☆
「紗代、起きてる?」
華代は御膳を手に、襖越しに声をかける。紗代は、華代の呼びかけには反応しなかった。そっと襖を開けてみたが、布団はもぬけの空だった。散歩にでも行ったのだろうか。せっかく紗代が好きな茄子の味噌汁を作ったのに。ふと、枕元に手紙が置かれていることに気づいた。それを手に取ると、流麗な文字が並んでいる。
──華代姉様へ。
神野家にお招きいただいてとても嬉しかったです。だけど一緒にいると、姉様にした酷いことを思い出してしまいます。どうか私のことは忘れて、幸せになってください。いつまでもお元気で。紗代。
華代は息を飲んで、部屋を飛び出した。縁側から見回してみても、紗代の姿はない。もう屋敷を出てしまったのだろうか。門から出ようとしたら、水野とぶつかった。彼は不思議そうな顔で、どうかしたのかと尋ねてくる。華代は謝るのも忘れて問いかける。
「妹を見ませんでしたか」
「妹さんですか? いえ、門からは誰も出てきませんでしたが」
一体いつ出ていったのだろう。松韻の件があったばかりで、街は落ち着いているとは言えない。ちょうどそのとき、政次が玄関から出てきた。華代は急いで彼に駆け寄る。
「政次さま、紗代がいません」
「そうか」
政次はそっけない声で答えて、車に乗り込んだ。ドアが閉まる前に、華代は素早く隣に座る。怪訝そうな表情を浮かべる政次に手紙を突きつけた。
「これを書かれたのは政次様でしょう?」
「……なぜそう思う」
「紗代は漢字が書けないんです」
政次は驚いた表情でこちらを見た。だから学校の課題で作文が出た時は、華代が代わりに書いていた。おかげで、紗代は女学校で作文の一等を取れたのだ。こんなふうに一文字も間違えずに手紙を書けるはずがない。沈黙している政次に、華代はすがりついた。
「どうして紗代を追い出したんですか」
「……あの女が勝手に出て行った」
「そんなはずありません。行くところなんてないのに」
「あんな女、どうだっていい」
冷え切った声を聞いて、華代ははっ、と息を飲んだ。こちらを見下ろす政次は、出会ったときと同じ目をしている。彼の着物を掴んでいた手をふっと下ろす。政次のことを優しい人だと思っていた。だけど違ったのかもしれない。
「やっぱり、あなたは政近さまとは違う」
華代の言葉に、政次がかすかに身動ぎした。車内に重い沈黙が落ちる。軍部にたどり着くと、政次は車から降りて去って行った。うつむいた華代に、水野が優しく声をかけてくる。
「何か誤解があるんですよ。きっとすぐ仲直りできます」
「……ありがとうございます」
屋敷に帰った華代は、縁側で庭を眺めていた。梅雨も終わり、すでに夏の日差しが降り注いでいた。眩しさに目を細めたあと、自身の手のひらを見下ろす。雑草とひとくくりにされるような花たちは、全てを飲み込むような生命力を持っている。それと同じように、私の力は他人を不幸にするのだ。──華代。その声に、華代は顔を上げた。ちりん、ちりん、と鈴が鳴る。ぼんやりと白く光るものが、庭にいるのが見えた。
「政近、さま……?」
そんなわけがないと思いつつ、下駄を履いてそれに近づいて行く。間違いない、政近だ。政近は、笑みを浮かべて華代の手を握りしめた。優しさに包みこまれて、泣きたい気持ちになった。だけど体温はない。死んでしまっているから。華代はぽつり、とつぶやいた。
「どうして、死んでしまったんですか」
「ごめんなさい、華代」
謝らなくていい。ただ帰ってきてほしかった。政近はそっと華代を抱きしめた。背中を撫でて、優しく囁きかけてくる。
「皮肉ですね。死んだあとなら君に触れられる」
彼は華代の顔を覗き込んで、こう尋ねた。
「一緒に行きますか、冥界に」
冥界とはどういうところなのだろう。考える間もなく、華代は頷いた。
★
