華代は裏庭で洗濯物を干していた。大して動いていないのに、じんわりと汗が滲む。――今日はやけに蒸すわね。額の汗をぬぐって、上空を見上げた。遠くの空には黒い雲が見えている。午後になると、こちらに流れてくるかもしれない。午前中に乾くといいが。華代は、手に取った政次の着物を眺める。彼は着るものにはこだわらない。軍に支給されたものを適当に着ているという。政次さまの着物って大きいんだな……。そっと胸に当てていると、志保がやってきた。華代は慌てて着物を干した。
「きょ、今日は暑いわね」
彼女は顔を赤らめた華代に気づいた様子もなく、興奮気味にチラシを見せてきた。
「華代さま! これ、ごらんになりましたか」
華代はチラシを受け取った。「菖蒲まつり」のチラシだ。チラシには菖蒲の絵とともに、少女のシルエットが描かれている。着飾った女性が参加し、最も美しい娘に報奨が与えられるという催しだった。確か、沙代が何度か菖蒲娘に選ばれていた。華代には全く縁のない代物だ。こちらの内心を知らずに、志保は嬉しそうに話しかけてくる。
「華代さまにぴったりではないですか?」
「そんな……私はいいわ。志保が出たら?」
「私はだめです。お仕事があるので」
志保はチラシを押し付けてきた。華代はため息をついて、それを懐にしまった。その後、何かと忙しくてチラシのことは忘れていた。昼をすぎると、予想通り雨が振り始めた。こんな天気だと、食事に出るのも億劫だろう。華代は政次に手渡すお弁当を作ることにした。おにぎりを握って、卵焼きを焼いて、煮たフキとともに弁当箱に詰める。雨が降ってきてしまったので、傘を差して軍部へと向かった。小雨程度だったのだが、歩いているうちに横降りになった雨が肩を濡らす。本降りになる前に帰らなくては。急いで門に近づいていくと、沙代のすがたが見えたのでぎくり、と肩を震わせる。彼女はこちらを振り向いて、目を細めた。
「あら、華代。何をしてるの?」
「……政次さまに、お弁当を届けにきたの」
「そう。私も政次様に会いにきたのよ」
どうして沙代が? 華代は、彼女が睡蓮城で政次と会話していたことを思い出す。先日はぴくりとも動かなかった見張りの軍人は、沙代に見とれていた。華代は影のように、彼女に続いて歩いていく。沙代は足を止め、先に行くよう促した。政次の居場所がわからないからなのだろう。華代は、黙って沙代の前を歩く。建物にたどりつくなり、沙代は華代を追い抜いて中へと入っていった。その拍子に跳ね上げた泥が、華代の着物の裾を汚した。
華代は待合の椅子に腰をおろし、泥を拭う。この天気では、洗ってもなかなか乾かないかもしれない。通りかかった人々が、沙代を見てひそひそと囁いている。しばらくすると、政次がやってきた。彼は華代を見て瞳を緩める。華代が立ち上がろうとすると、沙代が足を踏んできた。華代は思わず痛みにうめく。沙代は嘲るような笑みを浮かべ、政次に駆け寄った。
「お久しぶりです、政次さま」
「ああ……」
政次は関心なさげに沙代を見て、華代に近づこうとした。しかし、沙代は素早く政次の手を取る。彼女は潤んだ眼差しを政次に向けた。
「どうしても、ご相談したいことがありますの」
政次は面倒そうな表情を浮かべたあと、華代に待っているように告げた。彼らは連れ立って歩いていく。なんの話をしているのだろう。華代が廊下の端にいるふたりを伺っていると、背後から声が聞こえてきた。
「政次くんってば二股か」
驚いて振り向くと、吉見が立っていた。寝起きなのか、髪が爆発している。この時期は湿気でうねるのだそうだ。お茶でもどうかと言われたので、彼について研究室へ向かう。吉見は案の定研究器具でお茶を淹れた。華代はお茶ならあると水筒を取り出す。水筒の茶を飲みながら、吉見の個性的な髪型に目を向けた。
「吉見さまは、変わった髪色をなさっていますね」
「ああ。薬品をぶちまけちゃってさ。強力な代物だったから取れないんだよねえ」
彼は湿気でうねっている髪の毛をつまんだ。そうして、華代の抱えている包みに目を向けてきた。
「それ、なに? もしかして食べ物?」
「はい、政次さまのお弁当を」
「いいねえ。政次くん。僕も君みたいなお嫁ちゃんが欲しい」
あまりに羨ましそうな視線を向けてくるものだから、華代は弁当を差し出した。
「……よかったら、これお食べになりますか」
「え、いいの? ありがとう」
吉見は手作り弁当なんて初めてだなあと言いながら弁当を食べ始める。驚くほど食べ方が下手で、ぼろぼろと食べかすを落としていた。まるで子供みたいだ。見かねてハンカチを取り出した拍子に、胸元にしまっておいたチラシが落ちた。吉見は箸を咥えたままで、それを拾い上げる。慌てて取り返そうとしたが、彼はすでにそれを開いていた。
「なにこれ?」
「菖蒲まつりという催しがあって……」
「ああ、知ってるよ。出るの?」
「私が出ても恥をかくだけです」
「でも優勝者は西の宮にご招待って書いてあるよ。僕出ようかなあ、有給が余ってるし」
西の宮……。華代の脳裏に松韻のすがたが浮かんだ。ちょうど、菖蒲まつりの日に彼は西の宮に帰るのだ。
「吉見さまは西の宮に行きたいのですか?」
