順子は朝からふわふわした気持ちだった。
「行ってきます」
今日はきょうだい二人だけの初めての旅行だ。
泊まりがけでマイカのライブに行く、誠も一緒に連れて行く、という順子を、親は快諾してくれた。
きっと、親からは、反抗期でひねくれた弟の心を開いた姉に見えているんだろう。
それは事実だと思う。でも、少しだけ罪悪感を感じるのは、なぜだろう。
まずは横浜から羽田までバス。
触れていないはずなのに、隣に座る誠の体温を肌に感じて、ドギマギしてしまう。
初めて来た羽田空港は、とにかく広かった。順子は間違えないように、スマホの搭乗券と構内の案内板を必死に見比べる。
保安検査場では、誠がペンケースに入れっぱなしにしていた小さなカッターナイフが引っかかってしまった。時間がなかったので、仕方なく廃棄する羽目になった。
おかげで誠は一気に不機嫌になった。後で買ってあげるから、と順子がなだめても聞かなかったが、いざ飛行機に乗ったら気持ちは晴れたようだ。順子はほっと胸をなでおろした。
飛行機も、もちろん二人は隣の席。でも、窓の外を見てはしゃぐ誠が可愛らしくて、順子はあまり緊張せずに乗ることができた。
一時間半ほどで、新千歳空港へ着いた。
新千歳もかなり広そうだ。探検してみたい気持ちを抑えて、まっすぐに電車の乗り場へ向かう。
空港から快速エアポートで約四十分。長かった乗り継ぎの旅は終わり、二人はようやく札幌駅へ到着した。
「はい到着。ここが札幌です!」
順子は両手を広げ、大げさなポーズで胸を張った。
それを見た誠は『うおお! すげえ! ここが札幌か!』と目を輝かせる――なんてベタな展開には、当然ならない。
「うん、駅だね。思ったより普通だね」
所詮は日本のターミナル駅だ。そこは中学生がワクワクするようなスポットでもなかった。
でも順子は気にしなかった。そんなことよりも、この後が重要だ。
「よし、まずはホテルに行こう。ホテル。荷物を置いてから、ライブに行くよ」
「よっしゃ! 行こう!」
ライブという単語を聞いて、誠の気持ちは一気に高揚した。
順子の気持ちも高揚していたが、それは誠とは別の理由だった。
可愛い誠と、同じ部屋で、一緒に夜を過ごす。もう覚えていないけど、いつ以来だろう。
順子は軽やかな足取りで札幌駅を出た。
*
「せっま」
予約したビジネスホテルの部屋に入るなり、誠は声を上げた。
確かに、とても狭く見える。
部屋の中には、ツインのベッドがあった。そして、そのベッドは部屋の大半を占めていた。二つのベッドの間は、くっついていると言っても過言ではないほどだ。
小さな窓際には、辛うじて荷物が置けるスペースがあった。多分、この部屋で一番広い床だ。
壁には、申し訳程度の細長い机がくっついている。そこには狭い部屋には不釣り合いな大きさのテレビが置いてあり、うっかりぶつかったら落ちてしまいそうだ。
「うーん……写真だと普通の部屋に見えたのにな……」
誠は順子のスマホを覗き込んだ。予約サイトの客室の写真には、小綺麗なベッドが写っている。確かに、これだけを見ると普通の部屋だ。
「壁にへばりついて写真を撮ったんだろうな」
誠は自分のスマホをベッドに向けて構え、写真を撮るポーズをとった。
「まあ、ここでは寝るだけでしょ。必要なものだけ持って、早くライブに行こう。先に夕飯も済ませるんでしょ」
「うん、そうだね……」
誠は「寝るだけ」と言うが、順子はそれどころではなかった。こんなに狭い空間で二人で寝るのか。わざわざツインにしたのに。
ふう、とため息をつくと、それは部屋の壁に吸い込まれていった。
順子は胸のざわめきが抑えられないまま、誠とライブへと向かった。
*
ライブは今回も大盛り上がりだった。
誠は汗だくになりながら、熱心にペンライトを振りかざした。
そして、その様子を順子は微笑ましく見つめた。
順子は、誠の汗がかかった気がした。しかし、自分も汗をかいていたせいか、体のどこに汗がかかったのか、わからなかった。
もう、どちらの汗なのかわからない。混じりあった二人の汗が体を流れ落ちるのを感じると、順子の脳はとろけそうになった。
ライブが終わると、二人は興奮が冷めないままの足取りでホテルへと向かった。
コンビニで明日の朝食や飲み物を購入する。
「部屋でお湯沸かせるよね?」
誠はそう言って、カップの味噌ラーメンをカゴに入れた。
