な、なんでしょうか」
「僕のお嫁さんになってください」
一瞬何を言われたかわからず、ぽかんとした。今、この人は何を――? 政近は明日の天気の話でもするかのように、のんびりとした口調で言う。
「僕にはちょっとした秘密があるんです。そのせいで、結婚できなくって」
「お、お金がないからですか?」
「ううん、説明が難しいな」
彼は頭を掻いて苦笑している。よくわからないが、政近には人にあかせぬ秘密があるようだ。それなら、口外しない嫁をとったほうがいいということか。でも、華代は異能者だ。ここはどう見ても旧家なのに、いいのだろうか。こういった家にとっては、神に嫌われた存在は何よりも忌むべきもののはず。戸惑っている華代に、「しばらく考えます?」と尋ねてくる。華代は思い切って、かぶりを振った。
「わ、私のようなものでよろしければ」
「ありがとう。じゃ、さっそく婚礼の儀をあげましょうか」
婚礼の儀と言いつつ、広間で並んで座って盃をかわしただけだった。お互いのことを名前以外何も知らずに、あまりにもあっさりと決まった結婚だった。しかし、本来結婚とはこういうものなのかもしれない。政近は華代に恋をしたわけではない。彼の立場に結婚が必要だっただけだ。政近が国主だと知ったのは、結婚したあとだった。婚礼の儀を上げてからしばらく経ったあと、突然、国臣たちが乗り込んできたのだ。その時、華代は欄間の掃除をしていたところだった。突然ものものしい連中が尋ねてきたので、何事かとぎょっとした。慌てる華代にくらべて、政近はのんびりと構えていた。
「華代が驚いているだろう? もっと静かにしてくれ」
「国主さま! 我々に黙って勝手に結婚などなさって、どういうおつもりです」
華代はぽかんとして、夫となった人を見上げた。
「国主、さま……?」
神国の成り立ちは、3000年前に遡る。神は人を作ったが、その中に「異能者」と呼ばれる危険な者がいて、争いが起きた。神は異能者を封印し、土地を細かく分けられた。それ以降数々の戦などを経て、現在、神国には47の県がある。政近は帝都の国主――国を治めるものである。そんな人と、使用人のようにこき使われていた華代が結婚などありえない話だった。国主は神の代理人。47の県を従え、国を導く存在。お金がないなんて、嘘だったのだ。もしかしてからかわれた? だけど、国中の美女を娶ることができる政近が華代を嫁に迎えることに、どんな理由があるというのだ。
その晩、華代は政近の寝所を訪れた。本来、二人の寝室は分けられている。これは政近が決めたことだった。もしかして、政近はすべて知っているのかもしれない。華代の素性も、家を追い出されたわけも。神にもっとも近い存在である彼なら、不可能ではないだろう。寝間着すがたの華代を見て、政近は珍しく困った表情を浮かべていた。
「今日はびっくりしたでしょう?」
「いえ。でも、どうして言ってくれなかったんですか?」
「なんとなく言いそびれてしまって」
「……離縁してください」
「え」
「私に国主の花嫁なんて、無理です」
華代は、花瓶に飾られている花を手にした。テッセンだ。力を込めると、しゅるしゅると、蔦が伸びていく。政近は驚いた表情でそれを見つめていた。
「私は、異能者なのです」
からみついた蔦を見つめて、泣きそうな声を漏らす。そうして包み隠さずに、すべてを話した。生家で虐げられていたこと。追い出されて行くところがないこと。この力のせいで、きっとここでも迷惑をかけてしまう。政近はうつむいている華代をじっと見つめている。
「……君にも秘密があったんですね」
「はい。申し訳ありません」
「じゃあ、僕の秘密も見せましょう」
政近は、ふわりと華代の身体を抱きしめた。華代はびくっと身体をふるわせる。その直後、政近の身体が徐々に縮みはじめた。かと思えば、ぱさり、と着物が畳の上に落ちた。