「なんせ怨念の地だしねえ。おもしろい異能者がいるかもしれないじゃない」
西の宮には、多くの伝説などがあるらしい。たとえば、離島に流された姫の話。彼女はその美しさから見初められて帝と結ばれたが、病で二目と見られない顔になってしまう。あらぬ罪を着せられて島流しにされた彼女は、怨霊となって帝を祟ったそうだ。おどろおどろしい話に、華代は唾を飲んだ。いにしえの都という印象があるが、負の側面もあるのか。吉見はすっかり弁当をたいらげた。
「それで、異能の調子はどう?」
「あ……最近は、特に暴走することもないです」
「よかったね。心が安定してれば異能も安定するからさ」
吉見は朗らかに笑って、華代の肩をぽんと叩いた。あれ以来、街に出かけるときは必ず志保がついてきてくれる。神野家での暮らしは穏やかで、何も問題がない。なのになぜか胸がざわついている。沙代の存在が、華代を不安にさせるのだ。じめついた季節も、心が沈むのに拍車をかけていた。研究室を出ると、政次がやってきた。彼の背後にはぴったりと沙代が寄り添っている。政次は華代に近づいてきて、どうかしたか、と尋ねてくる。華代はとっさに、ふろしきを背後に隠す。
「いえ、近くに来たので少し寄ってみただけです」
「そうか。気をつけて帰れ」
政次は華代の肩に触れて去っていった。彼のすがたが見えなくなると、沙代がさっさと歩き出した。華代は彼女から遅れて歩き出す。門を出ると、沙代がくるりと振り向いた。
「ちょっと話せる?」
彼女は軍部の近くにあるカフェに華代を連れて行った。容姿のすぐれた女給たちに混じっても、沙代は目立っている。隣に座っている男性客は、新聞の隙間からこちらを伺っていた。見られることに慣れている沙代は品書きをめくって、紅茶を注文する。華代が何も注文せずにいると、これみよがしなため息をもらす。
「ねえ、カフェに入ったらなにか頼むのが常識だと思うのだけど?」
「……お金がないので」
「あら、あなた政次さまにお金をもらっていないの?」
沙代は馬鹿にした表情でこちらを見た。大事な妻に財布を預けないなんてねえ。その声には、優越感が滲んでいた。華代は机の下でぐっと拳を握りしめた。違う。政次は必要があれば使えと財布を手渡してくれている。受け取ったときは、そのずっしりとした重さに驚いたものだ。財布自体も皮でできた高級品に見えた。落としたりしたら怖いから、ほとんど持ち歩いていないだけだ。硬い表情の華代を見て、沙代は蔑んだ目を向けてきた。
「仕方ないわね。私がおごってあげる。コーヒーでいい?」
「用件は、なに」
注文を取った女給が去っていくと、沙代はこちらに身を乗り出した。同性ですら惑わすような、甘い香のかおりが漂ってくる。長いまつげに縁取られた瞳に、華代が映っている。その瞳が細められ、形のいい唇が開いた。
「単刀直入に言うわ。政次さまを私に譲って」
「……え?」
カフェの喧騒が遠のいていく。一体何を言われたのかわからなかった。沙代は運ばれてきた紅茶を手にし、一口飲んだ。彼女は眉をひそめて、女給を呼んだ。
「冷めているじゃない。淹れなおして」
「は、はい。申し訳ありません」
女給は気の毒なことに、泣きそうになっている。女給が去っていくと、沙代は話を再開する。
「そもそも、あなたのせいで婚約破棄をしたのよ。損害を補填するのは当然じゃないの?」
「政次さまは物じゃないわ。譲るだなんて」
震える声で反論すると、沙代が机の下で足を蹴りつけてきた。華代は痛みにうめき声をあげる。沙代は周囲に聞こえない程度の声で囁いてくる。
「運よく結婚できたからって、調子に乗っているんじゃないの? あなたと私、まともな男がどっちを選ぶと思うの?」
「……あなたならいくらでも相手がいるでしょう。どうして、政次さまを」
「決まっているじゃないの。国主になる可能性があるからよ」
それだけの理由で、彼女は政次を手に入れようとしている。彼の意思など無視して。――いや、沙代にとって、他人の心などどうでもいいのだ。欲しいものは必ず手に入れるのだから。昔、近所の子供が沙代に千代紙を自慢した。西の宮で手に入れた、貴重な品だと。沙代はそれを渡すよう迫ったが、その子は拒否した。その夜、その子の家が火事にあったのだ。その後、華代は沙代が珍しい柄の千代紙を持っているのを見た。誰かに知らせるべきだ、とわかっていたが怖くて言えなかった。なんの慰めにもならないのはわかっていたが、戸口に朝顔を置いておいた。火事になった長屋は、いつのまにかカラになっていた。
華代の額に脂汗が滲んだ。沙代の邪魔をしたら、彼女は何をするかわからない。
沙代は紅茶が運ばれてくる前に、伝票を手に席を立った。チリンチリン、と虚しく響く音が鼓膜に響いた。女給がやってきて、お連れ様はどうされましたか、と尋ねてくる。華代は無理に笑顔を見せた。
「ごめんなさい。急用みたいで。私が飲みます」
華代は紅茶を飲みながら、じんじんと痛む足を見下ろした。帝都にいる限り……きっと沙代からは逃げられない。やっと安心できる場所を見つけたのに。帰宅すると、志保が玄関に出てきて迎えてくれた。志保に何かされたらと思うとぞっとする。
「おかえりなさい、華代さま」