「朝からこんなの食べるの?」
「うん、家だとできないし」
親のいない外泊という非日常に、誠は浮かれていた。
呑気なものだ、と順子は呆れた。こちらは気が気じゃないのに。
でも、こういうところは子どもっぽくて可愛いかも。誠はまだまだ子どもだ。だから大丈夫だ。
順子は心の中でそう唱えながら、甘い菓子パンをカゴに放り込んだ。
*
ホテルの部屋に戻った。やっぱり、狭い。
そのせいか、順子は自分の後ろに立つ誠の汗の匂いをしっかりと感じた。
明らかに誠の方が汗をかいていたので、先にシャワーを浴びてもらうことにした。
ほどなくして、誠は洗面所から出てきた。体に湿った熱気をまとった誠は、ドライヤーを求めて壁際の細いテーブルに手を伸ばした。
おかしい。順子は戸惑った。
お風呂上がりの誠なんて、いつも家で見ているはずなのに。
濡れた髪から滴る水、首筋の太さ。Tシャツの薄い生地の下には、瑞々しい肌と筋肉を感じる。
それらが、狭い部屋のせいで嫌でも視界に飛び込んでくる。
いつの間にか、むせ返るような匂いが部屋中に充満した気がした。頭がくらくらしてくる。
これはきっと、男の匂い。
「お姉ちゃんも早く浴びてきなよ」
ドライヤーで髪を乾かしながら、誠は言った。
順子はハッとした。誠を見つめてしまっていた。
まるで何事もなかったかのように、スッと誠のすぐそばを通り抜けて洗面所へ入った。
*
シャワーを浴び終わった誠は、ライブ後の興奮がすっかり落ち着いていた。
スマホをいじりながら、この旅を振り返る。
本当に楽しかった。初めての飛行機。マイカのライブ。親のいないところで羽を伸ばして外泊。
はあ。開放的な気持ちよさを感じて、誠は思わず声が出る。
ありがとう、姉ちゃん。
心の中で、順子への感謝を述べた。
すると、シャワーを浴び終えた順子が出てきた。
ところが、いつものパジャマではなく、客室に備え付けられた寝巻を着ていた。しょぼいワンピース型のガウン。
「あれ、それ着たの?」
誠は、おや、という顔で順子を見た。
「うん、パジャマ、忘れちゃって……」
恥ずかしそうにする順子。
誠は、順子から目が離せなくなった。
ビジネスホテルのペラペラな寝巻は、順子の丸みを帯びた胸や腰のラインを隠そうともしない。
丈も変だ。フリーサイズだからなのか、中途半端に短い。順子がベッドに腰掛けると、肉感のある足があらわになった。
嘘だろ。
こんな姉ちゃん、見たことない。
誠は、自分の背中に汗が流れるのを感じた。
いつも家で見ている姿とは、何もかもが違う。
寝巻の首元から覗く鎖骨の白さや、ベッドのシーツに沈み込む太ももの柔らかそうな質感が、すぐ目の前にある。
今見たものをなかったことにしようと、誠は視線をスマホに落とした。しかし、頭には何も入ってこない。
ふと、誠は知らない匂いに鼻を撫でられたように感じた。
順子はドライヤーで髪を乾かしている。その風に乗って、感じたことのない甘酸っぱい匂いが漂ってくるようだ。
すると、心がざわざわとして、抗いがたい血管の膨張を感じた。
これはきっと、女の匂い。
誠はベッドに横たわり、枕に顔をうずめた。
枕の中の空気を鼻からいっぱいに吸い込み、鼻の奥をリセットする。
息が苦しくなって顔を上げると、その甘い匂いは、狭い部屋の中いっぱいに充満してしまっていた。
気持ちの高ぶりが収まらないまま、誠は薄暗い壁を見つめた。
*
順子はなかなか寝付けなかった。
ほんのすぐ近く、隣のベッドに、誠の肉体がある。
真っ暗な部屋の中では、目を閉じても開けても、誠の姿が脳裏から離れない。
横から誠の呼吸が聞こえる。きっと、自分の呼吸も誠に聞こえているだろう。
「もう寝た?」
ふいに、誠から静かな声で聞かれた。急な現実の声に、どきん、と心臓が跳びはねる。
「いや、まだ。どうした?」
「ごめん、……なんでもない」
そう言うと、誠が体を動かす音が聞こえた。寝返りを打ったらしい。
はて。
どうして、誠は私が寝たかどうかを確認したんだろう。
順子は、自分の不安を打ち消すように、目をぎゅっと閉じた。
あれから何分経っただろうか。
なかなか寝付けない。
すると、暗がりの中で、誠がベッドから起き上がる音を感じた。
暗くて姿は見えない。しかし、スプリングが軋み、ベッドの上の誠がこちらに近づいてくるのがわかった。
不穏な想像が現実になろうとしていた。
誠、それは、ダメ……!