「政近さま!?」
政近のすがたはなかった。その代わり、真っ白な猫が足元にうずくまっている。この子、雨の日に門の前で会った子だ。まさか、この猫が政近さま――? よく見たら、目元にほくろのような柄がある。それは政近のほくろとよく似ていた。華代は猫を抱き上げて、まじまじと見つめた。
「ま、まさちか、さま?」
猫はにゃあ、と鳴いた。政近が元に戻ったのは、日が出てからだった。着物を羽織る彼から、慌てて目をそらす。動揺しながらも、華代は考えていた。あれは異能なのだろうか。異能者のことは、国の暗部として伏せられてきた。中には獣に変身する者もいるのかもしれない。もういいですよ、と言われて振り向くと、政近がキセルを手にとるところだった。吸ってもいいか尋ねられて頷く。彼はキセルをふかして、ため息を漏らす。
「7つを過ぎたころから、女の子を抱きしめるとこうなっちゃうんですよね」
「そうなんですか」
「はい。だから、子供は残せません。家督は弟に譲るつもりなんです」
神の化身である国主が猫になるなんて、誰にも言えないということだ。政近は肩をすくめた。
「弟はずいぶん頑固でね。頷いてくれないんです」
「弟さんが、うんと言うまで待つおつもりなんですね」
「はい。華代さんは頭がいいなあ」
大きな手のひらが、華代の頭を撫でた。華代は彼の袖をそっと掴む。子を成せない国主と、結婚できない異能者。華代と政近は秘密を持つもの同士、引き合ったのかもしれない。政近の弟が国主の座につくまで、花嫁として、この人のそばにいるのだ。
ここに閉じ込められてから、三日が経った。日めくりも時計もないため、判断しているのは日に二回運ばれてくる食事だけだ。飢えることはないし、日に一度は身体を清めることもできる。座ってばかりいると筋力が衰えてしまうので、とりあえず立ったり座ったりを繰り返す。植物の異能を使うからだろうか。暗いところにずっといると、華代は体調を崩してしまう。だから、政近さまは雨が降ると部屋中を花で埋め尽くしてくれた。優しい笑顔を思い出していると、靴音が響いた。華代は慌てて壁から離れる。すでに読み終えた新聞をめくっていると、政次が姿を現した。彼は部屋の入り口に置かれたお盆にちらっと視線を向ける。
「食べないのか」
「……食欲がなくて」
「人を食うのか?死体なら用意できる」
平坦な声を聞いて、華代は顔を熱くした。きっと睨みつけると、彼は無表情でこちらを見返してきた。
「以前捕縛した異能者に、そういう男がいた。今は、孤島の監獄に閉じ込められているはずだが」
異能者の中には、不当に扱われて精神を病むものも多い。この人は、華代を化け物のように扱っている。地下に植物などないのはわかっているはずだが、万が一がないように、刀に手をかけているのがわかった。政近によく似た顔と声だが、中身はまるで違う。冷酷で、人を人とも思わない。同じだわ……万津家の人々と。華代は、ぐっ、と拳を握りしめた。
「……人を食べたりしません。私は人間です!」
「なら、なぜ兄を殺した」
「私が政近さまを殺すわけがないでしょう」
「兄は国主だぞ。油断を誘えるような者が、おまえ以外にいるのか?」
その言い草に腹が立ったが、政次の疑問はもっともだった。その上犯人が異能者であるとなれば、まず華代以外いない。
「私はずっと、帝都にいました。志保に聞いてもらえばわかります」
「あの女中はおまえに肩入れしているようだ。うまいこと手なづけたようだな」
華代はその言葉に絶句した。まるで華代が政近を殺すために入り込んだとでも言いたげた。政次の視線は、積み上げられた新聞に向かっていた。
「なぜ新聞を読む? 外に出られないのに、世間のことを知って意味があるのか」