蓮池城の一室にぱちり、ぱちりと碁石の音が響いている。政次は正座し、無表情で碁を打っていた。政次のあとを次いで、囲碁指南役に収まったのだ。それと同時に、市中でのできごとを永正に報告する役目を担っていた。退屈そうに囲碁を打っていた永正が、じゃらりと碁石を碁盤に撒いた。投了ということなのだろう。一手目から石を置き直そうとしていると、永正が口を開いた。
「おまえの顔を見ていてもつまらん。華代は?」
「家におります」
「つれてくればいいだろう。庭にあじさいが咲いているし、うまい水菓子もある」
答えずにいると、永正が呆れた表情を浮かべる。
「もしかして喧嘩したのか。あいそをつかされた、というやつだな」
「……喧嘩などしていませんが」
「嘘だ。顔に書いてある」
きっぱりと言い切られて、政次は思わず頬に手をやった。こんな子供に見透かされるほど、自分はわかりやすいのだろうか。永正は、てくてくと窓辺に歩いていった。庭園の上空を、鷹が舞っているのが見える。またなにかあったのだろうか。西の宮から都が移る際にさんざん血を流したというのに、帝都に平和は訪れないのか。永正は憂鬱そうな表情でつぶやいた。
「西の宮の城主が急死して、あちらも大変だそうだ」
「そうですか」
あの男を斬ったときの感触が蘇ってくる。呆然としていた華代の顔も。西の宮と帝都の緊張関係を鑑みて、松韻の凶行と死因は伏せられた。ただ人の噂は止められない。帝都の権威を増すために、西の宮を排除しようという動きも増すだろう。そうすれば、戦はまぬがれない。一人きりならば、気にしなかったかもしれない。だが、今は背負うものがある。永正はおもむろにこちらを振り向いた。
「政次。おまえ、国主になるつもりはないのか」
「俺はそんな人間ではありません」
「政近もそんなことを言っていた。「私は国主になれる人間ではない」と」
それは「呪い」が関係しているのだろうか。盤面に視線を落とすと、びしり、と碁石にひびが入った。永正が不思議そうな顔でこちらにやってくる。彼は小さな手で碁石をつまみあげた。
「古くなっていたのか? 新しいものを持ってこさせないとな」
永正が手を叩くと、おつきの侍女がやってきた。ここの侍女は無愛想な政次を嫌っているので、さっさと去っていく。政次は割れた碁石をじっと見つめる。城主が使うものなので当然ながら、上等な代物だ。簡単に割れたりはしないはず。政次は不吉な予感というものを信じていない。しかしなぜかもやもやとした感情を抱いた。帰宅する旨を伝えると、永正がニヤニヤと笑った。
「そうするといい。おまえのような朴念仁に嫁いでくれるのは、華代だけだぞ」
去り際に土産に持っていってやれ、と風呂敷に包んだ干菓子を渡された。城門に向かって歩いていくと、鷹のはばたきが聞こえる。見上げると、黄色い瞳がこちらを見下ろしていた。人は烏を不吉な鳥だというが、政次にしてみれば鷹の方が不吉に思えた。どこを見ているのかわからない、あの目が不安を煽るのだ。水蓮城からの道は、何かあるのか、やけに渋滞していた。政次が車の扉に手をかけると、水野が政次さま、と声をかけてくる。
「歩いていく」
「何かあったのですか」
何もない。ただ不安なのだ。
灯りのともっている屋敷にたどり着いて、玄関の戸を開ける。いつもなら華代がすぐに顔を出すが、誰も出てこない。彼女がいつも履いている草履は揃えて置いてある。やはり、腹を立てているのだろうか。華代を傷つけたくなくて、沙代が盗みを働いたことは話さなかった。しかし、きちんと説明しておくべきだろう。華代の部屋に向かい、戸を叩く。しかし、返事はない。戸を開けてみたが、誰もいなかった。畑にでも出ているのだろうか。通りかかった志保に尋ねてみる。
「華代を知らないか」
「え? 先ほど、政次さまとお庭にいらしたではないですか」
庭に? そんなわけがない。さっきまで城にいたのだから。割れた碁石を思い出し、じわりと嫌な予感が滲んだ。志保の脇を通り過ぎ、庭へと向かう。庭に華代のすがたはなかった。しかし、外履き用の下駄がなくなっている。政次は庭に降りて、華代をさがした。
「華代!」