「やっ……」
順子は思わず、両手を前に突き出して身を守ろうとした。
「ごめん、起こした?」
誠は驚いている様子だった。
「何……?」
「トイレ」
そう言うと、誠はベッドを下りて洗面所へ向かった。
順子は少しホッとしたものの、自分がとった行動が信じられなかった。
最悪だ。
誠を、そういう目で見て、拒絶してしまった。
一人で、勝手なことを想像して、勘違いして。
順子は両手で顔を覆い、罪悪感で潰されそうな気持ちになった。
私は、誠のお姉ちゃんなのに。
順子は現実から逃れようとしてスマホを開いた。
暗い部屋は、スマホの画面の明かりで息を吹き返したようだった。
*
最悪だ。
トイレの便座に腰掛けながら、誠は自己嫌悪に陥っていた。
いくらなんでも、やっていいことと悪いことがある。そのくらいは理解してる。
でも、チャンスだと思った。こんなチャンスは二度とないと思ってしまった。
今まで考えもしなかったことだが、姉ちゃんは女だった。どうしようもなく女だった。
丸みを帯びた女の肢体が、布団を一枚めくった先にあると思うと、いてもたってもいられなくなった。どうしてもそれを確かめたかった。
とにかく、姉ちゃんが寝ていれば大丈夫だと思った。
でも寝てなかったし、多分バレた。死にたい。
はああ。誠は自分でも驚くほどの深いため息をついた。
弟失格だな、俺は……。
部屋に戻ると、順子はスマホを開いていた。
まだ起きている、というアピールだろうか。もしそうだとすれば、完全に警戒されてしまっている。
誠は聞こえないようにため息をついてから、自分のベッドに潜り込む。
部屋には、順子の爪がスマホに当たる音だけが響いている。
これは悪い夢だ。早く忘れよう。
そう心の中でつぶやいた言葉は、部屋の中の湿った空気に溶けて消えた。
「行ってきます」
今日はきょうだい二人だけの初めての旅行だ。
泊まりがけでマイカのライブに行く、誠も一緒に連れて行く、という順子を、親は快諾してくれた。
きっと、親からは、反抗期でひねくれた弟の心を開いた姉に見えているんだろう。
それは事実だと思う。でも、少しだけ罪悪感を感じるのは、なぜだろう。
まずは横浜から羽田までバス。
触れていないはずなのに、隣に座る誠の体温を肌に感じて、ドギマギしてしまう。
初めて来た羽田空港は、とにかく広かった。順子は間違えないように、スマホの搭乗券と構内の案内板を必死に見比べる。
保安検査場では、誠がペンケースに入れっぱなしにしていた小さなカッターナイフが引っかかってしまった。時間がなかったので、仕方なく廃棄する羽目になった。
おかげで誠は一気に不機嫌になった。後で買ってあげるから、と順子がなだめても聞かなかったが、いざ飛行機に乗ったら気持ちは晴れたようだ。順子はほっと胸をなでおろした。
飛行機も、もちろん二人は隣の席。でも、窓の外を見てはしゃぐ誠が可愛らしくて、順子はあまり緊張せずに乗ることができた。
一時間半ほどで、新千歳空港へ着いた。
新千歳もかなり広そうだ。探検してみたい気持ちを抑えて、まっすぐに電車の乗り場へ向かう。
空港から快速エアポートで約四十分。長かった乗り継ぎの旅は終わり、二人はようやく札幌駅へ到着した。
「はい到着。ここが札幌です!」
順子は両手を広げ、大げさなポーズで胸を張った。
それを見た誠は『うおお! すげえ! ここが札幌か!』と目を輝かせる――なんてベタな展開には、当然ならない。
「うん、駅だね。思ったより普通だね」
所詮は日本のターミナル駅だ。そこは中学生がワクワクするようなスポットでもなかった。
でも順子は気にしなかった。そんなことよりも、この後が重要だ。
「よし、まずはホテルに行こう。ホテル。荷物を置いてから、ライブに行くよ」
「よっしゃ! 行こう!」
ライブという単語を聞いて、誠の気持ちは一気に高揚した。
順子の気持ちも高揚していたが、それは誠とは別の理由だった。
可愛い誠と、同じ部屋で、一緒に夜を過ごす。もう覚えていないけど、いつ以来だろう。
順子は軽やかな足取りで札幌駅を出た。
*
「せっま」
