札幌のライブから数日が経っていた。
ある休日の朝、順子がリビングへ行くと、誠が朝食を食べていた。キッチンには母がいる。
「おはよ」
「はよ」
誠と朝の挨拶を交わす。
順子は白米をよそり、母が用意してくれた目玉焼きをテーブルに並べた。
「ごっそーさん」
入れ替わるように、朝食を食べ終えた誠はリビングを出た。
順子は、そんな誠の背中を目だけで追った。
あの日以降、二人の間によそよそしい空気が流れていることを自覚していた。特に、誠の方が距離を置こうとしている。
本当はもっと話しかけたい。でも、話しかけづらい。
順子は、この変化を苦々しく感じていた。姉らしくしたいのに。誠を可愛がってあげたいのに。
札幌のホテルで感じた、誠の姿や匂いが忘れられない。
もう、誠は昔の誠ではない。あれを前にして、自分も昔のように、姉として振る舞うのが難しい。
「順子」
母に呼びかけられて、順子はゆっくりと顔を上げた。
「あんたたち、喧嘩でもした?」
母は何でもないような顔で質問したが、順子は回答に迷った。
馬鹿正直に答えることはできない。かといって、この状況で何もないと言うのも不自然かもしれない。
だったら、喧嘩だということにしておくのが無難か。
「まあ、うん」
順子は表情を変えずに答えた。いっそ、本当に喧嘩だったらよかったのに。仲直りの方法はいくらでもあると思う。
苛立ちをぶつけるように、順子は目玉焼きの黄身をぐりぐりと潰した。
テレビを見ると、マイカのエリコが出演するという新CMの情報が流れていた。
まったく、誠もいればよかったのに。順子はため息をつこうとして、米粒を気道に吸い込み、ひどく咳き込んでしまった。
「ちょっと大丈夫?」
母が心配の言葉をかけた。
もう、全然大丈夫じゃないよ。順子は親に相談できない悩みを呪った。
*
誠がリビングに行くと、順子はソファに座ってテレビを操作していた。
ちぇ、タイミングが悪い。
スルーして冷蔵庫に向かおうとすると、順子は誠に気が付いた。
「あ……何か見る? 私はもういいよ」
そう言ってリモコンを手渡してきた。
「ん」
誠はそれだけ言って、マイカのライブDVDを再生した。
誠は順子から少し離れて、ソファの端っこに座った。順子は立ち上がらない。そのまま一緒に見るようだ。
マジかよ。嫌だな。
北海道の一件以降、誠は順子に負い目を感じていた。順子にしてみれば、誠は凌辱未遂の加害者であるはずだった。
だから、なんとなく一緒に居づらい。
本当はもっと関わりたいけど、傷つけてしまいそうで怖い。
順子は、誠ほど熱心なマイカファンではないはずだ。そのため、誠にとって順子が一緒にDVDを見ようとするのは意外なことだった。
「ここの振り付け、イケてるよね」
順子は誠に話を振った。
くそ、話しかけてくるなよ。誠はそれを聞き流そうとした。
でもまあ、マイカの話だったら、悪い気はしない。
「……うん、これだろ?」
誠は頭を左右に揺らしながら、右腕をくねくねと振り回す。普段こっそり部屋でやってるから、少しくらいの振りは体にも身についている。
「めっちゃ上手いじゃん」
順子は優しく微笑んだ。誠の心をそっとなぞるような、優しい目。
そんな顔で見ないでくれ。誠は居心地の悪さを感じて、静かに画面を見つめた。
テレビの中では、マイカのエリコが眩しい笑顔で歌い踊っている。
大音量のダンスミュージックが、リビングの奇妙な沈黙をかき消していた。
*
微妙な関係性が二週間ほど続いたころ。
未だに、順子は誠から少し避けられていた。
でも、マイカの話題なら比較的素直に返事をしてくれる。マイカは、相変わらず二人の架け橋だ。
順子はベッドに横たわってスマホを見ていた。
隣の部屋には誠がいる。誠は、今ごろ何をしているだろうか。
壁一枚を隔てた、近くて遠い距離。
SNSをだらだらと眺めていると、思わず手が止まった。
目に飛び込んできたものが信じられず、息を飲む。
それは、マイカの公式アカウントだった。
【重要なお知らせ】
平素よりマイカを応援いただき、誠にありがとうございます。
突然のお知らせとなりますが、マイカは本日をもちまして、すべての活動を終了し、解散することとなりました。
これまで応援してくださった皆さまには、このようなご報告となりましたことを深くお詫び申し上げます。
メンバーおよび関係各所と協議を重ねた結果、今後の活動継続は困難であるとの判断に至りました。
なお、本発表をもちまして、ライブ・イベント出演、新規グッズ販売等を含むすべての活動を終了いたします。
また、ラストライブや解散公演の実施予定はございません。
ファンクラブにつきましても、本日をもってサービスを終了いたします。
突然のお知らせとなりましたことを重ねてお詫び申し上げます。
これまでマイカを応援していただき、本当にありがとうございました。
は?
