座敷牢の花嫁

 華代ははっと目を開いた。身体を起こして、汗の滲んでいる首筋を撫でる。窓を開けると、湿った空気が吹き込んでいる。霧のような雨が降っていた。この天気では畑にも行けない。朝刊によると明日も雨だという。せっかくの連休が台無しだ。朝風呂を終えた華代は、厨で朝食の用意をしている志保に近づいていった。彼女は明るい表情で、おはようございます、と挨拶してくる。志保の笑顔を見ると、暗い気持ちが和らいだ。雨のせいで少し空気が冷えているが、厨の中は煮炊きの湯気が漂っていて温かい。雨風をしのげる家があるというのは、なんとありがたいのだろう。華代は野菜を切るのを手伝いながら、志保に声をかける。
「ごめんなさい、昨日は先に帰ってしまって」
「いえ。それにしても、驚きました」
 何がかと尋ねると、政次さまです、と志保は言った。
「水野さまに聞いたのです。あの方が仕事の合間に遊びに行くなんて驚天動地なんですって」
「私がわがままを言ったからなの」
「面白いので、どんどんわがままを言ったらどうですか?」
 そんなこと、と返しつつ、華代は政次と街を歩いてみたいという願望があった。朝市で花を買ったり、団子屋で甘味を食べたりしたい。そんな空想をしていると、政次がやってきた。彼は寝ていなくていいのか、と声をかけてきた。華代は不思議に思って首をかしげる。

「雨の日は苦手なんだろう」
「大丈夫です」
 一緒に朝食を食べて、仕事に行く彼を見送る。華代は車に乗り込む政次に傘をさしかけた。
「行ってらっしゃいませ」
「ああ」
 華代は車が角を曲がるのを見送った。外に行けないので、邪気祓いの花玉を作ることにした。神国には花玉を作って鬼門に置いておくと、そこから悪いものが出ていくという謂れがある。梅雨の時期は空気が滞って、ただでさえ良くないものが溜まると言われている。沙代は華道が嫌いだったので、花嫁修業の花玉は華代が代わりに作っていた。華代は花鋏を手に庭に降りる。傘を差しながら作業したが、少しだけ肩が濡れた。紫陽花や菖蒲を切って、花籠に入れていく。――りん。ふと、鈴の音が聞こえた気がして顔を上げる。しかし、目前には雨に濡れた庭しかない。気のせいかと思いつつ、花を摘んだ。床の間に花玉を飾っていたら、志保がやってきた。

「わあ、きれいですね」
「ありがとう」
「華代さまはなんでもおできになりますね。お料理も上手ですし」
 そんなことを言われたのは初めてだった。沙代に押し付けられてやったことが、知らないうちに身になっているのだ。
 志保が買い物に行くというので、ついていくことにした。雨のせいか街には人影がなく、ぬかるんだ道は歩きにくい。じっとりとした空気は体力を奪っていく。やっぱり雨は好きではない。はあ、と息を吐いていると、志保が心配そうな眼差しを向けてきた。

「どうされました? 華代さま」
「ううん、平気。ちょっと疲れただけ」
「ここで休んでいてください。私、ひとっ走りしてきます」

 志保は華代に傘を渡して、止める間もなく雨の中走って行った。――なんていい子なんだろう。家族にすら見放された私に優しくしてくれる。政次さまも、わざわざ華代を妻にする必要などなかったはず。もっともっと、あの人たちに感謝しなくてはいけない。目を閉じて傘に弾かれる雨音を聞いていたら、するすると蛇が這ってきた。蛇は何かを咥えている。これは……芍薬の花。花を受け取ると、やってきたのと同じように音もなく去って行った。花には手紙がくくりつけられている。はらりと開くと、西の宮風の達筆で「政近の件について話したい。「海老名屋(えびなや)」で待つ」と書かれている。華代はその書状をそっと袖に入れた。


「ちょっと寄るところがあるから」
 戻ってきた志保に傘を返すと、彼女は不思議そうな表情を浮かべた。神野家に来て以来、華代が私用で出かけたことはない。実家とは絶縁状態だし、親しい友人もいないのだ。ついていこうかと言われたが、かぶりを振った。
 海老名屋は花街にほど近いところにあった。華代が宿屋に足を踏み入れると、白粉の匂いがふわりと香った。同時に、花魁らしい女性たちがちらちらと華代に視線を向けてくる。好奇心と、蔑むような目。店を間違えてんじゃないのかい、と囁く声も聞こえてきた。しばらくすると、老人が出てきて、華代を二階へといざなった。階段がかすかに音を立てる。
 彼は奥にある部屋に華代を連れて行った。華代はからり、と襖を開ける。桜と篝火の描かれた美しい屏風があって、橙色の灯りだけがそれを照らしている。屏風の前に腰掛けていた松韻がにこりと笑った。

