「華代さま、これなんていいのではないですか?」
志保がはしゃぎながら、朝顔の柄の着物を押し当ててくる。華代は志保とともに、呉服屋を訪れていた。奇妙な髪色の男が、脇からひょいと顔を出す。彼は鯉が描かれた、派手目な着物を指さした。
「僕はこっちのほうがいいと思うなあ」
「あなたの意見は聞いていないのですか?」
志保は胡乱な表情を吉見に向ける。吉見を呉服屋に案内しに来たら、なぜか華代の着物を選ぶことになってしまった。菖蒲まつりには出ないと言っているのに。吉見は志保に構わずに、金色の着物を華代に差し出してくる。志保は吉見を睨みつけ、自分の持っている着物を突き出した。
「なんて趣味の悪い人なの。華代さまにはこちらが似合うに決まっています」
「それ地味だって。菖蒲娘に選ばれるためには目立たないとね」
彼らは華代をよそにわいわいと話している。この二人は気が合わないようだ。いや、むしろ似ているのだろうか。華代は彼らの言い争いをよそに、店にある小物を眺めることにした。華代は着物よりも、巾着のような小物を見る方が好きだった。金魚をかたどった可愛らしい巾着を見ていると、男物のハンカチが目に入った。そういえば、政次のハンカチを汚してしまったんだった。主人に声をかけて、包んでもらう。人に贈り物をするのは初めてだ。喜んでくれるといいが。その時、店に沙代が入ってきた。華代は一瞬ぎくりとしたが、気を取り直す。もう彼女に怯える必要なんてないのだ。沙代は華代を見て眉を上げた。
「あら、華代。何をしてるの」
「買い物に来たの」
「あなたが買えるものなんてないでしょう?」
沙代はくすくす笑っている。志保がむっとした表情を浮かべたが、華代はそれをなだめた。沙代はさっそうと主人の元に近づいていく。
「菖蒲まつりに着るための着物が欲しいの。仕立ててちょうだい」
「へい、ですが……」
主人は歯切れの悪い様子で、ちらりと番頭を見る。番頭は無言でかぶりを振った。主人は言いづらそうに、こう告げる。
「先月分をお支払いいただいてないので……」
「そんなわけないじゃない」
やんわりと断られても、沙代は引き下がろうとはしない。人の良さそうな主人には相手にできないと判断したのか、番頭が冷たい声で口を挟んだ。
「請求書は送らせていただいてますよ。今月中にお支払いいただけない場合は、取り立てに参ります」
「あら、お金がないのに着物を買いにいらしたんですか?」
志保は真っ赤になった沙代をせせら笑った。沙代は志保を睨みつけ、大股で店を出ていく。主人はハラハラした表情で沙代を見送っていたが、吉見に呼ばれて、慌てて彼に駆け寄った。志保はふんと鼻を鳴らし、囁きかけてくる。
「性格の悪そうな女ですね」
「妹なの」
「えっ!?」
「でも、もう縁を切っているから」
「それが正解ですよ。あんなのがそばにいたら、運気が下がりますから」
華代はそうね、と相槌を打った。
帰宅した華代は、ハンカチを手に政次の部屋に向かった。文机の上に置いて立ち去ろうとする。しかし、ふと足を止めた。一箇所だけ軋む畳を掴んで、そっと持ち上げる。畳の下には、冊子がいくつかあった。どうしてこんな場所に。華代は躊躇したが、冊子を手に取り、パラパラとめくる。
「お父様に、地下に閉じ込められた。僕は呪われているらしい」
日記に書かれているのは、子供の字だ。これはもしかして、政近の日記だろうか。こんな場所に隠してあったなんて。華代は心臓を鳴らしながら、ページをめくる。時が経つにつれ、だんだんと、政近の字が上手くなって行く。彼は、父に対して強い恨みを抱いていたようだ。政近の父親の話は、ほとんど聞いたことがない。確か、病で早死にしたと言っていたが……。さらに読み進めると、政次の名前が出てきた。
「今日、政次に初めて会った。あまり笑わない子だけど、僕を助けてくれた優しい子だ」
日記には、徐々に政次の名前が増え始めた。弟ができて嬉しかったのだろう。華代の名前が出てきたのは、何冊も読み進めてからだった。それまではどこか不安定な少年の文字だったのに、すっかり大人の字に変わっている。