予約したビジネスホテルの部屋に入るなり、誠は声を上げた。
確かに、とても狭く見える。
部屋の中には、ツインのベッドがあった。そして、そのベッドは部屋の大半を占めていた。二つのベッドの間は、くっついていると言っても過言ではないほどだ。
小さな窓際には、辛うじて荷物が置けるスペースがあった。多分、この部屋で一番広い床だ。
壁には、申し訳程度の細長い机がくっついている。そこには狭い部屋には不釣り合いな大きさのテレビが置いてあり、うっかりぶつかったら落ちてしまいそうだ。
「うーん……写真だと普通の部屋に見えたのにな……」
誠は順子のスマホを覗き込んだ。予約サイトの客室の写真には、小綺麗なベッドが写っている。確かに、これだけを見ると普通の部屋だ。
「壁にへばりついて写真を撮ったんだろうな」
誠は自分のスマホをベッドに向けて構え、写真を撮るポーズをとった。
「まあ、ここでは寝るだけでしょ。必要なものだけ持って、早くライブに行こう。先に夕飯も済ませるんでしょ」
「うん、そうだね……」
誠は「寝るだけ」と言うが、順子はそれどころではなかった。こんなに狭い空間で二人で寝るのか。わざわざツインにしたのに。
ふう、とため息をつくと、それは部屋の壁に吸い込まれていった。
順子は胸のざわめきが抑えられないまま、誠とライブへと向かった。
*
ライブは今回も大盛り上がりだった。
誠は汗だくになりながら、熱心にペンライトを振りかざした。
そして、その様子を順子は微笑ましく見つめた。
順子は、誠の汗がかかった気がした。しかし、自分も汗をかいていたせいか、体のどこに汗がかかったのか、わからなかった。
もう、どちらの汗なのかわからない。混じりあった二人の汗が体を流れ落ちるのを感じると、順子の脳はとろけそうになった。
ライブが終わると、二人は興奮が冷めないままの足取りでホテルへと向かった。
コンビニで明日の朝食や飲み物を購入する。
「部屋でお湯沸かせるよね?」
誠はそう言って、カップの味噌ラーメンをカゴに入れた。
「朝からこんなの食べるの?」
「うん、家だとできないし」
親のいない外泊という非日常に、誠は浮かれていた。
呑気なものだ、と順子は呆れた。こちらは気が気じゃないのに。
でも、こういうところは子どもっぽくて可愛いかも。誠はまだまだ子どもだ。だから大丈夫だ。
順子は心の中でそう唱えながら、甘い菓子パンをカゴに放り込んだ。
*
ホテルの部屋に戻った。やっぱり、狭い。
そのせいか、順子は自分の後ろに立つ誠の汗の匂いをしっかりと感じた。
明らかに誠の方が汗をかいていたので、先にシャワーを浴びてもらうことにした。
ほどなくして、誠は洗面所から出てきた。体に湿った熱気をまとった誠は、ドライヤーを求めて壁際の細いテーブルに手を伸ばした。
おかしい。順子は戸惑った。
お風呂上がりの誠なんて、いつも家で見ているはずなのに。
濡れた髪から滴る水、首筋の太さ。Tシャツの薄い生地の下には、瑞々しい肌と筋肉を感じる。
それらが、狭い部屋のせいで嫌でも視界に飛び込んでくる。
いつの間にか、むせ返るような匂いが部屋中に充満した気がした。頭がくらくらしてくる。
これはきっと、男の匂い。
「お姉ちゃんも早く浴びてきなよ」
ドライヤーで髪を乾かしながら、誠は言った。
順子はハッとした。誠を見つめてしまっていた。
まるで何事もなかったかのように、スッと誠のすぐそばを通り抜けて洗面所へ入った。
*
シャワーを浴び終わった誠は、ライブ後の興奮がすっかり落ち着いていた。
スマホをいじりながら、この旅を振り返る。
本当に楽しかった。初めての飛行機。マイカのライブ。親のいないところで羽を伸ばして外泊。
はあ。開放的な気持ちよさを感じて、誠は思わず声が出る。
ありがとう、姉ちゃん。
心の中で、順子への感謝を述べた。
すると、シャワーを浴び終えた順子が出てきた。
ところが、いつものパジャマではなく、客室に備え付けられた寝巻を着ていた。しょぼいワンピース型のガウン。
「あれ、それ着たの?」
誠は、おや、という顔で順子を見た。
「うん、パジャマ、忘れちゃって……」
