援助きょうだい 〜お姉ちゃんは、いつまでも〜

 誠が目を覚ますと、体がずっしりと重かった。
 ちょっとライブではしゃぎすぎたかな。なんだか首も痛い。慣れない枕で寝たせいか。
「あれ、おはよう。目が覚めちゃった?」
 順子は先に起きていた。化粧はまだみたいだけど、既に普段着姿だった。
 つい、昨日のペラペラの寝巻姿を思い出してしまう。
 昨日、俺は人としてやってはいけないことをした。正確には、やりそうになった。
 もしもあの時、姉ちゃんが眠ったままだったら。
 想像するだけで背筋が凍る思いだった。
「おはよ」
 誠は努めて自然な返事をした。
 姉ちゃんには幻滅されたかもしれない。もう手遅れかもしれない。
 でも、昨晩の事件は無かったことにしなければならない。少なくとも、自分の中では。
「まだ早すぎるから、ゆっくりしてていいよ」
 見ると、朝の六時だった。休みの日にこんなに早起きしたのは久しぶりだ。
「何時に出るんだっけ?」
「遅くとも十時」
 それなら、九時まで寝てても平気か。そう思ったものの、すっかり目が冴えてしまった誠は、起きて身支度をすることにした。
 順子の横をすり抜けて、洗面所へ向かう。
 その際に、横目でちらりと順子の様子を見た。ラフなTシャツに長ズボン。いつもの格好だ。
 それなのに、脳裏で昨晩の寝巻姿が重なる。
 あのTシャツの下に、俺が「確認し損ねたもの」が……。
 洗面台の前に立った誠は、うっかりそう考えてしまった自分にショックを受けた。
 早く忘れなきゃ。気持ちを洗い流すように、水をじゃばじゃばと顔にかけた。

 *

 順子は、朝食の菓子パンをもそもそと食べていた。
 壁際の細いテーブルは狭くて使いづらかったので、ベッドの上でパンを食べる。ちょっと背徳感。
 クリームパンにメロンパン。甘いパンは大好きなはずなのに、今は何だか味がしない。
 昨晩の出来事が脳裏に焼き付いて離れなかった。
 誠の動く気配がした時に、恐ろしい想像をしてしまった。誠の手が、私の体に伸びる。誠の体が、私の体を……。
 でも、それは杞憂だった。ああ、誠のことをそんな風に考えてしまうだなんて。順子は左手を額に当てて、目を閉じた。
 しかし、誠の体はもう子供ではなかった。テーマパークで手を握った時から感じていたことだが、改めてこの狭い部屋で強く実感することになった。
「お姉ちゃん」
 誠に呼びかけられ、ハッとして振り向く。
 誠は、カップラーメンを食べるためにポットでお湯を沸かしていた。
「お湯湧かしたけど、何か飲む? 緑茶とほうじ茶があるよ」
「んうあ、んんじゃあ、ほうじ茶」
 喉に痰が絡んでしまった。
 誠が淹れてくれたティーバッグのほうじ茶をすすった。その温かさに、パンに水分を奪われた喉が潤ってくる。
 誠はずるずると味噌ラーメンを食べていた。
 ごくん、と飲み込むたびに、誠の喉仏が上下する。ずるずる、ごくん。
 順子は誠の口と喉に目を奪われていた。
 もう、口も大人だな。そう思った途端に、順子は顔がかあっと赤くなるのを感じた。またよからぬことを想像してしまった。
 その気持ちを飲み込んでしまいたくて、慌ててほうじ茶を流し込んだ。熱っ……。

 *

 順子には、北海道といえばラベンダー畑のイメージがあった。
 しかし、それは札幌から遠いらしい。北海道はとても広い。
 車の運転はできないので、札幌駅から近い範囲を観光することにした。
 
「ここが大通公園」
 順子はやけに明るい声を出した。
 大通公園は、北海道札幌市の中央部を東西に貫く、全長約一.五キロメートルに及ぶ広大な公園だ。
 噴水、色とりどりの花壇、遊具などに加えて、季節ごとに様々な催しが開かれる。真冬の『さっぽろ雪まつり』が特に有名だろう。
 ここは札幌市民の憩いの場であり、観光客も多数訪れる場所だ。
「うん、いいね」
 誠も調子を合わせるように返事をした。
 
 しかし、順子は失敗したと感じていた。
 大通公園は、基本的に公園。わかりやすいアトラクションや展示などはない。
 それはつまり、比較的のんびりと過ごすプランになるということだ。
 二人で並んで、黙って公園を歩く。
 ……気まずい。
 何か、喋らないと。
「いい天気だね」
「そうだね」
 おしまい。
 うう、これじゃダメだ。これではいかにも、ギクシャクしたきょうだいに見える。もっと自然に、楽しそうにしないと。
 目の前のテレビ塔を見て、すぐに思い付いた。よし、これだ。
「そうだ、写真撮ろう、写真。ママに送ってあげないと」
 そう言って、一緒に自撮りをすることにした。
 ちょっと近すぎて撮りづらいけど、大きなテレビ塔を画角に収めながらスマホを構える。
 画面の中の誠が、今にも順子に触れそうな距離にいた。
 順子は思わず体をよじった。
「それじゃあ写ってないよ」
 誠は不思議そうな顔をした。
「ごめん、今日は顔がブスだから、誠だけ撮ってあげる」
 そう言って、誠のソロショットを撮影した。
「じゃあ、お姉ちゃんは俺が撮るよ」
 誠はやや遠目に順子を撮影した。
 スマホ越しに誠に見られると、順子は不思議な緊張感に包まれた。
 自然な笑顔が作れる自信がなかったため、手で顔を隠すようなポーズになった。
 