――ぱきん、という音と同時に、何かを踏んだ感触がした。政次がやったかんざしだ。土にまみれて、まっぷたつに割れてしまっている。政次は割れたかんざしを拾い上げ、それをぐっと握りしめる。――一体、どこに行ってしまったんだ。
☆
華代は、水車小屋の前に立っていた。先程まで、確かに神野家の庭にいたはずなのに。周囲には花畑が広がっており、季節を問わず、さまざまな花が咲いていた。本来ならば梅雨のじめじめした空気を感じるはずだが、髪を撫でる風は暖かくも寒くもない。からからと車輪の回る音と、水の流れ落ちる音が、耳に心地よかった。政近は身をかがめ、花を摘んだ。それを華代の髪に添え優しく微笑んだ。
「よく似合います」
髪に手をやった華代は、政次にもらったかんざしを落としてきてしまったことに気づいた。一体、どこに? だが、政近の笑顔を見ているとどうでもいい気がしてくる。
「ここが、冥界なのですか」
「はい。今日からここで一緒に住むんですよ」
そうだ。だって華代は、政近の花嫁になると誓ったのだから。政近は華代の手をとって、水車小屋に連れて行った。小屋の周りには菜園があって、食べ物には困らないようだ。試しに、畑に植わっている大根を収穫してみた。形も重さも、現実世界のものと変わりがない。政近は矢筒を手に、狩りに行ってくる、と言った。一人になった華代は炊事場で大根を洗っていた。皮を剥いて、とんとんと大根を切る。小屋の中央にある囲炉裏には、すでに火がついていた。本来なら不思議に思うのだろうが、華代は気にしなかった。だって、冥界だから。大根を煮ていると、政近が帰ってきた。彼は笑顔で、大きな鴨をこちらに見せてくる。
「いい鴨が採れましたよ」
政近は鴨をさばいて、鍋に入れた。鍋が煮える間に、これまでのことを話す。政近を殺したのではないかと疑われたこと、政次と結婚することになったこと。それから、松韻のこと。彼はしみじみとした口調でつぶやいた。
「ずいぶんと苦労をかけたようですね」
「いえ……政近さまは、ここにずっと一人でいらしたのですか」
「ええ。気がついたら、ここにいました」
政近はそう言って、小屋を見渡した。
「最初は困惑しました。でも、慣れれば案外快適でしたね。狩りをしたり、農作業をしていれば一日が過ぎましたし」
「どうしてすぐに、迎えにきてくれなかったんですか?」
そうだ。華代はずっと神野家にいたのだ。なぜ今なのか、華代にはわからなかった。しかし、政次は華代の疑問をするりとかわした。
「華代が僕に会いたいと願ったからですよ。さ、煮えました」
彼は鍋をよそったお椀を華代に差し出してきた。華代は思わずごくりと唾を飲んだ。一口食べてみると、今まで食べたこともないぐらい美味しい。夢中になって食べていると、政近がふふ、と笑みを浮かべた。
「美味しいですか?」
「はい。冥界の食べ物は美味しいんですね」
「ええ。現世と違って雑味がないんです」
冥界は素晴らしいところだ、と華代は思った。食事を終えたあと、一緒に小屋の外に出て夕日を眺めた。影になった鳥が山にかえっていくのが見える。きれいだな……。隣に視線を向けると、政近の横顔が夕焼けに染まっていた。ここには華代を苦しめるものや、嫌なものなんて何一つない。何より、政近がそばにいてくれる。なのにどうして、心が空っぽな気がしてしまうのだろう。あの人がいないから……? あの人って、誰だっただろう? 黒髪に手をやると、政近が華代を抱き寄せた。耳朶を撫でるような、甘い声を出す。
「今、政次のことを考えましたか?」
華代はぎくり、と肩を揺らした。恐る恐る顔をあげると、無表情の政近がこちらを見下ろしている。政近様が、こんな顔をするはずがない。だって、あんなに政次さまのことを楽しそうに話していたのに。この人は、誰なの――。華代が後ずさると、政次はみるみるうちに、獣のすがたになっていった。ひどく醜悪な姿で、猫とも犬ともつかない。息を飲む華代を見て、政近が笑った。