「政近さまの葬儀を行っていないのはなぜですか」
その問いに、政次の眉が動いた。彼がこちらに近づいてきたので、華代は身構える。政次は、壁にもたれて口を開いた。
「兄は国主だ。当然知ってるな」
「……はい」
華代は小さく頷いた。この国において、神とされる存在――。
「国主には権限はない。しかし、権威はある。命を狙うものも多い。知っていて近づいたんじゃないのか?」
「違います!」
思わず叫ぶと、冷静な表情の政次と視線が合った。これは尋問なのだ。証明しなければ。自分が政近を殺すわけがない、ということを――。
「私が産まれたのは、万津家です。ご存知、ですか?」
「ああ。旧家だな」
そうして華代は、政次との出会いを語りだした。
華代が産まれたのは、かつて大名家だった万津家だった。万津家の当主、喜平は異能者を出したことを恥じて、華代を使用人として扱った。華代には、花のように美しい妹、沙代がいた。彼女は、力を持つ華族との結婚が決まっていた。金を持っている華族と、没落寸前の大名家の婚姻は珍しくないことだった。豪華な着物を着た妹は、それを見せびらかすようにくるりと回ってみせた。
「これ、似合うかしら?」
「はい、沙代さま」
華代は擦り切れた着物を着て、部屋の隅に控えていた。結婚を控えた妹は、とても嬉しそうだった。いつもは癇癪持ちで、すぐに華代に当たり散らしてくるが、今は可愛らしいと思えた。妹は鏡越しにちらりと華代に視線を送ってくる。
「それで、私が結婚したら華代はどうするの?」
「どう、って」
「いつまでも家にいられたら困るじゃない。結婚するのは無理だろうし」
沙代は嘲るような笑みを浮かべた。黙り込んでいたら、彼女がこちらにやってきた。腕組みをすると、着物の袖がひらひらと揺れる。
「お願いします、って言いなさいよ。この家で使ってくださいって」
「お願いします」
「声が小さいわ。もう一回」
華代はお願いします、と頭を下げた。ほつれた髪が額に触れ、水仕事で荒れたつま先が見える。気が済んだのか、沙代は意気揚々と部屋を出ていった。脱ぎ散らかされた着物を手に部屋を出ると、彼女は両親に着物を見せびらかしていた。娘の晴れ姿に、いつもは厳しい父親も相好を崩している。
「本当に可愛いな、沙代は」
「そうね。まるで花の精みたい」
そう言ったのは、継母の恵利だった。彼女は白魚のような手で沙代の髪を撫でる。そうして、ちらりと華代の方を見た。
「あら、いたの? 華代」
「はい、お継母さま」
「あなたの母親になったつもりはないわ」
継母は冷たい声で言って、沙代に笑みを向ける。華代は黙ってその場から立ち去った。
水場に向かい、沙代の着物を洗濯する。万津家には金がないため、使用人はただでこき使える華代しかいない。都が帝都になって以来、藩制が終わり、大名が消えた結果お取り潰しになる家が増えているそうだ。華代は、物干しざおに絡んでいる朝顔のつるに視線を向けた。そっとつるに触れると、喜んでいる気持ちが伝わってくる。庭の植物以外、華代を慰めてくれるものはない。
チャイムの音がしたので、玄関に向かう。
そこにいたのは、沙代の婚約者の井原英臣だった。彼はちらりと華代を見て、こう尋ねた。
「沙代さんはいる?」
「英臣さん!」
沙代が玄関にかけてきて、英臣に抱きついた。華代は赤くなってその場から去る。沙代の婚約者の井原英臣は端正な顔立ちの青年だったが、華代はなんとなく彼が苦手だった。顔を合わせるたびに、粘ついた視線を感じる気がするのだ。自意識過剰だとはわかっているのだが。
沙代が次の着物を試す間、英臣にお茶を用意した。彼は茶を一口飲んで、じっとこちらを見つめてきた。嫌な予感がして、立ち去ろうとしたら引き止められた。