「華代という子に会った。なんとなく政次に似ている気がする」
だから、政近は華代を拾ってくれたのだろうか。
「華代は僕が猫になるのを見て驚いてはいたが、受け入れてくれた」
「花を買って帰ったら喜んでくれた」
「少しずつ笑ってくれるようになった」
「華代に触れたい」
「どうして僕は、呪われているんだろう」
「アザが痛む。西の宮に行かなければ」
日記はそこで終わっていた。西の宮。やはり、そこに答えがあるのだ。人を食ったような、松韻の顔が思い浮かぶ。華代は志穂に出かけてくると声をかけて、屋敷を出た。梅雨の合間の日差しが照り付けてくる。日傘を持ってくるべきだっただろうか。そんなことを思っていたら、金魚売りがそばを通り過ぎて行った。その瞬間、ちりんちりん、という風鈴の音が響く。もうすぐ夏が来る。それまでに、答えを見つけたい。華代は「海老名屋」を訪れて、松韻が滞在中かどうか尋ねた。老人は頷いて、華代を二階へいざなった。
「海老名屋」の二階へ上がって行くと、松韻が煙管を吸っていた。連日の暑さのためか、着物を着崩して、気だるげな雰囲気を漂わせている。その姿には退廃的な色香があった。なぜか懐かしさを感じて、華代は松韻をじっと見る。彼はこちらに視線を向け、笑みを浮かべる。
「やあ、久しぶりやね」
「こんにちは」
「一緒に来るんやろ? 西の宮に」
西の宮に行けば、知りたくないことも出てくるかもしれない。それでも、華代は政近の死の理由を知るべきなのだ。華代が頷くと、松韻が手を打ち鳴らした。襖が開いて遊女たちが入ってくる。驚いている間に、彼女たちは衝立の向こうに華代を連れて行った。抵抗する間もなく、身なりを整えて行く。むせ返るような白粉の匂いにくらくらした。
「肌が綺麗だこと」
「髪も艶があるわ。一見地味だけれど、磨けば光るわね」
華代は取り囲まれ、髪を結われ、化粧され、金魚柄の着物を着せられた。遊女たちは現れたときと同じく、素早く去っていく。華代は困惑しながら、煙管を吸う松韻を見上げる。
「あの、これは」
「今日、菖蒲まつりやろ。せっかくやしね」
松韻はそう言って、華代の手を引いて宿屋を出た。からころと、朱塗りの下駄の音が響く。高さがある履物は初めて履いたので、歩きにくかった。松韻の姿が目立つからだろうか、視線が集まってくる。華代は道行く人に、菖蒲を手渡された。街の男性に多くの菖蒲を手渡されたものが、菖蒲娘と呼ばれるのだ。金魚柄の着物が物珍しいのだろうか? 次々に花を渡されて困惑していたら、松韻がくすりと笑った。
「どしたん、固まって」
「……なぜ、私に花を」
「なんでって、華代ちゃんが綺麗やからやろ?」
綺麗? 綺麗と言われるのは紗代で、華代は見向きもされないはずだ。化粧というものは、本当に人を変える力があるのかもしれない。松韻は、軽い足取りで前を歩いて行く。一瞬、ガラス戸に華代の姿が映った。唇や頰が、ほのかに桃色に色付いている。神野家に来るまでは生気のない、真っ白な顔色をしていたのに。政次さまが見たら、なんて言うだろう。ふいに、前を行く松韻が足を止めた。華代が前を見ると、紗代が唖然とした表情でこちらを見ていた。去年と同じ着物だ、と華代は思った。菖蒲まつりの頃は、必ず新調していたのに。彼女も多くの菖蒲を抱えている。しかし、明らかに華代の方が多い。紗代はわなわなと震えながら叫んだ。
「な、なんなの? なんであんたがそんなに菖蒲をもらってるの」
「あ……いる?」
華代が菖蒲を差し出そうとしたら、紗代がその手を振り払った。ばらばらと花が地面に落ちる。咄嗟にそれを拾おうとしたら、紗代は華代の手を思い切り踏みつけた。華代は痛みに顔をしかめる。松韻は二人の間に割り込むように立ち、紗代の身体をとん、と押した。紗代は地面に尻餅をつき、呆然と松韻を見上げた。松韻はにこりと笑ったあと、真顔になった。ヒヤリとするような冷たい瞳で、紗代を見下ろす。
「あんたは一見綺麗や。でも腐った性根が顔に出とる」
「……な」
「さ、行こか」