「僕はね、化物って呼ばれて父に土蔵に閉じ込められていたんです。母はおそれをなして逃げ出しました。そんなのが国主だなんて、面白いでしょ?」
「政近、さま」
「君は僕にそっくりだ。哀れで惨めで、家族からも愛されない」
華代はかぶりを振った。そんなことない。少なくとも政次は、政近のことを愛していたはずだ。政近は、追い打ちをかけるように言葉を続ける。
「政次が君を愛するなんて、都合のいい幻想だ。化物同士、僕といたほうが幸せですよ」
「政近さまは、化物なんかじゃない。私も、化物じゃない。人間です」
「本当にそう思うんですか? 母親を殺したくせに」
華代は必死になって耳を塞いだ。呪いをかけるような政近の言葉に、飲み込まれそうになる。彼の言葉は、華代が薄々感じていることだからだ。私がいなければ、母様は今も生きていたのに。私がいなければ、万津家はあんなふうにならなかったのに。一瞬の隙をついて、政近が華代にのしかかってきた。鋭い爪で首を押さえつけられて、苦しさにうめく。徐々に目の前が白んできた。こちらを見下ろす政近の表情からは憎しみや、悲しみが伝わってくる。華代が知らなかっただけで、この人はこんなにも苦しんでいた。同じ苦しみを持っていたのに、この人を救ってあげられなかった。この人がいたから、私は今も生きているのに。華代は政近の手に、そっと触れた。理性を失っていた瞳がゆらぐ。華代は、政近を見上げて微笑んだ。
「私は、あなたを愛しています」
本当の政近がどんな人かなんて、わからない。だけど華代が出会ったのは、恋をしたのは、優しくて弟思いの政近だった。ふっと力が緩んで、政近の瞳から涙がこぼれ落ちた。ああ、やっぱりこの人は化物じゃない。政近さまだ。あなたにずっと会いたかった。華代は彼を抱きしめた。政近の身体が光り輝いて、人のすがたに戻った。温かい。耳元に「さよなら」と囁きかけられて、華代はハッとした。次の瞬間、眼の前が真っ白になった。
華代は、地面にどっと倒れ込んだ。痛みにうめきながら背中をさする。そこは、神野家の庭だった。さっきまでのは、夢だったのだろうか……。ふと、髪に触れると花があった。夢じゃ、ない?
「華代!」
はっと顔を上げると政次がこちらに駆け寄ってきて、華代を抱きしめた。突然のことに、華代は混乱する。
「え、ま、政次さま?」
「よかった。無事で」
政次の身体は震えているようだった。この人でも、こんなに取り乱したりするんだ。華代は政次の背に触れようとして、その手をおろした。いくつもの花を愛でるのとは違うのだ。愛するのは一人だけでないといけない。
「政次さま……私は、政近さまを愛しています」
そう言ったら、彼が息を飲んだ気配がした。政次は華代のことを大事にしてくれる。華代も政次を大事だと思っている。だけど政近を想うのであれば、この人のそばにいるべきではない。そう感じたのだ。政次にはもっと、ふさわしい花嫁が現れるはず。政次はかすれた声でつぶやいた。
「そんなこと、知っている」
「私は、神野家にいる資格がないんです」
資格ならある、と政次が言った。まっすぐな瞳がこちらを見つめている。
「俺がおまえを愛してるからだ」
その言葉に鼓動がはねた。政次さまが、私を……? 政次の顔が徐々に近づいてくる。唇に吐息が触れて、華代はぎゅっと瞳を閉じた。ひゃあ、という声に視線を向けると、志保が真っ赤になってこちらを見ていた。彼女は暑いですね〜とぱたぱた自分を仰いで、その場から立ち去っていった。政次は気まずそうに咳払いをして、赤い顔で尋ねてきた。
「……永正からもらった干菓子がある。食うか」
「は、はい」
華代も顔を赤くした。土をはらい、差し出された彼の手を取って立ち上がる。ふと、政次が顔を上げた。視線を追うと、空に虹がかかっていた。華代は歓声をあげようとしたが、はっと息を飲む。政次は、虹を不吉だと言っていた。ちらりと伺うと彼は虹を見ながら、笑みを浮かべた。
「おまえと見るなら、あれも悪くない」
華代は笑顔を返して、政次とともに屋敷に入っていった。