「よく見たら君、沙代に似ているんだね」
「え……?」
「聞いたことがあるんだ。万津家には娘が二人いたけど、一人が突然消えたって」
華代ははっと息を飲んだ。父は華代を娘として扱っていない。だから、外部の人間はほとんどそのことを知らないのだ。どうしてそんなことを知っているの。警戒をあらわにした華代を見て、英臣がふ、と笑った。
「沙代から聞いたんだよ。君は嫁の行きてがないから、一生この家にいるんだって。よかったら妾としてうちに来ない?」
「……」
妹の結婚相手が、こんな人だったなんて。華代は表情をこわばらせ、部屋から出ようとした。英臣がその腕を掴んでくる。振りほどこうとしたが、力が強くて敵わない。
「離してください」
「もったいぶるなよ。この屋敷で朽ち果てるのとどっちがいいんだ?」
英臣が顔を近づけてくる。――いや。そのとき、床の間に飾ってあった盆栽の枝が伸びてきて、英臣の首を締め上げる。彼はぐえっと叫んで畳に突っ伏した。華代は呆然として、気絶した英臣を見下ろした。早く手当しないと。そう思って手を伸ばしたが、それを遮るように甲高い悲鳴が響いた。
着替えを終えた沙代が血相を変えてこちらに走ってくる。彼女は華代を突き飛ばして、英臣に寄り添った。
「英臣さまあ! しっかりして」
英臣はぐったりと気を失ったまま運ばれていった。華代は激しい叱責を受け、物置に閉じ込められ何日も食事を抜かれた。しばらくして、破談を申し入れる書状が届いた。蒼白になった父親にすがりついて、沙代はわあっと泣き崩れる。
「縁談がなくなったのは、華代のせいよ! この家に化物がいるなんて知られたから!」
「……ごめんなさい」
父親はおもむろに立ち上がって、華代を足蹴にした。鬼の形相で、畳に倒れた華代を見下ろす。
「なぜあんなことをした。沙代への妬みか?」
「違います。英臣さまが……」
「言い訳はいい。今すぐ荷物をまとめて出ていけ」
この人は、華代を憎んでいる。英臣のことがなくとも、きっと、追い出す口実を考えていたのだ。華代はのろのろと立ち上がった。途中、継母とすれ違ったが彼女は「お元気でね」と言っただけだった。
華代の味方など、この家にはいない。わかっていたはずだったのに。少ない荷物を風呂敷に包んで、屋敷を出る。華代は、闇夜に沈んでいる万津家を見上げた。この家で幸せだと思ったことは、数えるほどしかなかった。それでも小さな声でつぶやく。
「お世話になりました」
月は雲で隠れていた。街頭のかすかな明かりを頼りに、とぼとぼと歩いていく。今日、どこで眠ろう。お金はないし、知り合いのいない華代は行くあてもない。ぽつり、と落ちてきたものが頬を叩く。天を仰ぐと、雨が降ってきていた。華代は、大きな門のある家に入る。軒下で少し、雨宿りをさせてもらおう。前髪を濡らしたつゆを払い、身震いした。3月とはいえ寒いな……。その時、にゃあ、という声が聞こえてきた。視線を向けると、真っ白な猫がこちらを見上げていた。
「……あなた、ひとり?」
猫は返事をするように、にゃあと鳴いた。華代は身をかがめ、猫の頭を撫でた。猫は嬉しそうに華代に寄り添ってきた。抱えあげて、その身体を抱きしめる。あたたかい……。そんなふうに、ぬくもりに触れたのは久しぶりだった。泣くつもりなどなかったのに、涙がこぼれ落ちた。猫がぺろり、と華代の涙を舐め取る。優しい子。動物は、人間みたいな偏見を持たない。華代も、人間ではなく猫に生まれればよかった。そうしたら自由に生きることができたのかもしれない。
華代は門の柱にもたれて、うとうとと眠りについた。
――君、起きてください。
誰かが肩に触れた気がしたが、目を開けたくなかった。小さなため息が聞こえて、身体がふわりと浮き上がった。