あまりにも現実味のない文面を、順子は何度も読み返す。
マイカが、解散?
先日、札幌でライブがあったばかりだ。いったい何があったのか。スマホを持つ手が震える。
しかし、順子の一番の心配は、マイカそのものではなかった。
誠。
あの子は、誠は、どうしてる?
順子はメッセージアプリを開くが、指が思うように動かない。
なんとか誠へメッセージを送った。
『あれ見た?』
すると、すぐに既読が付いた。
今、誠もスマホを操作してる。
慌てていたので短文しか送れなかったが、きっとこのニュースのことも目にしていて、なんのことだかわかっているだろう。
しかし、その後何分待っても返事は来なかった。
誠……。
順子は部屋の壁に手を当てた。この壁の向こうには誠がいる。
ショックを受けたことだろう。
返信もできないほどに落ち込んでいるのか。
こんなときこそ姉の出番のはずなのに。
何もできない自分が不甲斐ない。
順子はハッとした。
どうしよう。今度は別の不安がよぎる。
マイカは二人の共通言語だった。それがなくなったら、今後の私たちはどうなってしまうのか。
壁の向こうにいる誠の姿を思い浮かべながら、自分の体温がなくなっていくのを感じる。
そのまま、順子は壁にもたれかかった。
私の可愛い誠。
私は、あなたに、会いたいよ……。
*
あのニュースが出てから二週間ほどが経った。
誠はベッドの上でぼんやりと考え事をしていた。
マイカが、いきなり、解散。
マイカの公式アカウントの告知を見た時は、到底受け入れられなかった。
最初はとにかく理解できず、脳が拒絶してしまっていた。
でも、連日の報道を見て、認めざるを得なくなった。マイカは本当に終わった。
ネットでは、様々な憶測が飛び交っている。メンバーの不祥事だとか、事務所のトラブルだとか。しかし、どれも決め手を欠いており、想像の域を出ない。
復活のための署名活動も活発なようだったが、誠はなんとなく冷めた目で見ていた。外野が騒いだところで、どうにかなる事案じゃないと考えていた。
誠は鼻から深く息を吸った。
脳に新鮮な空気が取り込まれて、少しずつ冷静になってくる。
本当に残念だけれども、もう仕方がない。ないものはないのだ。
数日前まではホットな話題として頻繁に取り上げられていたが、既に世間はマイカへの興味を失いかけている。
でも、自分の中の思い出のマイカが消えるわけではない。キラキラしたマイカの記憶を、胸の中でなくさないようにしっかりと持てばいい。
それにしても、はあ。
誠はため息をついた。家族のことを考えて、頭を抱えた。
解散のショックから、親にはそっけない態度をとってしまった。
でも、いつまでもそんな子どもっぽいことを続けてもしょうがない。これからは少しずつ、態度を軟化させていけばいいだろう。
問題は、姉ちゃんだ。
誠は頭を抱え、胎児のような格好でうずくまる。
姉ちゃんとは冷戦状態が続いている。厳密には、俺が一方的に壁を立てているだけかもしれない。
でも、マイカは、そんな壁に一時的な風穴を開けてくれる。
マイカの話題になると、自分の心の殻が取れ、姉ちゃんと自然に会話してよいという免罪符を得た気になる。
しかし、それもなくなった。
もう、姉ちゃんとどう接してよいかわからない。
スマホに来ていたメッセージも放置したままだし、家の中でもつい避けてしまう。
どうしよう。
誠は心にぽっかりと穴が空いた気分だった。
コンコン、と部屋のドアがノックされた。
「誠」
順子の声がした。誠はベッドから上半身を起こして身構える。
「何」
「ちょっと、入っていい?」
心配して来たのか?