「紗代、起きてる?」
華代は御膳を手に、襖越しに声をかける。紗代は、華代の呼びかけには反応しなかった。そっと襖を開けてみたが、布団はもぬけの空だった。散歩にでも行ったのだろうか。せっかく紗代が好きな茄子の味噌汁を作ったのに。ふと、枕元に手紙が置かれていることに気づいた。それを手に取ると、流麗な文字が並んでいる。
──華代姉様へ。
神野家にお招きいただいてとても嬉しかったです。だけど一緒にいると、姉様にした酷いことを思い出してしまいます。どうか私のことは忘れて、幸せになってください。いつまでもお元気で。紗代。
華代は息を飲んで、部屋を飛び出した。縁側から見回してみても、紗代の姿はない。もう屋敷を出てしまったのだろうか。門から出ようとしたら、水野とぶつかった。彼は不思議そうな顔で、どうかしたのかと尋ねてくる。華代は謝るのも忘れて問いかける。
「妹を見ませんでしたか」
「妹さんですか? いえ、門からは誰も出てきませんでしたが」
一体いつ出ていったのだろう。松韻の件があったばかりで、街は落ち着いているとは言えない。ちょうどそのとき、政次が玄関から出てきた。華代は急いで彼に駆け寄る。
「政次さま、紗代がいません」
「そうか」
政次はそっけない声で答えて、車に乗り込んだ。ドアが閉まる前に、華代は素早く隣に座る。怪訝そうな表情を浮かべる政次に手紙を突きつけた。
「これを書かれたのは政次様でしょう?」
「……なぜそう思う」
「紗代は漢字が書けないんです」
政次は驚いた表情でこちらを見た。だから学校の課題で作文が出た時は、華代が代わりに書いていた。おかげで、紗代は女学校で作文の一等を取れたのだ。こんなふうに一文字も間違えずに手紙を書けるはずがない。沈黙している政次に、華代はすがりついた。
「どうして紗代を追い出したんですか」
「……あの女が勝手に出て行った」
「そんなはずありません。行くところなんてないのに」
「あんな女、どうだっていい」
冷え切った声を聞いて、華代ははっ、と息を飲んだ。こちらを見下ろす政次は、出会ったときと同じ目をしている。彼の着物を掴んでいた手をふっと下ろす。政次のことを優しい人だと思っていた。だけど違ったのかもしれない。
「やっぱり、あなたは政近さまとは違う」
華代の言葉に、政次がかすかに身動ぎした。車内に重い沈黙が落ちる。軍部にたどり着くと、政次は車から降りて去って行った。うつむいた華代に、水野が優しく声をかけてくる。
「何か誤解があるんですよ。きっとすぐ仲直りできます」
「……ありがとうございます」
屋敷に帰った華代は、縁側で庭を眺めていた。梅雨も終わり、すでに夏の日差しが降り注いでいた。眩しさに目を細めたあと、自身の手のひらを見下ろす。雑草とひとくくりにされるような花たちは、全てを飲み込むような生命力を持っている。それと同じように、私の力は他人を不幸にするのだ。──華代。その声に、華代は顔を上げた。ちりん、ちりん、と鈴が鳴る。ぼんやりと白く光るものが、庭にいるのが見えた。
「政近、さま……?」
そんなわけがないと思いつつ、下駄を履いてそれに近づいて行く。間違いない、政近だ。政近は、笑みを浮かべて華代の手を握りしめた。優しさに包みこまれて、泣きたい気持ちになった。だけど体温はない。死んでしまっているから。華代はぽつり、とつぶやいた。
「どうして、死んでしまったんですか」
「ごめんなさい、華代」
謝らなくていい。ただ帰ってきてほしかった。政近はそっと華代を抱きしめた。背中を撫でて、優しく囁きかけてくる。
「皮肉ですね。死んだあとなら君に触れられる」
彼は華代の顔を覗き込んで、こう尋ねた。
「一緒に行きますか、冥界に」
冥界とはどういうところなのだろう。考える間もなく、華代は頷いた。
★