「ただいま、志保」
「お弁当は渡せましたか?」
華代は笑顔で頷いた。弁当を渡せなかったことも、志保に会ったことも言わなかった。これ以上彼女に心配をかけたくない。部屋に入った華代は、踏まれた箇所をそっと撫でた。かすかに痛みが走る。そこに、湿布を貼って横になった。志保に痛めつけられるのなんて、大したことではない。怖いのは、周りの人に害を加えられることだ。
ベッド脇には、庭で摘んだ紫陽花が飾られている。紫陽花には、あまりいい花言葉はない。根に毒があるからだろうか。植物が毒を持つのは、自分を守るためだ。花自体に罪はないのだ。沙代もなにかから自分を守ろうとしているのだろうか。とりとめのないことを考えながら、うとうとと瞳を閉じた。
意識が遠のいて、視界が徐々に暗くなっていく。これは夢の中だ――。最近、ぐっすり眠れるせいなのかよく夢を見る。ふいに、雨音とは違う音が聞こえた。誰かが座敷牢で泣いている。小さな男の子のようだ。――泣かないで。華代はそっとその子を抱きしめた。温かい。その身体が、さらに小さくなる。男の子は、猫のすがたになった。これは……政近さま? どうして政次様が座敷牢に? その時、こんこん、と戸を叩く音で夢が中断された。かちゃりと戸が開いて、政次が入ってくる。
「――華代?」
「あ……政次さま」
華代は慌てて起き上がった。政次は整った顔に、心配そうな表情を浮かべている。
「どこか悪いのか」
「いえ。雨の時期は少しだるいだけです」
足に貼った湿布が見えないように、着物の裾を引っ張る。あれはただの夢なのだろうか。政近が座敷牢に閉じ込められる理由などないはず。政次は腕を組んで戸にもたれた。彼が近づいてこないことにほっとする。こちらに来たら、湿布の匂いに気づかれてしまうかもしれない。
「おまえの妹に、茶会に呼ばれたんだが」
「沙代に?」
「ついでにおまえの両親に結婚の報告をしたらどうかと。どうする。行くか」
「私は、結構です。政次さまが行きたければ行ってください」
つい硬い声で返してしまう。本当は万津家に行ってほしくなどなかった。だが、政次の意思を止めることなど華代にはできない。政次はじっとこちらを見たあと、何も言わずに部屋を出ていった。あんな言い方をするべきじゃなかった。政次は華代の家の事情に気を使ってくれたのに。ため息を漏らすと、階下から奇声が聞こえてきた。ぎょっとして窓を開けると、志保が庭で箒を振り回していた。何事かと思って階下へと向かう。どうしたの、と声をかけると、志保は鬼の形相で振り向いた。
「不審な男が庭にいたのですっ」
「えっ」
それなら、政次を呼んだほうがいいのではないか。踵を返そうとしたら、植え込みからひょこり、と奇妙な色の頭が見えた。華代はとっさに、志保を後ろにかくす。いざとなったら、異能の力で――。しかし、すがたを現した男は顔なじみだった。華代はぽかんとして、眼の前の男を見た。
「吉見、さま……?」
「やあ、こんばんは」
吉見は白衣や髪に葉っぱをつけてニコニコ笑っている。どうしてこの人がここにいるのだろう。志保は警戒心を解かずにささやきかけてくる。
「華代さま、お知り合いですか」
「吉見さまです。政次さまの同僚の」
「何をしてるんだ、吉見」
騒ぎを聞きつけたのだろうか、不機嫌そうな政次がやってきた。吉見はそんな政次の脇をすり抜けた。ぱたぱたと葉っぱをはらって、「おじゃましまーす」と言いながら屋敷に上がり込む。政次はおい、と声をかけて吉見を追った。吉見はいい匂いだなあと言いながら、厨の方へと向かう。食事の支度をする女中たちは、見知らぬ男を見て困惑していた。政次は吉見の着物の襟を引っ張って厨から連れ出した。政次の部屋に連れて行かれた吉見は、物珍しげに室内を見渡している。
「へー、これが政次くんの部屋? 予想通り面白みがないね!」
「うるさい。何をしに来たんだ?」
「ご飯を食べに来たんだよ。お嫁ちゃんのお弁当がすごく美味しかったし」
政次は不可解そうな眼差しをこちらに向けてきた。華代は思わず目をそらす。吉見は二人の間に流れる空気に構わず、まるで我が家のように寝転んで本を読んでいる。政次は怒っても無駄だと悟ったのか、諦めの表情を浮かべていた。夕飯を運んできた志保は、食事をがっつく吉見を見てぽかんとしている。彼はあっというまに飯をたいらげ、モゴモゴ言いながら茶碗を差し出してくる。華代はおかわりをよそいながら、吉見に尋ねる。
「本当にお夕飯を食べたかっただけなのですか?」
「あー、あと化粧を教えてほしい」
「……は?」
政次は箸をあやつる手を止めて、吉見を冷たい目で見た。
「ほら、菖蒲まつりが明日じゃないか。僕も参加するからさ」
「菖蒲まつりは「菖蒲娘」を選ぶ催しだぞ」
「別に男が参加しちゃいけないとは書いてないじゃない」
もはや会話をする気が失せたらしく、政次はさっさと食事を終えて風呂に立った。吉見は満足したのか、腹をさすりながらふうと息を吐いている。
「あー、お腹いっぱい」
「そりゃそうでしょう、3杯も食べたのだから」