警戒心を高めるが、断るのもおかしい気がする。
「……いいよ」
少し迷ってから返事をした。
がちゃり、とドアが開き、順子が入ってくる。
順子はやや不安げな表情をしていた。ただ、心なしか顔の血色がよいようにも見える。
そのまま、順子は何も言わずに誠のすぐ横に腰掛けた。
……近いな。
ふわり、と甘い匂いが漂ってきた気がした。
誠は胸の中がぞわぞわしてきて、つい顔を背けた。
その視線の先には、マイカのアクリルスタンドが目に入った。
それに気が付いたのか、順子は優しく声をかけてきた。
「辛かったよね、マイカのこと」
その優しい声に、胸がずきんと痛む。
解散の事実は受け入れたものの、その傷はまだ癒えていない。
「……うん」
すると、順子は誠の肩をふわりと抱いた。
突然の出来事に、誠は固まってしまった。自分の心臓の音が部屋中に響いた気がした。
順子の体温と柔らかさが、肩越しに伝わってくる。
「大丈夫だよ、誠には、お姉ちゃんがいるからね」
そう耳元で囁かれて、誠は脳が麻痺した。
*
体が熱い。
誠の心臓の音が聞こえる気がする。
順子は、自分の腕の中でこわばる誠を感じながら、そう考えた。
そして、自分の心臓も跳ね回っていて、今にも飛び出してしまいそうだった。
目の前には、喉仏が出た誠の首すじが見える。その男の首からは、猛々しい匂いを感じた気がした。
ああ。
姉として。姉として誠を慰めるための行動だった。
順子は自分にそう言い聞かせながら、一方で言いようのない期待を感じてもいた。
順子の抱擁は、沈黙の中で続いた。聞こえるのは、心臓の高鳴りだけ。
その沈黙を破ったのは誠の方だった。
「……お姉ちゃん」
そう言うと、誠は肩に回された順子の腕をぎゅっと掴んでほどき、順子の方を向いた。
順子は腕が震えた。腕を誠に掴まれたまま、二人の目が合う。
誠からはねっとりとした視線が向けられている。順子はごくりと唾を飲み込んだ。
誠はそっと目を閉じた。それに釣られて、順子も自分の目を閉じた。
誠の熱い呼吸が聞こえる。
順子は思わず肩に力を入れた。
ああ、誠。
すると、誠はふっと手の力を抜いて、ゆっくりと立ち上がった。ベッドのスプリングの軋む音が聞こえる。
順子は驚いて目を開けた。
「……ありがとう」
そう言って歩き出し、勉強机の椅子に座った。
「もう、大丈夫だから」
誠は順子の方を見ないまま言った。
その背中からは、きっぱりとした強い意志が感じられた。
誠の様子を見て、順子は息が詰まった。
それと同時に、ほっとする気持ちもあった。
自分の中の矛盾に、頭がくらくらする。
ダメだ。私も、ちゃんとしないと。
順子は力を奮い立たせた。
「……そっか、よかった」
そう言うと立ち上がり、部屋のドアへ向かう。
「じゃあ、またね」
順子は誠の部屋を出て、ドアを閉めた。
そして、ゆっくりとした足取りで、自分の部屋に戻った。
その途端に、寂しさが全身を駆け抜けた。
視界が歪む。
いつの間にか、目には涙が溢れていた。
順子は、隣の部屋に聞こえないように、声を出さずに泣き続けた。
もう、二人を繋ぐ眩しい音楽はどこにも流れていない。
二人は『普通のきょうだい』に戻ることができないまま、日常に帰らないといけない。
部屋の壁を隔てて、一生消えない熱を胸に押し込めたまま。
***
あの日から、半年ほどが経っていた。
世間は既にマイカのことを忘れ、マイカなどいなかったかのように回っている。
朝起きた順子は、リビングに入るなり、母親から不思議そうに声をかけられた。
「あれ、順子。遅くない? 大丈夫?」
「うん、平気。一限目の講義は出ないことにしたから」
順子の後ろから誠が顔を出し、母へ出発の挨拶をした。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、気を付けてね」
誠は靴を履き終えると、顔を上げた。
二人の目が、ほんの一瞬だけ絡み合う。
すぐに逸らされた視線。
玄関のドアが閉まる音が響いた。
順子は、閉まったドアをしばらく見つめていた。
私たちは、たった二人のきょうだい。
周りから見れば、きっと何の変哲もない、普通のきょうだい。
でも、私は忘れていない。
あの日の手の温度を。
札幌の夜のことを。
そして、あの部屋で聞いた心臓の音を。
誠はもう、昔の可愛い弟ではない。
それでも、私は——
そう、いつまでも。
ある休日の朝、順子がリビングへ行くと、誠が朝食を食べていた。キッチンには母がいる。
「おはよ」
「はよ」
誠と朝の挨拶を交わす。
順子は白米をよそり、母が用意してくれた目玉焼きをテーブルに並べた。