松韻に促された華代は歩き出す。振り向くと、紗代はまだ座り込んでいた。髪は乱れ、着物は土で汚れてしまっている。その様子が、幼い頃べそをかいていたすがたに重なって見えた。華代が駆け寄ろうとしたら、松韻が腕を掴んで囁きかけてくる。
「やめとき。今度は顔面を蹴られるかもしれへんよ」
「……妹なんです」
「さよか。似てへんなあ」
松韻はのんびりとした口調でつぶやく。父からは、紗代とは似ていないと散々言われてきた。母に似ているかどうかは、尋ねることができなかった。もっと聞きたかったのは、お母さまにも、私のような力があったのかどうかだ。父はそれを知っていて結婚したのか。母のことを、ちゃんと愛していたのか。松韻は車を止めて、華代に乗るよう促した。車に乗り込んで帝都の駅へ向かう途中、軍部に寄って欲しいとお願いする。松韻はなんで? と不思議そうに尋ねてきた。
「西の宮に行くことを、政次さまにお知らせしないと」
「僕がしとくわ」
松韻は墨付けと懐紙を取り出し、さらさらと書いて、蛇の伝令に託した。蛇はするすると窓から出て行く。車はそのまま、大通りを走って行った。
★
政次は、井原の屋敷に来ていた。今朝早く、家人から通報があったのだ。呼び鈴を押して出てきた家人はあからさまに取り乱していた。なんとか落ち着かせ、現場に案内してもらう。
部屋に入ると、布団に横たわった井原英臣の身体に、木が突き刺さっていた。一般人がこんな異様な光景を発見したら、取り乱すのも無理もない。部下は真っ青になって口元を押さえていたが、耐えきれずに部屋を飛び出した。政次は、冷静に死体を観察していた。裏山が昨日の雨で土砂崩れを起こし、木が屋根を突き破って倒れてきたのだろう。偶然なら、随分と運が悪い男だと思う。
「隊長、これは事故ではないですか?」
戻ってきた部下が、青ざめた顔で声をかけてくる。事故ならば、政次たちの出番はない。しかし、なにかが引っかかっていた。昨日は、そこまでの大雨が降ったわけではない。せいぜい地面がぬかるむぐらいのものだった。裏山を見に行くか。政次は、事後処理を部下に任せて井原の屋敷を出た。屋敷の周りに人だかりができていたので、下がらせる。裏山に行く途中、紗代を見かけた。
着飾っているが、なぜか、土だらけの格好でふらふらと歩いている。彼女はその手に、菖蒲を握りしめていた。そういえば今日は、菖蒲まつりだったな。吉見が参加するのだと騒いでいた。華代も着飾っているのだろうか。今頃、男の注目を集めていたり――。想像しかけた政次は、かぶりを振った。──今は仕事中だ。それに、華代は政近に恋しているのだ。他の男など見向きもしまい。そんなことを考えていると、こちらに気づいた紗代が、目を潤ませて駆け寄ってきた。
「政次さま……っ」
しがみつかれた政次は、眉を寄せる。紗代の身体からは、奇妙な甘ったるい匂いがした。香水だろうか。こういう人工的な香りは嫌いだ。不快に感じて引き剥がそうとしたら、彼女はいっそう力をこめてきた。
「離せ」
「華代が、私の菖蒲を奪ったのです!」
目をぎらつかせて政次を見上げる紗代は狂気じみていた。華代がそんなことをするはずがない。何よりも花が好きな娘だ。再び離すように忠告したが、彼女は布を引き裂く勢いで爪を立てた。仕方がないので足を払って地面に転がす。紗代はぎゃっ、と悲鳴を上げて倒れた。歩き出すと、背後から裏返った紗代の声が追いかけてくる。
「華代は違う男といたわよ!」
思わず振り向くと、紗代が引き攣った笑みを浮かべる。
「西の言葉を使う男だった」
真っ先に思い浮かんだのは、松韻だった。あの男、まだ帝都にいたのか。彼が女に手が早いのは知っている。しかし、さすがに人妻の華代に手を出したりはしないだろう。それに仕事を放棄してまで華代のところに行くなんて馬鹿げている。苛立ちを抱えつつ、山の麓にたどり着くと、しゅるしゅる、と音を立てて蛇が近づいてきた。政次は刀に手をかけたが、松韻の蛇だと気づいてその手を止める。
政次は、蛇がくわえていた書状を開いてはっとした。
──華代ちゃんは僕がもらうわ。