志保がぼそっとつぶやいた。彼女が客人にこんな態度を取るのは珍しい。腹一杯になって眠くなったのか、吉見は横になって寝息を立て始めた。志保はとんでもない人ですね、と言って吉見を見下ろしている。華代は苦笑して、彼の身体に毛布をかけてやった。ふと、畳が軋む感触がした。ここだけ浮いているような気がする。湿気でたわんだのだろうか……。畳を持ち上げようとしていたら、風呂からあがった政次がやってきた。彼はいびきをかいている吉見を見て、呆れた表情を浮かべた。
「なんで寝てるんだ、こいつは」
「面白い方ですね」
「はたで見てるぶんにはな」
迷惑そうな口調だが、嫌ってはいないようだ。政次は華代の横に腰をおろし、ちらりと視線を送ってきた。
「……なんでこいつが、おまえの弁当を食ったんだ」
「あの、政次さまのお昼にと思って作ったのですが、あまりに空腹のようだったので」
「意地汚いやつだな」
「先程は、ごめんなさい。政次様は私のために言ってくださったのに」
政次はうつむいた華代の手に触れた。顔をあげると、視線がかち合う。
「おまえは万津家にいい思い出がないのだろう」
「それでも、挨拶ぐらいはするべきなのかもしれません」
「無理をするな。気になるなら手紙でも書けばいい」
視線を感じた華代は、横を見た。吉見がじーっとこちらを見つめている。彼はにこにこと笑みを浮かべた。
「あ、僕には構わずに続きをどうぞ」
「……さっさと帰れ」
部屋から追い出された吉見は、縁側でぶらぶらと足を揺らしていた。
「政次くんってば照れなくてもいいのにねえ」
同意を求められた華代は曖昧な笑みを浮かべる。政次にあそこまで無遠慮にできるのは、この人だけなのかもしれない。庭は闇に沈んでいて、かすかに雨音が聞こえてくる。華代は化粧道具を持ってきて、吉見に手ほどきをした。化粧道具は、塗りの箱に入れられている。これはいつだったか、政近が買ってきたものだ。あまりに高価な品なので、使わずにとっておいた。まさか、こんなところで役に立つとは思わなかったが。彼は不思議そうに化粧用の筆を眺めている。
「ずいぶんたくさん筆があるんだねえ」
「私もあまり、お化粧に詳しくはないのですが」
「女は化ける、って言うよね」
彼はそう言って、華代の顔を覗き込んだ。
「草かんむりに化けるで花。お嫁ちゃんっぽくない?」
「そ、うですか?」
「うん。お嫁ちゃんも菖蒲まつりに出ようよ。きっと楽しいよ」
吉見は自由な人だ、と華代は思った。彼はきっと誰に何を言われても、自分の好きなように振る舞うのだろう。そんな吉見が、どこか羨ましく思えた。
「着物はどうされるんですか?」
「うーん、どうしようかな」
呉服屋は沙代の付き添いで何度か行ったことがある。だが、男性用の着物があるかどうかわからない。とりあえず、店名を教えておいた。吉見を見送ったあと、華代は、ある場所に向かった。ろうそくの灯りを手に、階段を下っていく。華代は、座敷牢の前に立っていた。ろうそくの灯が暗い壁を照らして、ゆらゆらと揺れる。火事があって以来、ここは封鎖されている。華代は、ごくりと唾を飲んだ。分厚い扉に手を伸ばすと、じゃらりと鎖が触れた。鍵がかかっている……。華代はふう、と息を吐いて、その場から立ち去った。どうしてもあの夢が気になってしまう。なぜ政近は、あそこにいたのだろう。何か伝えたいことがあるから、夢に出てきたのか。地下から出た華代は、庭を歩いていた。突然声をかけられる。
「帰ったのか、吉見は」
振り向くと、政次がこちらにやってくるところだった。華代が頷くと、彼はため息をついた。
「おまえは、何をしてたんだ?」
「政近さまの夢を見たんです」
華代は、懐から鈴を取り出して揺らす。政次はじっと華代を見た。ついてこい、と言って、華代をいざなって歩き出す。たどり着いたのは、大きな蔵だった。神野家に住んでしばらく経つが、まだ知らない場所があったのだと華代は驚く。政次は蔵の鍵を取り出し、重い扉を開いた。埃っぽい空気に満ちている。華代は、政次に続いて蔵に足を踏み入れる。蔵の中には貴重品らしきものや、書物が置かれていた。
「吉見が、兄の呪いのことを話してただろう」
「ええ……」
「ここに何か手がかりがあるかもしれない。気になるなら、好きな時に入って調べろ」
彼は、華代に蔵の鍵を差し出した。華代は驚いて、政次を見上げる。
「いいのですか? 貴重な品がたくさんあるのでは」
「おまえは花にしか興味がないだろう」
確かに、骨董品の価値などわからない。何より、政次が華代を信用してくれているということが嬉しかった。ただし、と政次が言い添える。
「今度から、吉見が物欲しそうでも弁当をやらなくていい。俺に渡せ」
華代はきょとんとしたあと、くすりと笑って頷いた。
翌朝、華代は文机に向かっていた。ペンをインクにつけて、文字を書きはじめる。
――拝啓、神野家の皆様。このたびは茶会にお誘いいただき、ありがとうございます。しかし、私はすでに神野家の人間です。万津家に戻ることは、金輪際ないとお考えください。政次さまも、そちらと関わることはありません。遠くからご家族の幸せを願っております。もうお会いすることもないと思いますが、お元気で。