「ごっそーさん」
入れ替わるように、朝食を食べ終えた誠はリビングを出た。
順子は、そんな誠の背中を目だけで追った。
あの日以降、二人の間によそよそしい空気が流れていることを自覚していた。特に、誠の方が距離を置こうとしている。
本当はもっと話しかけたい。でも、話しかけづらい。
順子は、この変化を苦々しく感じていた。姉らしくしたいのに。誠を可愛がってあげたいのに。
札幌のホテルで感じた、誠の姿や匂いが忘れられない。
もう、誠は昔の誠ではない。あれを前にして、自分も昔のように、姉として振る舞うのが難しい。
「順子」
母に呼びかけられて、順子はゆっくりと顔を上げた。
「あんたたち、喧嘩でもした?」
母は何でもないような顔で質問したが、順子は回答に迷った。
馬鹿正直に答えることはできない。かといって、この状況で何もないと言うのも不自然かもしれない。
だったら、喧嘩だということにしておくのが無難か。
「まあ、うん」
順子は表情を変えずに答えた。いっそ、本当に喧嘩だったらよかったのに。仲直りの方法はいくらでもあると思う。
苛立ちをぶつけるように、順子は目玉焼きの黄身をぐりぐりと潰した。
テレビを見ると、マイカのエリコが出演するという新CMの情報が流れていた。
まったく、誠もいればよかったのに。順子はため息をつこうとして、米粒を気道に吸い込み、ひどく咳き込んでしまった。
「ちょっと大丈夫?」
母が心配の言葉をかけた。
もう、全然大丈夫じゃないよ。順子は親に相談できない悩みを呪った。
*
誠がリビングに行くと、順子はソファに座ってテレビを操作していた。
ちぇ、タイミングが悪い。
スルーして冷蔵庫に向かおうとすると、順子は誠に気が付いた。
「あ……何か見る? 私はもういいよ」
そう言ってリモコンを手渡してきた。
「ん」
誠はそれだけ言って、マイカのライブDVDを再生した。
誠は順子から少し離れて、ソファの端っこに座った。順子は立ち上がらない。そのまま一緒に見るようだ。
マジかよ。嫌だな。
北海道の一件以降、誠は順子に負い目を感じていた。順子にしてみれば、誠は凌辱未遂の加害者であるはずだった。
だから、なんとなく一緒に居づらい。
本当はもっと関わりたいけど、傷つけてしまいそうで怖い。
順子は、誠ほど熱心なマイカファンではないはずだ。そのため、誠にとって順子が一緒にDVDを見ようとするのは意外なことだった。
「ここの振り付け、イケてるよね」
順子は誠に話を振った。
くそ、話しかけてくるなよ。誠はそれを聞き流そうとした。
でもまあ、マイカの話だったら、悪い気はしない。
「……うん、これだろ?」
誠は頭を左右に揺らしながら、右腕をくねくねと振り回す。普段こっそり部屋でやってるから、少しくらいの振りは体にも身についている。
「めっちゃ上手いじゃん」
順子は優しく微笑んだ。誠の心をそっとなぞるような、優しい目。
そんな顔で見ないでくれ。誠は居心地の悪さを感じて、静かに画面を見つめた。
テレビの中では、マイカのエリコが眩しい笑顔で歌い踊っている。
大音量のダンスミュージックが、リビングの奇妙な沈黙をかき消していた。
*
微妙な関係性が二週間ほど続いたころ。
未だに、順子は誠から少し避けられていた。
でも、マイカの話題なら比較的素直に返事をしてくれる。マイカは、相変わらず二人の架け橋だ。
順子はベッドに横たわってスマホを見ていた。
隣の部屋には誠がいる。誠は、今ごろ何をしているだろうか。
壁一枚を隔てた、近くて遠い距離。
SNSをだらだらと眺めていると、思わず手が止まった。
目に飛び込んできたものが信じられず、息を飲む。
それは、マイカの公式アカウントだった。
【重要なお知らせ】
平素よりマイカを応援いただき、誠にありがとうございます。
突然のお知らせとなりますが、マイカは本日をもちまして、すべての活動を終了し、解散することとなりました。
これまで応援してくださった皆さまには、このようなご報告となりましたことを深くお詫び申し上げます。
メンバーおよび関係各所と協議を重ねた結果、今後の活動継続は困難であるとの判断に至りました。
なお、本発表をもちまして、ライブ・イベント出演、新規グッズ販売等を含むすべての活動を終了いたします。
また、ラストライブや解散公演の実施予定はございません。
ファンクラブにつきましても、本日をもってサービスを終了いたします。
突然のお知らせとなりましたことを重ねてお詫び申し上げます。
これまでマイカを応援していただき、本当にありがとうございました。
は?