次に気がついたときには、見知らぬ部屋にいた。真っ白な天井。広々とした室内に、洋風の寝台やランプが置かれている。床に敷かれているのは、複雑な織物の絨毯だ。ぽかんとしていると、がちゃり、と戸が開く。ひょいっと顔を出したのは、美しい顔立ちの青年だった。眼鏡をかけていて、書生風の格好をしている。彼は華代を見て、にこりと笑う。
「――おはようございます」
「お、おはようございます」
青年は部屋に入ってきて、寝台のかたわらに腰掛けた。私、どうしてこんなところにいるのだろう。疑問を抱く華代に、彼はすらすらと説明をする。
「門のところに倒れていたんです。僭越ながら、僕が運びました」
「すみません、ご迷惑を」
「いえいえ。あ、朝食を食べますか」
そんな迷惑をかけられない、と答えようとしたが、その前に腹がぐうっと鳴った。赤くなっていると、青年がくすりと笑う。彼は一旦部屋を出て、トレーに乗せた朝食を運んできた。白磁の皿に、スープが注がれ、果物とトーストが乗っている。茶器に入っているのはお茶ではなく、琥珀色の飲み物だ。たしか、紅茶って言うんだったかしら。お茶なのに、牛乳や砂糖を淹れて飲むらしい。万津家にいたときは、沙代が捨てた雑誌をこっそり読むのがひそかな楽しみだった。そこにこんな朝食が乗っていた。戸惑っている華代に、青年がどうかしたかと尋ねてくる。
「こういうものは、初めて食べます」
「そうですか。女中たちは、パンのほうが用意するのが楽みたいです。僕はごはんも好きですけど」
トーストはさくさくして香ばしくて、とても美味しかった。果物は果汁がしたたるほどみずみずしい。男の人なら、こういう洒落た食事よりもお腹がふくれる方がいいだろう。この人はきっと、ここに居候しているのだ、と華代は思った。書生を雇うぐらいだし、きっとお金持ちなのだろう。もしかしたら働き手を探しているかもしれない。華代は、思い切って尋ねてみた。
「あの!」
「はい」
「ここの、ご主人に会わせてもらえませんか」
緊張した面持ちの華代を見て、青年はきょとんとしている。大事なご主人に、得体のしれない人間を会わせたりしないか。断られたら、行く宛がない。彼は視線を上向けたあと、にっこり笑った。
「ああ……はい、いいですよ」
「ありがとうございます! えっと」
「僕は政近です」
「私は華代です」
万津の名前は出さないようにしよう、と華代は思った。少し待つように言って、政近は部屋を出ていった。しばらくすると、女中がやってきた。小柄な可愛らしい少女で、にこにこ笑っている。
「はじめまして、志保と申します」
「華代と申します」
「華代さま。ひとまず着替えましょうか」
様付けで呼ばれたのは初めてで、華代は驚いた。
「着替えならあります」
取り出した着物を見て、志保は顔をしかめている。
「これは、女中の着物では? しかもとても擦り切れていますが」
「ごめんなさい」
「責めているわけでは……」
志保は、風呂に入って着替えるよう促した。華代は浴槽にたまったお湯に身体を沈め、ふうと息を吐いた。温かい風呂に入るのは久しぶりだ。いつも仕事を終えたあと、冷めた湯に入っていた。薪代がもったいないからと、温め直すことはゆるされなかった。つい長湯してしまい、急いで浴室を出る。志保はてきぱきと、華代の身支度を整えた。衣桁にかけられていたのは、仕立ての良い着物だった。志保はきらきらと瞳を輝かせる。
「わあ、とてもお似合いです」
「あ、あの?」
この着物、高いのではないか? 女中としての面接を受けるだけで、こんなにめかしこむ必要があるのだろうか。というか、これは誰の着物なのだろう。戸惑いつつも、志保に続いて歩いていく。それにしても、広いお屋敷だ、と華代は思う。全て洋風なのかと思いきやそうでもなく、長い廊下の欄間には、細かい細工が施されていた。昨今の情勢で、こういった屋敷は維持が大変になってきているという。万津家も、沙代の結婚がなくなってかなり苦しいはずだ。内装に気を取られていると、当主の部屋にたどり着いていた。