手紙を書き終えた華代は、インクをつけたペンを置いた。乾くのを待って封をする。志保に託すこともできたが、区切りをつけるために自分で出しに行こうと思った。屋敷を出て、角を曲がったところにある赤いポストに手紙を入れる。ことん、と軽い音がした。ああ、なんだか生まれ変わったようだ。華代は清々しい気分で踵を返した。
「きょ、今日は暑いわね」
彼女は顔を赤らめた華代に気づいた様子もなく、興奮気味にチラシを見せてきた。
「華代さま! これ、ごらんになりましたか」
華代はチラシを受け取った。「菖蒲まつり」のチラシだ。チラシには菖蒲の絵とともに、少女のシルエットが描かれている。着飾った女性が参加し、最も美しい娘に報奨が与えられるという催しだった。確か、沙代が何度か菖蒲娘に選ばれていた。華代には全く縁のない代物だ。こちらの内心を知らずに、志保は嬉しそうに話しかけてくる。
「華代さまにぴったりではないですか?」
「そんな……私はいいわ。志保が出たら?」
「私はだめです。お仕事があるので」
志保はチラシを押し付けてきた。華代はため息をついて、それを懐にしまった。その後、何かと忙しくてチラシのことは忘れていた。昼をすぎると、予想通り雨が振り始めた。こんな天気だと、食事に出るのも億劫だろう。華代は政次に手渡すお弁当を作ることにした。おにぎりを握って、卵焼きを焼いて、煮たフキとともに弁当箱に詰める。雨が降ってきてしまったので、傘を差して軍部へと向かった。小雨程度だったのだが、歩いているうちに横降りになった雨が肩を濡らす。本降りになる前に帰らなくては。急いで門に近づいていくと、沙代のすがたが見えたのでぎくり、と肩を震わせる。彼女はこちらを振り向いて、目を細めた。
「あら、華代。何をしてるの?」
「……政次さまに、お弁当を届けにきたの」
「そう。私も政次様に会いにきたのよ」
どうして沙代が? 華代は、彼女が睡蓮城で政次と会話していたことを思い出す。先日はぴくりとも動かなかった見張りの軍人は、沙代に見とれていた。華代は影のように、彼女に続いて歩いていく。沙代は足を止め、先に行くよう促した。政次の居場所がわからないからなのだろう。華代は、黙って沙代の前を歩く。建物にたどりつくなり、沙代は華代を追い抜いて中へと入っていった。その拍子に跳ね上げた泥が、華代の着物の裾を汚した。
華代は待合の椅子に腰をおろし、泥を拭う。この天気では、洗ってもなかなか乾かないかもしれない。通りかかった人々が、沙代を見てひそひそと囁いている。しばらくすると、政次がやってきた。彼は華代を見て瞳を緩める。華代が立ち上がろうとすると、沙代が足を踏んできた。華代は思わず痛みにうめく。沙代は嘲るような笑みを浮かべ、政次に駆け寄った。
「お久しぶりです、政次さま」
「ああ……」
政次は関心なさげに沙代を見て、華代に近づこうとした。しかし、沙代は素早く政次の手を取る。彼女は潤んだ眼差しを政次に向けた。
「どうしても、ご相談したいことがありますの」
政次は面倒そうな表情を浮かべたあと、華代に待っているように告げた。彼らは連れ立って歩いていく。なんの話をしているのだろう。華代が廊下の端にいるふたりを伺っていると、背後から声が聞こえてきた。
「政次くんってば二股か」
驚いて振り向くと、吉見が立っていた。寝起きなのか、髪が爆発している。この時期は湿気でうねるのだそうだ。お茶でもどうかと言われたので、彼について研究室へ向かう。吉見は案の定研究器具でお茶を淹れた。華代はお茶ならあると水筒を取り出す。水筒の茶を飲みながら、吉見の個性的な髪型に目を向けた。
「吉見さまは、変わった髪色をなさっていますね」
「ああ。薬品をぶちまけちゃってさ。強力な代物だったから取れないんだよねえ」
彼は湿気でうねっている髪の毛をつまんだ。そうして、華代の抱えている包みに目を向けてきた。
「それ、なに? もしかして食べ物?」
「はい、政次さまのお弁当を」
「いいねえ。政次くん。僕も君みたいなお嫁ちゃんが欲しい」
あまりに羨ましそうな視線を向けてくるものだから、華代は弁当を差し出した。
「……よかったら、これお食べになりますか」
「え、いいの? ありがとう」
吉見は手作り弁当なんて初めてだなあと言いながら弁当を食べ始める。驚くほど食べ方が下手で、ぼろぼろと食べかすを落としていた。まるで子供みたいだ。見かねてハンカチを取り出した拍子に、胸元にしまっておいたチラシが落ちた。吉見は箸を咥えたままで、それを拾い上げる。慌てて取り返そうとしたが、彼はすでにそれを開いていた。
「なにこれ?」
「菖蒲まつりという催しがあって……」
「ああ、知ってるよ。出るの?」
「私が出ても恥をかくだけです」
「でも優勝者は西の宮にご招待って書いてあるよ。僕出ようかなあ、有給が余ってるし」
西の宮……。華代の脳裏に松韻のすがたが浮かんだ。ちょうど、菖蒲まつりの日に彼は西の宮に帰るのだ。
「吉見さまは西の宮に行きたいのですか?」
「なんせ怨念の地だしねえ。おもしろい異能者がいるかもしれないじゃない」