「こんにちは、華代ちゃん」
「こんにちは……」
 華代は松韻の正面に距離をとって座った。彼には護衛はいないのだろうか。刀も持っていないし、一人で帝都に来たとしたらあまりに無防備な気がした。彼はふっと笑みを浮かべ、緩やかに手のひらを動かす。まるで篝火に舞う蝶のようだ、と思った。
「そんなとこ座ってないで、もっとそばにおいで」
「ここでもお話はできますから」
「警戒心が強いんやねえ。政次くんにあいつを信用するな、とか言われたん?」

 華代は黙って頷いた。政次は松韻を危険人物だと言っていた。それに、華代自身どこかこの人を怖いと思っていた。にこやかだし人当たりもいいのだが、目の奥が笑っていない気がする。どこからともなく、するすると這ってきた蛇が松韻の腕に絡みついた。松韻は優しく蛇の頭を撫でている。
「西の宮で使っている伝令ですか」
「うん、蛇助いうんや。かわいいやろ?」
「はい」
 そう答えたら、松韻が意外そうな表情を浮かべた。どうかしたかと尋ねたら、彼は肩をすくめた。
「驚いただけや。大抵の女の子は蛇が嫌いやからね」
「庭によく出るので。毒がなければ、特に何もしてきませんし」
 彼はふふ、と笑みを浮かべた。それから、格子戸の向こうに視線を向ける。
「雨って嫌やね。頭が痛なるわ」
「あの……政近さまのことをお話してくださるんですよね」
「うん。僕の贔屓に、蝶野っていう遊女がおるんやけど。彼女があの日、政近を見たって言ってるんや」

 華代ははっと息を飲んだ。
「政近さまが、遊女と……?」
「まあ男やからね。珍しいことやないし、落ち込まんといてよ」
 華代と政近は好きあっていたわけではない。それでも、彼に好いている女性がいたかもしれないと思うと胸が痛くなった。話の続きを聞こうと、松韻に視線を戻す。
「それで、その女性は政近様を殺した人を見たのでしょうか」
「いや。でも連れがいたって言っとった。傘をさしてて見えんかったそうやけど」
 どくん、と心臓が鳴り響く。朝顔に触れた時に見えた、あの傘の柄――。ただし、一緒にいたのが、男か女かもわからないそうだ。その女性に話を聞きたい、と華代は思った。こちらの考えを読み取ったかのように、松韻はのんびりと声をかけてくる。

「来週、西の宮に戻るんや。ついてくるならおいで」
「……政次さまには、その話はなさったんですか」
「いいや? 政次くんが帰ったあとやったし」
 どうして政次に伝えなかったのだろう。彼が兄の死の真相を探っているのを、知っているはずなのに。この人を信用していいのだろうか。思い悩んでいると、図ったように膳を手にした老人が現れた。松韻は盃を手にして、こちらに差し出してくる。
「一杯飲む?」

 華代は断って、その場を後にした。松韻は「似たもの夫婦やねえ」と肩をすくめて、酒をあおった。宿屋を出たら、雨はあがっていた。歩いて帰る途中に、虹が出ているのが見えた。しばらく立ち止まって、それを眺める。子どものころは、空が七色に染まるのを見て不思議に思ったものだ。使用人として働かされるようになってからは、そんな余裕はなかった。帰宅した華代は、飛脚を使って海老名屋に常用している鎮痛剤を届けた。話を聞かせてくれた、せめてものお礼だ。玄関に立って雨に濡れた庭を眺めていると、政次が帰ってきた。傘を受け取っていると、彼が顔を寄せてきたのでぎょっとする。

「ま、政次さま……?」
「白粉の匂いがする」
「そ、そうでしょうか」
 思わず、袖に鼻先を近づける。海老名屋に行ったせいで、匂いがうつったのだろう。政次はそれ以上追求しようとはしなかった。きっと華代のことよりも、仕事のことを考えているのだ。華代は夕飯を食べる政次に話しかけた。
「今日、虹が出ていました」
「ああ、俺も見た」
「本当ですか?」
 違う場所にいたのに、同じものを見ていたと思うと嬉しかった。しかし、政次の表情は冴えなかった。
「どうかなさいましたか」
「俺は虹が好きではない」
「きれいなのに」
「空にあんな色が出るなんて、どこか不気味だ。字も蛇に似ているだろう」

 それはこじつけではないか、と思いつつ、芍薬を咥えていた蛇が頭に浮かんだ。松韻のことを話さなければならない、と思って口を開く。
「あの……」
「明日は用事があるのか」
 突然話題が変わったことに面食らって、華代はかぶりを振る。政次はさらりと言った。
「なら、街へ出るか」
「……はい」
 政次さまと街を歩けるなんて。嬉しくて心が浮き立っていたせいで、松韻のことを言いそびれてしまった。