「旦那様、華代さまをお連れしました」
志保の言葉に、そこにいた男性が振り向いた。それが政近だったので、華代はぎょっとする。
「母の着物なのですが、よく似合っていますね」
政近はそう言って笑みを浮かべた。先程の書生すがたから打って変わって、質のいい上衣を羽織っている。彼は「どうも、当主です」と笑顔で言った。志保は脂汗をかく華代を見て、不思議そうな表情を浮かべている。
「も、申し訳ありません。まさか、この屋敷のご主人だとは……」
「そんなに威厳ないですかね?」
「いえ! あの、もっと厳しい方かと」
政近はくすり、と笑った。
「よく弟に言われますよ。兄さんは甘い。あんみつ並だってね」
「あんみつ……」
弟さんがいらっしゃるのか、と華代は思った。他にご家族はいるのだろうか。なんにせよ、これだけの屋敷に住んでいるのだから、ただものではないだろう。基本的に家の中にいる華代は、自分の父親よりも上の存在は見たことがない。一体この人は、何者なのだろう。最近、都で幅をきかせているという大商人だろうか。いや、そんなことはいい。華代は、思い切りよく頭を下げた。
「ここで働かせてください!」
「うーん、だめです」
「えっ」
即答された華代は青ざめた。やはり、門で爆睡するような人間は雇えないということか。それとも、得体がしれないからか。はっきり断っておきながら、政近は気の毒そうな表情を見せる。
「実はあんまりお金がないんです」
「そ、そうは見せませんが」
「この屋敷、解体予定なんですよね、維持にお金がかかるので」
華代はその言葉に驚いた。こんな素晴らしい屋敷を解体してしまうのか。もっとも、その家の財政は、外からではわからない。世の中そんなにうまくはできていないか。うなだれている華代を見て、政近が目を細めた。
「ああ、あなたにいてもらえる方法、一つあります」
「な、なんでしょうか」
「僕のお嫁さんになってください」
一瞬何を言われたかわからず、ぽかんとした。今、この人は何を――? 政近は明日の天気の話でもするかのように、のんびりとした口調で言う。
「僕にはちょっとした秘密があるんです。そのせいで、結婚できなくって」
「お、お金がないからですか?」
「ううん、説明が難しいな」
彼は頭を掻いて苦笑している。よくわからないが、政近には人にあかせぬ秘密があるようだ。それなら、口外しない嫁をとったほうがいいということか。でも、華代は異能者だ。ここはどう見ても旧家なのに、いいのだろうか。こういった家にとっては、神に嫌われた存在は何よりも忌むべきもののはず。戸惑っている華代に、「しばらく考えます?」と尋ねてくる。華代は思い切って、かぶりを振った。
「わ、私のようなものでよろしければ」
「ありがとう。じゃ、さっそく婚礼の儀をあげましょうか」
婚礼の儀と言いつつ、広間で並んで座って盃をかわしただけだった。お互いのことを名前以外何も知らずに、あまりにもあっさりと決まった結婚だった。しかし、本来結婚とはこういうものなのかもしれない。政近は華代に恋をしたわけではない。彼の立場に結婚が必要だっただけだ。政近が国主だと知ったのは、結婚したあとだった。婚礼の儀を上げてからしばらく経ったあと、突然、国臣たちが乗り込んできたのだ。その時、華代は欄間の掃除をしていたところだった。突然ものものしい連中が尋ねてきたので、何事かとぎょっとした。慌てる華代にくらべて、政近はのんびりと構えていた。
「華代が驚いているだろう? もっと静かにしてくれ」