西の宮には、多くの伝説などがあるらしい。たとえば、離島に流された姫の話。彼女はその美しさから見初められて帝と結ばれたが、病で二目と見られない顔になってしまう。あらぬ罪を着せられて島流しにされた彼女は、怨霊となって帝を祟ったそうだ。おどろおどろしい話に、華代は唾を飲んだ。いにしえの都という印象があるが、負の側面もあるのか。吉見はすっかり弁当をたいらげた。
「それで、異能の調子はどう?」
「あ……最近は、特に暴走することもないです」
「よかったね。心が安定してれば異能も安定するからさ」
吉見は朗らかに笑って、華代の肩をぽんと叩いた。あれ以来、街に出かけるときは必ず志保がついてきてくれる。神野家での暮らしは穏やかで、何も問題がない。なのになぜか胸がざわついている。沙代の存在が、華代を不安にさせるのだ。じめついた季節も、心が沈むのに拍車をかけていた。研究室を出ると、政次がやってきた。彼の背後にはぴったりと沙代が寄り添っている。政次は華代に近づいてきて、どうかしたか、と尋ねてくる。華代はとっさに、ふろしきを背後に隠す。
「いえ、近くに来たので少し寄ってみただけです」
「そうか。気をつけて帰れ」
政次は華代の肩に触れて去っていった。彼のすがたが見えなくなると、沙代がさっさと歩き出した。華代は彼女から遅れて歩き出す。門を出ると、沙代がくるりと振り向いた。
「ちょっと話せる?」
彼女は軍部の近くにあるカフェに華代を連れて行った。容姿のすぐれた女給たちに混じっても、沙代は目立っている。隣に座っている男性客は、新聞の隙間からこちらを伺っていた。見られることに慣れている沙代は品書きをめくって、紅茶を注文する。華代が何も注文せずにいると、これみよがしなため息をもらす。
「ねえ、カフェに入ったらなにか頼むのが常識だと思うのだけど?」
「……お金がないので」
「あら、あなた政次さまにお金をもらっていないの?」
沙代は馬鹿にした表情でこちらを見た。大事な妻に財布を預けないなんてねえ。その声には、優越感が滲んでいた。華代は机の下でぐっと拳を握りしめた。違う。政次は必要があれば使えと財布を手渡してくれている。受け取ったときは、そのずっしりとした重さに驚いたものだ。財布自体も皮でできた高級品に見えた。落としたりしたら怖いから、ほとんど持ち歩いていないだけだ。硬い表情の華代を見て、沙代は蔑んだ目を向けてきた。
「仕方ないわね。私がおごってあげる。コーヒーでいい?」
「用件は、なに」
注文を取った女給が去っていくと、沙代はこちらに身を乗り出した。同性ですら惑わすような、甘い香のかおりが漂ってくる。長いまつげに縁取られた瞳に、華代が映っている。その瞳が細められ、形のいい唇が開いた。
「単刀直入に言うわ。政次さまを私に譲って」
「……え?」
カフェの喧騒が遠のいていく。一体何を言われたのかわからなかった。沙代は運ばれてきた紅茶を手にし、一口飲んだ。彼女は眉をひそめて、女給を呼んだ。
「冷めているじゃない。淹れなおして」
「は、はい。申し訳ありません」
女給は気の毒なことに、泣きそうになっている。女給が去っていくと、沙代は話を再開する。
「そもそも、あなたのせいで婚約破棄をしたのよ。損害を補填するのは当然じゃないの?」
「政次さまは物じゃないわ。譲るだなんて」
震える声で反論すると、沙代が机の下で足を蹴りつけてきた。華代は痛みにうめき声をあげる。沙代は周囲に聞こえない程度の声で囁いてくる。
「運よく結婚できたからって、調子に乗っているんじゃないの? あなたと私、まともな男がどっちを選ぶと思うの?」
「……あなたならいくらでも相手がいるでしょう。どうして、政次さまを」
「決まっているじゃないの。国主になる可能性があるからよ」
それだけの理由で、彼女は政次を手に入れようとしている。彼の意思など無視して。――いや、沙代にとって、他人の心などどうでもいいのだ。欲しいものは必ず手に入れるのだから。昔、近所の子供が沙代に千代紙を自慢した。西の宮で手に入れた、貴重な品だと。沙代はそれを渡すよう迫ったが、その子は拒否した。その夜、その子の家が火事にあったのだ。その後、華代は沙代が珍しい柄の千代紙を持っているのを見た。誰かに知らせるべきだ、とわかっていたが怖くて言えなかった。なんの慰めにもならないのはわかっていたが、戸口に朝顔を置いておいた。火事になった長屋は、いつのまにかカラになっていた。
華代の額に脂汗が滲んだ。沙代の邪魔をしたら、彼女は何をするかわからない。
沙代は紅茶が運ばれてくる前に、伝票を手に席を立った。チリンチリン、と虚しく響く音が鼓膜に響いた。女給がやってきて、お連れ様はどうされましたか、と尋ねてくる。華代は無理に笑顔を見せた。
「ごめんなさい。急用みたいで。私が飲みます」
華代は紅茶を飲みながら、じんじんと痛む足を見下ろした。帝都にいる限り……きっと沙代からは逃げられない。やっと安心できる場所を見つけたのに。帰宅すると、志保が玄関に出てきて迎えてくれた。志保に何かされたらと思うとぞっとする。
「おかえりなさい、華代さま」
「ただいま、志保」
「お弁当は渡せましたか?」
華代は笑顔で頷いた。弁当を渡せなかったことも、志保に会ったことも言わなかった。これ以上彼女に心配をかけたくない。部屋に入った華代は、踏まれた箇所をそっと撫でた。かすかに痛みが走る。そこに、湿布を貼って横になった。志保に痛めつけられるのなんて、大したことではない。怖いのは、周りの人に害を加えられることだ。