蓮池城の一室にぱちり、ぱちりと碁石の音が響いている。政次は正座し、無表情で碁を打っていた。政次のあとを次いで、囲碁指南役に収まったのだ。それと同時に、市中でのできごとを永正に報告する役目を担っていた。退屈そうに囲碁を打っていた永正が、じゃらりと碁石を碁盤に撒いた。投了ということなのだろう。一手目から石を置き直そうとしていると、永正が口を開いた。
「おまえの顔を見ていてもつまらん。華代は?」
「家におります」
「つれてくればいいだろう。庭にあじさいが咲いているし、うまい水菓子もある」
答えずにいると、永正が呆れた表情を浮かべる。
「もしかして喧嘩したのか。あいそをつかされた、というやつだな」
「……喧嘩などしていませんが」
「嘘だ。顔に書いてある」
きっぱりと言い切られて、政次は思わず頬に手をやった。こんな子供に見透かされるほど、自分はわかりやすいのだろうか。永正は、てくてくと窓辺に歩いていった。庭園の上空を、鷹が舞っているのが見える。またなにかあったのだろうか。西の宮から都が移る際にさんざん血を流したというのに、帝都に平和は訪れないのか。永正は憂鬱そうな表情でつぶやいた。
「西の宮の城主が急死して、あちらも大変だそうだ」
「そうですか」
あの男を斬ったときの感触が蘇ってくる。呆然としていた華代の顔も。西の宮と帝都の緊張関係を鑑みて、松韻の凶行と死因は伏せられた。ただ人の噂は止められない。帝都の権威を増すために、西の宮を排除しようという動きも増すだろう。そうすれば、戦はまぬがれない。一人きりならば、気にしなかったかもしれない。だが、今は背負うものがある。永正はおもむろにこちらを振り向いた。
「政次。おまえ、国主になるつもりはないのか」
「俺はそんな人間ではありません」
「政近もそんなことを言っていた。「私は国主になれる人間ではない」と」
それは「呪い」が関係しているのだろうか。盤面に視線を落とすと、びしり、と碁石にひびが入った。永正が不思議そうな顔でこちらにやってくる。彼は小さな手で碁石をつまみあげた。
「古くなっていたのか? 新しいものを持ってこさせないとな」
永正が手を叩くと、おつきの侍女がやってきた。ここの侍女は無愛想な政次を嫌っているので、さっさと去っていく。政次は割れた碁石をじっと見つめる。城主が使うものなので当然ながら、上等な代物だ。簡単に割れたりはしないはず。政次は不吉な予感というものを信じていない。しかしなぜかもやもやとした感情を抱いた。帰宅する旨を伝えると、永正がニヤニヤと笑った。
「そうするといい。おまえのような朴念仁に嫁いでくれるのは、華代だけだぞ」
去り際に土産に持っていってやれ、と風呂敷に包んだ干菓子を渡された。城門に向かって歩いていくと、鷹のはばたきが聞こえる。見上げると、黄色い瞳がこちらを見下ろしていた。人は烏を不吉な鳥だというが、政次にしてみれば鷹の方が不吉に思えた。どこを見ているのかわからない、あの目が不安を煽るのだ。水蓮城からの道は、何かあるのか、やけに渋滞していた。政次が車の扉に手をかけると、水野が政次さま、と声をかけてくる。
「歩いていく」
「何かあったのですか」
何もない。ただ不安なのだ。
灯りのともっている屋敷にたどり着いて、玄関の戸を開ける。いつもなら華代がすぐに顔を出すが、誰も出てこない。彼女がいつも履いている草履は揃えて置いてある。やはり、腹を立てているのだろうか。華代を傷つけたくなくて、沙代が盗みを働いたことは話さなかった。しかし、きちんと説明しておくべきだろう。華代の部屋に向かい、戸を叩く。しかし、返事はない。戸を開けてみたが、誰もいなかった。畑にでも出ているのだろうか。通りかかった志保に尋ねてみる。
「華代を知らないか」
「え? 先ほど、政次さまとお庭にいらしたではないですか」
庭に? そんなわけがない。さっきまで城にいたのだから。割れた碁石を思い出し、じわりと嫌な予感が滲んだ。志保の脇を通り過ぎ、庭へと向かう。庭に華代のすがたはなかった。しかし、外履き用の下駄がなくなっている。政次は庭に降りて、華代をさがした。
「華代!」