政次は、書状を放り出して走り出した。
志保がはしゃぎながら、朝顔の柄の着物を押し当ててくる。華代は志保とともに、呉服屋を訪れていた。奇妙な髪色の男が、脇からひょいと顔を出す。彼は鯉が描かれた、派手目な着物を指さした。
「僕はこっちのほうがいいと思うなあ」
「あなたの意見は聞いていないのですか?」
志保は胡乱な表情を吉見に向ける。吉見を呉服屋に案内しに来たら、なぜか華代の着物を選ぶことになってしまった。菖蒲まつりには出ないと言っているのに。吉見は志保に構わずに、金色の着物を華代に差し出してくる。志保は吉見を睨みつけ、自分の持っている着物を突き出した。
「なんて趣味の悪い人なの。華代さまにはこちらが似合うに決まっています」
「それ地味だって。菖蒲娘に選ばれるためには目立たないとね」
彼らは華代をよそにわいわいと話している。この二人は気が合わないようだ。いや、むしろ似ているのだろうか。華代は彼らの言い争いをよそに、店にある小物を眺めることにした。華代は着物よりも、巾着のような小物を見る方が好きだった。金魚をかたどった可愛らしい巾着を見ていると、男物のハンカチが目に入った。そういえば、政次のハンカチを汚してしまったんだった。主人に声をかけて、包んでもらう。人に贈り物をするのは初めてだ。喜んでくれるといいが。その時、店に沙代が入ってきた。華代は一瞬ぎくりとしたが、気を取り直す。もう彼女に怯える必要なんてないのだ。沙代は華代を見て眉を上げた。
「あら、華代。何をしてるの」
「買い物に来たの」
「あなたが買えるものなんてないでしょう?」
沙代はくすくす笑っている。志保がむっとした表情を浮かべたが、華代はそれをなだめた。沙代はさっそうと主人の元に近づいていく。
「菖蒲まつりに着るための着物が欲しいの。仕立ててちょうだい」
「へい、ですが……」
主人は歯切れの悪い様子で、ちらりと番頭を見る。番頭は無言でかぶりを振った。主人は言いづらそうに、こう告げる。
「先月分をお支払いいただいてないので……」
「そんなわけないじゃない」
やんわりと断られても、沙代は引き下がろうとはしない。人の良さそうな主人には相手にできないと判断したのか、番頭が冷たい声で口を挟んだ。
「請求書は送らせていただいてますよ。今月中にお支払いいただけない場合は、取り立てに参ります」
「あら、お金がないのに着物を買いにいらしたんですか?」
志保は真っ赤になった沙代をせせら笑った。沙代は志保を睨みつけ、大股で店を出ていく。主人はハラハラした表情で沙代を見送っていたが、吉見に呼ばれて、慌てて彼に駆け寄った。志保はふんと鼻を鳴らし、囁きかけてくる。
「性格の悪そうな女ですね」
「妹なの」
「えっ!?」
「でも、もう縁を切っているから」
「それが正解ですよ。あんなのがそばにいたら、運気が下がりますから」
華代はそうね、と相槌を打った。
帰宅した華代は、ハンカチを手に政次の部屋に向かった。文机の上に置いて立ち去ろうとする。しかし、ふと足を止めた。一箇所だけ軋む畳を掴んで、そっと持ち上げる。畳の下には、冊子がいくつかあった。どうしてこんな場所に。華代は躊躇したが、冊子を手に取り、パラパラとめくる。
「お父様に、地下に閉じ込められた。僕は呪われているらしい」
日記に書かれているのは、子供の字だ。これはもしかして、政近の日記だろうか。こんな場所に隠してあったなんて。華代は心臓を鳴らしながら、ページをめくる。時が経つにつれ、だんだんと、政近の字が上手くなって行く。彼は、父に対して強い恨みを抱いていたようだ。政近の父親の話は、ほとんど聞いたことがない。確か、病で早死にしたと言っていたが……。さらに読み進めると、政次の名前が出てきた。
「今日、政次に初めて会った。あまり笑わない子だけど、僕を助けてくれた優しい子だ」
日記には、徐々に政次の名前が増え始めた。弟ができて嬉しかったのだろう。華代の名前が出てきたのは、何冊も読み進めてからだった。それまではどこか不安定な少年の文字だったのに、すっかり大人の字に変わっている。