ベッド脇には、庭で摘んだ紫陽花が飾られている。紫陽花には、あまりいい花言葉はない。根に毒があるからだろうか。植物が毒を持つのは、自分を守るためだ。花自体に罪はないのだ。沙代もなにかから自分を守ろうとしているのだろうか。とりとめのないことを考えながら、うとうとと瞳を閉じた。
意識が遠のいて、視界が徐々に暗くなっていく。これは夢の中だ――。最近、ぐっすり眠れるせいなのかよく夢を見る。ふいに、雨音とは違う音が聞こえた。誰かが座敷牢で泣いている。小さな男の子のようだ。――泣かないで。華代はそっとその子を抱きしめた。温かい。その身体が、さらに小さくなる。男の子は、猫のすがたになった。これは……政近さま? どうして政次様が座敷牢に? その時、こんこん、と戸を叩く音で夢が中断された。かちゃりと戸が開いて、政次が入ってくる。
「――華代?」
「あ……政次さま」
華代は慌てて起き上がった。政次は整った顔に、心配そうな表情を浮かべている。
「どこか悪いのか」
「いえ。雨の時期は少しだるいだけです」
足に貼った湿布が見えないように、着物の裾を引っ張る。あれはただの夢なのだろうか。政近が座敷牢に閉じ込められる理由などないはず。政次は腕を組んで戸にもたれた。彼が近づいてこないことにほっとする。こちらに来たら、湿布の匂いに気づかれてしまうかもしれない。
「おまえの妹に、茶会に呼ばれたんだが」
「沙代に?」
「ついでにおまえの両親に結婚の報告をしたらどうかと。どうする。行くか」
「私は、結構です。政次さまが行きたければ行ってください」
つい硬い声で返してしまう。本当は万津家に行ってほしくなどなかった。だが、政次の意思を止めることなど華代にはできない。政次はじっとこちらを見たあと、何も言わずに部屋を出ていった。あんな言い方をするべきじゃなかった。政次は華代の家の事情に気を使ってくれたのに。ため息を漏らすと、階下から奇声が聞こえてきた。ぎょっとして窓を開けると、志保が庭で箒を振り回していた。何事かと思って階下へと向かう。どうしたの、と声をかけると、志保は鬼の形相で振り向いた。
「不審な男が庭にいたのですっ」
「えっ」
それなら、政次を呼んだほうがいいのではないか。踵を返そうとしたら、植え込みからひょこり、と奇妙な色の頭が見えた。華代はとっさに、志保を後ろにかくす。いざとなったら、異能の力で――。しかし、すがたを現した男は顔なじみだった。華代はぽかんとして、眼の前の男を見た。
「吉見、さま……?」
「やあ、こんばんは」
吉見は白衣や髪に葉っぱをつけてニコニコ笑っている。どうしてこの人がここにいるのだろう。志保は警戒心を解かずにささやきかけてくる。
「華代さま、お知り合いですか」
「吉見さまです。政次さまの同僚の」
「何をしてるんだ、吉見」
騒ぎを聞きつけたのだろうか、不機嫌そうな政次がやってきた。吉見はそんな政次の脇をすり抜けた。ぱたぱたと葉っぱをはらって、「おじゃましまーす」と言いながら屋敷に上がり込む。政次はおい、と声をかけて吉見を追った。吉見はいい匂いだなあと言いながら、厨の方へと向かう。食事の支度をする女中たちは、見知らぬ男を見て困惑していた。政次は吉見の着物の襟を引っ張って厨から連れ出した。政次の部屋に連れて行かれた吉見は、物珍しげに室内を見渡している。
「へー、これが政次くんの部屋? 予想通り面白みがないね!」
「うるさい。何をしに来たんだ?」
「ご飯を食べに来たんだよ。お嫁ちゃんのお弁当がすごく美味しかったし」
政次は不可解そうな眼差しをこちらに向けてきた。華代は思わず目をそらす。吉見は二人の間に流れる空気に構わず、まるで我が家のように寝転んで本を読んでいる。政次は怒っても無駄だと悟ったのか、諦めの表情を浮かべていた。夕飯を運んできた志保は、食事をがっつく吉見を見てぽかんとしている。彼はあっというまに飯をたいらげ、モゴモゴ言いながら茶碗を差し出してくる。華代はおかわりをよそいながら、吉見に尋ねる。
「本当にお夕飯を食べたかっただけなのですか?」
「あー、あと化粧を教えてほしい」
「……は?」
政次は箸をあやつる手を止めて、吉見を冷たい目で見た。
「ほら、菖蒲まつりが明日じゃないか。僕も参加するからさ」
「菖蒲まつりは「菖蒲娘」を選ぶ催しだぞ」
「別に男が参加しちゃいけないとは書いてないじゃない」
もはや会話をする気が失せたらしく、政次はさっさと食事を終えて風呂に立った。吉見は満足したのか、腹をさすりながらふうと息を吐いている。
「あー、お腹いっぱい」
「そりゃそうでしょう、3杯も食べたのだから」
志保がぼそっとつぶやいた。彼女が客人にこんな態度を取るのは珍しい。腹一杯になって眠くなったのか、吉見は横になって寝息を立て始めた。志保はとんでもない人ですね、と言って吉見を見下ろしている。華代は苦笑して、彼の身体に毛布をかけてやった。ふと、畳が軋む感触がした。ここだけ浮いているような気がする。湿気でたわんだのだろうか……。畳を持ち上げようとしていたら、風呂からあがった政次がやってきた。彼はいびきをかいている吉見を見て、呆れた表情を浮かべた。