恥ずかしそうにする順子。
誠は、順子から目が離せなくなった。
ビジネスホテルのペラペラな寝巻は、順子の丸みを帯びた胸や腰のラインを隠そうともしない。
丈も変だ。フリーサイズだからなのか、中途半端に短い。順子がベッドに腰掛けると、肉感のある足があらわになった。
嘘だろ。
こんな姉ちゃん、見たことない。
誠は、自分の背中に汗が流れるのを感じた。
いつも家で見ている姿とは、何もかもが違う。
寝巻の首元から覗く鎖骨の白さや、ベッドのシーツに沈み込む太ももの柔らかそうな質感が、すぐ目の前にある。
今見たものをなかったことにしようと、誠は視線をスマホに落とした。しかし、頭には何も入ってこない。
ふと、誠は知らない匂いに鼻を撫でられたように感じた。
順子はドライヤーで髪を乾かしている。その風に乗って、感じたことのない甘酸っぱい匂いが漂ってくるようだ。
すると、心がざわざわとして、抗いがたい血管の膨張を感じた。
これはきっと、女の匂い。
誠はベッドに横たわり、枕に顔をうずめた。
枕の中の空気を鼻からいっぱいに吸い込み、鼻の奥をリセットする。
息が苦しくなって顔を上げると、その甘い匂いは、狭い部屋の中いっぱいに充満してしまっていた。
気持ちの高ぶりが収まらないまま、誠は薄暗い壁を見つめた。
*
順子はなかなか寝付けなかった。
ほんのすぐ近く、隣のベッドに、誠の肉体がある。
真っ暗な部屋の中では、目を閉じても開けても、誠の姿が脳裏から離れない。
横から誠の呼吸が聞こえる。きっと、自分の呼吸も誠に聞こえているだろう。
「もう寝た?」
ふいに、誠から静かな声で聞かれた。急な現実の声に、どきん、と心臓が跳びはねる。
「いや、まだ。どうした?」
「ごめん、……なんでもない」
そう言うと、誠が体を動かす音が聞こえた。寝返りを打ったらしい。
はて。
どうして、誠は私が寝たかどうかを確認したんだろう。
順子は、自分の不安を打ち消すように、目をぎゅっと閉じた。
あれから何分経っただろうか。
なかなか寝付けない。
すると、暗がりの中で、誠がベッドから起き上がる音を感じた。
暗くて姿は見えない。しかし、スプリングが軋み、ベッドの上の誠がこちらに近づいてくるのがわかった。
不穏な想像が現実になろうとしていた。
誠、それは、ダメ……!
「やっ……」
順子は思わず、両手を前に突き出して身を守ろうとした。
「ごめん、起こした?」
誠は驚いている様子だった。
「何……?」
「トイレ」
そう言うと、誠はベッドを下りて洗面所へ向かった。
順子は少しホッとしたものの、自分がとった行動が信じられなかった。
最悪だ。
誠を、そういう目で見て、拒絶してしまった。
一人で、勝手なことを想像して、勘違いして。
順子は両手で顔を覆い、罪悪感で潰されそうな気持ちになった。
私は、誠のお姉ちゃんなのに。
順子は現実から逃れようとしてスマホを開いた。
暗い部屋は、スマホの画面の明かりで息を吹き返したようだった。
*
最悪だ。
トイレの便座に腰掛けながら、誠は自己嫌悪に陥っていた。
いくらなんでも、やっていいことと悪いことがある。そのくらいは理解してる。
でも、チャンスだと思った。こんなチャンスは二度とないと思ってしまった。
今まで考えもしなかったことだが、姉ちゃんは女だった。どうしようもなく女だった。
丸みを帯びた女の肢体が、布団を一枚めくった先にあると思うと、いてもたってもいられなくなった。どうしてもそれを確かめたかった。
とにかく、姉ちゃんが寝ていれば大丈夫だと思った。
でも寝てなかったし、多分バレた。死にたい。
はああ。誠は自分でも驚くほどの深いため息をついた。
弟失格だな、俺は……。
部屋に戻ると、順子はスマホを開いていた。
まだ起きている、というアピールだろうか。もしそうだとすれば、完全に警戒されてしまっている。
誠は聞こえないようにため息をついてから、自分のベッドに潜り込む。
部屋には、順子の爪がスマホに当たる音だけが響いている。
これは悪い夢だ。早く忘れよう。
そう心の中でつぶやいた言葉は、部屋の中の湿った空気に溶けて消えた。