「国主さま! 我々に黙って勝手に結婚などなさって、どういうおつもりです」
華代はぽかんとして、夫となった人を見上げた。
「国主、さま……?」
神国の成り立ちは、3000年前に遡る。神は人を作ったが、その中に「異能者」と呼ばれる危険な者がいて、争いが起きた。神は異能者を封印し、土地を細かく分けられた。それ以降数々の戦などを経て、現在、神国には47の県がある。政近は帝都の国主――国を治めるものである。そんな人と、使用人のようにこき使われていた華代が結婚などありえない話だった。国主は神の代理人。47の県を従え、国を導く存在。お金がないなんて、嘘だったのだ。もしかしてからかわれた? だけど、国中の美女を娶ることができる政近が華代を嫁に迎えることに、どんな理由があるというのだ。
その晩、華代は政近の寝所を訪れた。本来、二人の寝室は分けられている。これは政近が決めたことだった。もしかして、政近はすべて知っているのかもしれない。華代の素性も、家を追い出されたわけも。神にもっとも近い存在である彼なら、不可能ではないだろう。寝間着すがたの華代を見て、政近は珍しく困った表情を浮かべていた。
「今日はびっくりしたでしょう?」
「いえ。でも、どうして言ってくれなかったんですか?」
「なんとなく言いそびれてしまって」
「……離縁してください」
「え」
「私に国主の花嫁なんて、無理です」
華代は、花瓶に飾られている花を手にした。テッセンだ。力を込めると、しゅるしゅると、蔦が伸びていく。政近は驚いた表情でそれを見つめていた。
「私は、異能者なのです」
からみついた蔦を見つめて、泣きそうな声を漏らす。そうして包み隠さずに、すべてを話した。生家で虐げられていたこと。追い出されて行くところがないこと。この力のせいで、きっとここでも迷惑をかけてしまう。政近はうつむいている華代をじっと見つめている。
「……君にも秘密があったんですね」
「はい。申し訳ありません」
「じゃあ、僕の秘密も見せましょう」
政近は、ふわりと華代の身体を抱きしめた。華代はびくっと身体をふるわせる。その直後、政近の身体が徐々に縮みはじめた。かと思えば、ぱさり、と着物が畳の上に落ちた。
「政近さま!?」
政近のすがたはなかった。その代わり、真っ白な猫が足元にうずくまっている。この子、雨の日に門の前で会った子だ。まさか、この猫が政近さま――? よく見たら、目元にほくろのような柄がある。それは政近のほくろとよく似ていた。華代は猫を抱き上げて、まじまじと見つめた。
「ま、まさちか、さま?」
猫はにゃあ、と鳴いた。政近が元に戻ったのは、日が出てからだった。着物を羽織る彼から、慌てて目をそらす。動揺しながらも、華代は考えていた。あれは異能なのだろうか。異能者のことは、国の暗部として伏せられてきた。中には獣に変身する者もいるのかもしれない。もういいですよ、と言われて振り向くと、政近がキセルを手にとるところだった。吸ってもいいか尋ねられて頷く。彼はキセルをふかして、ため息を漏らす。
「7つを過ぎたころから、女の子を抱きしめるとこうなっちゃうんですよね」
「そうなんですか」
「はい。だから、子供は残せません。家督は弟に譲るつもりなんです」
神の化身である国主が猫になるなんて、誰にも言えないということだ。政近は肩をすくめた。
「弟はずいぶん頑固でね。頷いてくれないんです」
「弟さんが、うんと言うまで待つおつもりなんですね」
「はい。華代さんは頭がいいなあ」
大きな手のひらが、華代の頭を撫でた。華代は彼の袖をそっと掴む。子を成せない国主と、結婚できない異能者。華代と政近は秘密を持つもの同士、引き合ったのかもしれない。政近の弟が国主の座につくまで、花嫁として、この人のそばにいるのだ。