「なんで寝てるんだ、こいつは」
「面白い方ですね」
「はたで見てるぶんにはな」
迷惑そうな口調だが、嫌ってはいないようだ。政次は華代の横に腰をおろし、ちらりと視線を送ってきた。
「……なんでこいつが、おまえの弁当を食ったんだ」
「あの、政次さまのお昼にと思って作ったのですが、あまりに空腹のようだったので」
「意地汚いやつだな」
「先程は、ごめんなさい。政次様は私のために言ってくださったのに」
政次はうつむいた華代の手に触れた。顔をあげると、視線がかち合う。
「おまえは万津家にいい思い出がないのだろう」
「それでも、挨拶ぐらいはするべきなのかもしれません」
「無理をするな。気になるなら手紙でも書けばいい」
視線を感じた華代は、横を見た。吉見がじーっとこちらを見つめている。彼はにこにこと笑みを浮かべた。
「あ、僕には構わずに続きをどうぞ」
「……さっさと帰れ」
部屋から追い出された吉見は、縁側でぶらぶらと足を揺らしていた。
「政次くんってば照れなくてもいいのにねえ」
同意を求められた華代は曖昧な笑みを浮かべる。政次にあそこまで無遠慮にできるのは、この人だけなのかもしれない。庭は闇に沈んでいて、かすかに雨音が聞こえてくる。華代は化粧道具を持ってきて、吉見に手ほどきをした。化粧道具は、塗りの箱に入れられている。これはいつだったか、政近が買ってきたものだ。あまりに高価な品なので、使わずにとっておいた。まさか、こんなところで役に立つとは思わなかったが。彼は不思議そうに化粧用の筆を眺めている。
「ずいぶんたくさん筆があるんだねえ」
「私もあまり、お化粧に詳しくはないのですが」
「女は化ける、って言うよね」
彼はそう言って、華代の顔を覗き込んだ。
「草かんむりに化けるで花。お嫁ちゃんっぽくない?」
「そ、うですか?」
「うん。お嫁ちゃんも菖蒲まつりに出ようよ。きっと楽しいよ」
吉見は自由な人だ、と華代は思った。彼はきっと誰に何を言われても、自分の好きなように振る舞うのだろう。そんな吉見が、どこか羨ましく思えた。
「着物はどうされるんですか?」
「うーん、どうしようかな」
呉服屋は沙代の付き添いで何度か行ったことがある。だが、男性用の着物があるかどうかわからない。とりあえず、店名を教えておいた。吉見を見送ったあと、華代は、ある場所に向かった。ろうそくの灯りを手に、階段を下っていく。華代は、座敷牢の前に立っていた。ろうそくの灯が暗い壁を照らして、ゆらゆらと揺れる。火事があって以来、ここは封鎖されている。華代は、ごくりと唾を飲んだ。分厚い扉に手を伸ばすと、じゃらりと鎖が触れた。鍵がかかっている……。華代はふう、と息を吐いて、その場から立ち去った。どうしてもあの夢が気になってしまう。なぜ政近は、あそこにいたのだろう。何か伝えたいことがあるから、夢に出てきたのか。地下から出た華代は、庭を歩いていた。突然声をかけられる。
「帰ったのか、吉見は」
振り向くと、政次がこちらにやってくるところだった。華代が頷くと、彼はため息をついた。
「おまえは、何をしてたんだ?」
「政近さまの夢を見たんです」
華代は、懐から鈴を取り出して揺らす。政次はじっと華代を見た。ついてこい、と言って、華代をいざなって歩き出す。たどり着いたのは、大きな蔵だった。神野家に住んでしばらく経つが、まだ知らない場所があったのだと華代は驚く。政次は蔵の鍵を取り出し、重い扉を開いた。埃っぽい空気に満ちている。華代は、政次に続いて蔵に足を踏み入れる。蔵の中には貴重品らしきものや、書物が置かれていた。
「吉見が、兄の呪いのことを話してただろう」
「ええ……」
「ここに何か手がかりがあるかもしれない。気になるなら、好きな時に入って調べろ」
彼は、華代に蔵の鍵を差し出した。華代は驚いて、政次を見上げる。
「いいのですか? 貴重な品がたくさんあるのでは」
「おまえは花にしか興味がないだろう」
確かに、骨董品の価値などわからない。何より、政次が華代を信用してくれているということが嬉しかった。ただし、と政次が言い添える。
「今度から、吉見が物欲しそうでも弁当をやらなくていい。俺に渡せ」
華代はきょとんとしたあと、くすりと笑って頷いた。
翌朝、華代は文机に向かっていた。ペンをインクにつけて、文字を書きはじめる。
――拝啓、神野家の皆様。このたびは茶会にお誘いいただき、ありがとうございます。しかし、私はすでに神野家の人間です。万津家に戻ることは、金輪際ないとお考えください。政次さまも、そちらと関わることはありません。遠くからご家族の幸せを願っております。もうお会いすることもないと思いますが、お元気で。
手紙を書き終えた華代は、インクをつけたペンを置いた。乾くのを待って封をする。志保に託すこともできたが、区切りをつけるために自分で出しに行こうと思った。屋敷を出て、角を曲がったところにある赤いポストに手紙を入れる。ことん、と軽い音がした。ああ、なんだか生まれ変わったようだ。華代は清々しい気分で踵を返した。