――ぱきん、という音と同時に、何かを踏んだ感触がした。政次がやったかんざしだ。土にまみれて、まっぷたつに割れてしまっている。政次は割れたかんざしを拾い上げ、それをぐっと握りしめる。――一体、どこに行ってしまったんだ。
☆
華代は、水車小屋の前に立っていた。先程まで、確かに神野家の庭にいたはずなのに。周囲には花畑が広がっており、季節を問わず、さまざまな花が咲いていた。本来ならば梅雨のじめじめした空気を感じるはずだが、髪を撫でる風は暖かくも寒くもない。からからと車輪の回る音と、水の流れ落ちる音が、耳に心地よかった。政近は身をかがめ、花を摘んだ。それを華代の髪に添え優しく微笑んだ。
「よく似合います」
髪に手をやった華代は、政次にもらったかんざしを落としてきてしまったことに気づいた。一体、どこに? だが、政近の笑顔を見ているとどうでもいい気がしてくる。
「ここが、冥界なのですか」
「はい。今日からここで一緒に住むんですよ」
そうだ。だって華代は、政近の花嫁になると誓ったのだから。政近は華代の手をとって、水車小屋に連れて行った。小屋の周りには菜園があって、食べ物には困らないようだ。試しに、畑に植わっている大根を収穫してみた。形も重さも、現実世界のものと変わりがない。政近は矢筒を手に、狩りに行ってくる、と言った。一人になった華代は炊事場で大根を洗っていた。皮を剥いて、とんとんと大根を切る。小屋の中央にある囲炉裏には、すでに火がついていた。本来なら不思議に思うのだろうが、華代は気にしなかった。だって、冥界だから。大根を煮ていると、政近が帰ってきた。彼は笑顔で、大きな鴨をこちらに見せてくる。
「いい鴨が採れましたよ」
政近は鴨をさばいて、鍋に入れた。鍋が煮える間に、これまでのことを話す。政近を殺したのではないかと疑われたこと、政次と結婚することになったこと。それから、松韻のこと。彼はしみじみとした口調でつぶやいた。
「ずいぶんと苦労をかけたようですね」
「いえ……政近さまは、ここにずっと一人でいらしたのですか」
「ええ。気がついたら、ここにいました」
政近はそう言って、小屋を見渡した。
「最初は困惑しました。でも、慣れれば案外快適でしたね。狩りをしたり、農作業をしていれば一日が過ぎましたし」
「どうしてすぐに、迎えにきてくれなかったんですか?」
そうだ。華代はずっと神野家にいたのだ。なぜ今なのか、華代にはわからなかった。しかし、政次は華代の疑問をするりとかわした。
「華代が僕に会いたいと願ったからですよ。さ、煮えました」
彼は鍋をよそったお椀を華代に差し出してきた。華代は思わずごくりと唾を飲んだ。一口食べてみると、今まで食べたこともないぐらい美味しい。夢中になって食べていると、政近がふふ、と笑みを浮かべた。
「美味しいですか?」
「はい。冥界の食べ物は美味しいんですね」
「ええ。現世と違って雑味がないんです」
冥界は素晴らしいところだ、と華代は思った。食事を終えたあと、一緒に小屋の外に出て夕日を眺めた。影になった鳥が山にかえっていくのが見える。きれいだな……。隣に視線を向けると、政近の横顔が夕焼けに染まっていた。ここには華代を苦しめるものや、嫌なものなんて何一つない。何より、政近がそばにいてくれる。なのにどうして、心が空っぽな気がしてしまうのだろう。あの人がいないから……? あの人って、誰だっただろう? 黒髪に手をやると、政近が華代を抱き寄せた。耳朶を撫でるような、甘い声を出す。
「今、政次のことを考えましたか?」
華代はぎくり、と肩を揺らした。恐る恐る顔をあげると、無表情の政近がこちらを見下ろしている。政近様が、こんな顔をするはずがない。だって、あんなに政次さまのことを楽しそうに話していたのに。この人は、誰なの――。華代が後ずさると、政次はみるみるうちに、獣のすがたになっていった。ひどく醜悪な姿で、猫とも犬ともつかない。息を飲む華代を見て、政近が笑った。