あまりにも現実味のない文面を、順子は何度も読み返す。
マイカが、解散?
先日、札幌でライブがあったばかりだ。いったい何があったのか。スマホを持つ手が震える。
しかし、順子の一番の心配は、マイカそのものではなかった。
誠。
あの子は、誠は、どうしてる?
順子はメッセージアプリを開くが、指が思うように動かない。
なんとか誠へメッセージを送った。
『あれ見た?』
すると、すぐに既読が付いた。
今、誠もスマホを操作してる。
慌てていたので短文しか送れなかったが、きっとこのニュースのことも目にしていて、なんのことだかわかっているだろう。
しかし、その後何分待っても返事は来なかった。
誠……。
順子は部屋の壁に手を当てた。この壁の向こうには誠がいる。
ショックを受けたことだろう。
返信もできないほどに落ち込んでいるのか。
こんなときこそ姉の出番のはずなのに。
何もできない自分が不甲斐ない。
順子はハッとした。
どうしよう。今度は別の不安がよぎる。
マイカは二人の共通言語だった。それがなくなったら、今後の私たちはどうなってしまうのか。
壁の向こうにいる誠の姿を思い浮かべながら、自分の体温がなくなっていくのを感じる。
そのまま、順子は壁にもたれかかった。
私の可愛い誠。
私は、あなたに、会いたいよ……。
*
あのニュースが出てから二週間ほどが経った。
誠はベッドの上でぼんやりと考え事をしていた。
マイカが、いきなり、解散。
マイカの公式アカウントの告知を見た時は、到底受け入れられなかった。
最初はとにかく理解できず、脳が拒絶してしまっていた。
でも、連日の報道を見て、認めざるを得なくなった。マイカは本当に終わった。
ネットでは、様々な憶測が飛び交っている。メンバーの不祥事だとか、事務所のトラブルだとか。しかし、どれも決め手を欠いており、想像の域を出ない。
復活のための署名活動も活発なようだったが、誠はなんとなく冷めた目で見ていた。外野が騒いだところで、どうにかなる事案じゃないと考えていた。
誠は鼻から深く息を吸った。
脳に新鮮な空気が取り込まれて、少しずつ冷静になってくる。
本当に残念だけれども、もう仕方がない。ないものはないのだ。
数日前まではホットな話題として頻繁に取り上げられていたが、既に世間はマイカへの興味を失いかけている。
でも、自分の中の思い出のマイカが消えるわけではない。キラキラしたマイカの記憶を、胸の中でなくさないようにしっかりと持てばいい。
それにしても、はあ。
誠はため息をついた。家族のことを考えて、頭を抱えた。
解散のショックから、親にはそっけない態度をとってしまった。
でも、いつまでもそんな子どもっぽいことを続けてもしょうがない。これからは少しずつ、態度を軟化させていけばいいだろう。
問題は、姉ちゃんだ。
誠は頭を抱え、胎児のような格好でうずくまる。
姉ちゃんとは冷戦状態が続いている。厳密には、俺が一方的に壁を立てているだけかもしれない。
でも、マイカは、そんな壁に一時的な風穴を開けてくれる。
マイカの話題になると、自分の心の殻が取れ、姉ちゃんと自然に会話してよいという免罪符を得た気になる。
しかし、それもなくなった。
もう、姉ちゃんとどう接してよいかわからない。
スマホに来ていたメッセージも放置したままだし、家の中でもつい避けてしまう。
どうしよう。
誠は心にぽっかりと穴が空いた気分だった。
コンコン、と部屋のドアがノックされた。
「誠」
順子の声がした。誠はベッドから上半身を起こして身構える。
「何」
「ちょっと、入っていい?」
心配して来たのか?
