座敷牢の花嫁

翌日、降り続いた雨が嘘のように、空はすっかり晴れ渡っていた。よそ行きの着物を着た華代は不安に思って志保に尋ねる。
「変ではない?」
「可愛らしいですよ」
 志保はにこにこと笑っている。華代は自分の格好を見下ろした。街歩きしやすいよう、小花の散った小袖姿に着替えていた。一緒に街を歩く時、沙代にはよくみすぼらしいと笑われていた。――羨ましいでしょう? 彼女はそう言って、新しい着物を見せびらかしてきた。華代には着飾りたいという願望はない。だけど、変な格好をしていたら政次に恥をかかせてしまう。政次を待たせてしまっているのがわかっていたので、急いで玄関に向かう。彼は珍しく和装を着ていた。そのすがたが政近を思い出させて、動揺してしまう。――華代。自分の名前を呼んで笑う政近の笑顔が、脳裏に蘇る。同時に、以前見た夢の記憶も。
――僕を忘れないでください。
 こちらを向いた政次が、どうした、と尋ねてくる。華代ははっとして、彼に駆け寄った。

「おまたせしました」
「待っていない。行こう」
 政次は華代の手を引いて歩き出した。休みなので、車は使わないようだった。水野さんも今頃休みを堪能している頃だろうか。政次と街を歩くと、視線が集まってくる。政次の横顔に見惚れていた女の子が、華代を見て眉をひそめた。やはり、自分と彼とでは釣り合っていないのだ。視線を下に向けると、政次が尋ねてきた。
「どこか行きたい場所はあるか」
 せっかくの休みなのだから、政次が好きな場所に行きたいと思っていた。特にない、と答えたら、彼は「無闇に歩くことになるが」と言った。それは困る。政次と違って、一日中歩き回っても平気な体力があるわけではない。ふと、親しげな男女が甘味屋に入っていくのが見えた。華代はとっさに彼らを視線で追う。
「甘味屋に行きたいです」
「わかった」
 甘味屋に入ると、店員が寄ってきた。真剣に品書きを見ている華代を、対面に腰掛けた政次が眺めている。なんでも頼めばいいと言われたが、大食いだとは思われたくない。迷った末に、ぜんざいを注文することにした。運ばれてきた品を見て、華代は瞳を輝かせる。寒天にかかった黒蜜の艶をうっとり眺めていると、政次がそんなに好きなのかと尋ねてくる。

「はい、甘味屋に行って、好きなものを注文するのが夢でした」
「……どういう生活をしてたんだ」
呆れたような声に、華代は言葉をつまらせた。うつむいてしまった華代を見て、政次は気まずそうに言葉を紡ぐ。
「すまない、言いたくないのなら」
「……いえ。使用人をしていたので、あまり出かけられなくて」
 沙代が洒落た服を着て友人たちと出かけるのを、羨ましく思っていた。学園生活を楽しそうに語るのを聞いて、女学園に通う自分を空想したりしていた。政次はじっと華代の言葉を聞いていた。
「早く食え」
「あ、はい」

 華代は慌ててさじを取った。つまらない話を聞かせてしまった。政次はお茶を頼んだだけで、外に視線を向けていた。あまり甘いものが好きではないと言っていたし、ここには来たくなかったのかもしれない。隣の席に座った女性客は、ちらちらと政次を見ている。政次は全く気づいている様子がなかった。政次さまは、人の目を気にしないのだ。自分もそうなりたい、と華代は思った。
 甘味屋をあとにした二人は、特に目的もなく街を歩いた。人が多いので、はぐれないように政次の袖につかまる。政次は、よどみない足取りで歩いていった。華代は店先に飾られたかんざしに視線を奪われた。コスモスの意匠が使われている。華代の視線を追った政次が尋ねてきた。
「ほしいのか」
「いえ、きれいだなと思っただけで」

 政次は店主に声をかけて、かんざしを手に取った。それを華代の髪にさす。店主はいそいそと鏡を持ってきた。コスモスの淡い桃色が黒髪に映えている。なんて素敵なのだろう。頭を動かしたときに、ちらりと見えた値札にぎょっとした。華代が思っていた価格の5倍はする。店主は商売の機会を失うまいと、華代を持ち上げてくる。
「似合うよ、お嬢ちゃん。旦那に買ってもらいなよ」
「いえ、大丈夫です。行きましょう、政次さま」
慌ててかんざしを置いて、足早に歩き出す。振り向いたら、政次がいなかった。焦った華代は、戻ろうとして正面から来た男にぶつかってしまった。慌ててごめんなさい、と頭を下げたが、男は舌打ちしてすごんでくる。
「おい、どこ見て歩いてるんだ」
「ごめんなさい」