「僕はね、化物って呼ばれて父に土蔵に閉じ込められていたんです。母はおそれをなして逃げ出しました。そんなのが国主だなんて、面白いでしょ?」
「政近、さま」
「君は僕にそっくりだ。哀れで惨めで、家族からも愛されない」
華代はかぶりを振った。そんなことない。少なくとも政次は、政近のことを愛していたはずだ。政近は、追い打ちをかけるように言葉を続ける。
「政次が君を愛するなんて、都合のいい幻想だ。化物同士、僕といたほうが幸せですよ」
「政近さまは、化物なんかじゃない。私も、化物じゃない。人間です」
「本当にそう思うんですか? 母親を殺したくせに」
華代は必死になって耳を塞いだ。呪いをかけるような政近の言葉に、飲み込まれそうになる。彼の言葉は、華代が薄々感じていることだからだ。私がいなければ、母様は今も生きていたのに。私がいなければ、万津家はあんなふうにならなかったのに。一瞬の隙をついて、政近が華代にのしかかってきた。鋭い爪で首を押さえつけられて、苦しさにうめく。徐々に目の前が白んできた。こちらを見下ろす政近の表情からは憎しみや、悲しみが伝わってくる。華代が知らなかっただけで、この人はこんなにも苦しんでいた。同じ苦しみを持っていたのに、この人を救ってあげられなかった。この人がいたから、私は今も生きているのに。華代は政近の手に、そっと触れた。理性を失っていた瞳がゆらぐ。華代は、政近を見上げて微笑んだ。
「私は、あなたを愛しています」
本当の政近がどんな人かなんて、わからない。だけど華代が出会ったのは、恋をしたのは、優しくて弟思いの政近だった。ふっと力が緩んで、政近の瞳から涙がこぼれ落ちた。ああ、やっぱりこの人は化物じゃない。政近さまだ。あなたにずっと会いたかった。華代は彼を抱きしめた。政近の身体が光り輝いて、人のすがたに戻った。温かい。耳元に「さよなら」と囁きかけられて、華代はハッとした。次の瞬間、眼の前が真っ白になった。
華代は、地面にどっと倒れ込んだ。痛みにうめきながら背中をさする。そこは、神野家の庭だった。さっきまでのは、夢だったのだろうか……。ふと、髪に触れると花があった。夢じゃ、ない?
「華代!」
はっと顔を上げると政次がこちらに駆け寄ってきて、華代を抱きしめた。突然のことに、華代は混乱する。
「え、ま、政次さま?」
「よかった。無事で」
政次の身体は震えているようだった。この人でも、こんなに取り乱したりするんだ。華代は政次の背に触れようとして、その手をおろした。いくつもの花を愛でるのとは違うのだ。愛するのは一人だけでないといけない。
「政次さま……私は、政近さまを愛しています」
そう言ったら、彼が息を飲んだ気配がした。政次は華代のことを大事にしてくれる。華代も政次を大事だと思っている。だけど政近を想うのであれば、この人のそばにいるべきではない。そう感じたのだ。政次にはもっと、ふさわしい花嫁が現れるはず。政次はかすれた声でつぶやいた。
「そんなこと、知っている」
「私は、神野家にいる資格がないんです」
資格ならある、と政次が言った。まっすぐな瞳がこちらを見つめている。
「俺がおまえを愛してるからだ」
その言葉に鼓動がはねた。政次さまが、私を……? 政次の顔が徐々に近づいてくる。唇に吐息が触れて、華代はぎゅっと瞳を閉じた。ひゃあ、という声に視線を向けると、志保が真っ赤になってこちらを見ていた。彼女は暑いですね〜とぱたぱた自分を仰いで、その場から立ち去っていった。政次は気まずそうに咳払いをして、赤い顔で尋ねてきた。
「……永正からもらった干菓子がある。食うか」
「は、はい」
華代も顔を赤くした。土をはらい、差し出された彼の手を取って立ち上がる。ふと、政次が顔を上げた。視線を追うと、空に虹がかかっていた。華代は歓声をあげようとしたが、はっと息を飲む。政次は、虹を不吉だと言っていた。ちらりと伺うと彼は虹を見ながら、笑みを浮かべた。
「おまえと見るなら、あれも悪くない」
華代は笑顔を返して、政次とともに屋敷に入っていった。