「華代という子に会った。なんとなく政次に似ている気がする」
だから、政近は華代を拾ってくれたのだろうか。
「華代は僕が猫になるのを見て驚いてはいたが、受け入れてくれた」
「花を買って帰ったら喜んでくれた」
「少しずつ笑ってくれるようになった」
「華代に触れたい」
「どうして僕は、呪われているんだろう」
「アザが痛む。西の宮に行かなければ」
日記はそこで終わっていた。西の宮。やはり、そこに答えがあるのだ。人を食ったような、松韻の顔が思い浮かぶ。華代は志穂に出かけてくると声をかけて、屋敷を出た。梅雨の合間の日差しが照り付けてくる。日傘を持ってくるべきだっただろうか。そんなことを思っていたら、金魚売りがそばを通り過ぎて行った。その瞬間、ちりんちりん、という風鈴の音が響く。もうすぐ夏が来る。それまでに、答えを見つけたい。華代は「海老名屋」を訪れて、松韻が滞在中かどうか尋ねた。老人は頷いて、華代を二階へいざなった。
「海老名屋」の二階へ上がって行くと、松韻が煙管を吸っていた。連日の暑さのためか、着物を着崩して、気だるげな雰囲気を漂わせている。その姿には退廃的な色香があった。なぜか懐かしさを感じて、華代は松韻をじっと見る。彼はこちらに視線を向け、笑みを浮かべる。
「やあ、久しぶりやね」
「こんにちは」
「一緒に来るんやろ? 西の宮に」
西の宮に行けば、知りたくないことも出てくるかもしれない。それでも、華代は政近の死の理由を知るべきなのだ。華代が頷くと、松韻が手を打ち鳴らした。襖が開いて遊女たちが入ってくる。驚いている間に、彼女たちは衝立の向こうに華代を連れて行った。抵抗する間もなく、身なりを整えて行く。むせ返るような白粉の匂いにくらくらした。
「肌が綺麗だこと」
「髪も艶があるわ。一見地味だけれど、磨けば光るわね」
華代は取り囲まれ、髪を結われ、化粧され、金魚柄の着物を着せられた。遊女たちは現れたときと同じく、素早く去っていく。華代は困惑しながら、煙管を吸う松韻を見上げる。
「あの、これは」
「今日、菖蒲まつりやろ。せっかくやしね」
松韻はそう言って、華代の手を引いて宿屋を出た。からころと、朱塗りの下駄の音が響く。高さがある履物は初めて履いたので、歩きにくかった。松韻の姿が目立つからだろうか、視線が集まってくる。華代は道行く人に、菖蒲を手渡された。街の男性に多くの菖蒲を手渡されたものが、菖蒲娘と呼ばれるのだ。金魚柄の着物が物珍しいのだろうか? 次々に花を渡されて困惑していたら、松韻がくすりと笑った。
「どしたん、固まって」
「……なぜ、私に花を」
「なんでって、華代ちゃんが綺麗やからやろ?」
綺麗? 綺麗と言われるのは紗代で、華代は見向きもされないはずだ。化粧というものは、本当に人を変える力があるのかもしれない。松韻は、軽い足取りで前を歩いて行く。一瞬、ガラス戸に華代の姿が映った。唇や頰が、ほのかに桃色に色付いている。神野家に来るまでは生気のない、真っ白な顔色をしていたのに。政次さまが見たら、なんて言うだろう。ふいに、前を行く松韻が足を止めた。華代が前を見ると、紗代が唖然とした表情でこちらを見ていた。去年と同じ着物だ、と華代は思った。菖蒲まつりの頃は、必ず新調していたのに。彼女も多くの菖蒲を抱えている。しかし、明らかに華代の方が多い。紗代はわなわなと震えながら叫んだ。
「な、なんなの? なんであんたがそんなに菖蒲をもらってるの」
「あ……いる?」
華代が菖蒲を差し出そうとしたら、紗代がその手を振り払った。ばらばらと花が地面に落ちる。咄嗟にそれを拾おうとしたら、紗代は華代の手を思い切り踏みつけた。華代は痛みに顔をしかめる。松韻は二人の間に割り込むように立ち、紗代の身体をとん、と押した。紗代は地面に尻餅をつき、呆然と松韻を見上げた。松韻はにこりと笑ったあと、真顔になった。ヒヤリとするような冷たい瞳で、紗代を見下ろす。
「あんたは一見綺麗や。でも腐った性根が顔に出とる」
「……な」
「さ、行こか」