顔をあげた華代は、ハッとした。こちらを見下ろしていたのは、沙代の元婚約者の井原英臣だった。彼の腕には、あだっぽい雰囲気の女性が絡みついている。沙代と婚約破棄したばかりだというのに、もう違う女性を連れているのか。そう思ったら嫌な気分がこみ上げた。会釈して通り過ぎようとすると、英臣に腕を掴まれた。ぎりっと音がするほど力を込められて、華代は顔をしかめる。英臣は路地裏に華代を引きずり込んだ。逃れようともがく華代を押さえつける。
「おまえのせいで、俺がどんな目に遭ったかわかっているのか。三日も入院したんだ」
「ごめんなさい。許してください」
 頭を下げたら、強い力で髪を掴まれ、ビンタされた。眼の前にチカチカと火花が散る。
 英臣は地面に倒れた華代を足蹴にしてくる。連れの女がきゃあっと叫んだのが聞こえた。英臣は次々に暴行を加えた。華代は歯を食いしばって、必死に痛みに耐える。これは自業自得なのだ。英臣を傷つけたのは事実なのだから、彼の気が済むまで待つしかない。そのとき、いきなり暴行がやんだ。恐る恐る顔をあげた華代の目に、政次が飛び込んできた。彼は怒りに染まった表情で、英臣の腕を掴んでいた。そのまま彼を地面に引き倒し、華代を抱き上げる。

「まさつぐ、さま」
「話すな」
 政次は低い声で言って歩き出した。背後で英臣がなにか喚いているが、政次は足を止めなかった。
 辻馬車を拾って乗り込んでからも、政次は何も話さなかった。華代は、いざこざの合間に片方なくなった草履を見下ろしてうつむく。ただ出かけるだけで、面倒事を起こして呆れられているのだ。どうして私はこうなのだろう。――あんたは呪われてるのよ。沙代に告げられた言葉が蘇ってくる。なんせ自分の母親を殺したんだからね。神野家にたどり着くと、血相を変えた志保が走ってきた。
「華代さまっ、どうなさったのですか」
「チンピラに殴られた。冷やすものを持ってきてくれ」

鋭い声で指示された志保は慌てて厨に向かった。政次は華代を部屋に連れていき、寝台に座らせた。志保が氷水を持ってやってくる。政次はたらいにつけたハンカチを、そっと頬に当てる。痛みが走って、顔をしかめる。政次は心配そうな口調で、大丈夫か、と尋ねてくる。華代は頷いて、ハンカチを受け取った。真っ白なハンカチにはかすかに血が滲んでいる。殴られた拍子に唇が切れたようだ。
「ごめんなさい、ハンカチが」
「そんなことはいい」
 政次さま、怒っている。殴られた頬はじんじんと熱を持っていた。きっとあとで腫れるだろう。しばらく、外には出られない。憂鬱な気分でいたら、政次が口を開いた。
「――あの男、知り合いなのか?」
「……はい。妹の元婚約者です」
「なぜおまえに暴行する」
「私が悪いんです」

 華代は家を追い出された理由を話した。政次は黙ってこちらの話を聞いていた。英臣に襲われかけたくだりになると、ぴくりと眉を動かす。話を終えた華代は、自嘲気味に笑みを浮かべる。
「沙代の言う通り、私は呪われているんでしょうね」
「……なぜそうなるんだ。おまえは自分の身を守っただけだろう」
「だけど、普通の人間は相手を殺しかけたりはしません」
 華代は自分の手のひらを見つめた。あのときは、勝手に力が発動したと思っていた。だけど英臣を痛めつけたのは、華代が望んでいたことなのかもしれない。本心では、沙代の結婚が妬ましかったのかもしれない。そんな自分が何よりも恐ろしかった。政次は華代の肩に触れて、余計なことは考えずに休め、と言った。思った通り、殴られた顔は腫れた。震える指で鏡面をなぞる。なんて醜いのだろう。政次にこんな顔を見せたくなくて、華代は部屋にこもりがちになった。