警戒心を高めるが、断るのもおかしい気がする。
「……いいよ」
少し迷ってから返事をした。
がちゃり、とドアが開き、順子が入ってくる。
順子はやや不安げな表情をしていた。ただ、心なしか顔の血色がよいようにも見える。
そのまま、順子は何も言わずに誠のすぐ横に腰掛けた。
……近いな。
ふわり、と甘い匂いが漂ってきた気がした。
誠は胸の中がぞわぞわしてきて、つい顔を背けた。
その視線の先には、マイカのアクリルスタンドが目に入った。
それに気が付いたのか、順子は優しく声をかけてきた。
「辛かったよね、マイカのこと」
その優しい声に、胸がずきんと痛む。
解散の事実は受け入れたものの、その傷はまだ癒えていない。
「……うん」
すると、順子は誠の肩をふわりと抱いた。
突然の出来事に、誠は固まってしまった。自分の心臓の音が部屋中に響いた気がした。
順子の体温と柔らかさが、肩越しに伝わってくる。
「大丈夫だよ、誠には、お姉ちゃんがいるからね」
そう耳元で囁かれて、誠は脳が麻痺した。
*
体が熱い。
誠の心臓の音が聞こえる気がする。
順子は、自分の腕の中でこわばる誠を感じながら、そう考えた。
そして、自分の心臓も跳ね回っていて、今にも飛び出してしまいそうだった。
目の前には、喉仏が出た誠の首すじが見える。その男の首からは、猛々しい匂いを感じた気がした。
ああ。
姉として。姉として誠を慰めるための行動だった。
順子は自分にそう言い聞かせながら、一方で言いようのない期待を感じてもいた。
順子の抱擁は、沈黙の中で続いた。聞こえるのは、心臓の高鳴りだけ。
その沈黙を破ったのは誠の方だった。
「……お姉ちゃん」
そう言うと、誠は肩に回された順子の腕をぎゅっと掴んでほどき、順子の方を向いた。
順子は腕が震えた。腕を誠に掴まれたまま、二人の目が合う。
誠からはねっとりとした視線が向けられている。順子はごくりと唾を飲み込んだ。
誠はそっと目を閉じた。それに釣られて、順子も自分の目を閉じた。
誠の熱い呼吸が聞こえる。
順子は思わず肩に力を入れた。
ああ、誠。
すると、誠はふっと手の力を抜いて、ゆっくりと立ち上がった。ベッドのスプリングの軋む音が聞こえる。
順子は驚いて目を開けた。
「……ありがとう」
そう言って歩き出し、勉強机の椅子に座った。
「もう、大丈夫だから」
誠は順子の方を見ないまま言った。
その背中からは、きっぱりとした強い意志が感じられた。
誠の様子を見て、順子は息が詰まった。
それと同時に、ほっとする気持ちもあった。
自分の中の矛盾に、頭がくらくらする。
ダメだ。私も、ちゃんとしないと。
順子は力を奮い立たせた。
「……そっか、よかった」
そう言うと立ち上がり、部屋のドアへ向かう。
「じゃあ、またね」
順子は誠の部屋を出て、ドアを閉めた。
そして、ゆっくりとした足取りで、自分の部屋に戻った。
その途端に、寂しさが全身を駆け抜けた。
視界が歪む。
いつの間にか、目には涙が溢れていた。
順子は、隣の部屋に聞こえないように、声を出さずに泣き続けた。
もう、二人を繋ぐ眩しい音楽はどこにも流れていない。
二人は『普通のきょうだい』に戻ることができないまま、日常に帰らないといけない。
部屋の壁を隔てて、一生消えない熱を胸に押し込めたまま。
***
あの日から、半年ほどが経っていた。
世間は既にマイカのことを忘れ、マイカなどいなかったかのように回っている。
朝起きた順子は、リビングに入るなり、母親から不思議そうに声をかけられた。
「あれ、順子。遅くない? 大丈夫?」
「うん、平気。一限目の講義は出ないことにしたから」
順子の後ろから誠が顔を出し、母へ出発の挨拶をした。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、気を付けてね」
誠は靴を履き終えると、顔を上げた。
二人の目が、ほんの一瞬だけ絡み合う。
すぐに逸らされた視線。
玄関のドアが閉まる音が響いた。
順子は、閉まったドアをしばらく見つめていた。
私たちは、たった二人のきょうだい。
周りから見れば、きっと何の変哲もない、普通のきょうだい。
でも、私は忘れていない。
あの日の手の温度を。
札幌の夜のことを。
そして、あの部屋で聞いた心臓の音を。
誠はもう、昔の可愛い弟ではない。
それでも、私は——
そう、いつまでも。