松韻に促された華代は歩き出す。振り向くと、紗代はまだ座り込んでいた。髪は乱れ、着物は土で汚れてしまっている。その様子が、幼い頃べそをかいていたすがたに重なって見えた。華代が駆け寄ろうとしたら、松韻が腕を掴んで囁きかけてくる。
「やめとき。今度は顔面を蹴られるかもしれへんよ」
「……妹なんです」
「さよか。似てへんなあ」
松韻はのんびりとした口調でつぶやく。父からは、紗代とは似ていないと散々言われてきた。母に似ているかどうかは、尋ねることができなかった。もっと聞きたかったのは、お母さまにも、私のような力があったのかどうかだ。父はそれを知っていて結婚したのか。母のことを、ちゃんと愛していたのか。松韻は車を止めて、華代に乗るよう促した。車に乗り込んで帝都の駅へ向かう途中、軍部に寄って欲しいとお願いする。松韻はなんで? と不思議そうに尋ねてきた。
「西の宮に行くことを、政次さまにお知らせしないと」
「僕がしとくわ」
松韻は墨付けと懐紙を取り出し、さらさらと書いて、蛇の伝令に託した。蛇はするすると窓から出て行く。車はそのまま、大通りを走って行った。
★
政次は、井原の屋敷に来ていた。今朝早く、家人から通報があったのだ。呼び鈴を押して出てきた家人はあからさまに取り乱していた。なんとか落ち着かせ、現場に案内してもらう。
部屋に入ると、布団に横たわった井原英臣の身体に、木が突き刺さっていた。一般人がこんな異様な光景を発見したら、取り乱すのも無理もない。部下は真っ青になって口元を押さえていたが、耐えきれずに部屋を飛び出した。政次は、冷静に死体を観察していた。裏山が昨日の雨で土砂崩れを起こし、木が屋根を突き破って倒れてきたのだろう。偶然なら、随分と運が悪い男だと思う。
「隊長、これは事故ではないですか?」
戻ってきた部下が、青ざめた顔で声をかけてくる。事故ならば、政次たちの出番はない。しかし、なにかが引っかかっていた。昨日は、そこまでの大雨が降ったわけではない。せいぜい地面がぬかるむぐらいのものだった。裏山を見に行くか。政次は、事後処理を部下に任せて井原の屋敷を出た。屋敷の周りに人だかりができていたので、下がらせる。裏山に行く途中、紗代を見かけた。
着飾っているが、なぜか、土だらけの格好でふらふらと歩いている。彼女はその手に、菖蒲を握りしめていた。そういえば今日は、菖蒲まつりだったな。吉見が参加するのだと騒いでいた。華代も着飾っているのだろうか。今頃、男の注目を集めていたり――。想像しかけた政次は、かぶりを振った。──今は仕事中だ。それに、華代は政近に恋しているのだ。他の男など見向きもしまい。そんなことを考えていると、こちらに気づいた紗代が、目を潤ませて駆け寄ってきた。
「政次さま……っ」
しがみつかれた政次は、眉を寄せる。紗代の身体からは、奇妙な甘ったるい匂いがした。香水だろうか。こういう人工的な香りは嫌いだ。不快に感じて引き剥がそうとしたら、彼女はいっそう力をこめてきた。
「離せ」
「華代が、私の菖蒲を奪ったのです!」
目をぎらつかせて政次を見上げる紗代は狂気じみていた。華代がそんなことをするはずがない。何よりも花が好きな娘だ。再び離すように忠告したが、彼女は布を引き裂く勢いで爪を立てた。仕方がないので足を払って地面に転がす。紗代はぎゃっ、と悲鳴を上げて倒れた。歩き出すと、背後から裏返った紗代の声が追いかけてくる。
「華代は違う男といたわよ!」
思わず振り向くと、紗代が引き攣った笑みを浮かべる。
「西の言葉を使う男だった」
真っ先に思い浮かんだのは、松韻だった。あの男、まだ帝都にいたのか。彼が女に手が早いのは知っている。しかし、さすがに人妻の華代に手を出したりはしないだろう。それに仕事を放棄してまで華代のところに行くなんて馬鹿げている。苛立ちを抱えつつ、山の麓にたどり着くと、しゅるしゅる、と音を立てて蛇が近づいてきた。政次は刀に手をかけたが、松韻の蛇だと気づいてその手を止める。
政次は、蛇がくわえていた書状を開いてはっとした。
──華代ちゃんは僕がもらうわ。
政次は、書状を放り出して走り出した。