 *
 
 そこには、たくさんの出店がずらりと並んでいた。先が見渡せないほどだ。
「さっぽろオータムフェストだって。これに来たかったんだよね」
 そう言う順子を見て、相変わらず食い意地が張ってる、と誠は思った。しかしその軽口を言うことはできなかった。
 昨日までなら言えたかもしれない。でも、今日はなんとなく喋りづらい。
 誠は北海道らしいものを食べたいと思い、ホタテのバター焼きを買った。
 順子はジンギスカンだ。
「ジンギスカンって何?」
「羊の肉」
 え、羊って食べられるの?
 思いがけない回答に、誠は軽く引いた。羊を食べるなんて、なんだか狼みたいだ。
 羊の肉を口に放り込む順子を見て、誠は生唾を飲み込んだ。
 狼の口元が、じゅわっと音を立てて羊を咀嚼している。赤い汁が唇の端に少しつき、ぺろりと舌なめずりした。
 まるで、自分が喰われているみたいだ。誠は首筋が熱くなるのを感じた。
 食事をしているだけなのに。なぜだか、生きた心地がしない。
 
 *
 
 札幌旅はとうとう終わろうとしている。
 行きの空港の時とは異なり、帰りは時間にも余裕があり、落ち着いていた。
 親へのお土産を手にして、飛行機へ乗り込む。
 座席まで辿り着くと、前を歩いていた誠が右手を差し出してきた。
 え。
 順子は、差し出された手をまじまじと見つめた。少し骨ばった、男の手。
 今ここで、手を繋ぐ? 私たち、きょうだいなのに、そんなのダメだよ。いや、きょうだいだから、平気なの?
 順子は頭から煙が出そうだった。
「お姉ちゃん、荷物」
 誠にそう言われて、順子はハッとした。
「あ、うん。ありがと」
 ボストンバッグを手渡すと、誠はそれを荷物棚に押し込めてくれた。
 順子は、自分の顔から火が出るほど恥ずかしかった。そんなわけないのに、手を繋がれるのだと勝手に勘違いして。
 最悪だ。私、本当にどうしちゃったんだろう。
 
 *

 飛行機が離陸すると、誠は窓の外を眺めた。飛行機の羽が見える。これでは景色が眺められないな。
 まあ、二度目だからいいか、と誠は自分を納得させた。
 右隣からは、順子の呼吸する音が聞こえる。
 触れていないのに、熱い体温を感じる気がする。
 誠はたまらなくなり、イヤホンを耳に入れた。

 ふと気が付くと、順子はすやすやと寝ていた。
 無理もない、と誠は思った。最近、やけに帰りが遅い日が多かった。
 何をしているのか知らないけど、これが大学生のバイタリティなんだろうな。
 ついでに昨日もあまり寝ていなかったようだ。それは、俺のせいか……。
 誠は順子の寝顔を見つめた。こうして姉の顔をまじまじと見たことはなかった。
 丸い顔。長いまつげ。小さい鼻。柔らかそうな唇。
 誠は鼻から大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
 顎から視線を落とすと、丸い丘が見えた。
 それは柔らかそうで、暖かそうで、全てを包み込むような優しさを感じた。
 最低だな、と自分でも思う。狼はどっちだよ。でも、思わず喉が鳴る。
 さすがに触れる気にはならなかったが、目は釘付けになっていた。

 順子の体をなぞるように、誠は視線を下ろしていった。
 腰のあたりで腕は折りたたまれ、長袖のシャツから肉付きのよい手が覗く。
 そういえば、この手を握ったことがあるんだ。誠は自分の手のひらを見つめた。
 もし今、この手を握ったら。きっと前と同じような態度はとれない気がする。
 誠はもぞもぞとした感覚に襲われ、思わずくしゃみが出た。

 *

「おかえりなさい。疲れたでしょう。もうお風呂が沸いてるから、入っちゃいなさい」
 帰宅すると、嬉しそうな母に出迎えられた。二人とも長旅でくたくただった。
「お土産話は後でゆっくり聞かせてね」

 旅の荷物を置くために、順子と誠は自室に向かった。
 隣同士の部屋。二人はそれぞれのドアの前に立った。
「お姉ちゃん、お風呂先に入っていいよ」
「うん、そうする」
 そう言って、二人は部屋に入っていった。

 それは、何でもない日常の会話だった。
 でも、その言葉は湿り気を帯びていて、どこか熱っぽい気がした。